イエス・キリストをより良く知るために

しかし主は、その聖なる宮におられる

 
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

ハバクク書2章9~20節

  わざわいだ。
  自分の家のために不正な利得を貪り、
  悪の力から逃れるために、
  自分の巣を高い所に構える者。
  おまえは自分の家のために恥ずべきことを謀り、
  多くの国の民を滅ぼした。
  おまえのたましいは罪を犯した。
  まことに、石は石垣から叫び、
  梁は家からこれに答える。

  わざわいだ。
  血によって町を建て、
  不正で都を築き上げる者。
  見よ、万軍の主によるのではないのか。
  諸国の民が、ただ火で焼かれるために労し、
  国々が、ただ無駄に疲れ果てるのは。
  まことに、水が海をおおうように、
  地は、主の栄光を知ることで満たされる。

  わざわいだ。
  その裸を見ようと、友に酒を飲ませ、
  毒を混ぜて酔わせる者。
  おまえは栄光ではなく恥で満ちている。
  おまえも飲んで、陽の皮を見せよ。
  主の右の手の杯は、おまえの上に巡り来る。
  恥辱が、おまえの栄光の上に。
  レバノンへの暴虐がおまえをおおい、
  獣への暴行がおまえを脅かす。
  おまえは人の血を流し、地に暴虐を行った。
  町々とそのすべての住民に対して。

  彫像はいったい何の役に立つのか。
  彫刻師がそれを刻んだところで。
  鋳像や、偽りを教える物は何の役に立つのか。
  これを造った者がそれに頼ったところで。
  その者は、もの言わぬ偽りの神々を造ったのだ。
  わざわいだ。
  木に向かって目を覚ませと言い、
  黙っている石に起きろと言う者。
  これが教えることができるというのか。
  見よ、それは金や銀をかぶせたもの。
  その中には何の息もない。
  しかし主は、その聖なる宮におられる。
  全地よ、主の御前に静まれ。
         聖書 新改訳2017

本日は「ハバクク書」という、あまり聴く機会のない御言葉かなと思いますけれども、今日はこのハバクク書から御言葉をお語りしたいと思います。

と言いましても、この2章20節の御言葉はこの礼拝堂の前に掲げられている御言葉であります。2年ぐらい前だったと思いますが、この墨書を書いていただいて、そしてそれ以来ここに掲げている御言葉ですけれども、この御言葉にわたし自身が励まされてきたなという風に思っております。

毎日教会に来るたびに私は、礼拝堂に来て祈ってから始めるということをしていますけれども、祈る時に必ずこの御言葉が目に入ります。そしてこの御言葉を読んで、味わって、本当にそうだなっていうことを確認した後で、祈ることが多かったかなという風に思います。コロナが流行り始める前から、もうこの御言葉は掲げられていましたけれども、とりわけコロナが流行り始めた後は、心が落ち着かないことが多かったなと思います。神様の前で静まることを忘れて、十分にに祈ることもないままに1日の務めを始めてしまうということも、たくさんあったような気がしております。

でもそんな私に大切なことがあるんだよと気づかせてくれる、そんな御言葉だったかなという風に思っております。そして同時にこの御言葉を味わいながら、これは本当に今の時代に必要な言葉ではないだろうかということも思わされてきました。そこで特に今年の教会の年間の目標聖句として掲げさせている御言葉でもあります。今日はこのみことばを中心としてハバクク書のメッセージに耳を傾けていきたいと思います。


1.預言者ハバククの生かされた時代

「ハバクク」という預言者がいましたけども、このハバククが生かされた時代ってどんな時代だったんでしょうか?

三つのことを指摘したいと思いますが、

一番目にそれは「激動の時代」だったと言っていいと思います。

この時代は、南ユダ王国末期の頃にあたります。北イスラエル王国は、もうすでにアッシリア帝国に滅ぼされていました。そのアッシリアはもうすでにこの時には衰退をしております。そして代わりに新興国のバビロン帝国が起こってきたという、そういう時であります。そしてこの南ユダ王国も、この後まもなくすると、このバビロンによって滅ぼされてしまうという結果になります。ヨシア王という、律法に基づく改革をした、そして国を建て直した、そういう王もいたんですけれども、でもこのヨシア王が死んだ後は、滅亡の道を進んでいく、滅びへの坂道を急速に転げ落ちるように、滅びに向かって行ったと言っていいと思います。予言者ハバククが生かされたのはそのような時代でありました。イスラエルを取り巻く国際情勢も、大きく変化していました。それは激動の時代だったということが言えます。

2番目にこの時代は道徳的、霊的に堕落した時代でありました。
これだけの危機的な状況をイスラエルの民が危機感をもって受け止め、そこで少し反省したり、悔い改めたりできれば良かったのですが、そのようなことは全く起こりませんでした。社会には不正が満ち、不道徳がはびこり、律法が軽んじられ、偶像礼拝に人々がふけっているというような有様でした。

ハバククは、このハバクク書1章の2節で神様に向かって、「暴虐だ」と叫びましたね。

「暴虐」っていう言葉をここで使っています。そしてその上で、3節と4節で、このように祈っています。

なぜ、あなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか。暴行と暴虐が私のそばにあり、争い事があり、いさかいが起こっています。そのため、みおしえは麻痺し、裁きが全く行われていません。悪しき者が正しいものを取り囲んでいるからです。そのため曲がった裁きが行なわれているのです。
ここに当時のイスラエルの落ちぶれた姿が非常によく示されていると思いますね。暴行と暴虐がハバククのすぐそばにある。不正と、不法と、争いごとと、いさかいが、絶えない世の中である。そして正しい裁きが全く行われていない。それは道徳的、霊的に、著しく堕落した状況であったということ、そのような時代であったということがわかります。

そしてハバククは3番目に、この時代は答えの見えない時代であったということがいえます。
ハバククはもうこの箇所で、「なぜ?」というふうに問いかけてますが、この後も「なぜ?どうして?」と神様に繰り返し問いかけています。迫るようにして問いかけています。ハバククにはとても理解できないんですね。なぜ義なる神様が、この世の不正を黙って見過ごしておられるのか?神様が本当にいるのならば、どうしてこの世の中にこの理不尽、このような理不尽がまかり通っているのか?なぜそのことを黙って神様は見ておられるのかわからないんですね。ですからハバククは、「なぜ?どうして?」と繰り返すように問いかけている。そしてさらにハバククにとって理解できないのは、この後、イスラエルを懲らしめるために、バビロン帝国が用いられていくんですけれども、このバビロン帝国が栄えていくっていうことが理解できないんですね。ハバククは1章の13節でこんな言葉を神様に向かって祈っています。

あなたの目は悪を見るにはあまりに聖くて、苦悩を見つめることができないのでしょう。なぜ裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。悪しき者が自分より正しいものを呑み込もうとしている時に。

ここにハバククの、神様に対する痛烈な皮肉が込められているのを感じます。

神様、あなたの目はあまりにも聖いために、この世の悪と苦しみをあなたは見ることができないのでしょうって、そういう言い方をしてる。聖なる神様に対して随分不遜な言い方してるんじゃないかと、私たちにはちょっと戸惑ってしまうような言い方かなと思うんですけれども、でもそれだけ切実なハバククの思いが伝わってくる言葉だなと思うんですね。

ハバククにはイスラエルの民が、それよりもっと邪悪なカルデア人、バビロンの人々によって支配されることが耐えられないんですね。許せないんですね。それがイスラエルの罪のゆえの懲らしめだとしても、それよりももっと邪悪なカルデア人達が繁栄して栄ていくということが、全然理解できないんですね。そしてそのことを神様が良しとしていることが理解できない。この時代はそんな答えが見えない時代であったということが言えると思います。

今の私たちが生かされてる時代も、だんだんこのハバククの時代のようになってるんではないかなと感じますね。今年は東日本大震災から10周年の年なんですけれども、10年前に東北地方を中心とする東日本は、地震と津波とそして原発の事故によって本当に大きな被害を受けました。大変な経験をしたわけですけれども、でもあの後10年経ってみて、今、毎年のように自然災害が繰り返されるようになったなと思います。昨日も熱海の土石流災害の様子をニュースで見ましたけれども、それが当たり前のように毎年、毎年繰り返されるようになっている。そしてそれは日本だけの現象ではないですよね。世界中でそういうことが起こっている。私たちの 目に見えるものに対する信頼というのは、どんどん失われているんではないだろうかという風に思いますね。そして10年経って、去年から今年にかけてのコロナのこと、この10年だけ見ると東日本大震災に始まってコロナに至ったという風に見えるわけですけれども、この10年の間に本当にいろんな問題が各地で起こってきてるんじゃないかなと思いますね。道徳的、倫理的な問題がいろんな所で噴出してるんではないでしょうか。あらゆる社会の領域に、分断と対立が引き起こされているんではないでしょうか。政治も社会も経済も、劣化現象が非常に急速に進んでいるんではないでしょうか。

その中にあって本当に痛みの大きい時代になってきた、闇の深い時代になってきた、私たちもそのような時代の中に生かされる者として、そのような悩みを抱えながら生きている。そして今、本当に答えが見えないような状況になってきてるんじゃないかなと思いますね。東日本大震災の時に被災地に行った時に、そこで聞こえてきた声は、なぜ?どうして?っていう声だったなと思うんですね。なぜこんなことがこのように起きるのか理解できないというそういう叫びの声が、被災地でこだましていたように思うんですね。でもそれは今、被災地だけではない、もう世界中どこにおいても聞こえる、そういう叫びになってるんじゃないかなと思うんですね。本当に答えの見えない、そういう時代になってきてるんではないだろうか。そういうこと考えると、今の私たちの時代ってハバククが生かされた時代に非常によく似てきているんではないかなという風に感じるんですね。

このような時代の中にあって、私たちは何を大切にしていったらいいんでしょうか?どんな生き方が私たちに求められているんでしょうか?このハバククの姿から学びたいなと思うんですね。

それはやっぱり、神様に向かってまっすぐ声を上げていくってことではないでしょうか。

理解できない事は沢山ありますね。本当に私たちには、なぜ?どうして?って、本当に理解できないことだらけかもしれないですね。

でもそのような答えの見えない中にあっても、真っ直ぐに声をあげていくっていうこと、神様に向かって声を上げていくっていうこと、そんなことが私たちに求められているんではないかなと思うんですね。

どんな状況の中にあっても、神様はちゃんと私達の祈りを聞いてくださるっていう、そこにはやはり恵みがあると思いますね。そのような生き方が、まさに今の時代求められているということを心に留めるものでありたいという風に思います。

2.バビロンに下される神のさばき

ハバククの実に真剣で切実な祈りっていうのがこのハバクク書の中に出てくるんですけども、読んでいくとやっぱり神様はちゃんと祈りに答えてくださる方なんだなということに気づかされるんです。それは2章の2節と3節を見ると分かります。2章の2節と3節を読みます。

主は私に答えられた。「幻を板の上に書き記して、確認せよ。これを読む者が急使として走るために。この幻は、定めのときについて証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」

このようにハバククに答えが出たんですね。

これを読むと主はやっぱり祈りに答えてくださる方だなということがわかりますね。そのようにハバククにも答えてくださったわけですが、その答えの内容はどんな内容かと言うとですね、これはちゃんと神様はさだめのときを用意しておられるということなんですね。この「バビロンとカルデア人が裁かれるときは必ず来る」と、神様のご自身のご主権の中でその時を定めておられ、その時は必ず来るから、その時が来るのを待ちなさいという、そういう御言葉だったということを私たち覚えることができる。そしてこの後、2章の5節から後半に至ってはですね、何が書かれているかといいますと、これはカルデア人とバビロンに下される神様の裁きの姿が描かれているということが分かるんですね。今日は時間が限られているのでその中身を丁寧に見ることはしませんけれども、5節から8節のところには略奪を繰り返すバビロンが、他の民によって略奪される結果になるということが示されています。9節から11節のところでは不正を繰り返すバビロンのその不正は、見られている、覚えられているって言うことが示されています。12、13、14節の所には、搾取によって築かれたバビロンの都が、最終的には火で焼かれてしまう虚しい結果に終わるんだよっということが示されています。そして15節16節17節においては、道徳的に本当に退廃しているバビロンの姿が描かれていますが、そのバビロンを暴虐が襲うという、そういうことが示されています。そして18節、19節においては、偶像礼拝に耽っている、バビロンの偶像礼拝礼拝の愚かさが示されています。

このようにこの2章の後半はバビロンに対する神様の数々の裁きの様子が描かれております。神様はちゃんとご計画を持っておられて、この邪悪なバビロンに対しても、ちゃんと裁きを成されるんだということ、その時は定められているんだということを、ここでハバククは示されているわけであります。

このような御言葉を聞いて、メッセージを聞いて、ハバククの心は少しは和らいだでしょうか?神様の公正さが示されましたので、少しは安心したでしょうか?

もしかするとハバククの悩みは、もっと深くなったんではないかなという感じもするんですね。

どうしてかと言うと、そういう事があったとしても、それはずっと先のことです。それまではこの矛盾した状況が続きますね。なぜ苦しまなければいけないのか?なぜこのような不正がまかり通っているのか?そしてそのような不正を神様が見過ごしておられるのか?というその根源的な問いは、なんにも答えられていない。ずっと先のことは予言されていますけれど、今、このときこの苦しみの意味に対して、神様は何の解決も与えておられない。もしかするとハバククの悩みはもっと深まったんではないだろうかということも考えられる。

3.信頼と宣告

そんな戸惑いと、不平不満の中で、20節の御言葉が語られているということを私たちは心に留めたいと思うんですね。20節、私たちの拝堂に掲げられている言葉ですけれども、このように書かれてます。

しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主のみ前に静まれ。

ハバククの心の中には疑問や戸惑いがあったと思います。不平不満が渦巻いていたと思います。しかしそんなハバククが、まず覚えなければならないことがありました。それは主が聖なる宮におられるということ。主なる神様が、聖なる宮に確かに、そこに存在しておられるって言うこと、その事をまず覚える必要があった。

「聖なる宮」ってどこでしょうか?それは天ですね。天の宮の中央に、御座があって、そこに主は君臨されている。そしてそこからこの世の全てを支配されている、治めておられる。その主が確かに生きておられるということを、まずハバククは覚える必要があったということ、そのことがここで示されております。20節は、「しかし」という逆説の接続詞から始まってますけども、この「しかし」というこの接続詞は、その前に出てくる18節19節に示される、もの言わぬ偶像との対照を非常に明らかに表しているということが言えます。18節、19節を読んでみますが、こういう風に書いてます。

彫像はいったい何の役に立つのか。彫刻師がそれを刻んだところで、鋳造や、偽りを教えるものは何の役に立つのか。これを造ったものがそれに頼ったところで、その者は、もの言わぬ偽りの神々を作ったのだ。わざわいだ。木に向かって目を覚ませといい、だまっている石に起きろという者。これが教えることができるというのか。見よ、それは金や銀を かぶせたもの。その中には何の息もない。

偶像は物言わぬ偽りの神々です。人間がこの偶像を作って、その上に金や銀をかぶせるかもしれませんけれども、しかし偶像は目を覚ますことができません。教えることがありません。息をすることもありません。人々はこの偶像に向かって目を覚ませと言ったり、起きろと言って命令したりしますけれども、何の反応もないんですね。そんな偶像により頼むことが、いかに愚かであるかっていうことがここに示されています。

しかしこの後、20節に続わけですけれども、しかし聖なる宮におられる主は、これらの偶像とは全然違います。目を覚ますこともない、教えることもない、息をすることもない、偶像ではないんですよね。そうではなくて、生きていて、働いていて、天のみ座に君臨し、治め、君臨し行動している神様です。その方がおられるということを、まずハバククは覚えなければいけなかった。そのことが求められたということであります。

ハバククに求められたのは「納得」ではなくて、信仰だったということを、私たちも覚えたいと思うのですね。

おそらくハバククが求めていたものは、「納得」だったんじゃないでしょうか。ハバククは納得したいんですよね。なぜこの世で起きていることが、こんなに矛盾に満ちていることが、どうしてなのか?知りたいんですね。納得したいんです。神のご性質についても、ご計画についても知りたいんです。自分の頭の中で理解し、自分の心の中で納め、納得したいんです。

しかし神様がハバククに求められたのは、納得ではなくて信仰だったということです。神様に信頼し信じるって言うこと、自分の中に神様を収めるのではなくて、神様を見上げ、そこにいる主を覚え、その方に信頼するっていうこと、そういうことがハバククに求められていたということを、私たちも覚えたいと思うんですね。

私たちも時々信仰ではなくて、納得を求めてしまうことがあるんではないかなと思うんですね。自分の頭で理解して、収めて、納得して、それができないうちはなかなか信じられないっていう、そういう精神状態になることがあるかなと思います。自分の中で納得しないうちは動くこともできないっていう、そういう態度を示してしまうことがあるんじゃないかなと思うんですね。

でも神様という方は、果たして私たちに「納得されるような方」なんでしょうか?

私たちは、私たちの小さな頭で、この神様のご性質とご計画を全て理解することができるんでしょうか?とんでもないことだと思いますね。

神様は私たちにとって計り知れない方です。とても私たちには理解尽くせない方です。でも私たちに求められていることは、その方を覚えること、私たちに十分に理解できなかったとしても、納得できなかったとしても、そのような方として覚えること、聖なる宮におられる主を仰ぐということ、そしてこの方を信じるということ、信頼するということ、私たちの神様は、そのような私たちの生きた交わりを求めておられる、ということを心に留めたいという風に思います。

そしてさらに私たちには、大切な務めが与えられているということも、次の言葉を読むと気づかされます。それはどんな勤めでしょう?

それは全地に向かって呼びかけるという、そういう勤めです。何て呼びかけるんでしょうか?ハバククは何て呼びかけるようにここで命じられたんでしょうか?

全地よ、主の御前に静まれ。

ハバククは、そのように呼びかけるように神様から求められているということがわかります。ここに「静まれ」という言葉が出てきます。この「静まれ」と訳されている言葉を、色々調べてみると、この言葉は旧約聖書の預言者たちが好んで使った言葉だということが見えてきました。ハバククだけではなくて、たとえば、アモスとか、ゼパニヤとか、ゼカリヤとか、いろんな預言者たちが出てきますけども、その預言者たちも、それぞれの時代の状況の中で、この言葉を語っているということが分かるんですね。そして他の聖書の箇所ではこの言葉は、「静まれ」と訳されているとこもありますが、「口をつぐめ」と訳されているところもあります。つまりこの言葉の意味は、「開いている口を閉じなさい」って意味ですね。口をつぐみなさいという意味です。おしゃべりが止まらない人に向かって、そのおしゃべりをやめなさいという、そういう意味の言葉です。私たちも、時々言ってる言葉じゃないかなと思いますし、あるいは人から言われている言葉かもしれません。

私達の心が不安でいっぱいになった時、心を騒がせてしまう時に、つい私たちが取ってしまう行動とは何でしょうか?それは喋ってしまうという行動ではないかと思うんですね。心が焦ったり、心配でいっぱいの時に、つい私たちの口が開いてしまうんですね。そして誰かにこの事を聞いてもらいたいんですね。誰かに自分の気持ちを受け止めて欲しいんです。そしておしゃべりが止まらなくなるんです。大騒ぎしてしまうんです。

今の世の中、そんな世の中になっているんではないかなと思うんですね。どこに行っても人の声が騒がしい、人の声が非常に聞こえてしまう、そういう騒がしい世の中なっているんではないでしょうか。そしてその心の深いところに、本当に解決できないようないろんな不安や焦りが渦巻いているって言うことが、多々あるんではないかなと思うんですよね。そういう中に居ると、私たちの心も同時に不安になってしまったり、焦ったりっていうことがあるかもしれません。つい私たちの口も開いてしまいやすい、そういう状況だと思います。

しかし、そのような今の時代に求められていることは何でしょうか?

それは、「主の御前に静まる」っていうことです。ただ静まればいいということではなくて、主のみ前に静まるんですね。主の前で静まって、そこに主がおられるということを意識すること、静まった自分のすぐ前に主がおられることを自覚すること、私たち一人ひとりが主の御前で生かされているということを、よく知るっていうこと。主あっての私たちの人生であるっていうことをよく知るということ、そういうことが今、本当に求められているんではないでしょうか。その必要を全地に呼びかけるということ、そんなことが私たちにも与えられている務めであるということを覚えたいという風に思います。

でもそのために、私たちがまずその恵みを味わってる必要があるなと思いますね。私たちが経験していなければいけないと思います。

私たちがまず、自分の開いた口を閉じて、主の御前に静まり、そこにおられる主を仰ぐということ、この方の前に生かされているという自覚をしっかり持つということ、そしてこの方との関係の中に生かされている恵みを味わうということ、そのことがあって初めて私たちは全地に向かって呼びかけることができるんじゃないかなと思うんですね。そのようにして私たちもハバククのように、この世に向かって、全地に向かって呼びかけていくものでありたいと思います。全地よ、主の御前に静まれ、これがこんにちの教会に与えられているメッセージであるということを、今日私たちは自覚したいという風に思います。

4.結び

こんにちの教会は果たして、聖なる宮におられる主を、どれだけ指し示す場所になっているんでしょうか?こんにちの教会はどれだけ神の言葉を全地に向かって宣言している場所になっているでしょうか?この世の人々は一体どこで神の御声を聞くんでしょうか?これらの人々は一体どこで神の光を見るんでしょうか?この世の人々は、一体どこで神を知るんでしょうか?願わくは、私たちの教会を通して、神ご自身の栄光が豊かに表されますように、この教会を通して、また私たちの信仰の歩みの中で、主の御言葉が大胆に語られますように、主の前で静まるということの大切さを、私たちが十分に味わい、それを伝えていくことができるように、日々、主と共に歩んでいくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。本当に私たちがどんな時代の状況の中にあっても、理解できない、そして本当に耐えられないような状況の中にあったとしても、主の御前に生かされているめぐみ覚えます。私たちのすぐ前に主がおられることを忘れることがありませんように。そしてその主に目を向けて、あなたを仰いで、あなたに信頼することができるように、たとえ納得できなかったとしても、理解できないことがあったとしても、主に信頼できるように、神様そのように私たちを招いてくださっている恵みを感謝します。どうぞ厳しい時代中にあっても、あなたとともに歩んでいく平安を、日々味あわせてくださいい。御言葉を心から感謝し、主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

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