イエス・キリストをより良く知るために

神の民に加えられる喜び

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

創世記25章7節~11節

以上がアブラハムの生きた年月で5年で、175年であった。アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。その息子イサクとイシュマエルはアブラハムをマ面するムレに面するマクペラの洞穴に葬った。これはヒッタイト人ツォファルの子エプロンのはtに畑地にある。アブラハムがヒッタイト人たちから買ったあの畑地である。アブラハムと彼の妻サラはそこに葬られた。アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住んだ。

この箇所より「神の民に加えられる喜び」と題して説教をお語りしたいと思います。今日は帰天記念礼拝です。去年は開催できませんでしたが、今年は開催できますことを覚えて感謝いたします。皆さんのお手元に帰天者プロフィールがございますでしょうか。ここに帰天された私たちのたくさんの先輩達の写真と、短い紹介が記されてあります。今回はお名前を読むことは省略させていただきますけれども、お一人お一人の名前と写真とそしてコメントを、皆さん是非読んでいただいて、お一人お一人のこと思い出して頂き、そしてその信仰の姿から私たちもたくさん励ましを頂けたらなということを願っております。そして、天において礼拝がなされていますけれども、この地上においても礼拝がなされています。いつの日か共に礼拝ができる時が来ることを覚えながら、希望を持って歩んでいきたいと思います。

今日は神の民に加えられる喜びという題で話をします。創世記の25章を読みましたけれども、8節の言葉はとても素晴らしい言葉だと思います。読んでみます。

アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。

今まで私たちは、創世記よりアブラハムの祈りについて、また信仰者としての姿について順番に注目をしてまいりました。そしてそのアブラハムの人生の年月は175年だったと7節に記されてあります。随分長生きだったんだなということがわかります。そのアブラハムの人生の最後の時、晩年は幸せだったこと、そしてアブラハムが年老いて、満ち足りて死んだということが、ここに記されてあります。

これは息絶えてて死んだ時に、満ち足りた状態であったということ、満ち足りたまま最後の息を引き取ったということであります。とても素晴らしいことではないかなと思いますね。この御言葉より信仰者にとって一番幸せな時は、晩年であるということを覚えたいと思います。

普通はそのように考えないのではないかなと思いますね。普通は若い時は幸せだけれども、年をとるにつれて幸福感が薄れてしまうと考えるのではないでしょうか。もちろん若い時にはやりたい事を、色々挑戦できます。また行きたいところに自由に行くこともできます。そして若い時には、若さを謳歌することができます。若い時には若い時なりの幸せがあると思います。

でもそれでも今日の箇所においてアブラハムは私たちに、信仰者にとって一番幸せな時は、実は晩年なんだよと教えているような気がするんですね。

なぜ晩年が幸せなのでしょうか?今日のアブラハムの姿から私たちは学んでいきたいと思います。

なぜアブラハムは晩年は幸せで満ち足りていたんでしょうか?

1.罪に対する解決を得ていた

1番目に、アブラハムが、罪に対する解決を得ていたからであるということを覚えたいと思います。アブラハムの人生を振り返りますと、失敗もありました。罪を犯したこともありました。そのことのゆえに普通なら後悔や心残りがあるものだと思います。

アブラハムの人生を振り返って、最大の失敗は何だったかなと考えてみると、おそらくそれはアブラハムが妻サラを通してではなく、サラの女奴隷のハガルを通して子どもを得ようとしてしたことだったのではないかと思います。それを提案したのは実はアブラハムではなくてサラのほうでした。アブラハムはサラのその提案を受け止めただけでした。

でもあの時、アブラハムはやはりよく考えて、よく祈って待つべきだったと思います。

どうしてかと言いますと、その後、家庭の中に大変深刻な問題が起きて起きてしまったからです。サラもハガルも両方苦しみました。そしてその状況をアブラハムは家長なのに全くコントロールすることができませんでした。そんな大変な失敗をアブラハムはしてしまったこともかつてはあったんですよね。

でも聖書には、アブラハムが年老いて満ち足りていたって書いてあります。これはアブラハムに何の悔いも、後悔も、心残りもなかったということを表しています。これは驚くべきことではないかと思います。アブラハムが神様との関係において、罪に対する解決を得ていたからであります。創世記15章6節にこのように書いてありました。

アブラハムは主を信じた。それでそれが彼の義と認められた。

このように書いてありました。

アブラハムは主なる神様を信じました。その信仰のゆえに、アブラハムは義と認められたと聖書で教えられている。義と認められるというのは、罪を許されて神様に完全に受け入れられたっていうこと、さらに神様との親しい交わりの中に加えられたってことを表しています。アブラハムは、彼の行いではなくて、彼の信仰によって信じ、信頼したことによって完全に神様に受け入れられた。そのこと故の満足であったということを私たちは覚えたいと思います。

人は、長生きすればするほど罪を犯すものだと思います。そして罪を犯してしまったその結果もしっかり残ってしまうということがあります。よって長く生きれば生きるほど私たちは、悔いや後悔が増えてしまうということが普通ではないかと思います。色々取り返しのつかないこともしてしまうということもあると思います。アブラハムはもう175年も生きたんですね。175年も生きたならば、きっと色んな事があったと思います。聖書に書いてあること、書いてないこと色々あったと思います。でもそれでも、アブラハムは晩年、そしてそのアブラハムの最後の死の直前のその時も、アブラハムは満ち足りていました。彼がもう神様との関係において完全に罪許されていたから。自らの人生の最後のその瞬間に、何の悔いもない、何の後悔も無い、満ち足りているそういう状態で、最後の息をひとれるとするならば、それは本当に幸せな人生ではないかなと思うんですね。

信仰者は、救い主イエスキリストをただ信じていることのゆえに、私たちの罪の全ての許しを得ています。よって平安のうちに最期の時を迎えることができることは、なんと幸いなことではないでしょうか。その恵みのゆえに私たちは神様に感謝したいと思います。さきに帰天されていった方々の、その最後の時をいろいろ思い出しておりますけれども、皆さん、病を抱えていたり、大変な病気と戦っていたり、本当に苦しい生活の最後だったと思うんです。けれどもでも最後の時ってみんな平安のうちに息を引き取って行かれたなって思うんですね。そんな恵みが私たちにも与えられている、そんなことを私たちも感謝したいと思います。

2.与えられたつとめを成し遂げた

アブラハムの晩年はなぜ幸せだったのでしょうか?2番目にアブラハムに神様から委ねられた,、務めの全てを成し遂げることができたからであります。

息子イサクを神様に捧げるというあのモリヤの山での出来事、あの後も結構いろんなことがあったんですね。アブラハムの人生には何よりもまず、妻のサラに先立たれてしまうということがありました。でもその時アブラハムは妻を葬るためにマクペラの洞穴を墓地として購入して、そしてその墓地に妻サラを丁重に葬りました。土地の人々は、アブラハムにその墓地をタダで差し上げるって言ったんですね。ただで差し上げるって言ってくれたのに、アブラハムはあくまでもその墓地の購入にこだわりました。後々までもその墓地が、確実にアブラハムの子孫のものであり続けるための、先を見据えた上での判断だったんですね。いずれその墓地の中に自分も葬られることになります。今ここで葬られますけれども、そしてさらに息子のイサク孫のヤコブもそこに葬られていくことになる。

そしてこの墓地はアブラハムの子孫であるイスラエルが、やがて約束の地を所有することのしるしとなりました。 そのための良き準備を、この時にアブラハムはしていたっていうことに、私たちは気づかされるんですね。さらにアブラハムは息子イサクのために妻を迎えることができました。そのためにアブラハムは自分の忠実な下僕を、遠くアブラハムの親族の住むところにまで遣わしたんです。イサクが同じ信仰をともにする女性と、結婚に導かれるためでした。そのようにしてアブラハムはイサクのために妻リベカを迎えることができました。そしてアブラハムは全財産を息子イサクに与えました。

アブラハムは妻サラの死後、ケトラという女性と再婚しまして、ケトラとの間に何人かの子供達が与えられました。でもその子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に彼らを東の国に送り出したということが今日読んでいただいた25章の5節と6節に書いてあるんですね。これはイサクとの間に、遺産相続を巡って深刻な対立と争いが起きないための、現実的なアブラハムの判断だったと考えられます。非常にアブラハムは、現実的な対処していたということが分かると思います。

これらの事を、アブラハムは生きている間に、着々と進めておりました。これらはみんな、神様からアブラハムに与えられた務めだったのであります。

このアブラハムの姿を見ていると、私たちを教えられることがあります。私たちは、私たちの人生の終盤に、大切な務めが与えられているということを教えられるのではないでしょうか。それは私たちがいなくなった後、次の世代の子供達が、確実に祝福されるための準備をするという勤めです。自分に与えられているたくさんの祝福がありますけれども、その祝福が、次の世代にもちゃんと伝えられていくための備えをするという、そんな勤めが私たちにも与えられていることを覚えたいと思います。

私たちはある時に仕事を引退して、それでやることがなくなってしまうのではなくて大切な勤めが残されていると思います。私たちに与えられた信仰が次の世代に、次の世代の子供達孫達、またその先にまで確実に引き継がれていくために、今、備えをする時ではないかなと思うんですよね。その勤めは私たちの死ぬその時まで続いていきます。アブラハムのように最後まで与えられた務めに忠実で誠実なものでありたいと思います。

アブラハムはそれが一つ一つの務めを神様の助けと導きの中で成し遂げることができました。当然そこには満足があるんですね。そしてアブラハムは満ち足りて、息を引き取られていきました。

私たちにも与えられた務めがあると思います。皆さん一人一人にとって、その勤めはどんな勤めでしょうか?その務めが果たされるまで、私たちの命は、保たれていくんだと思いますね。そしてその勤めが終わった時に、私たちの息も引き取られていくんではないでしょうか。私たちの生も死も全部、神様の御手の中にあります。与えられている勤めに私たちは最後まで忠実な者でありたいと思います。

3.死後に希望をもっていた

アブラハムの晩年はなぜ幸せだったんでしょうか?3番目にアブラハムは死後に希望を持っていたからであります。ここに「アブラハムは息絶えて死んだ」って書いてありますけれども、でもその後にどうなったんでしょうか。8節の最後に「そして自分の民に加えられた」と記されてあります。アブラハムにとっての死は、それで終わりではなくて、自分の民に加えられるという経験であったということがわかります。

「自分の民」ってここに書いてありますけども、「自分の民」って誰なんでしょうか?

おそらくこの中に、アダムがいてエヴァがいて、アベルもいてセツ、エノシュ、エノク、ノア、ノアの子供達、いろんな人たちがそこに含まれていたと思いますけれども、つまり先に天に召されていった信仰の先輩たちのことですね。

彼らはその信仰のゆえに、神の民とされました。その神の民としての仲間たちの中に、アブラハムも加えられたっていうことであります。もちろんサラれもそこに入ってますけどもね。そして実はアブラハムは、そのことを生きている時から意識しながら歩んでおりました。神の民にいずれ加えられるということを意識しながら、そのことを待ち望みながら、歩んでいたということがヘブル書の記事を読むとわかる。ヘブル人への手紙の11章16節にこういう風に書いてあります。

彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。神が彼らのために都を用意されたのです。

こういう風に新約聖書ヘブル書の11章に書いてあります。アブラハムだけではないんですね。アブラハムだけではない。アブラハムを含む信仰者たちは皆、死後にもっと良い故郷、天の故郷があることを信じ、その故郷に憧れていたと聖書に記されてある。つまりアブラハムは主の救いに預かって、「永遠の命」を確信していたということであります。

今日私たちが覚えている帰天者の皆さん、このプロフィールに写真のある方々も皆、神の民に加えられた方々であるということを覚えたいと思います。帰天者プロフィール、皆さんお持ちだと思いますけれども、この顔ぶれがですね毎年毎年増えていくの皆さん気付かされることだと思います。1枚目の写真の方々は、私が聖園教会の牧師になる前に天に帰られた方々の写真です。2枚目の方々は、私が聖園教会の牧師になった後に、帰天された方々、もしくは納骨された方々の顔ぶれになります。私が飯能に来た後も、ずいぶんたくさんの方々が天に召されていったということがわかります。だんだんあちら側が賑やかになってきてるんじゃないかなと思いますね。私たちも、こちら側も、賑やかですけれども、あちら側もなんだか、だんだん楽しそうになってきているなという感覚がするんではないでしょうか。

死んだ後、どうなってるのかということについては、あまり詳しく分からないんですけれども、でもひとつだけ分かることがあります。それは天においても、神の民が形成されているということです。そのことを今日の箇所から教えられ、そして今は「こちら側とあちら側」って言い方をしますけれども、でもこのこちら側とあちら側を隔てている壁は、いつの日か取り去られるんですね。イエス様が再臨するその日、死者の復活が起きて、こちら側の神の民と、あちら側の神の民が復活をして、そして一つになって、共に主を礼拝する日がやってくるということを、私たちは聖書を通して覚えることができる。

その場面を、さっき黙示録の箇所で皆さんと味わいましたけれども、そのような日がやがてやってくるということを、私たちは覚えたいと思います。

信仰者にとっての死とは、人生の終わりではないですね。それは単なる通過点に過ぎないんです。死という通過点を通って素晴らしい天の御国へと私たちは導かれます。そしてその先に、先に帰天された方々の交わり、そしてその神の民に、私たちも共に加えられるということです。そしてそれは私たちにとって故郷と呼べる場所です。「ふるさと」と呼べる場所です。

ですから私たちには、いつでも希望がある。ですからそのことの故に、私たちにとって晩年は、一番幸せな時なのではないでしょうか。私たちも是非天を仰ぎ、天にもっともっと憧れながら、日々を歩んでいきたいものだと思います。

4.結び

このようにアブラハムは息絶えて天に帰ってきましたけれども、その後も素晴らしいなと思いますね。ここ読んでいると、アブラハムの二人の息子、イサクとイシュマエルが共に、父アブラハムを埋葬してくれている様子がここに記されてあります。この二人の息子イサクとイシュマエルは、今までいろんなことがあって、とても複雑な関係でしたね。とても複雑な間柄でした。それが父アブラハムの悩みのタネでもあったんですけれども、でもこの時には二人がちゃんとここに揃って、お父さんを一緒になって埋葬してくれている姿は、アブラハムにとっても、本当に慰めだったんじゃないかなと思います。しかも先にサラが葬られている、そのマクペラの洞穴の中に葬ってくれたとそこに書いてあります。そして11節にこう書いてあります。

アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。

アブラハムに与えられた祝福、生きている間たくさんの祝福がありました。その祝福が次の世代のイサクにちゃんと引き継がれていったということがここで記されていることです。本当に幸せなことではないでしょうか。こんな幸せな晩年は、他にはないと言えるような、本当に素晴らしい晩年の姿だと思います。

私達は果たしてどんな晩年を過ごすんでしょうか?どんな人にも必ず晩年と呼ばれる日がやってきます。若い人にも必ずやってきます。それはどんな晩年でしょうか?先のことはまだわからないかもしれませんが、でもそれは幸せで満ち足りた晩年だったら素晴らしいなと思います。

この間私は、都心の教会に奉仕に行ったんですけれども、その時に一人の90代のご婦人にお会いしました。元気ですねっていう話をしたら、そのご婦人が私に言ったんですね。

「先生、年は取るものではないんですよ。年は与えられるものなんです」って、そういうふうにおっしゃってました。「年は、神様から与えられる恵みなんです」ってそ、ういうふうにおっしゃっておられて、その方の顔がなんかすごい輝いて見えましたけれども、本当に素晴らしいことだなと思いました。

私たちは普通は、歳を取れば取るほどだんだんグチが多くなってくるという一般的な傾向があるんじゃないかなと思いますね。でも増えてくるのがグチではなくて、感謝であったならば、それは本当に素晴らしい晩年ではないかなという風に思うんですね。そんな晩年をぜひ私たちも過ごしたいものだなという風に思います。

そのために私たちはやっぱり、本当にイエス様を信じていきたいなと思いますね。イエスキリストの十字架の信仰によって、私たちの罪が完全に許されているという、その罪の解決をしっかりと経験していきたいと思います。そして主が、私たちに、生きている限り与えられてる務めを、本当に忠実に果たしていくものでありたいと思います。そして天の故郷、私たちがやがて行くべき、その天の故郷をもっと憧れながら、私たちは希望を持って歩んでいくものでありたいと思います。そのようにして与えられた人生を全うしていこうではありませんか。

 

お祈りをいたします。愛する神様。先に天に帰られたお一人お一人を覚えながら、共に礼拝できたことを覚えて感謝します。先に天に召された、私たちの愛する先輩たちが、本当に私たちに信仰者としての姿を示してくださったこと、希望を持って平安のうちに天に帰られたこと覚えて、ありがとうございます。私たちもその先輩たちにならって、与えられた人生の務めをよく果たして行くことができますように、主と共に歩むことができますように、あなたによって罪の解決を完全に頂いている恵みを、豊かに味わうことができますように。そしていつも感謝していることができますように。天の故郷に向かって、その故郷を憧れながら、私たちは与えられた人生を一歩一歩、歩んでゆくことができるように導いて下さい。御言葉を心から感謝します。主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

 

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