イエス・キリストをより良く知るために

黙示録20章

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
その審判の御座には、神の子なる主ご自身が着座されている。かつて倒錯した裁判にかけられた主が、真に神聖な裁判を執り行うために。

今日の内容は千年王国というのが大きなテーマかなと思っています。 前回19章を学んだ時には、イエス様の再臨が描かれていました。待ち望んでいた主の再臨が実現して、そして獣と偽預言者が滅ぼされて、硫黄の火の中に投げ込まれると言う 、そういう場面があったかなと思いますけれども、二十章が千年王国というテーマで、21章は新天新地の完成というところにつながっていきます。そのような大きな流れが ありますけれども、今日のところは、いよいよ竜と呼ばれるサタンが滅ぼされる場面です。

20章は三つに分けることができますが、

①一つは千年王国が到来するという場面が、1節から6節まで出てきます。

②そしてサタンが完全に滅ぼされるという場面が、7節から10節まで出てきます。

③そして最後の場面11節から最後までですけれども、これは最後の審判の場面と考えることができます。

1.千年王国の到来。

 

最初の1節から6節までは、千年王国の到来について記されていますが、最初の3節はサタンが捕らえられる、そういう場面です。1節から読んでみます。

また私は、御使いが底知れぬ所の鍵と、大きな鎖を手にして、天から下ってくるのを見た。彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、千年が終わるまで、これ以上、諸国の民を惑わすことがないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。

底知れぬ所の鍵と、大きな鎖を手にした御使いが、天から降ってくる場面から始まります。ここで出てくる、底知れぬ所というのは、今までも出てきています。例えば9章では、そこから煙とイナゴが出てきて地上に災いをもたらすという記事がありました。獣も、この底知れぬところから登ってきたと、11章に出てきます。底知れぬ ところというのは象徴的な場所なのかなと思いますけれども、言ってみれば悪が溢れ出てくるところということが分かると思います。その中にサタンを捕まえてしまって、閉じ込めて扉をして封印をしてしまったと、そういう場面です。

ずっと竜という名前で出てきたんですけれども、ここにきて竜の正体が、はっきりと出ていますが 、 2節で「竜、すなわち悪魔でありサタンである古い蛇を捉えて」、とありますように、竜はすなわちサタンだったということがはっきりと書かれています。その竜が1000年間縛られていて この底知れぬところに閉じ込められているという記述が出てきます。

そして4節から6節の間は、先に召された信仰者たち、聖なるものたちが復活をして、そしてその復活した聖なる者たちがイエスキリストと共に千年の王として治めるという、そういう場面が出てきます。4節、5節、6節と、読んでいきますけれども、

また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らには裁きを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証と神の言葉のゆえに首をはねられた人々の魂を見た。彼らは、獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。残りの死者は千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。

この第1の復活にあずかる者は幸いなもの、聖なるものである。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭祀となりキリストとともに千年の間王として治める。

ここに、第一の復活とか、第二の死という言葉が出てくるので、少しややこしいところがあるのですが整理してみると、

①千年の間、復活をする人たちがいるということがひとつ、その人たちは殉教した人たちであり、イエスの証と神の言葉のゆえに首をはねられた人々ですね。

その人たちはなぜ迫害されたかと言うと、獣を拝まなかった、あるいはその像を、拝まなかったからだということですね。ここで獣とは権力の象徴、悪の象徴ということで紹介されていましたけれども、その獣に対して礼拝が強要されるようなそういう状況が当初あったわけですね。ローマ皇帝が神格化されていって、たんだん神であるかのように振る舞って、礼拝することが強要されるということが当時もあったようです。歴史の中でそういうことは繰り返されますけれども、その時に拝まななかった人たちですね。

ですから神様に対する礼拝を優先し、信仰を貫いた人たちが殺されて、殉教したわけですけれども、その人たちが復活をして、そしてキリストと共に1000年の間、王として治める、これが千年王国なんだよということが出てきます。

②また、第一の復活があるということは第二の復活もあるということが想定されますが、その時にはまだ復活しない人もいるんですね。5節に「残りの死者は千年の終わるまでは生き返らなかったと書いてありますので、その時に生き返る人と、生き返らない人とそれぞれいるんだなということがわかります。

第一の復活をする人は、ここで復活をして、千年の間キリストとともに王として治めるという勤めが与えられるわけですけれども、ここで生き返らなかった人たちも最後には生き返って、 裁きの座につき第二の復活に預かるわけです。

③ここで、「第一の復活にあずかる者は、幸いな者だ。」と書かれています

どうして幸いかと言うと、この人々に対して第二の死はなんの力も持っていないということ。ですから、第一の死と、第二の死があるのだ、ということがわかりますが、第一の死は、肉体の死を意味しています。 

その後に、もう一つの死が待っているということです。私たちが恐れなければならないのはむしろこちらの第二の死のほうです。神の永遠の裁きというものがここでくだされます。 そういう風に考えると、第一の死というのは、通過点でしかないということも分かると思います。もしこの復活に預かっている聖なる者たちは、第一の死に対しても勝利があるし、第二の死に対しても勝利があるんですね。両方に勝利がある。

「第二の死は何の力も持っていない」って書いてますので、本当に最初の死だけではなくて、永遠の裁きの死に対しても、この勝利が与えられている、これは本当に大きな幸いだなという風に思います。そしてその人たちがキリストの祭司となって、また王として、千年治める、そういう特権が与えられているんだと言うことを意味しています。

 これが千年王国の姿ということで、サタンが捕らえられてしまうということと、 信仰を持っている人たちが復活をして、キリストとともに治めるということですね。この二つのことが千年王国の内容として聖書で紹介されていることです。

2.サタンの完全な滅び。

で、それで終わりなのかなと思うと、そうじゃなくて、その後、新天新地の完成というのがクライマックスなんですけれども、そのあと、また少しいろんな展開があります。

7節から10節までは、サタンが完全に滅ぼされるという内容なんですが、7節で千年が終わるとサタンは、その牢から解き放たれると書いていますね。

この点、素朴な疑問としては、このままずっと閉じ込めたままにしておいてくれたらいいのになあなんて、ちょっと思ったりもするんですけれども、神様のご計画の中では、いったん千年間は縛られていたサタンが、解き放たれるということがあるんだということなんです。でもそれは,完全な、そして最後の裁きのための解放であるということが見えてきます。

で、この解き放たれたサタンは、穴の中で、底知れぬところで、じっとしてたんだと思いますが、解放されたら、また、この最後の反撃を企てるっていうことが分かります。8節、

地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを招集する。彼らの数は海の砂のようである。彼らは地の広い所に登って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。

と、そういう展開になっていくんだなということがわかります。

解き放たれたサタンが地方にいる諸国の民、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出ていったとあります。ゴグとマゴグという言葉が出てきますけれども、これはあの旧約聖書のエゼキエル書の中に出てくる言葉ですね。エゼキエル書の38章と39章に出てきます。その内容が背景になって、この言葉がここで紹介されているということですが、それを読むとエゼキエルが見た幻なんですけれども、やっぱりそれは、終末の戦いなんですね。

終末の戦いの様子が、そこで予言されている。そういう言葉がエゼキエルの幻の中に示されるんですけれども、当時のクリスチャン達は、旧約聖書をよく読んでいたので、そういうイメージの中でこの言葉を理解できたということになると思います。それでそういう最後の戦いが、そこで試みられる。

ちょっと前にハルマゲドンという戦いもありましたね。ハルマゲドンと、このゴグとマゴグの戦いが、ちょっと混同してしまうようなこともあるかもしれませんが、それで区別して考えた方がいいかなと思います。

ハルマゲドンの戦いの場面というのは、19章に出てきてたんですけれども、その時には白い馬に乗ってイエス様がやってきて、軍勢を引き連れてやってくるって言う場面がありました。その武器は、キリストの口から出てくる御言葉の剣であったという、そういうことも出てきます。その時に滅ぼされるのは、獣、偽預言者が滅ぼされるのです。これがハルマゲドンの戦いであると考えることができます。

けれどもこちらの方は、そうではなくて。天から火が降ってくるということですね。そういう展開になっているということがわかります。彼らは都を包囲したっていう風に出てきますね。「聖徒たちの陣営と愛された都を包囲した」と書いてあるので、これはこれで非常に恐ろしい経験だったんだと思いますね。もう少しでやられるところっていうか、かつて、ヒゼキヤ王もエルサレムでこういう経験をしましたね。アッシリアが攻めてきて、包囲されて、本当に怖くなってっていう、そういう画面がありますけれども、その時にも大勝利があるんですけれども、それにちょっと似ている場面かなと思いますが、もう少しでやられそうな時に、決定的瞬間に、なんと天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。そして10節、

彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者 もいる。

先に獣と偽預言者はこの中に放り込まれていました。そこに今度は竜が投げ込まれていく。そして、

彼らは昼も夜も世々限りなく苦しみを受ける。

ということで、その苦しみは終わらない。一瞬で終わるんであれば、まだいいんですけれども、苦しみが続いていくという、なんとも恐ろしい光景だなと思います。そのようにしてサタンは完全に滅ぼされる。

ここにまた、「惑わした悪魔」、と出てきますけれども、聖書を読んでいても、サタンというのは絶えず惑わしているということよくがよく分かるんですけど、今も私たちはよく惑わされていると思いますけれども、この惑わすもの、サタンは、この時に完全に滅ぼされるんだということがここで予言されています。ここまでがサタンの完全な敗北ということになります。

3.最後の審判。

そして最後11節から15節まではどんな場面かと言いますと、これは最後の審判ですね。イエス様も予言されておりました。そういう時がやってくるんだよと、審判者なる人の子が帰ってきて、そしてみんなを集めて、ヤギと羊に分けるようにして、そういう最後の審判の時がやってくるんだよっていうことをイエス様も予言されておりましたが、その時がついにやってくる、その場面が描かれております。11節、

また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。

ということで、大きな白い御座っていうのは、黙示録を読んでいると、よく御座という言葉が出てきます。あるいは悪魔の座とか、サタンの座とかいう言葉も出てくるんですけれども、「座」ってことが結構出てくるんですね。これは権力を行使する場所というふうに考えられますけれども、この最後に出てくる御座は、大きな御座、白い御座ということで、白という色も、勝利の色であるという風に言われておりますが、その大きな御座が最後に現れてきて、そこについておられる方、審判者になるかたが、そこに座っておられる。

①天地の喪失

そうするとどんなことが起きるかと言うと、「地と天はその御前から逃げ去って、跡形も無くなった」ということですね。

地と天がなくなるっていう事は考えられないことですね。天と地を、まず神様が創造されたっていうところから話が始まるわけですけれども、この私たちの存在の土台でもある、生活の土台でもある、地と天がなくなってしまうなんていうことは、ちょっと考えられないわけですけれども、その天と地が、ここで逃げていくっていうのは、それくらい恐ろしいっていうことなのかなと思いますね。

そうしたら跡形もなくなってしまった。地と天がなくなって、一体何が残ったんだろうという感じなんですけれども、そこに残ったのは、裁くかたと、裁かれる人々、これだけしか残っていない。ですから余計なものは何もないっていうことです。

全部取り去られて、そしてそこに残ったのは、裁き主なるかたと、その前に立たされる人々、これしかないと言う、それは本当に想像するに恐ろしい場面なんだなと思います。そして12節、

また私は、死んだ人々が大きいものも小さいものも御座の前に立っているのを見た。

ここに第二の復活っていう言葉は出てこないんですけれども、さっきは第一の復活だったんですが、ここでその時に復活しなかった人たちがみんな生き返って、立たされている。これは第二の復活であると考えることができるんですね。

②ふたつの書

死んだ人々が、大きいものも小さいものも全部、御前に立たされている、御座の前に立たされている、そしてその時に数々の書物が開かれていく、たくさんの書物がそこにあるということが分かるんですね。そしてこれを読んでいくと、たくさんの書物があるんですけれど、大きく分けて二つの書物があることが分かるんです。

a.
一つは、私たちの「すべての行い」が書き記されている書物ですね。私たちが、普段行っているいろんな行いが、全部書き留められているという、考えただけで恐ろしいですけれど、私たち自分で日記を書きますけれど、神様がそういう風に私達 の行いを全部書き留めているっていうのは、ちょっと怖いですね。でも、そういうものが全部開かれちゃうっていう事が一つ出てくるんですね。

b.
もう一つの書物があって、それは「いのちの書」っていうことですね

書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。

この二つの書がありまして、死んだ者たちはこれらの書物に書かれていることに従い自分の行いに応じて裁かれたと、全部書き留められているんですね。

神様の前には、全然隠せないわけですね。全部書き留められているわけですね。ですからその時には全部裁かれてしまうってことだと思います。私たちの行いに応じて裁かれてしまうと言うことは、非常に恐ろしいことだなと思います。

ところが「命の書」というのは、それには行いが書いてあるんじゃないんですね。命の書に書かれてあるのは、「名前が書かれてある」っていうことは、聖書の中のいろんなとこに出てきます。例えば黙示録の3章の5節で、これはサルディスの教会に当てられた手紙の中で、こんな言葉がありました。3章5節、

勝利を得るものはこのように白い衣を着せられる。また私は、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。

そういう言葉が出てきますね。サルデスの教会に当てられた手紙の中で、勝利を得る者たちは、白浴衣を着せられているんだと、そしてその人たちの名は、いのちの書に記されてあって、その名を消しはしない、一度、名前が書かれたら、それはもう絶対に消えない名前なんだよっていう、そういう約束の言葉が出てくるんですけれども、命の書に書かれてるのは行いではなくて名前なんですね。

ですからこの名前が書いている人達は、いろんな行いが、いろいろ書き留められてしまっているかもしれませんけれども、でも名前が書かれていることのゆえに、救われるんですねですから、それは本当に大きな恵みだなと思います。

ところが名前を書いて書かれていない人たちは全部、行いによって裁かれてしまうということです。

イエス様も伝道しました。その後、弟子達も伝道しました。信じる者は救われる、救いのために必要なものは信じることなんだよっていうことを、イエス様の弟子たちもみんな伝えています。私たちもを信じるだけで救われる、救われるために必要なのは信仰なんだよっていうことを絶えず言い続けてるわけですね。それで信じて救われる人がいるわけですけれども、それを拒否する人もいるわけですね。

拒否する人は、信じることを拒否して何を選択したかと言うと、自分の行いによって生きていくことを選択するんですね。自分の行いによって努力によって生きていくことを選択して、信じることを拒否してしまうわけですけれども、でもその行いによって生きてきた人たちは、結局、最終的にはその行いによって裁かれてしまう結果になっていくんだなということがわかります。

ですから、そういうことを考えても、信じるっていう事がどんなに大事なことであるか、私たちの救いにとって、信じるっていう事がどんなに必要なことであるかっていうことが分かるのではないかなと思います。13節、

海はその中にいる死者を出した。死と黄泉も、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

ということで、海の中に死者がいるのか、死の中に死者がいるのか、黄泉の中に死者がいるのか、とにかく全部叩き起こされるっていいますか、全部一つに集められて、結局みんな同じですね、自分の行いによって裁かれるということ、そして14節、

それから、死と黄泉は、火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第2の死である。

ということで、第二の死という言葉がここに出てきますが、これは、裁かれて、火の池に投げ込まれるという、神の裁きを意味しますね。

いのちの書に記されていない者は皆、火の池に投げ込まれたということで、名前が書かれているか書かれていないかっていうことが、どんなに大きいことなのかということが、はっきりと示されているということだと思います。

今の世の中、今の私達の時代にあっては、救われた人と救われてない人、救われた人と失われた者の差というものが、そんなにはっきり見えないかもしれませんね。みんな一緒に生活をしていて、そんなに違いは見えないかもしれません。でもこの時には、救われている人と失われている人の違いが、決定的にはっきり明らかにされてしまうということです。

4.まとめ。

その違いはどこにあるかと言うと、結局は、このいのちの書に名前が記されているかどうかの違いということになるのかなと思います。イエス様も弟子たちに言われた言葉がありました。弟子たちが、自分たちが伝道して、そしてイエス様のみ名によって命じると、悪霊が出ていったと言って、大喜びして帰ってきた時があるんですけど、その弟子たちに向かってイエス様は言ったんですね。

ルカの福音書の10章の20節、

霊どもがあなた方に服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。

私たちはどれだけ用いられたか、神様のためにどれだけ役に立ったか、そういうことは、とても嬉しい大事なことですけれども、でももっと大事なことがあるんだよ。もっと喜ぶべきことがあるんだよ、それはあなたの名前が天に書き記されていること、そのことを喜びなさいと、イエス様はおっしゃっています。

本当にそうなんだと思います。何ができるかとか、自分がどんなに用いられるかっていうことよりも、やっぱり私たちがまず喜ばなければいけないことは、救われたっていうことですね。この第一の死に対しても、第二の死に対しても、私たちが勝利を得ていて、救われているっていうこと、こんなに幸いなことはないなと思います。私達のこの恵みが、イエス様によって与えられたことを感謝しながら、是非この恵みが多くの人たちに伝わるように、今、私たちはクリスマスの準備をしていますけれども、この機会も用いられながら、この喜びの知らせが、人々に伝えられていくように祈ってゆきたいなと思います。

 

ということで今日は20章で、次が21章、新天新地の完成が来週のテーマになります。

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