イエス・キリストをより良く知るために

黙示録19章・・・イエス・キリストの再臨。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
19章7節:私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。 

日々汗を流し 、ときに泥まみれになりながら苦闘する地上の教会。・・・キリストの再臨の時の、この輝かしい婚礼の時、華燭の典を想って、隣人(となりびと)に主を証ししつつ歩みゆこうではありませんか。

今日の19章は神の裁きがなされたそのあと、イエスキリストが再臨される様子が描かれています.

そして20章では、千年王国というテーマになります。

そして21章では、新天新地の完成というところになります。

神様のご計画が終末にいかに完成に導かれて行くかということ、新しい天と新しい地がやってくるっていうことですね。そのことが最後に出てきます。

そして最後の22章に結びの言葉ということで繋がっていきますので、いよいよ今日からクライマックスだということが言えると思います。

今日の前半の方ではまた礼拝の場面が出てきます。今までも黙示録を読み進めてきましたので、何度も何度も天上の礼拝の様子が描かれていて、そこで賛美が捧げられ、その賛美の言葉や情景を私たちは学んできましたけれども、ここで最後にもう一度、礼拝の様子が、そして後半の方ではイエスキリストの来臨と、最終的な勝利に進んでいく様子というものが描かれていると考えられます。

1.大バビロン、悪の都の滅び

①天の大群集のハレルヤコーラス

前半の方ですが、「天上の礼拝」ということで、1節から10節までのところなんですけれども、1節、

その後、私は大群衆の大きな声のようなものが、天でこういうのを聞いた。

と、いうことで天の大群衆が、今までも何度か出てきましたけれども、またここで登場して賛美している声が、ここに出てきています。それで「ハレルヤ」と、まず出てきます。今日の箇所を読んだところで、皆さん気付いたと思うんですけれども、この最後の黙示録の天上の礼拝の賛美は、一言で言うとハレルヤコーラスだと言って良いと思います。

ハレルヤという言葉が3回出てきます。一節でハレルヤ、3節でもハレルヤ、4節でもハレルヤ、で6節でもハレルヤと、黙示録の讃美を見てきましたけども、実はハレルヤが出てくるのはここだけですね。今まではハレルヤという言葉は出てこなかったんですね。この最後の賛美では、ハレルヤコーラスになっているということで、今までの讃美も、とても喜びは大きかったと思うんですが、そしてそれは、まさに礼拝のための賛美だったわけですけれども、ここにきて本当に喜びが爆発した、大群衆が本当に喜んでいる様子、神の民、あるいは天使たち、24人の長老達、 四つの生き物、それぞれ入ってきますけれども本当に大きな喜びがそこで歌われているということがわかります。

まず最初のハレルヤのところですが、

ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。神の裁きは真実で正しいからである。神は淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。

この「ハレルヤ」が、どこから来ているかと言うと前の章からきてるということで、この大バビロン、大淫婦と呼ばれるこの悪の都が、完全に滅ぼされた。そして神様の正しい裁きがなされた。神様は本当に約束通りのかただ、真実な方だという、その喜びの叫びであるということがわかります。そして3節、

もう一度、彼らは言いました。「ハレルヤ。彼女が焼かれる煙は世々限りなく立ち上る」

また続いているということで、彼女というのは大淫婦を表していますけれども、その煙は世々立ち上るということで、消えることがないということですが、これは完全に滅ぼし尽くされたということを表しているんだと思います。主は最後に勝利してくださったということを喜んでいる、そういう歌だと考えられます。すると群衆たちの賛美から始まるんですけれども黙示録に何度も今まで出てきましたけれども、

24人の長老たちと四つの生き物たちがひれ伏して、御座についておられる神を礼拝して言った。「アーメン。ハレルヤ。」

ということで、24人の長老たちと四つの生き物たちの賛美がここに加わってくるということがわかります。その前の賛美に対応しているんですね。賛美に賛美が重なっていくという様子がここに描かれていると思います。

②御座からの声

そして5節、

また、御座から声が出て、こう言った。「神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。」

「御座から声が出て」というのは神様の声ではなく、またイエス様の声でもありません。なぜならば、「私たちの神を賛美せよ」と言っていますので、御使いなのかなという感じがしますけれども、いずれにせよ、神様がおられるその中心の場から声が聞こえて、さらに讃美を呼びかける声が聞こえてきます。小さいものも大きいものも神を恐れる者たちよ、私たちの神を賛美せよと言って、ここに「私達の神」と出てきますね。つまりみんなの神様ですね。ですから、この喜びを共有できる神の民の、そういう賛美であるということがわかります。

2.子羊の婚礼の時

6節、

また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。

①きよい亜麻布をまとう花嫁

「大群衆の声のような」とか、「大水のとどろきのような」とか、「激しい雷鳴のような」とか、とにかく極めて大きな声で 、

「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」

 

この4番目のハレルヤから少し内容が変わってきているなという印象です。最初の二つのハレルヤというのは、神様の正しい裁がなされたという喜びの賛美だということがわかりますが、4番目のハレルヤは、私たちの神である全能者が、王となられたというわけですね。王となってくださった。新しい時代がやってきた。そして今までの時代は完全に終わったんだ、これからは正しい時代が到来したんだということですね。そのことの喜びということが言えると思います。そして 7節

 

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。 

 

婚礼という言葉が出てきました。この婚礼という言葉がこの後、黙示録の21章にも出てくるし22章にも出てくる。最後の御国の完成、そして私たちがイエス様と出会うというその場面ですね、その場面があの結婚式のイメージで描かれているとがの黙示録の最後に出てくる ことです。これは旧約聖書からずっと一貫している一つのテーマでして、神様とイスラエルの民というのは結婚関係というイメージでずっと語られてきていたということを 旧約聖書 読んでいても気付かされるし新約聖書読んでいても 分かると思います。例えば一箇所だけ開きたいと思いますけど、 イザヤ書54章の6節7節8節を読んでみますが、

 

主はあなたを夫に捨てられた心に悲しみのある女と呼んだが、若い頃の妻をどうして見捨てられるだろうか。あなたの神は仰せられた。私はほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなる哀れみをもってあなたを集める。怒りが溢れて少しの間私は顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたを憐れむ。あなたを贖うかた主は言われる。

と、語られている言葉があります。この御言葉を通しても文脈の流れの中にあるんですけれどもこの御言葉を通して気付かされることは、神様とイスラエルの民の関係が夫婦の関係として 描かれているということですね。そしてそのイスラエルの民を、例えて言うならば、夫に捨てられた妻という立場で、心に悲しみのある女と、でも一度は見捨てたんですね。夫は、一度は見捨てたんですけれども、でもその見捨てた妻を、どうして見捨てられるだろうかと、見捨てておいて、でも見捨てられないという、この神様の複雑な思いというものがここに表されてるなあと思うんですね。神様は、義なる神様ですから、姦淫の罪を犯した妻を、そのまましておくことはできないんですね。一度は見捨てなくちゃいけない。でもほんの少しの間、見捨てたが多いなる哀れみをもってあなたを集めると約束してくださった。そして怒りが溢れて少しの間は怒っていましたけれども、でも永遠の真実の愛をもって、あなたを哀れむと、あなたを贖うかた、主は言われると予言されていたわけですね。その約束が成就してゆく。それがやっぱりイエス様によって成就されてゆく。一度は見捨てられてしまったけれども、でもやっぱり愛しているんです。 その真実の愛は変わらないんです。そしてなんとかイスラエルの子供たちを救いに導きたい という思いを持って、イエス様を地上に送ってくださった 。 そしてイエス様は十字架にかかって死んでくださった 。 やはり永遠の愛というものがそこに表されているんですね 。 そのようにして選ばれた私たちが 救いを頂いて そして 神の民として清められていくんだ ということが新約聖書のメッセージの中に繰り返し出てきています イエス様のたとえ話の中でも 終末の予言というのは 結婚式の例えで語られることが多かったです 花婿を待つ 花嫁の例え よく準備していなさいと 5人の愚かな娘と 5人の賢い娘の話とか みんなあれは結婚式の例えなんですが いつ 何時 花婿が 帰ってくるかわからないから ちゃんと用意して待っていなさ いというのは結婚式のイメージで語られていますがイエス様のたとえ話の中にもそのような メッセージが含まれています し、 エペソ書 5章26節 27節では、夫と妻の関係が、教会とキリストの関係である という例えの中で 、

キリストがそうされたのは、みことばにより水の洗いをもって教会を清めて聖なるものとするためであり、ご自分でシミやシワやそのようなものが何一つない聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 

とあります ここで描かれているのは 結婚式のイメージですね 花婿の前に私たち教会が清められて行くんだった そして本当にふさわしい花嫁となって いつか花婿の前に立たされられる 時が来るんだと言う それが一つの土台となって 妻と夫の関係が教えられているそういう聖書の箇所です ね そういう風にしてみると 実は婚礼のイメージというのは 旧約聖書から新約聖書に至るまでずっと 貫かれているそういうイメージであるということが見えてくると思います そして今日学んだ所に戻りますけれども 婚礼の時が来た というのは約束の 成就 ですね 今までずっと約束されていた決定的な結婚式の時がやってきたんだと そして花嫁は 用意ができたっていうことなんですね 今まで準備ができていなかった かつては姦淫の罪を犯して 捨てられていたような そういう花嫁だったと思いますが でも贖われて 許されて 清められて整えられて そしてやっと 用意ができたと 完全に清められた姿で 花婿のイエス様と 出会える お会いするついにその時がやってきた という決定的な瞬間でもあるし 神様の予言の情事でもある また計画の達成で もある と言えると思います そして、

花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。

ということで、真っ白い衣という言い方ではなくて、輝くきよい亜麻布 とあって きよさ だけではなくて輝いて いて 栄光の 衣を着せて 頂いているんですねなんと素晴らしい衣を着せて頂いたことでしょうか。でもその亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。 

ということですね 。亜麻布をまとうことが許されたとあってこれはやっぱり自分の努力で勝ち取ったものではなくて、まさに与えられた衣装であり、神様の恵みとして与えられた。 正しい行いもそのようにして主から与えられていくものであると考えることができます。

②御使いの預言

そして9 節、

御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。

子羊の結婚式に招待されている人達は何と幸いなことでしょうと言ったのと同時に、それをちゃんと書き留めなさい と言っているわけですね。これはやっぱり 聞き漏らして しまうことがないように、ちゃんと忘れないように、ちゃんと何度も何度でもそのことを確認できるように書いておきなさい、それだけ大事なことなんだよ、そういうことだと思うんですね。

幸いであるって言葉は 黙示録の中に 数回しか出てこないんですけれども 14章13節では、

主によって死ぬ死者は幸いです

という言葉があったんですね 。一見すると全然 幸 そう には 見えないような状況の中に、実は幸いがあるんだよっていうことが 、14章で教えられていました。 死ぬということは全然幸いなことではないんですが 、でも主にあって死ぬということは 、実は幸せなことなんだよ という御言葉 が14章っあったんですが 、ここでも幸いであると書かれています。

やっぱりこれは初代教会のクリスチャン達にとっては強調されなければいけないことだったんだろうなと思うんですね。 どうしてかと言うと、やはり とても厳しい状況の中で 迫害がありました。 初代教会の人たちは、ローマ帝国の中で 様々な迫害に耐えていた ということがあったと思うんですね。そして普通に幸せと言うんだったら、大バビロンにいた方が 幸せだったかもしれません。確かにそういう誘惑もたくさんあったんですね。神の民として厳しい道を選んで行くことが、どうして 幸い なんだろうと、そういう風に思えるような状況がたくさんあったと思うんです。

けれども、やはりこのことは書き留めなければいけない。 今は厳しいかもしれないけれどあなたたちは神の婚礼に招かれているんだ、それがどんなに幸いなことか、それがどんなに幸いなことなのか、 だから絶対忘れてはいけないというそういう思いで 、書き留めなさいと命じられたんだろうと思うんですね 。

ですから私たちも、この世の幸せとか、楽しみとか、たくさんありますけれども 、そんなものは、全然幸せでもなんでもなくて、本当の幸せっていうのは この婚礼に招かれているということの中に あるんだっていうことを忘れてはいけないということですね 。 

そして10節、

私は御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。」

御使いも、十分神々しく見えたようです。ヨハネは思わず礼拝しようとしたら、御使に「礼拝は神様にしなさい、私もあなたと同じ下僕に過ぎませんよ」と戒められています。 

ここまでが天における大合唱礼拝における賛美の様子です。

3.イエス・キリストの再臨

11節からはいよいよイエス様がやってきて、この勝利を進めていかれるという、そういう場面になって行きます。

①義をもって裁き、戦かわれるキリスト

11節、

また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。

ついに天が開かれたんですね。そしてそこから白い馬が出てきました。そしてそこに乗っている方が、いらっしゃったということですね。まるで白馬の王子さまであるかのような、そんなイメージかもしれませんけれども、でもこの白い馬に乗っていたのは誰でしょうか。「白」っていうのは「勝利の色」と考えたらいいかなと思いますね。この勝利者なるかたが、馬に乗ってやってきてくださったのだと言うことですが、これはイエス様のこと、キリストのことを表しているということが、読んでいると分かるんですけれども、ここではあえてキリストという名前は出てこないんですね。違う名前でこの方のことが紹介されているということがわかります。

三つぐらいの名前で紹介されております。

最初は11節に、「確かで真実なかた」とあります。「確か」っていうのは、ここに星印がついていて、それは「信頼できる」って言う意味だということが脚注欄外に書かれていますけれども、この方は真実な方です、信頼できる方です、確かな方です、確実な方ですということですね。

これはもう旧約聖書の時代から新約聖書の時代に至るまで、神様の御言葉、予言、約束がたくさん出されてきました。

そして裁きもなされることが約束されていたのに、なかなかその時が来なくて、まだか?まだかってみんな待っていたんですね。本当に約束通りなるんだろうかと疑う人もたくさんいたかもしれませんけれども、そうじゃない、本当にその通りになったということですね。

まさに真実な方、信頼できる方、約束したことは必ず成し遂げてくださる方、イエス様は、まさにそういう方であるということが分かると思います。

義をもってさばき、戦いをされる。12節、

その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。

ここで、「目は燃える炎のようである」というのは、全てのことを見通すことができる目であるという意味です。そして一つの王冠ではなくて、たくさんの王冠をかぶっていて、そこには誰も知らない名が記されていたとあります。つまり、この世の私たちには、とても表現し尽くせない、偉大さ、素晴らしさ、そして権威、権力というものが 、この方にあったということ、そして全ての国々を支配し治めておられる方だということが分かると思います。

もうひとつの名前は「神の言葉」ですね。13節、

その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。

「はじめに言葉があった」、というのはヨハネの福音書の書き出しの言葉ですが、イエス様は「言葉」である、ということが語られていました。「血に染まった衣をまとい」というのは、イエス様の十字架をあらわしていると思われます。

②御言葉のつるぎ・・・激しい怒り

その一方で14節では、

天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。

ということで、この王なる方、真実なる方、神の言葉と呼ばれる方に、たくさんの軍勢が付き従っていたと、天の軍勢というものの姿というのがここに描かれております。そして、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた

つまり、この口から「御言葉の剣」というのが出ていたんですね。そして、

鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である

また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

収穫された、刈り取りをされたぶどうを集めて、樽の中で踏んでぶどう酒を作る場面が、黙示録の中に今までも出てきたんですけれども、これは裁きのことを表しているんですが、裁き主である方なのだということがここにも出てきています。

そして16節には

その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。

とあって、この方は、王の中の王である、主の中の主であるということが表現されています。ハレルヤコーラスの中に、「キング・オブ・キングス」「ロード・オブ・ローズ」と歌う場面があると思いますが、それがイエス様のお名前だということですね。

このようにしてイエス様は、かつて、ベツレヘムの馬小屋の中で赤ちゃんとして、きてくださった、人となって、仕えるものの姿を取って、きてくださったそのイエス様が、今度いらっしゃる時は、どんな格好でやって来られるかということがここに書かれてるわけです。まさにこれは、王の中の王、主の中の主、そういう偉大な姿、そして天の軍勢を引き連れて現れるという、そういう再臨の場面がここに描かれているわけです。その子を私達は待ち望んでいるんだということを覚えたいと思います。

そして最後の場面は、非常に酷いと言いますか、厳しい描写になっています。 

子羊の宴会に招かれた人たちは 、婚礼の宴会、大宴会に招かれて非常に素晴らしい祝福の中に預かるんですが、こちらのほうは 、17節に、「神の大宴会に集まれ」と出てくるんですが、この大宴会というのは、「鳥たちの宴会」と言ったらいいでしょうか、非常に残酷な姿が描かれております。

4.反逆者達への裁き

①鳥の宴会

17節、

また私は、一人の御使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛んでいるすべての鳥たちに言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ。」

当時、ハゲタカが肉に食らいついている光景が見られたんだろうと思いますが、御言葉に聞き従わなかった者たち、神に従わなかった者たちに対する裁きの様子というものが、ここに描かれていると考えられます。

②獣の刻印を受けた者達は生きたまま、火の池に投げ込まれた

そして19節、

また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た。

また獣が出てきました。そして獣に引き連れられる王達の軍勢が集められて、最後の戦いに挑むという場面が、今までもあったんですが、その光景がもう一度出てくるんですね。

最後に天の軍勢に戦いを挑むんですけれども、あっけなく敗北して行くんですね。20節、21節、

しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。残りの者たちは、馬に乗っている方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が彼らの肉を飽きるほど食べた。

想像すると、見るに耐えないむごたらしい光景かなと思いますが、それは裁きの恐ろしさということですね。獣が滅ぼされるし、そしてその獣の刻印を受けた者たちですね、獣の影響を受けてしまった人たち、つまり額に666という数字を打ち込まれてしまった場面がありましたが、獣を礼拝する人達ですよね。そういう人たちにの最後というものが、どんなに厳しいものであるかということが、ここに示されています。そして惑わした偽預言者も、ここで滅ぼされるということで、生きたまま硫黄の燃える池に投げ込まれる、そして地に残された者が、鳥に食いちぎられてしまうという、そういう神の裁きの恐ろしさということが、リアルに、生々しく描かれている場面かなと思います。

5.まとめ

やっぱりこのことを私たちは忘れてはいけない。最後にそういう結果が待っているんだということを忘れてはいけないんだろうなと思います。

これで獣と、偽預言者は滅ぼされました。あと一人残っているのが竜ですね。つまりサタンが残っているんですね。そのサタンの滅びということが20章に出てきます。それで全て滅ぼされて、最後、新天新地が完成するという、そういう展開になっているということが分かると思います。

私たちは、今の時代を歩みながらも、やがてこういう時がやってくるんだということを、ちゃんと意識しながら、この日に続いていくんだということを、私たちは忘れないで、この日に向かって待ち望むっていうことが大切ですし、本当に結婚式にちゃんと参列できるように、招かれている者として本当に良い行いを、主から与えて頂いて、清められて、のちの日には栄光の輝く衣を着せて頂いて、そしてこの結婚式に喜びを持って参列するものでありたいなと思います。 

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