イエス・キリストをより良く知るために

わたしの心だ。きよくなれ

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書8章1~4節

イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

この一年半の間でしょうか、私たちはコロナ感染予防に一生懸命だったと思います。ただコロナ・ウイルスに感染してしまった方々の孤独や苦しみに、どれだけ私たちは思いを馳せてきただろうかということを考えさせられております。周りの人達が感染予防のに必死になっている姿を見れば見るほど感染してしまった方はそのこと孤独と悩みが深かったんじゃないかと思います。そしてもし今、この世にこのときイエス様がおられたならば、イエス様であるならば、真っ先にこのような悩みの中にある方々の中のにある方々の悩みを受け止めになってくださるのではないかということを、今日は与えられている聖書の箇所を通して感じたことであります。

本日よりマタイの福音よりイエス様の姿に注目していきたいと思います。

以前私が来たばかりの頃だったと思いますが、マタイの福音書の5章6章7章の「山上の説教」の箇所からメッセージをしたことがありました。ですから今日からは、8章9章をしばらく読み進めていきたいなと思います。

イエス様は様々な悩み苦しみを抱えている人々と出会って下さいました。どのように出会われたんでしょうか。 そしてそのような人々はイエス様と出会ったことによって、どのように人生を変えられたんでしょうか 。その点に私たちは注目していきたいなと思っております。

1.ツァラアトに侵された人の苦しみ

 8章1節の今日読んでいただいた箇所の最初の部分に、イエスが山から降りて来られたと書いてあります。それまでイエス様が山の上にいらっしゃるんだなということが分かる言葉です。これが7章の続きで書かれているということを考えるとするならば、5章6章7章はイエス様が山の上にいて、山上の説教をされていました。 弟子たちに対して、イエス様によってもたらされた 新しい神の国について、その新しい価値観と生き方について、弟子たちに教えておられたそういう場面でしたよね。 ですからそれは本当に弟子たちにとっては麗しい、イエス様を中心とした、本当に幸いな交わりのひとときだったんだと思うんですね。

そしてそのような山の上での素晴らしい時間を終えて、山を降りてきたとたん、いきなり現実の世界に戻ってきてしまうと、そしてそこにたくさんの群衆が待っているわけですが、たくさんの問題を抱えた人たちがそこにいるわけですが、そういう人々の中に入っていかれたなという、そういう展開に私たちは気づかされるんじゃないかと思いますね。

私たちも時々そういう経験をすることがあると思います。教会に来て礼拝をして、そこでイエス様と出会いキリスト者の交わりを経験して、本当に満たされて幸いな気持ちになって、そして教会から家に帰るとですね、いきなり現実の世界に局面してがっかりしてしまうなんて、そんな経験をすることが私たちにもあるかもしれませんね。

でもイエス様もそうだったんですね。イエス様も、その現実の本当に人間の悩み苦しみの凝縮されたような世界の中に戻ってきました。そこでイエス様は人々に関わられたことですそのことをまず覚えておきたいと思います。

今日の聖書の箇所で、イエス様がツァラアトと呼ばれる病気に侵される人と出会われた。そのことが今日聖書の箇所に記されていることです。当時、ツァラアトと呼ばれる病気がありました。このツァラアトという言葉は、かつて20年前の聖書では「らい病」と訳されていました。ところがこの「らい病」という言葉は差別語にあたるということで、この言葉を聞いて不快に感じたり悲しんだりする人がいるということで、訳が変わったんですね。当時どんな訳がいいのかという事で、聖書学者の間、あるいは神学校の先生達の間で、議論があったんだそうです。色んな訳の可能性があったんですけれども、最終的にはヘブル語のそのままの言葉、ツァラアトという言葉を使うことに決まりました。

ただ私達、訳が変わってもですね、忘れてはいけないことがあると思います。それはこのツァラアトという言葉は、当時のユダヤ社会にあっては明らかに差別語だったんですね。この言葉は当時の人々を著しく不快にする言葉でありました。人々に恐怖と戦慄を与えるそういう言葉でした。私たちはツァラアトという言葉を聞いても何のことかと思って複雑な感情を抱くことはないと思いますけれども、この言葉は当時のユダヤ社会にあっては、非常に恐ろしい言葉だったですね。人々に恐れられている言葉でした。それはとにかく恐ろしい病気なんです。それは体が、少しずつ腐っていくというそういう病気でした。このツァラアトに感染してしまうと、体中に腫瘍ができたり、歯が抜け落ちたり、指が曲がったり、そして耳が花が落ちてしまったりという、そういう現象が起きたんだそうです。ですからこれはもう本当に肉体的にも苦しい、精神的にも辛い、そういう病気でした。またこの病気に侵された人は宗教的にも汚れた人とみなされました。神の罰がその人に降ったんだという風にみなされる、そういう病気でもありました。よってツァラアトに犯されるとその人は家族から切り離され、社会からも見捨てられ、世間から離れたところで隔離された状態で生活しなければいけないという、そういう状況でした。よってこの病に侵された人はもう絶望するしかないですね。今の時代にも難病と言われる難しい病気がたくさんあると思うんですけれども、しかし当時のツァラアトほど深刻な病はないのではないでしょうか。自分でも苦しまなければいけないし、人にも恐れられるというそのような病気でした。とにかくそれは恐ろしい病気だったんですね。

2.イエスの愛

そのツァラアトに犯された一人の男が、この日イエス様のもとに行ってきました。イエス様の噂を聞いて、すがるような思いで、イエス様の身元に駆けつけたんだと思います。そのときイエス様の周りにたくさんの群衆の人たちが集まっていましたので、この男は群衆の中に紛れ込むような形で、 イエス様に近づいてまいりました。そのこと自体が異常事態です。ツァラアトの患者が、群衆の中に紛れ込んでいるということ自体が、あり得ないことだなんですね。本来あってはいけない事なんです。患者は隔離されてなければいけない。人々のいるところに来てはいけない存在なんですね。その人が今、群衆の中に紛れ込んでいるということで、おそらくここにいた人々が、このツァラアトの人を見た瞬間、さっと引いてたと思いますね。「何でこの人がここにいるんだ」という、怒りと恐怖を覚えながらも、彼から離れていったと思うんです。そういう状況です。

でもこの男はとにかく必死ですね。人々から白い目で見られるって事は、もう十分わかってたと思います。そのようにみなされる存在であるってことは、よく分かってたと思うんです。

でもそれにもかかわらずこの男は、イエス様のもとにやってきた。必死なんですね。イエス様なら、この自分の病を癒してくださるに違いない。イエス様なら、自分の抱えているこの悩み、苦しみを解決してくださるに違いないと信じたからこそ、彼はここまでやってきたんではなかったでしょうか。彼はイエス様のもとに来て、イエス様に向かってひれ伏して、こう言いました。2節、

主よ、お心ひとつで私をきよくすることがおできになります。

この男は、「主よ、あなたは私をきよくすることがおできになります。」って言ってます。彼がイエス様を信じてることが分かりますね。そこに彼の信仰があるって言うことが分かるんですね。イエス様なら必ず自分の事を清めてくださると信じてるんです。だからこそ彼は大胆にイエス様のもとに近づいてきたということ、そのことをここで私達、教えられることであります。

私たちにはこの男のような信仰があるでしょうか?イエス様は私の抱えているこの問題を必ず解決することができると、私たちは信じているでしょうか。信じた上でイエス様のところに来ているでしょうか。そのような信仰を持って私たちは、私たちの抱えている問題を全部イエス様のところに持って行っているでしょうか。私たちも是非このツァラアトの男のような信仰を持たせていただきたいものだなと思います。

ただしこの男はイエス様に対してこのようにも言ってるんですね。「主よ、お心を一つで」と、こういう風に言ってるんです。「主よ、お心ひとつで」この男は、イエス様を間違いなく信じてるんですね。自分の抱えている病と問題を解決できる方だって、イエス様のことを信じてるんです。でもそれが本当に実現されるかどうかは、イエス様のお心次第です。イエス様は本当に、そのことを願ってくださるかどうかにかかってるんです。こんな醜い自分にイエス様は目を止めてくださるんだろうか。こんな汚れた自分に、本当にイエス様は心を寄せてくださるんだろうか。本当にそのことを、イエス様は願ってくださるんだろうか。イエス様を信じていながらも、彼の心の中には不安と葛藤が、そんな彼の気持ちが、この「お心ひとつで」っていう所に込められていることを、私たち感じるんではないかなと思います。この男に向かって、心を開いてくれる人なんて誰もいないんです。彼の事本気になって心配してくれる人誰もいないんですね。気をかけてくれる人なんて誰もいないんです。

そういうことを体験してしまうと、私達は普通人に対して心を開けなくなるんですね。誰も信じられなくなるんです。そしてだんだん神様にさえ心が開けなくなってしまう。そういうこと私達も経験することあるんではないかなと思いますね。私たちは時々自分に自信がないときがありますね。自信がないんです。自分に。その自信のなさのゆえに、神様に大胆に近づけないということがないだろうかって思いますね。自分の弱さを必要以上に意識してしまうために、こんな自分に主が目を留めてくださるはずがない、こんな惨めなこんな愚かな私をイエス様が顧みてくださるはずがないと思う。最初から諦めても近づくこともしない、心を開くこともしない、そして自分の抱えてる問題をイエス様のところへ持っていくこともしないって、そういうことをしてしまう。私たちにそういう傾向があるんではないかなという風に思うんですよね。そんな葛藤、私たちの心の中に味わっているようなことがあるんではないかなと思います。

このツァラアトの男もそうなんですね。彼は不安です。イエス様の所に行きましたけども不安なんですね。本当に自分にイエス様が心を留めてくださるのかどうか?確信がないんです。それは全部イエス様のお心次第。でも、それでもこの男はイエス様の元に駆けつけました。不安も葛藤も矛盾も抱えていましたけれども、そのような状態でイエス様のもとに近づきました。十分に整えられた状態ではないですよね。でもそのまま、矛盾した状態のまま、彼はイエス様のもとに近づいた。諦めないで近づいた。そこに信仰があったってことを私たちは覚えたいと思いますね。

私たちもこの男の信仰から学ぼうではありませんか。私たちの中にも不安があり、葛藤があり、自信のなさがあり、矛盾も抱えながらのそんな状態かもしれません。自分が整えられているわけではないかもしれません。でもそれでも私たちは主に近づくものでありたいと思いますね。自分の抱えている問題の大きさに絶望する前に、それをそのまま主の前に持っていこうではありませんか。主は必ずこの問題を解決してくださると信じようではありませんか。そしてそのまま出ていくこの男から、私たちも学ぶものでありたいと思います。

さてこの男にイエス様はどう関わって下さったんでしょうか。今度はイエス様の側に注目をしていきたいと思います。3節の言葉に注目をします。

イエスは手を伸ばして彼に触り、「わたしの心だきよくなれ」と言われた。するとすぐに彼のツァラアトはきよめられた。

このような切々たる想いをもって、イエス様のところに近づいてきたこの男に向かって、イエス様は、どう対応されたんでしょうか。

まずイエス様は「手を伸ばしてこの男に触った」と記されてあります。これは衝撃的なことでした。おそらくそこで皆見てたと思いますけれども、見てた人がみんなびっくりしたと思いますね。どうしてかって言うとツァラアトの人に触る人って、誰もいなかったんですね。その病が自分にうつってしまうかもしれないんです。そしてもしその人が触ったならば、その人も宗教的に汚れたものとみなされる。当時そういう考え方でした。その場に、たくさんの人々がいて見てたわけです。イエス様は人々からどう見られてしまうんだろうか。そんなこと気にかけていたら絶対触れなかったと思いますけれども、でもイエス様はここでその男に触られた。それはイエス様が、この男の病も、汚れも、全部引き受けてくださったっていうことを表しています。そしてこの男の抱えている悩みの根源を、イエス様が共に担ってくださったっていうことを表している。この男はイエス様に触られた時、そしてそのイエス様の手の掌のぬくもりを感じた時に、心が震えるような感動を味わったのではなかったかと想像します。

誰もそんなことする人いないんですね。誰も彼に触ってくれる人はいないんです。でもイエス様はこの自分に触ってくれたと思う、それだけでもう彼は感動に心が震えたんではなかったでしょうか。それは彼にとって大きな経験になったのですね。とっても大きな経験だったんですね。

そしてさらにイエス様はこのように彼に語りかけました。3節。

「私の心だ、きよくなれ。」

このイエス様の言葉は、先ほどのこの男がイエス様に語った「主よ、お心ひとつで私をきよくすることがおできになります。」というこの言葉に対応した言い方であるということが分かると思います。彼がイエス様に問いかけたその質問に、イエス様はそのままお答えになっているということが分かる言い方だと思います。つまりイエス様はこの男の抱えていた不安も葛藤も全部、そのまま受け止めてくださり、そして彼が心の中で感じていた悩みのすべてをイエス様はちゃんとご理解してくださっていたということですね。こんな自分にイエス様は果たして目を留めてくださるだろうか?本当にその事をイエス様は願って下さるだろうか?「お心一つで」って叫びましたけども、本当にその事を主が願って下さるかどうか、不安で不安でたまらない、その彼に向かって、イエス様は「私の心だ」って答えられた。これは私はそのこと願ってるよって、あなたが不安に思っている、心配している、でもその心の願いをちゃんと理解してるよって、受け止めてるよと、それが私の願いなんだ。あなたが清められることを、私は願っているんだって、そういう心でありそういう思いですよね。

そして「きよくなれ」っておっしゃられたこの一つの言葉に、イエス様のこの男に対する、本当に豊かな深い愛が表されているのを私たちは感じたいと思います。そしてその時、彼のツァラアトは清められた書いてあります。イエス様を通して神様の豊かな力が働いたっていうことが分かる。

それはツァラアトという病の癒しでしたけれども、でも同時にそれは彼の罪がきよめられるという経験でもあったということがわかります。イエス様はこの男の信仰のゆえに、彼の病を癒し、同時に彼の罪をきよめてくださいました。彼の抱えている問題を表面的な部分だけではなくて、その根本から、根源から、解決してくださったってことを、私達はここから覚えたいと思います。

そしてイエス様はさらに彼に続けてこういう風に言うんですね。4節を読んでみます。

イエスは彼に言われた。誰にも話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証の為に、モーセが命じた捧げものをしなさい。

このように彼に指示を与えております。彼はもうイエス様に触っていただいたって言うだけで、本当に嬉しかったと思いますよね。心が感動溢れていたと思います。しかも病気が治ったんですね。散々苦しんできたその病が治ったんです。しかも宗教的にもきよめられた。それを経験したら、嬉しくて嬉しくて飛び跳ねてですね、もうその辺にいる人達にみんなに教えたくなったんじゃないかなっていうかと想像しますけれども、

でもイエス様は彼に言うんですよね。「誰にも話さないように気をつけなさい」って。そしてまっすぐ「ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」と、これがイエス様のこの男に対する指示でした。当時、アラートに犯された人が癒されて、社会復帰するためには、祭司のもとに行って、祭司が、この人は清いと宣言してもらう必要がありました。その祭祀による宣言があって初めて、その人は社会復帰することができたんですね。

つまりイエス様はここで何をしているかと言うと、この癒され、きよめられた男が、ちゃんと社会に戻って、人々との関係の中に戻っていくことができるように、そしてこの現実の社会で、世の中で、信仰をもって生きていくことができるように道案内をしてくださったということです。そこまでイエス様はこの男のこと考えてるんですね。なんと言う行き届いたイエス様のご配慮ではないでしょうか。イエス様によってもたらされる救いっていうのは、まずは肉体の癒しがありますね。そして罪の清めがあります。さらに破れた人間関係の回復にまで、広く及んでいるということを、私たちは教えられるんではないでしょうか。

 

イエス様に対する私たちの愛っていうのは、私たちの肉体のこともありますし、私たちの心の領域、魂の領域もありますし、さらに私たちの人間関係にまで及んで行く、そのようなトータルな愛というものがそこに表されているって事、私達教えられるんじゃないかなと思うんですね。私たちもこのようなトータルな救いを求めていく必要があるんではないかと思います。

私たちの中に時々こういう傾向があるかもしれません。病気の癒しを必死に求めますね。「病を癒してください」て、一生懸命祈るのに、罪の問題の解決を真剣に考えないっていう、そういうことがあるかもしれません。あるいは逆に、罪の赦しは、きよめは本当に求めるのに、自分の体のことをあまり考えないっていう、そういう傾向があるかもしれませんあるいは罪は赦されているはずなのに敗れた人間関係の回復を真剣に求めないという傾向もあるかもしれない。心に平安を頂いているはずなのに、でも破れた人間関係が修復されないままに、ずっと残ってしまっているっていう、そういう課題を抱えていることがあるかもしれないなと思うんですよね。イエス様は私たち一人ひとりを本当に深く愛して下さっています。私たちの体のことも愛してくださって、私たちの心や魂の領域も愛して下さっています。そして私たちの現実のこの世の中でちゃんと生きていくことができるように、私たちの人間関係の回復まで導いてくださる。イエス様の愛って、そこまで深く広く、私たちに注がれているっていう事を覚えたいんですね。そのような主のめぐみを、私達大胆に求めていくものでありたいと思います。

 

最後に今日はヤコブの手紙の4章8節を読んで終わりにしたいと思います。

神に近づきなさい。そうすれば神は、あなた方に近づいて下さいます。

もし私たちが、神に近づくならば、神がわたしたちに近づいて下さると約束されている言葉であります。

3.結び

今、コロナの状況が広がる中で、本当に私たち問われていることは、色々あると思いますが、そのうちの一つは、私たちとの神様の関係がどれだけ確立されているかということだと思います。私たち、このイエス様とどれだけ出会っているだろうか?どれだけイエス様を知っているだろうか?そしてこの方との関係が、どれだけ「主と私」という個人的な関係になっているかどうか?今試されているんじゃないかなと思うんですね。試練の時ってそういう時だと思うんですね。そのような神様との親しい交わりの中に生かされている人は、試練の中にあってもますます神様との関係を深めることができると思います。でも神様との関係が乏しい人は、何か問題が起こると、段々離れていってしまうってことが起こると思うんですよね。

私たちに求められていることなんでしょうか?それは主に近づくことです。このツァラアトの男のように、抱えている問題を全部主の前に持っていくことです。問題だらけの自分かもしれません。解決できないようないろんな課題を抱えているかもしれません。その中にあって、いろんな矛盾を抱えたままかもしれません。でもそれらを全部持って、主のもとに近づくっていうことです。その時に主は私たちに近づいてくださるって、これが聖書の約束です。その時に主は私たちに近づいてくださる。私たちに触ってくださる。御言葉を聞かせてくださる。そして私たちがどうやってこの世で生きていったらいいのか、導きを与えてくださる。溢れるばかりに主は私たちに恵みを注いでくださるんではないでしょうか。そのような主との個人的な関係の中に生かされていたならば、私たちはどんな試練の中にも本当に喜びを持って歩んで行くことができるんじゃないでしょうか。そのような恵みに私達生かされていることを、是非覚えるものでありたいと思います。どうぞためらわずに主に近づこうではありませんか。そこで与えられる恵みを豊かに味わっていこうではありませんか。そしてこの主に本当に心を開いてお仕えしていくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様。御言葉を感謝します。イエス様がかつてツァラアトの男に関わってくださったように、私たちにも個人的に親しく関わってくださること覚えて感謝します。私たちの抱えている色々な課題も、問題も、全部わかってくださり、解決を願ってくださっている方であることを覚えて感謝します。どうか私たちが躊躇うことなく遠慮することなくあなたのもとに近づき、全てを注ぎだしてあなたからの恵みをいただき、しっかりと解決していただくことができるように導いて下さい。一週間が始まりますが、主と親しい交わりの中で、この一週間も、1ヶ月も歩ませてください。感謝します。イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

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