イエス・キリストをより良く知るために

心からの礼拝・・・・ レビ記10章16-20節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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聖書によりますと私たちは皆創造主なる神様によって造られたと書いてあります。被造物です。ですから、造られた私たちは造り主なる神様を求める心をみんな持っています。そしてその神様と出会うまでは本当に心から満たされることがないんだと思います。ですから私たちは礼拝してるとき神様を神様として崇めている時が一番、人間らしい と言えるかもしれませんね。

ところが聖書によりますと、私たちは神を神として崇めなくなってしまったところから、人間の堕落が始まったんだということがローマ人への手紙1章を見てみると出てきます。神を神として崇める事をしなくなったその結果、思いは虚しくなり、心は鈍くなり、知性は暗くなり、そして段々欲望のままに生きるようになってしまった。神を礼拝する道が断たれてしまった。そういうことが聖書の中に教えられております。

でも神様は私たちのことを諦めなかったんですね。私たちと生きた交わりを持ちたいと願っておられる。それでどうすればもう一度私たちが神を礼拝する者になるか?そのようにしてなおも私たちのことを愛してくださり導いてくださり、御言葉を通してもう一度私たちを礼拝する者にしてくださる。そういう恵みに生かされていることを、私たちは経験してきたんじゃないかなと思います。

1.どうすれば、私たちは真実の神様に出会うことができるのか?

今私たちが読み進めているレビ記という書物は、クリスチャンでも難しく感じられるような、当時の時代背景、時代状況の中で書かれている文章ですので、こんにちに生きる私たちには、ちょっとピンと来ないようなところもたくさんあるんです。でも、レビ記は、聖書の中でも礼拝について豊かに教えられている箇所であります。

どうすれば、私たちは真実の神様に出会うことができるのか?どうすれば神様と生きた交わりができるのか?その方法と、その心構えについて教えられているそういう書物です。

ですから今日の私たちも、そのことがはっきりと語られているメッセージであるということを受け止めながら、レビ記を読み進めていきたいというふうに思います。

前回はレビ記の10章の前半部分を皆さんとともに味わいました。ちょっとだけ復習しますと、モーセのお兄さんのアロンと、アロンの息子たちが、イスラエルの礼拝を導く祭司として任職されたということがありました。祭司というのは、神と人との前に立って、イスラエルの民を神様のもとに導く、礼拝を導く、とても大切な勤めですね。その勤めにアロンとアロンの子供達、息子たちが任じられたという、そういう任職式が行われたというところから始まります。

ところがその任職式が終わったまもなく、事件が発生してしまって、アロンの二人の息子のナダブとアビフという二人の息子が神様の怒りに触れて命を絶たれてしまうという、 悲しい痛ましい事件が起きた。それが10章の最初に出てきますね。その原因としては、主が彼らに命じたものではない、異なる火を、主の前に捧げたということが一節で指摘されております。

礼拝している、信仰的に見えるその振る舞いの影に、神様に対する不従順が隠されていたということですね。それで二人の命が絶たれて、そしてその結果アロン、つまりお父さんは黙っていたとあります。アロンも沈黙を強いられた。口答えすることができなかった。色んな思いがあったと思いますね。でも口答えすることはできなかった。

それはアロンが神の聖さに触れる、そういう経験であったということであります。そこの箇所を前回学びました。

2.神の選びは絶対です。

今日の聖書の箇所になるのですが、アロンは大失敗をしたと言ってもいいと思います。祭司として任職されたばかりの時に、大変な大失敗をしてしまったアロンですけれども、でも神様は、なおもアロンとアロンの家族を祭司として用いよういとされているということが聖書を読み進めていくとわかることであります。10章の8節を見ますと、「主はアロンにこう告げられた」と言って、神様の言葉がアロンに告げられるんですが、そしてこれを読んでいくと、さらに礼拝のために、これこれに気をつけなさい、こういう事に注意しながら祭司としての務めを果たしなさいと、そういう命令が出てくるんです。

これを読むと神様は、なおもアロンとアロンの子供たちに期待しているんだな、なおも祭祀として用いようとされているんだなということに気づかされます。そこに神様の憐れみというものを私たちは感じさせられるんではないでないかなと思います。

この世では、何か大失敗をした時には、だいたい首を切られてしまうか、部署を変えられてしまうか、もうやめてくださいと言われてしまうか、期待されなくなるか、そういう結果になってしまう事が多いんじゃないかなと思います。

そのような大失敗をした後でもなおも忍耐強く私たちのことを期待して受け止めて育ててくれるような会社であったら、本当にありがたいと思うんですが、なかなかそうはいきません。

でも神様という方は、選んだら、もうその選びは絶対です。私たちはよく失敗をします。つまずきます。罪を犯します。そのたんびに後悔をして、自分自身を責めたりしますけれども、でも主の選びは変わらないんですね。そしてなおも私たちを忍耐深く待ちつづけ、 期待し続け、育て続け、用いようとされる神様がおられるということに気付かされる時に、私たちはこの方に応えていきたいという、そういう願いが生まれてくるんじゃないかなと思います。そのようにして神様の選びと、召は変わらないということを、私たちはここで教えられると思います。

そのように主はアロに語りかけてくださったという場面が、8節、9節、10節、11節と続きます。

3.モーセの叱責とアロンの真意

そしてその続きとして、今度はモーセが、アロンと、もう二人の残っていた息子たちに命令をするという場面が12節13節14節15と続いていくんですね。12節、13節、

モーセは、アロンと、残った彼の息子、エルアザルとイタマルに言った。『主への食物の捧げもののうちから穀物の捧げものの残りを取り、種無しパンとして祭壇のそばで食べなさい。それは最も聖なるものだからである。それを聖なるところで食べなさい。それは主への食物の捧げもののうちから、あなたがたが受ける割り当てであり、あなたの子らの割り当てである。そのように私は命じられている。

と続いていくんですけれども、ここで「気をつけなさいよ」と、モーセはアロンとアロンの子供たちに命じていることは、一度神様の命令として与えられていた内容なんですけれども、一度与えられていた命令を、繰り返しています。モーセにしてみれば、念には念をという感じであったんだろうと思います。一度大変な失敗をしてしまっているアロンとアロンの子供達ですから、同じ失敗を繰り返しちゃいけないんだよ、神様が命じられた通りにちゃんとしなさいよという、そういう気持ちが込められている言葉じゃないかなと思います。そのようにしてモーセは、アロンとアロンの子供たちに改めて命令を与えているわけです。

その後、なんとまた事件が発生してしまうというのが今日のお話の展開になっております。

16節を読んでみますと、

モーセは罪のきよめの捧げものの雄やぎを懸命に探した。しかしなんと、それは焼かれてしまっていた。

モーセはおそらくアローとアロンの子供たちのために、きよめが必要だと思ったんだと思いますね。それで罪のきよめのいけにえを捧げるために、雄やぎを探した、懸命に探したと書いてあります。一生懸命探したんですね。それはどうしてもしなければいけないことだったのです。ところが探しても探しても見つからない。おかしいなと思ったらなんと、「なんと」と書いてありますね。16節、それは何と焼かれてしまっていたとあります。この「なんと」という言葉にモーセの驚きが込められているんじゃないかなと思うんですね。本来その生贄は、ちゃんと決められた通りに、神様の前に捧げられなければならないものでした。それは会衆の咎を、彼らのために、なだめを行うものであり、それは焼かれた後で、聖所で祭司たちが食べるという、そういう規定があったんですね。罪のための生贄を捧げる祭司は、その生贄の動物の一部を食べ、残りは焼かなければならなかった(6章24-30節)。その規定通りにしなければならないそういうものだったのに、その規定に従わずに、つまり規定通りに「食べずに」、もう焼いてしまっていた。その事実を知った時のモーセの衝撃というのは、本当に相当なものだったんだと思います。

もう不満と怒りが爆発してしまうそういう展開だったと思います。

それでモーセは、17節でアロンを問い詰めます。アロンの子で残っているエルアザルとイタマルに向かって怒って言ったと書いてありますね。17節、

どうして、あなたがたはその罪の清めの捧げものを聖なるところで食べなかったのか。それは最も聖なるものだ。それは会衆の咎を負い、主の前で彼らのためになだめを行うためにあなたがたに与えられたものだ。見よ、その血は聖所の中に携え入れられなかった。あなた方は私が命じたように、それを聖所で食べるべきであったのだ。

この最後の、「私が命じたようにこの聖所で食べるべきだったのだ」という言葉に、モーセの怒りが込められているのを感じるんではないでしょうか。それはモーセが命じたとおりに、聖所の中で食べられるべきものだったのだ、それをどうしてしないのか?ちょっと前に失敗したばかりじゃないか。神様の御言葉に従わずに自分勝手にやってしまったその結果、大変な結果を招いてしまったんじゃないか。なぜそのような失敗をした後なのにの失敗から学ばないで、同じことを繰り返すのか?という、モーセの憤りの気持ちがこの言葉に込められているのを私たちは感じるんじゃないでしょうか。

それに対してアロンが答えた言葉に、今日は私たちは注目していきたいなと思っております。19節でアロンは言いました。

アロンはモーセに言った。『見なさい。今日、彼らは自分たちの罪のきよめの捧げものと全焼の捧げものを主の前に捧げたが、このような事が私の身に降りかかったのだ。今日、 私が罪のきよめのささげものを食べていたら、そのことは主の前に良しとされただろうか。』

つまりアロンはナダブとアビフが間違った捧げものをしたために殺されたので、エルアザルとイタマルはそれを、「食べること」は適切ではないと感じたのだと説明したのです。

皆さん、このアロンの言葉を読んでみて、どんなことを感じるでしょうか。

いろんなことを感じる言葉かなと思いますけれども、まず第1に、アロンの深い悲しみというものを感じさせられる言葉ではないかなと思います。

「見なさい。今日、彼らは自分たちの罪のきよめの捧げものと全焼の捧げものを主の前に捧げたが、このようなことが私の身に降りかかったのだ。」

この、「このようなことが私にの身に降りかかったのだ」という、この表現にアロンのその時の悲しみが、本当に深い深い悲しみが込められているという事を感じます。

「このようなこと」というのは、もちろんアロンの二人の息子が神の怒りに触れて、命を絶たれてしまったという経験ですけれども、そのことが私の身に降りかかったという風にな言い方をしております。神の裁きを受けて生命絶たれたのは、アロンではなくて、アロンのあの二人の息子たちだったんですけれどもでも、でもそれは他人事ではないですねもちろん。アロンはその二人の息子たちの父親です。そして自分が死んではいないけれども、殺されてはいないけれどもでも、やっぱり自分も神に裁かれている、自分も同罪である、そういう意識があるんではないでしょうか。ですから アロン はここで本当に深く深く悲しんでいる、そういうことを感じさせられる言葉だなという風に思います。

でも、もう一つ感じることがあります。それは、そのような罪人としての自分を意識してしながらも、その上で形だけは礼拝して、果たして神様に喜んでもらえるであろうかという、そういう問いかけがここに発せられていることに私たちは気づかされる。

今日、私が罪の捧げものを食べていたら、あなたが命じるように、もしそのように決められた通りにしていたならば、本当にそのことで私は主の目に良しとされるんだろうか?自分の罪の現実というものを知らされながら、その上で礼拝行為だけしていれば、言われた通りにしていれば、本当にそれで御心にかなうんだろうか?それで神様は喜んでくださるのだろうか?という、そういう問いかけですよね。

モーセとアロンの意見がここで食い違っているということに気づかされます。

モーセは神の命令に従って定められた通りにして欲しいんですね。

ところがアロンの中には 、罪を思い知らされても、単なる形式的な礼拝行為では満足できないものを抱えているんです。そんなことで自分の罪を曖昧にしたくないという、そういう思いがあるんです。もっと根本的な解決が欲しいんです。もっと深いところで神様と出会いたいんです。そういう深いアロンの思いっていうものがここに表されているんではないでしょうか。

4.信仰の欠けを意識した時に取り繕う振る舞い

私たちは自らの不十分な信仰であったり、信仰の足りない面を意識したりする時に、何かそのような信仰の欠けを、信仰的に見える行いや振る舞いによって、取り繕ったり、覆い隠したり、カモフラージュしたりしてしまいたくなるような、そんな誘惑にさらされているんじゃないかなという風に思います。

ちょうど先日、創世記19章を祈り会で学んだんですけれども、その時にロトの信仰から学びました。ロトというアブラハムの甥っこになりますけれども、ロトとロトの家族はその時にソドムという町に住んでいました。ソドムという街は、不道徳が街中に満ちている、そしてすぐに神様に滅ぼされてしまう街なんですけれども、その街の中に住んでいて、そして信仰者でありながらこの世と妥協して生きている、そういう歩みがありました。

そこに、なんと神の御使いが二人訪ねてくるというそういうことがあった。それでロトはその二人を何とかもてなそうと思って、歓迎しようと思って、一生懸命お料理をしたり、もてなしをしようと振る舞うんですね。でもそれは心からの信仰ではなくて、どこかこの世と妥協して生きてしまっている自分の中途半端な信仰を取り繕うために、覆い隠すために、そういう信仰的な振る舞いに頼らざるを得ないという、そういうロトの信仰の一つの表れであるというふうに考えられます。そしてその後、街の人たちが押しかけてくるんですよね。そしてソドムの男たちがみんな集まってきてですね、その二人の客を差し出せと、もし差し出さなければお前を酷い目にあわせるというような脅しを受けた時に、アロンはとんでもないことを提案するんですね。自分に二人の娘がいるんですけれども、その二人の娘を差し出して、この娘を好きなようにしてくださいって、そういう風に提案をする。お客さんをもてなすのは素晴らしいことかもしれない。そして聖書にもそう書いてあります。とりわけそのお客さんが神の御使いであった場合には、本当にそれは心からおもてなしをしなければならない。でもそのために 自分の大事な家族を犠牲にしてまでも、そのような信仰的な形に、こだわらざるを得ないアロンのその姿というものは、見ていて痛々しささえ感じさせられる、そういう姿ではないだろうかなという風に思うんですね。

でも私たちも気をつけていないとそういう信仰になってしまいやすいので注意が必要なんだなあというふうに思います。何か信仰の欠けを意識した時に、不十分さを自分の中に意識した時に、それを覆い隠すために、穴埋めをするために、何か信仰的な行いに走らざるを得ないという、そういう誘惑にいつも晒されているんじゃないかなと思うんですよね。

日々生きた神様との交わりに生かされていれば、礼拝は本当に喜びの礼拝になると思うんです。

本当に日々主と交わりがあって、御言葉に生かされているならば、礼拝に来て本当に心から主を賛美できると思います。ところが月曜日から土曜日の間、神様と共に歩む時間がなく、神様と語り合うような時もなく、そういう状態で礼拝に来る時には、礼拝に来ることによって自分の信仰者としてのバランスを取ろうという、何かそういう思いが働いてしまうことがあるかもしれません。神様が求めていらっしゃるのはそういう礼拝ではないですよね。神様が私たちに求めているおられるのは、そういう信仰生活ではないんです。神様が私たちに求められているのは、私たちの砕かれた礼拝、打たれ砕かれた心である。私達は本当に聖なる神様の前に出会う、神様と出会う、そして罪を示される、そしてそこで砕かれる、許される、恵みによって生かされる、私たちの神様は生きている神様です。そして生きてる神様は私たちとの生きた交わりを求めておられる。私たちの心からの礼拝を求められておられるということを、ぜひ覚えるものでありたいと思います。

アロンは本当に自分の罪の現実を知らされて、本当に悲しかったと思いますけれども、でもその中にあって、本当に深いところで神様と出会いたい、何か表面的な信仰の形によって自分の罪を曖昧にするのではなくて、本当に主と出会いたいという願いを持っていたんではないでしょうか。

その言葉を聞いてモーセはそれでよしとした。モーセもそのことを受け止めた、わかった、そういう展開になっていったということがここで示されていることであります。

5.神のみこころに沿った悲しみ

第二コリントの7章10節に、こういう御言葉があります。

神のみこころに沿った悲しみ は、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

そういう言葉がパウロの言葉として書かれています。これを読むと、この世には二つの悲しみがあるのだということに気づかされます。一つの悲しみは、「世の悲しみ」。世の悲しみは死につながる悲しみですね。死をもたらす悲しみ。でも、もうひとつの悲しみがあるんだよということを聖書は私たちに教えています。

それは神のみこころに沿った悲しみだということです。その悲しみっていうのは、どんな悲しみなのでしょうか。それは命に繋がっていく悲しみであるということです。それは後悔のない救いに至る悔い改めを 生じさせる悲しみであるということを聖書は教えています。

パウロはコリントの教会に手紙を書きました。

コリントの教会っていうのは大変な問題を抱えている教会でした。教会なのに、教会の中に不道徳がはびこっていたという、そういう教会だったそうです。それでパウロは手紙を書くんですね。その手紙の内容というのは、その教会の罪を告発したり、叱責したりする手紙だった。そういう内容を含む手紙で、それが第一コリントの手紙だという風に言われております。

その手紙を送ったんですけれども、コリントの教会が手紙を読んだ時に、コリントの教会の人たちは反発したとふうに言われていますね。そのメッセージが伝わらなかったんです。そしてパウロに対して不満、怒りがそこから出てきて、いろんなことを言う人がいたそうですね。教会の中で、「パウロの手紙は重みがあるが、実際に会ってみると、弱々しくてその言葉は大したことがない」なんていう風な、そういう批判をする人いたということが聖書に書いてあります。

そこでパウロはその手紙が全く通じなかったということを受けて、2番目の手紙を書くのです。この2番目の手紙は残されていません。でもその手紙をパウロは涙とともに書いたと書いていますね。涙を流しながらその手紙を書いた、そしてその手紙をコリントの教会に送りました。その手紙がその人たちにどのように受け止められただろうか、パウロは心配で心配で本当に安らぎがなかったと聖書に書かれてあるんですけれども、でも弟子のテトスが帰ってきました。そのコリントに遣わされた弟子のテトスが帰ってきた、そして帰ってきた時に、本当に喜びにのお知らせを持ってきた。何とコリントの教会の人たちがその手紙を読んで悔い改めた、そういう知らせを持ってきたんですね。それでパウロは本当に慰められて、それで手紙を書いた。それが第二コリントの手紙なんですね。私たちが第2コリントの手紙として知っている手紙が、実は3番目の手紙だったんじゃないかという風に言われております。そしてその中でパウロはこういう風に言うんですね。7章の8節で、

あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなた方を悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみ心に沿って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。

そして10節、

神のみ心に沿った悲しみは、後悔のない救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

こういうパウロと、コリントの教会の人との手紙のやり取りを通して語られているのが、この聖書の言葉であります。

6.まとめ

私たちは神の御心に沿った悲しみがあるということを、今日是非覚えたいなという風に思います。それは私たちの罪を示される悲しみです。罪人である自分の姿が見えたら、誰でも悲しいです。でもその悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせる、命に繋がっていく悲しみであるということですね。

私たちの人生は振り返ってみると後悔だらけかもしれません。本当にあの時、ああしていればよかった、こうしていればよかった、そして自分を責めたり、人を責めたり、まあそういうことの連続かもしれません。ですけれども、でもそこで立ち止まって、そしてそこで悲しみを味わいながら、その悲しみは実は救いにつながっているということを思い出すことができたなら、それは恵みに変えられて行くんじゃないでしょうか。

そのような私たちであるにも関わらず、招いておられる主がいるということを知っているならば、私達は安心して心を注ぎ出して、主に祈ることができるんではないでしょうか。安心して主のみもとに近づくことができるんではないでしょうか。そのような心を注ぎだして、許されて、神の恵みに生かされる、そのような恵みに生きるものと変えられていくんではないでしょうか。主がわたしたちを招いてくださっているということを、ぜひ覚えるものでありたいという風に思います。そして本当に心を注ぎ出して、主に告白し、主に祈り、そして自らを主にお捧げして主の愛に応えてゆくものとなろうではありませんか。

 

お祈りをしたいと思います。

恵み深き私たちの父なる神様。罪に汚れた私たちであるにもかかわらず、あなたの選びと、召しは変わりませんから、感謝いたします。そのような私たちをなおも許して、用いようとされるあなたの恵みを覚えてありがとうございます。どうぞあなたに教えられた通りに、私たちが歩むことができるように、み言葉によって、み霊によって私たちを内側から作り変えてくださいますようにお願い致します。御言葉を心から感謝して、イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします 。

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