キリストは、なぜベツレヘムでお生まれになったのか?ミカ書5章2節
本日はクリスマスの時によく朗読される、旧約聖書の御言葉、ミカ書5章2節の御言葉を味わっていきたいと思っております。
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この御言葉から3つのことを、神様からのメッセージとして受け止めていきたいと思います。
まず一番目は、神様のご計画が確かであるということを、この御言葉を通して学びたいと思います。
2番目に神様は、小さきものを選ばれるということを、御言葉を通して覚えていきたいと思います。
3番目に、選ばれた者には信仰が求められるということを覚えていきたいと思います。
以上三つのメッセージに耳を傾けていきたいと思います。
1.ミカの預言について
紀元前8世紀、南王国ユダに、ミカという預言者がいました。ミカについては1章1節に次のように記されております。
モレシェテ人ミカにあった主の言葉。これはユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。
このようにミカについて説明されてあります。ミカは、モレシェテというイスラエルの小さな地方の町の出身であったということが言われております。そしてヨタム、アハズ、ヒゼキヤが、南王国ユダの王様だった時に活躍した預言者だったとここに出て参りますので、ちょうど預言者イザヤと同じ時代を生きた預言者であるということがわかります。そして彼が見た幻は、サマリアとエルサレムについてだったと、ここに記されてあります。
当時のサマリアとエルサレムの状況は、神様に背き、罪を犯し霊的に堕落しているそういう状況でありました。モレシェテという地方にいたミカには、サマリヤとエルサレムの霊的な堕落した姿というのがよく見えていたんだと思います。
サマリアというのは、北イスラエル王国の中にあって偶像礼拝が公然と行われている場所でありました。そして都エルサレムにも、このサマリアの影響が及んできて、社会悪がはびこったり、様々な不正がなされたり、罪が罪とは認識されないで、主の御心に背く、そんな街になっていたということがわかります。そのようなサマリアとエルサレムの罪に堕落していた姿を見たミカは、このミカ書の中で厳しく告発している、そういう内容であるということがミカ書を読み進めていくとわかります。一番大きな問題だったと思われるのは、当時のイスラエルの民が堕落していたというだけではなく、宗教界の指導者たちもまた堕落していたということであります。
ミカ書の3章11節にこんな言葉が出てきます。
その頭たちは賄賂を取って裁き、祭司たちは代金を取って教え、預言者たちは金を取って占いをする。しかもなお、彼らは主を当てにして、「主は私達の中におられるではないか。災いは私達の上に及ばない」
そんな状況に対してミカは、そのエルサレムは必ず裁かれるんだよということを、次の3章12節で告発しております。
それゆえ、あなたがたゆえに、シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々に覆われた丘となる。
都エルサレムは、瓦礫の山になってしまうんだよということがここで予言されているということが分かります。このようにミカはエルサレムの裁きを警告しました。
このように当時ミカが神の言葉をはっきりと伝えても、ほとんどの人たちは耳を傾けなかったということも言われております。
やがて北イスラエル王国は、アッシリア帝国によって滅ぼされてしまいます。そして南ユダ王国も、その後しばらく永らえるんですけれども、最終的にはバビロン帝国によって滅ぼされてしまって、そしてエルサレムは本当に瓦礫の山になってしまう。それは全部イスラエルの民の罪と不従順の故でありました。神によって選ばれたイスラエルの民は、自ら犯した罪ゆえの報いを受けなければならなかった。
もう一度読んでみます。
ベツレヘム ・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたから私のために、イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。
このようにミカは、イスラエルを治める者、すなわち救い主が、ベツレヘムから生まれるということを予言しました。そしてこの予言が、それから約700年後に実現したんです。
イエス様がベツレヘムにお生まれになった時に、この予言が実現したということを私たちは知っていますね。つまりイエス様が生まれる700年も前に、その事が約束されていたということです。700年という年月は、もう本当に信じられないくらい昔々の話だという風に思います。なんとなく気の遠くなるような話かなと思いますね。700年前というと、日本でいうと鎌倉時代になるかなと思いますけれども、鎌倉時代に予定されていたことが、700年の時を経て、今、実現するなんていうことはとても考えられないことだと思いますね。そんなことありえないことだと思います。しかも聖書には、その出現は、永遠の昔から定まっているというふうに記されています。私たちにはとても想像することができないんですね。気の遠くなるような話だと思います。
でもイエス様の誕生というのは、それくらいずっとずっと前から神様のご計画の中に定められていたことであるということ、それくらい重要な出来事だったということを、私たちは教えられます。
2.ミカ書の預言から教えられること
a.神様のご計画の確かさ
この話を通して私たちは、神様のご計画の確かさということを教えられるんではないでしょうか。私の信じている神様は、計画を持っておられる方です。そのご計画というのは救い主をこの世に送り、この地上に神の国をもたらし、そこに私たちを集めるという、そういう計画であります。そしてそのご計画中に、私達も選び出されて、救われて、そして一員とされて、そしてこの私たちを通して、私たちを用いて、この地上にみ国をもたらそうとしておられるそのような神様のご計画の中に、私たちが加えられているということもまた驚くべきことではないだろうかと思います。それが全部、ずっと昔から定められていた。
私たちにはそれぞれ個人的な計画があると思います。これから冬に入って、冬に何をしようか、何を買おうか、お正月の準備など、いろんな計画があると思いますね。私たちそれぞれの人生の計画があると思います。生まれて、そして成長して、学校に入って、そして卒業して、就職をして、結婚をして、家庭を築いて、この世に貢献する、いろんな計画があると思います。
でもそれとは別に、神様のご計画があるということも、私たちは聖書を通して教えられることであります。そのご計画というのは、永遠に変わらない計画です。そして神様はそのご計画を、この地上において、今、成し遂げている。イエス様が来てくださいました。イエス様が救い主としてきてくださいました。神の国を、この地にもたらしてくださいました。その神様のご計画が今も進展しています。その計画の中に私達一人一人が加えられたんではなかったでしょうか。私たち一人一人に救いの恵みが訪れて、そして選び出されて、召し出されて、このご計画の一部とされたんではなかったでしょうか。そのご計画の不思議さということを私たちは今日も想いたいと思います。そしてその中に実は私たちの本当の祝福があるということを覚えたいと思います。
私たちの個人的な計画の中に、神様を閉じ込めてしまうような、そういうことをするのではなくて、神様の永遠の変わらないご計画の中に、私たちが置かれているというその恵みを、味あわせていただきたいなと思います。そのご計画の中に、私たちが加えられていること、私たちを通して主のみ心がなされていくということを、ぜひ信仰を持って受け止めようではありませんか。そのような祝福されたクリスマスを過ごしていきたいと思います。
b.神様は、小さきものを選ばれる
2番目に神様は小さいものを選んでくださるということを、この御言葉を通して教えられることだと思います。救い主誕生の場所として選ばれたのは、ユダヤのベツレヘムであったということが、ここに出てきます。そしてそのベツレヘムの小ささということが、この言葉で強調されているということがわかります。
「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。」
前の聖書では「ユダの氏族の中で最も小さい者だが」という訳だったんですね。「最も小さい者だが」という訳が、「あまりにも小さい」という訳に変わりました。このベツレヘムの小ささというものがよりはっきりと強調される、そういう訳になりました。 あまりにもちいさい、驚くべきほどの小さいと、そう言われるくらいベツレヘムというのは、当時は本当に小さな町、もしかしたら村と呼ばれるよう場所だったんじゃないかなと思います。
ベツレヘムを地図で見ますと、エルサレムのちょっと南側のすぐ近いところですね。大きな都エルサレムのすぐそばだからこそ、ベツレヘムの小ささというのが際立っていたんじゃないかというふうに考えられます。多くの人々の目は、エルサレムに向けられている。みんなが見る場所はエルサレム。でもすぐそばにベツレヘムがあるのに、そこに気付く人はあまりないという村だったんじゃないかなと思うんですね。
生まれたばかりのイエス様を礼拝するためにやってきた東方の博士たちも、やっぱりエルサレムに来ましたね。ユダヤ人の王としてお生まれになったかたはどこにいますか?ユダヤ人の王であれば、必ずエルサレムにいるだろうと思って来たわけですね。ところがエルサレムに行ってみたら、いらっしゃらない。いったいどこにいるんだろう?博士たちは長い旅をやってきましたからから、会えなかったということで、とって戸惑ったんじゃないかと思いますね。でもその時に開かれた聖書の御言葉があるんです。それが実はミカ書の5章2節だったんですね。これはマタイの福音書2章にその記事が出てきます。そこにこのミカ書5章2節のみことばがひらかれて、「そういえばちゃんと聖書に書いてあったじゃないか、救い主がお生まれになる場所はベツレヘムじゃなかったか?」ということに気づいて、その後博士たちはベツレヘムに向かって行くと言う展開になります。ですからこの聖書の言葉が、博士達をベツレヘムまで導くために用いられる言葉だったということが分かるわけですけれども、でもそれは、結局はそれくらいベツレヘムというのは、忘れられている町だったということだと思います。ちゃんと書いてあるのに、ほとんど気づかれないで終わってしまう、小さな町だったということだと思います。
しかしこの小さなベツレヘムが、救い主の誕生の場所として特別に選ばれるという、特権が与えられた、そういう街となりました。神様の選びというのはそういうものだと思います。
ギデオンの事を皆さん覚えてると思いますが、ギデオンはどうして選ばれたんでしょうか?士師記に書いてありますけれども、ギデオンが選ばれた時に、ギデオンは神様に向かって言ったそうです。
ああ、主よ、どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存知のように私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。と、そのように訴えたという言葉が士師記の6章15節に出て参ります。
このギデオンの言葉を読むと、神様がギデオンを選んだのは、ギデオンが強かったからではないということが分かります。あるいはギデオンの氏族が強い氏族だったからでもないし、ギデオンが経験豊富な人物だったからでもなかったことが解かります。むしろギデオンは、弱くて若くて臆病な人だった。ギデオンの属する氏族も、マナセ部族の中で最も弱い氏族だったとここに出てきます。でもそのギデオンを主は選ばれたと聖書をとおして私たちは教えられることです。
イスラエル王国の最初の王様になったのはサウルでしたけれども、サウルはどうして選ばれたんでしょうか?サウルが選ばれた時も、こういう風に言ってるんですね。
私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族はベニヤミン族のどの家族よりも取るに足りないものではありませんか
第1サムエル9章21節ですね。サウルも選ばれた時、「とんでもないです。私はイスラエルの最も小さい部族の出身です。本当に私の家族も取るに足りないものです。こんなもの選ばれたら困るんです」っていうような戸惑いの気持ちを神様に訴えているということが分かるんですけれども、でもそのサウルを神様が選ばれたと言うことが分かります。
ダビデはどうだったでしょうか。ダビデはエッサイの一番末の息子でした。ダビデの上に7人もお兄さんたちがいました。しかも上の三人は兵士たちでした。立派に戦場に出て戦っている兵士たちでした。予言者サムエルが、王様を選ぶために、エッサイの家に来た時に、この上のお兄さんたち3人を見て、この人と、この人こそが、まさにイスラエルの王になる人だと思ったくらい、王にふさわしく見えるくらい、それ程、逞しいお兄さんたちだったんですけれども、でもそのお兄さんたちは選ばれなかったんですね。ダビデはその場にはいなかった。羊を飼っていた。そこで呼び出されて、選ばれていく後で、話が第一サムエル16章に出てきますけれども、それくらいダビデは年少で歳が若くて、経験がなくて、人間的に考えたら、王様に全く相応しくない人物だった。でも神様はこのダビデを選ばれた。
こうやって色んな例を上げていくことができるんですけれども、聖書を通して私たちは、神の選びということを教えられます。神様はどういうかたを選ぶんでしょうか?神様は強い人は選ばないです。何かが出来る人は選ばないですね。有能な人を選ばないですよ。
むしろ神様が選ばれるのは、弱い人です。貧しい人です。臆病な人です。小さいです。こんな私があっと、思わず言いたくなってしまうような、そういう人があえて選ばれるんですね。
神様という方が、私たちを選んだのも同じであるということを、ぜひ覚えたいと思います。私たちもこのようにして、今、選ばれて、神様に召し出されて、ここに集められて、本当に神様の祝福に預かっています。わたしたちが選ばれたのは、私たちが有能だからとか、力があるからだとか、優秀だからだとか、強いからだとか、そういうことで私たち選ばれたんではないですよね。私たちが弱くて、そして小さいものだからこそ、私たちは選ばれた。
でもそれは同時に、そんな小さな私たちを通して、大きな神様が現れるために、そのために私たちが選ばれているということをぜひ覚えたいと思います。
パウロのコリント人への第一手紙、1章26~27節からちょっと読んでみたいと思います。パウロの言葉にもこういう言葉があります。
兄弟達、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は知恵あるものを恥入らせるために、この世の愚かなものを選び、強いものを恥入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りないものや見下されている者、すなわち無に等しいものを神は選ばれたのです。
と、書いてあります。
このように聖書には、愚かな者、弱い者、この世の取るに足りない者、見下されている者、無に等しいものが、神に選ばれるんだということが教えられている。そしてそれは知恵ある者や強いものを恥じ入らせるために選ばれた。私たちはこの世とは全く違う生き方が与えられております。それは私たちの内に働く、神の力によって生かされるという、そういう生き方です。主の御言葉に、より頼みながら、主の力に守られ、支えられながら生かされていく、そういう生き方があるんだということを、この世に提示するために、私たちは選ばれたということです。
この世では、本当に力のあるものが、強い者が、もてはやされるという世の中だと思います。本当に皆が、力を持ちたい、優秀になりたい、そう世の中だと思いますけど、それと全く違う価値観があるんだよと、それとは全く違う価値観があるんだよと、弱いけど、貧しいけれども、小さいけれども、でも御言葉により頼みながら、御言葉によって支えられながら、生きていく祝福される人生があるんだよということを、私たちが提示できるのではないでしょうか。そのために私たちが選ばれている、小さいものが選ばれているということを、心に留めたいと思います。小さいからこそ選ばれた、その主の恵みに感謝したいと思います。
c.選ばれた者には信仰が求められる
最後に選ばれた者たちには、信仰が求められるという事を覚えたいと思います。
ベツレヘムは確かに小さい街でした。でも小さいだけの街ではなかったんですね。ベツレヘムは非常に誇り高き町でした。ベツレヘムは、あの偉大なイスラエルの王、ダビデの出身地でした。ですからベツレヘムは、「ダビデの町」と呼ばれております。ルカの福音書2章11節の言葉に,
今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
ベツレヘムという街の別の名は、ダビデの町です。あの偉大な王様のダビデの出身地です。
でもどうしてベツレヘムが、ダビデの街と呼ばれるようになったんでしょうか?
事の発端は、旧約聖書の中に、「ルツ記」という書物が出てきます。ここにエリメルクとナオミという、ベツレヘムに住んでいたご夫婦がいましたけれども、飢饉が起こりまして、このご夫妻と二人の息子の四人家族は、モアブという地に避難をして移住するんですね。そこは異邦人の地でした。それで二人の息子たちは、そのモアブの女と結婚していくということになりますが、その後このエリメイクの家族に悲劇が次々と押し寄せました。夫のエリメレクと二人の息子たちが死んでしまうということになります。残されたのは奥さんのナオミと二人の嫁達、オルパとルツ、つまり女たち3人だけになってしまったということなんですね。オルパはナオミに説得されて、モアブの実家に帰っていきました。ルツはナオミについていく決心をしました。どうしてかと言うと、ナオミの信じている神様が、本当の神様だっていうことを、ルツも信じていたからですね。ナオミは帰りなさいって言うんだけれども、ルツは「あなたについていきます。」と言って、それで二人が帰ってきたところがベツレヘムでありました。そのベツレヘムに、ナオミの親戚に当たる、ボアズという人がいました。その後、いろんな話の展開があるんですが、最終的には、モアブ人であったルツを受け入れて結婚することになります。そしてこの後、ボアズとルツが家庭を築いていきますけれども、その子供の、子供の、子供が、ダビデということになっているんですね。つまりベツレヘムがダビデの街と呼ばれるようになったその理由は、ボアズが異邦人の娘ルツを、信仰をもって受け止めたから、そしてそこにはもちろん、ナオミの信仰による祈りがありました。ルツの信仰による従順がありました。そしてボアズの信仰による決断がありました。これら三者の信仰が見事に結びあって、織りなされたのが、ルツ記のお話であります。そしてダビデはそこから生まれた。ダビデはナオミとルツとボアズの信仰と祝福を受け継いで、この世に誕生してきたということが言えると思います。その結果ベツレヘムは、ダビデの町と呼ばれるようになりました。
こうやって見ていくと、ベツレヘムってどんな街だったのかなということが、よく見えてきたんじゃないかなと思います。ベツレヘムは規模から言うと小さな小さな町でした。本当に忘れられそうなくらいに、小さな小さな町でした。しかしそれだけではなかったんですね。ベツレヘムは、神の御心を受け入れた街でした。このベツレヘムを神様は特別に祝福してくださいました。この小さな町から、あのダビデという偉大な王様が誕生してきました。そしてそれから、また何百年も経って、救い主イエス・キリストが、このベツレヘムにお生まれになった、その特別の祝福に預かる街になった。
私たちもみんな小さくて弱くて貧しいものです。だからこそ、私たちは選ばれた。でも私たちは小さいだけであってはいけないですね。私たちにも、信仰が求められているんではないでしょうか。ナオミがベツレヘムで信仰を持って祈ったように、ルツがベツレヘムで信仰をもって御言葉に従ったように、そしてボアズがベツレヘムで信仰に基づいた決断をしたように、私たちも、主を見上げ、主のも言葉に聞き従うということが求められているんではないでしょうか。そのような私たちの信仰を、主が喜んでくださるんではないでしょうか。
私たちは、気をつけなければいけないことがあると思います。
それは小さいということが、時に劣等感につながるということがあります。あるいは自分の小ささということを、必要以上に強調して、自己卑下してしまうということがあります。また自分の小ささを、自らの不従順の言い訳にしてしまうこともあると思います。
時々こんな態度をとってしまうことがあるんじゃないでしょうか。
「私にはとてもできません。私は小さいので。」そういう風に言ってしまうことがあるんじゃないかなと思うんですね。私にはとっても無理です、まだ準備ができてません小さいということを理由にして、それが不従順の理由になってしまうということは、私たちに有りうることじゃないかなと思うんですね。
準備が整ったら、私たちは、主に用いられるんでしょうか?私たちが強く大きくなったら、より豊かに用いられるんでしょうか?その日が来るまで私たちは待たなければいけないんでしょうか?
神様は、そういう人は用いられないですね。神様はそういう人を必要としないですね。主が求めているのは、大きい人ではないです。強い人でもないんです。十分に整えられた人でもないんです。主が求めておられるのは、小さい人です。弱い人です。貧しい人です。でもそれだけではなくて、主に応答する人ですね。御心に従っていく人です。こんな私だけれども、私を用いてくださいと、主にお捧げする人です。そういう人を主は用いてくださるんではないでしょうか。
小さい事が不従順の理由にもなってしまうし、でも小さいことを受け入れることによって、それが信仰に繋がっていくこともあります。私たちはどちらを選択するでしょうか。
是非私たちは、こんな私ですけれども用いてくださいという、そのような心からの祈りを、捧げる者でありたいと思います。
3.まとめ
最後にルカの福音書の12章の32節を読んで終わりにしたいと思います。
小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。
小さいということは、ある意味で恐ろしいことですね。心細いことだと思います。小さいということで、本当に不安になってしまうこともあると思います。でもイエス様は、恐れなくていいと言っています。どうしてですか?あなたがたの父は喜んであなたがたに御国を与えて下さると約束してくださっています。小さな私たちにそそがれる、大きな恵というものを、私たちは、もっともっと味わっていこうではありませんか。小さな私たちに働かれる主の大きな力というものを、私たちはもっともっと経験させていただこうではありませんか。そして父なる神様が、喜んで私たちに与えようとしておられる、御国をしっかりと受け止める者となろうではありませんか。
お祈りをしたいと思います。愛する神様、小さき私たちを選んでくださったことを覚えて感謝いたします。どうぞあなたのご計画の中で私たちを用いて下さい。この小さき者を、どうぞあなたの祝福のために、大きく用いてください。そのために、あなたの恵みによって、力によって、生かせてくださるようにお願い致します。イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。アーメン 。