聖書とコロナウイルス
先日、安倍首相より2週間を目度として人の多く集まる集会は極力避けるようにとの要請がありましたが、その期間を過ぎてもなを感染者は増え続けて居ます。
私たちの教会も、礼拝を2回に分けて、できるだけ座席の距離を離して座ることにしました。中には礼拝そのものを中止した教会もあると聞いています。今回だけ、このような対策で済むのなら良いのですが、今後あとどのくらいの期間、このような状態が続くのかといった、先行きがわからない不安な状況にあります。
1.感染者の増加
①パンデミックの恐怖
既に今年の1月の時点で 、WHO が世界に緊急事態を宣言したのですが、その時点ではまだ実感がわかず他人ごとのように思っていました。しかし今、中国に始まり韓国、日本と感染者が増え続け、想像を超えた広がりをみせています。ひょっとすると14世紀にヨーロッパで流行し、2万人が亡くなったペストのような状況が世界中に再現されるのではないかと懸念したりもします。その時は当時のヨーロッパの人口の半分くらいが亡くなったと言われています。
実際、今もなお感染者の増加が絶えず発表され続けているうえに、多くの人は検査待ちの状態や検査結果を待ってる人々もいますから、症状のない感染者も合わせると、さらに増え続けることも考えられます。
さらに問題なのは、検査を受けて陰性と診断されたのに、2回目には陽性反応が出てしまうケースも少なからずあるようです。つまり陰性の間はひたすら歩き回っていたということになるのではないでしょうか。また陽性反応が出て治療を受けてやっと退院しても、再度発症する事例も起きているようです。 中国で感染が始まった頃の事例では、20代の女性が、20日程度の潜伏期間中に何の症状も現れなかったのに、その後、5人の家族が陽性となり、さらに多くの人に感染させたと言います。ですから隔離期間は14日あれば大丈夫だと言われていたのですが怪しくなってきました。
新型肺炎の治療がパンデミックを起こした場合、軽症の時は家に居ることができるとしても、もっと重症になるとそこから病院に行っても受け入れてもらえず、治療も難しくなり、その頃には既に肺などの臓器が破損した状態になってしまうということも予想されます。
②経済不安
それに加えて世界中に広まっている経済不安の問題があります。世界最大の生産国である中国の経済が麻痺して、世界中の経済が打撃を受けています。工業製品、生活必需品、食料品が全て値上がりして、株式市場はパンデミック恐怖によって急落しているそうです。
杞憂かもしれませんが、正体不明の恐怖にさらされて収入の道が閉ざされた場合、食料価格の上昇が懸念されます。パニックに陥った人々は食料確保に血眼になるかもしれません。このような状況があとどれくらいの期間続くでしょうか?一か月でしょうか?それとも一年?最近のテレビ報道では、収束までは今年いっぱいかかるとも報道されるようになりました。
③バッタの群れ
Yahoo newsによれば、それに追い討ちをかけるかのように、インドからの数千億匹のバッタの群れが、中国に向かって飛んできているそうです。現在パキスタンのような中東諸国では、ウイルスが問題ではなく、このバッタの群れが大きな災害となっているようです。なにやら旧約聖書の出エジプト記で描かれているシーンを彷彿とさせてくれます。
このバッタの群れは2月に発生したのですが、気候が暖かくなれば繁殖力がより強力になると言われているので、今後どれほどたくさん増えるか全く予想もつきません。日本はほとんどの食料品を輸入しているのですが、この輸入がウイルスのせいで妨げられた場合、約1ヶ月後には武漢のように食料価格が数倍に上昇することだってありえそうです。ですから、コロナウイルス自体が、無事収集したとしても、バッタの群れによって食料品の価格が急騰することもあります。
去年から燃え続けているオーストラリアの山火事と、地球温暖化による気候の問題や、今のような感染症流行、バッタの群れによる全世界的な危険。そうなると必然的に世界的な経済破綻が起こり、またこのタイミングで、もし日本に地震が追い打ちをかけるように起こったら、どんなことになるでしょうか。
2.聖書の警告
危機をあおるような事を書き連ねましたが、ふと、新約聖書黙示録の「獣の刻印」の艱難時代を思い描かざるをえません。この事態が収集されず引き続き発展していって、そして最後の時代の、イエス・キリストの再臨までつながっていくのではあるまいかと・・・・。
仮に今回は神様の恵みでどうにか収拾がついて乗り越えたとしても、黙示録を読む限り今回のような災害は必ずまた襲って来ることになります。そして次にやって来る時は、今よりはるかに重大な危機が迫ってくるでしょう。
聖書によれば、今私たちが住んでいるこの世界は、決して永遠に続くわけではないことが分かります。聖書はこの地球の終末の時、人類歴史に終わりが来ることを明らかに宣言しているからです。またその時に何が起こるかについても詳しく書かれています。いま世界で繰り広げられていることは、イエス様の再臨と切り離して考えるわけにわ、いかないと思われます。
①死への備え
私たちは一体何をどう対処したらよいのでしょうか。
人々がコロナ・ウイルスを恐れているのは、死ぬことを恐れているからです。私たちは、死に備えなければなりません。死というのは、老若男女問わず、誰もが避けられないことです
聖書には、以下のような記述があります。
聖書は聖徒の死を祝福だと言っています。聖徒たちの死は、主の目には貴重なことなのです。なぜでしょうか?
イエス様が地上におられたとき、一度、葬儀に出席されたことがありました。その葬儀の時の説教でこのような御言葉を言われました。
死は自分一人で迎えなければならないものであり、恐ろしいはずのものです。
ところがイエス様は、復活であり命であり、イエス様を信じる者は死んでも再び生きると断言しているのです。死は終わりではなく、新たな始まりだというのです。
だとすれば、死の準備と、イエス・キリストを信じることとは、極めて密接な関係があるように思われます。
人は死が近づくと、残される妻子たちに対する心配ではなく、神様の存在に対する恐怖だそうです。
聖書によれば、死後は自分を創造された絶対的存在者の前に立たなければならないことを教えています。それまでは世間的に成功し、何でもすることができるかのように振舞って生きてきたとしても、最終的に自分の死の前に立った人間は、恐怖を持ったまま神様の存在を考えて目を閉じることになります。
ですから生きているときに、神様の存在に想いを致すことは、人間らしく生きることの延長線上にあると思うのです。
②神様を認めるとは?
さて、ここでもう一度考えてみましょう。神様を認めるとは一体どういうことでしょうか?
普通私たちが何かをする時、自分の良心に照らして、こんな言い訳をすることがあります。
「これぐらいはいいだろう」、「ほとんどの人がやってるから」、「これぐらいの過ちは見逃してもらえるだろう」など、当り前に自分の行動を正当化します。
今、医療の現場でマスク不足が叫ばれているのですが、ある県会議員が医療用マスクを高額でネットオークションにかけてヒンシュクをかいました。確かにその時の法律には違反していません。
ところが、神の目には見逃しがありません。神は聖なる方、きよい方、罪を徹底的に憎む方、そのわずかな罪をも見逃すことがありません。
「神」とはそのような方であり、逆に相対的で曖昧な存在ならば、「神」とは言い難いです。
この神の絶対的基準からすれば、人はだれ一人、この世に存在できません。
キリスト教を好意的にみる方でも、クリスチャンになるということは、自分で努力し、罪を犯さないように修行して、そして一生懸命掟を守って、頑張って、 ついに罪を犯さないようなそういう人間になって初めて、クリスチャンになれると考える人がいます。
しかし、そんな日は永久に来ません。「正しく清い人になろう」と頑張れば頑張るほど、無理だということがわかるはずです。人間は自分で自分を救うことはできません。
だから、私たちの身代わりとなって罪の償いをしてくださる方、イエス・キリストが、私たちをご自分の完璧な生涯で贖ってくださるので、私たちは神の前に立つことができるのです。
その人が 立派だったわけではありません。キリストを信じたのです。
神の存在を意識せずに生きてきたことを悔い改め、キリストが、まさにこの自分のために贖いの死を遂げてくださったことを信じたのです。
③へりくだった魂
黙示録4章10節11節、
「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方、あなたが万物を創造されました。み心のゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」
「世々限りなく生きておられる方を、礼拝した」って書いてあるんですが、天では、神を礼拝しているんですね。
「昇天のキリスト」という像があります。トール・バルトソンという作家がイエス・キリストが、オリーブ山から、昇天する場面を描いたものです。
それを実際に見た人は、大したことがないなといって、失望するらしいのです。
ところが「昇天のキリスト」なので、作者は、人が、下から見上げた時に一番魅力的になるように造っているのです。
ですからキリストと同じ目線に立ってる時には、「なーんだ」ということになるそうです。
でも、その像の前で、跪いて、下から見上げると、何とも言えない神々しさを感じるそうです。 すなわち、へりくだる人にだけ、見えてくる神の新しい発見があるのだそうです。
これと同じように、教会で礼拝するときにだけ気づく事があるんです。
神は教会を通して、へりくだった魂に働かれる方なのです。
自己充足されている神は、人間に礼拝されなかったからと言って困るわけではありません。礼拝すらも、神が人に、神の偉大さや恵を人に知らしめるために与えて下さった機会なのです。
先ほど読んだ、3章の11節の後半、
あなたが万物を創造されました。み心のゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。
この「み心のゆえに」存在しているものの中には、御心に反している悪者もいるんです。御心にかなうもの以外は存在できないと言うのだったら、この瞬間に全員消滅します。
あからさまな悪意や、独裁者や、恐るべき力があるんですが、それらをみこころのゆえに、ある期間、存在させています。
私たち人間は、近視眼的にしか事象を捉えることができません。
「神様が正しかったら、どうしてこんなことが起こるんだ」と呟きがちです。
しかし、天に召されたときに、なぜそうだったのかという舞台裏が全部明かになるのです。その時に神様の賢さが改めて分かって、「礼拝」が途切れません。神に対する讃美が途切れません。あれも、これも、全部意味があって間違いがなかったんだと気付かされます。
神様はそこに行く資格を与えるために、イエス・キリストを遣わして下さったのです。