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「愛のうちに建てられる教会」とは・・・エペソ書4章16節

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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エペソ人への手紙 4章16節

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

エペソ書4章16節の言葉は、パウロがいままで語ってきたことのまとめの言葉であります。1節から15節までパウロは「教会の一致」というテーマで語ってきておりました。その語られてきた内容が、この16節の中に凝縮されていると考えることができます。そしてこの言葉は教会の非常に理想的な姿が描かれているということが言えると思います。つまり、よく整えられた教会の姿であるということです。この御言葉の中に、教会が目指すべき姿、そしてその方向性が示されておりますが、私たちが決して忘れてはいけないことが書いてあります。

1.教会は誰によって建てられるのか

教会は一体誰によって建てられているのか、ということなんです。
それが、この16節に書いてあります。長い文ですけれども大事なところは、「キリストによって」、「からだ全体は」、「建てられることになりました」という、この三つの言葉が、この16節の言葉の中心です。これが柱の部分と言ったらいいでしょうか、あるいは背骨の部分と言ったらいいでしょうか、この御言葉の中心部分ですね。
「からだ全体」というのは、「教会」を表しておりますので、「キリストによって教会は建てられる。」と、ここで教えているということが分かると思います。
教会を建てあげているのはキリストです。私たちではありません。これは本当に強調されなければならないところだと思います。
私たちはよく勘違いしてしまうんではないでしょうか。キリストではなくて、私たちによって教会が建てられていると、つい、思ってしまいやすいんではないでしょうか。実際に活動しているのが、私たちだからであります。
「キリストによって教会が建てられる」と聖書に書いてあっても、実際的にキリストが、教会を建ててくださっているわけではありません。私達の中にはもしかすると、教会の色んな準備も管理運営も、全部イエス様にしてもらったらありがたいなという、そういう気持ちがどっかにあるかもしれませんけれども、でもイエス様は何もしてくださらないですね。実際的なことは何もしてくださらない。実際に動いたり、準備をしたりするのは、私たち一人ひとりであります。よって私たちは知らず知らずのうちに、教会を立ち上げているのがあたかも自分たちであるかのような勘違いをしてしまいやすいんじゃないかと思いますね。そして知らず知らずのうちに、キリストの教会が、いつのまにか自分たちの教会になってしまう。自分たちに都合のよい教会になってしまう。神様の御心ではなくて、自分たちにとって非常に居心地のいいだけの、自分たちに都合のいいだけの教会になってしまう。結果的に神様の御心から離れていく、そういうことが起こり得るということを私たちは覚えていなければいけない。教会を立てているのは私達ではありません。キリストが教会を建てている、そのことを私たちは覚えておきたいと思います。

 

2.教会は愛のうちに建てられなければならない

では教会が「キリストによって建てられてゆく」とするならば、その時教会はどのように建てられていくんでしょうか。その姿もここに書いてあるんですね。
それは教会は「愛のうちに建てられることになります。」と書いてあります。キリストによって、からだ全体は愛のうちに建てられる。 「愛のうちに建てられる」って言うのはどういうことでしょうか。
それは教会が建てられていく「動機」が、すべて愛であるということだと思います。私たちが教会を立ち上げる時に、その動機となっているのは一体何でしょうか。それが本当に神様に対する私たちの愛でしょうか。あるいは兄妹姉妹に対する私たちの愛でしょうか。その愛によって教会が建てられているかどうか、何かそれ以外のものが動機になっているということはないだろうか。
私たちは教会に集まって、礼拝をしたり、伝道したり、掃除をしたりします。その時の私たちの動機は何でしょうか。本当にそれは神様に対する、人に対する、愛でしょうか。それとも別のものでしょうか。人間的な野心であるとか、願望であるとか、自己満足であるとか、何かそういうことが私たちの心の動機になっているっていう事はないだろうか。もしそうなってしまうと、それはもはやキリストの教会ではなくなってしまいます。キリストのキリストによって建てられている教会ではない。私たちの人間的な願望によって建てられている教会になってしまうんではないでしょうか。そういう風にならないように私たちは注意していかなければいけないと思います。

3どうすれば愛のうちに教会が建てられてゆくのか

さて、私達は、少し具体的実際的に考えてみたいと思います。教会が愛のうちに建てられるというのは、聞いていてとても素晴らしいですね。本当にそうありたいと思いますけれども、でも実際的、具体的にはどうすれば愛のうちに建てられていくんでしょうか。どのような方法で建てられて行く時に、それは本当に愛によって建てられたということになるんでしょうか。その点この手紙の著者のパウロは常に実際的具体的に記してくれております。その方法をここに丁寧に書き留めています。その内容に、私たちは注目をしていきたいと思います。16節の言葉をもう一度読んでみたいと思います。
「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります」とこのように書いてあります。
ここに教会が愛のうちに建てられていくその具体的な姿が表されております。大きく分けて二つのことが記されていると指摘することができます。

第一に、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされることによって、教会が建てられていくということが教えられております。これは教会の全体としての成長ということが言えると思います。
第二に、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより、教会が建てられていくと、ここで教えられている 。こちらは「それぞれの部分」と書いてあります。つまり私達、一人ひとりの個人としての成長がここに表されている、つまり教会は全体としても、個人としても、共に成長していく時に、愛のうちに建てられていくということが分かると思います。

①全体としての成長

そこでまず全体としての成長のほうから考えてみたいと思います。ここに「組み合わされ」、「つなぎ合わされ」と、記されてあります。教会の愛による成長のために、私たち一人ひとりが組み合わされたり、つなぎ合わせれたりすることが必要だよということが教えられています。パウロは今までもずっと教会について教えてまいりましたけども、二つのものをイメージしながら教会のこと教えてきたということが言えると思います。パウロの中で、二つのものがイメージされている。一つは建物、建築物のイメージでした。
パウロは2章21節で教会についてこういう言葉で教えてくれていました。こういう風に言っています。
「このキリストにあって建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります」と教えてくれておりました。
これは教会のことを表していますが、ここでパウロは建物のことをイメージしながら教会のことを教えているという事が分かりますね。ですから一つのイメージは「建物」のイメージです。
でももう一つのイメージも、パウロの中にあるんですね。それは私たち「人間の体」ですね。人体です。1章23節ではパウロはこんな風に語って教会のこと教えておりました。
「教会はキリストの体であり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」
ここでも教会のこと教えていますが、ここでは建物のイメージではない。ここは人間の体のイメージですよね。ですからパウロは教会のことを教える時に、二つのものをイメージしながら教えてくれていますが、その二つのイメージが、二つとも、今日の16節の中に表されているということが言えるわけですね。
「組み合わされる」という言葉が出てまいりますが、これは建物を築き上げる時に、石と石が組み合わされていくというイメージですね。建物のイメージです。
そしてその次に「つなぎ合わされ」という言葉が出てきますけれども、これは私たちの人体の中に、さまざまな器官がありますね。その器官が互いにつながっていくことによって、全体として一つの体を形成するというイメージです。
ですからパウロはここで二つのイメージを重ね合わせながら、結局、私たち一人ひとりが互いに建物のように組み合わされ、あるいは体のようにつなぎあう、そういうことによって教会が建てあげられていく、そういうことを通して教会は成長していくっていうことを教えているわけであります。
私たちは教会に来て、ただ礼拝して帰るわけではないですね。ここでいろんな方と出会います。そしてこの出会いというのは、やはり神様が出会わせてくださった方々だと思いますね。偶然の出会いのように見えますけれども、これはやはり神様によって備えられた出会いだということが言えるんじゃないでしょうか。そしてその出会った方々と私たちは、一緒にお食事をしたり、お交わりをしたり、祈ったり、ともに奉仕をしたりします。そういうことを通してだんだん組あったり繋がったりして行きますね。そういうことを通して私たちは、教会として成長していくわけであります。

ただ私たち一人ひとりが、良く組あったり、結びあったりするために必要なことがあります。そのキーワードになっているのが、この16節の中にある「あらゆる節々を支えとして」という言葉であります。ここに「あらゆる節々を支えとして」組み合わされ、つなぎあわされると、教えられていることが分かると思います。私達が上手く組みあったり、つなぎあっていくためには、あらゆる節々を支えとしていく、 それが大切なんだよということがここで教えられている。そのことも心に留めたいというふうに思います。

あらゆる節々を支えという風に書いていますが、これは聖書の訳がちょっと変わったところであります。以前の聖書をお持ちの方は、この箇所は、「備えられたあらゆる結び目」、というそういう訳になっていると思います。「あらゆる結び目」という訳だったものが、新しい聖書では「あらゆる節々」という訳に変わっております。またその「備えられ」たという言葉が、「支えとして」という言葉に変わっておりますけれども、少し訳が変わりました。
「節々」と訳されている言葉の元々の意味を探ってみますと、これは二つのものが静止したり結合したりする、その部分を表している言葉であるということがわかります。ですから聖書によっては「つなぎ目」と訳したり、「結び目」と訳したり、あるいはこれを骨で考えるならば「関節」となりますね。つまり二つのものが結合している部分、この部分を支えとして組み合わされたり、つなぎ合わされたりしなさいと、ここで教えられております。
この「つなぎ目」がしっかりしているって言うことが、私たちの健康には欠かせないことじゃないかなと思います。あなたも、膝が痛くなる、肩が痛くなる、腰が痛くなることが、時々あると思いますが、それはどこに問題があるでしょうか。そのつなぎ目の部分に問題が若干あるんじゃないかなと思います。このつなぎ目の部分がうまくかみ合わなくなると、からだ全体が重たくなったり、痛くなったり、今まさにそれを味わっているという方もいらっしゃるかもしれませんけれども、つなぎ目が大事ですね。私たちの体にとっては、つなぎ目がしっかりしてくると全体が強くなります。このつなぎ目が弱くなると全体がもろくなってしまいます。ですから、体のことを考えても、あるいは建物のことを考えてもそうですけれども、この繋がってる部分は、とっても大事ですね。これがしっかり建てられていくということが、建物の場合でもそうですし、私たちの体のことでもそうです。これが非常に大事だということ、それが支えになって、私たちはよく組み合わされたり、結び合わされたりしていくということが分かるわけであります。しかもここに、「あらゆる節々」と書いてありますので、教会の中には、この節々、結合部分、つなぎ目が、たくさんあるということが分かるわけであります。教会を見渡してみると確かに、この節々、つなぎ目、結合部分が、たくさんあるなと思います。一番基本的な結び目は、夫婦という結び目があると思います。この夫婦の関係がしっかりしているということが大事です。あるいは家族という結び目があります。家族の結び目がしっかりしてるということが大事だと思います。また同じ奉仕を共にしている係としての結び目もあると思います。あるいは同じ交わりを共有しているグループとしての結び目もあると思います。いろんな結び目が教会の中にはあるなと思いますね。それらの結び目がしっかりと築かれていくことによって、実は教会全体が強められる、教会全体がしっかり建てられていくということを、私たちは是非覚えるものでありたいと思います。いかがでしょうか。「あらゆる節々を支えとして」、私たちは組み合ったり、結びあったりしているでしょうか。それが本当に私たちの支えとなっているでしょうか。機能的にも、心情的にも、実際的にも、本当にそれが支えになっているでしょうか。節々が強められることによって教会全体が強められているということをぜひ覚えるものでありたいと思います。
昨年のサラダパーティーのゲストは矢吹先生でした。矢吹先生がオルガンの素晴らしい演奏をしてくださいました。それだけでも本当に感謝だったんですけども、矢吹先生はその後、何度か教会にいらっしゃって、奏楽者の方々のための講習会を開いてくださっているんですね。しかも、今年もそれが継続されていくという、普通であれば考えられないような恵みを私たちは今頂戴しております。それで私の目から見てなんですけれども、そのために奏楽者の四人の姉妹の方々が集まるんですけれども、集まると、なんだか皆さんすごくチームワークが出てきたといいますか、結束が強くなってきたと言いますか、そんな風に見えるんですね。それまで、別に別々バラバラに奏楽していたわけではないと思うんですけれども、先生が来てくださって、ともにレッスンを受けることによって、それがお互いの励ましになって、支えになってるんじゃないかなという風に見えるんですね。そして奏楽者の間に連携が生まれて、より喜んで、励まされて、奏楽の奉仕にあたってくださっているんじゃないかなという気がしております。それが実は礼拝の祝福につながっております。そして教会全体の祝福につながっております。最近私達はそういう恵みに預かってるんじゃないかなということ思っています。また青年たちの結束も、この1~2年で非常に強められたんじゃないかなということを感謝しております。以前だったら礼拝に来て、ただ礼拝するだけだった青年達が、最近はともに賛美したり、ともに聖書を学んだり、共に祈りあったりしている姿を、私たちは見るんですけれども、それは教会全体にとっても祝福ですよね。
そのようにして、それまでばらばらだったものが一つに集まって、イエス様を中心にして結束を強めていく、そういう結び目がいろんなところにできていくことによって、教会全体が強められる、体が強められるんですね。そういう祝福を、私たちはこの1~2年、本当に味わってきているんじゃないかなと思います。是非私たちはこの事を、これからも大切にして、目指していきたいなというふうに思います。あらゆる節々を支えとして、組み合わされ、つなぎ合わされて、そのようにして教会が成長していくということを心に留めるものでありたいと思います。

②一人ひとりの成長

さてその一方で、私たちには課題もあると思います。それは互いになかなかうまく組あえない、なかなか繋ぎあえないという、そういう課題を抱えてしまうことがあるんじゃないかなと思います。なるほど聖書では、互いに組み合わされたり、繋ぎあわされたりしていくことによって、成長していくと、教えられています。そのことをアタマでは理解します。でも実際にはなかなかいつも組あったり、結びあったりすることに、積極的ではないということも、あるかなと思いますね。何か、組み合わされたり、繋ぎあわされたりすることに、ためらいを感じてしまう、あるいはそれを阻んでしまう、何かが自分の中にあるという場合も正直あるんじゃないでしょうか。そういう時があるんじゃないかなと思うんですね。ですからやはり私たちは、一人一人が神様の前に出て、神様の前に整えられる必要があります。一人一人の成長がなければ、全体としての成長もないということであります。
そこでパウロは後半部分では、私たち一人ひとりの成長について教えております。そのことも注目していきたいと思います。後半部分で「それぞれ」というところから読んでみますが 、、、 「それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」、、、
このようにパウロは、この言葉を結んでおります。前半は全体としての成長が記されておりました。後半は私たちそれぞれの部分ですね。私たち一人一人の成長が大事なんだよということ教えてくれている。そしてここで、私たち一人一人がその分に応じて働くことによって、教会は成長すると記されてあります。
その「分に応じて」という言葉に、私たちは注目したいというふうに思います。ここも訳が変わった部分でして、以前の聖書では、「一つ一つの部分が、その力量にふさわしく働く力により」という訳になっておりました。「力量」という言葉が使われていたんです。それが新しい聖書では、その「分」という言葉に訳が変わりました。さすがにで「力量」という言葉では、私たちに与えられている何か、「能力」であったり、「才能」であったり、「力」であったり、そういうことをイメージしやすいからなんでしょうか、その訳が変わりまして、「分」という言葉に変わっております。この「力量」とか「分」とか訳されている、このギリシャ語の元々の言葉は、「メトロン」という言葉なんですけれども、「量り」という言葉です。皆さんの体重を計る量りですね。お風呂屋さんに行くと置いてあると思いますけれども、あれがメトロんです。その言葉がここでその「分」と訳されております。
つまりこのことを通して教えられることは、神様から私たち一人一人に与えられている「分」を正しく計ることの大切さですね。神様から一人一人に与えられているその「分」というものがある。私たちは本当に神様との親しい関係の中でよくわきまえているかどうか、そのことが大切だ、それがわかれば私たちはその、「分」に応じて働くことができるわけですね。それを私たちが的確に知っているということがとても大事だということを、私たちはここで覚えたいというふうに思います。
私たちの不幸の多くの原因は、この私たちに与えられている分をよくわきまえていないというところから始まるんじゃないかなと思うんですね。自分の分をわきまえないために、必要以上にやりすぎて、疲れ果ててしまうということがあるんじゃないかなと思います。あるいはその分を知らないために、逆に自分自身を過小評価してしまって、だしおしみをしてしまうということもあるかな、と思います。その結果私たちは、なかなか人と上手く組みあったり、繋がったりすることができない、そういう問題を抱えやすいんじゃないでしょうか。そしてその結果、個人としても成長できない、全体としても成長できない、それが教会の成長を阻んでしまう、そういうことに繋がっていくということであります。
時々私たちは、やらなくていいことまでやってしまって、もっと人に委ねればいいのに、全部自分で抱えて、それで苦しくなってしまうということがあるんじゃないかなと思いますね。もっと委ねることを学ばなければいけないということがあるかな、と思います。
あるいはもっと積極的になってもいいはずなのに、遠慮してしまうということもあるかな、と思いますね。
私たちはなかなか人と繋がっていくっていうことが、大変だなと思いがちです。その原因は、自分に与えられている「分」というものをよくわきまえていないというところにあるんではないでしょうか。それがわかれば、それに応じて喜んで主に向かってご奉仕をすることができるのではないかと思います。あなたは今、神様から与えられている「分」と言うものを、よくわきまえているでしょうか。それを知るためにはやはり神様との個人的な関係が大事かなと思います。今神様は自分に何を期待しているでしょうか。どんなことを神様は私にさせたいと願っているでしょうか。自分の考え、ではないですよ。自分の希望が勿論有ると思います。自分の出来る、出来ない、いろんな思いがあると思います。大体それで私達は全部決めてしまうんですけれども、でも神様との関係の中で、神様と交わりをしていくなかで、段々分かるんですね。今、神様は自分にこれを与えて下さってる、こんな経験を与えてくださった。こういう風に導いてくださっている。そういう人と人との事柄の中で、これからは、こういう形で主に仕えていくように、主は期待しておられるんじゃないか、だんだんそういうことが分かってくる。それが分かると、それはもう神様に返せばいいわけですから、喜んで奉仕できるようになりますね。
何か、人の目を気にしてとかではなくて、プレッシャーとか、そういうことではなくて、これは主から与えられたものであるということを感謝して、受け止めて、一緒に喜んでご奉仕ができるようになるんじゃないでしょうか。そのような、主との親しい交わりの中に生かされていくものでありたいと思います。

4.自分の想いではなく、キリストに導かれて。

最後に今日与えられた御言葉のまとめとして私たちが覚えなければいけないことがあります。それは、これら一連の過程を導くのは全部キリストであるということであります。もう一度初めに戻るんですけれども、結局教会を立ち上げているのはキリストであるということであります。そのことを私たちは、やっぱり忘れるべきではありません。どんなにつなぎ目、結び目、節々としての交わりが素晴らしくて祝福されているように見えても、私たちは必ず自分の限界に直面いたします。ちょっとしたことですれ違ったり、後悔したり、それがトラブルになってせっかく良い交わりだったものが冷めてしまったり、壊れてしまうということが、私たちの時々ありがちです。最初はキリスト者としての麗しい交わりだなと思っていたものが、いつのまにか人間的な思いに支配されて、非常に殺伐とした人間の交わりになってしまうということも起こりうるんですね 。あるいは最初は自分に委ねられた働きだと思って感謝して奉仕しているつもりだったのに、だんだん、なんのための奉仕なのか分からなくなって、自分で勝手に疲れ果ててしまったり、あるいは人を見てイライラしたりですね、そういうことも起こり得るかな、と思うんです。最初は良くても必ず自分の限界にぶつかるんです。そして特に自分の愛のなさというものに、気づかされていくんではないでしょうか。その時に私たちは初めて気づかされると思いますね。教会を建て上げているのはキリストのはずなのに、いつのまにか自分の力で教会をたてあげようとしていた、そのことに気づかされていくんではないでしょうか。そして本当にキリストに信頼しなければいけないことの大切さを、そんな経験を通して教えられていくことがあるのではないかなと思います。人間の力や感覚が中心になっていく教会形成は、必ず行き詰まるということを私たちは覚えておきたいと思います。教会の中心はキリストです。パウロはエペソ書の前半部分でこの事をずっと教えてきました。教会を建てあげているのはキリストです。教会の中心はキリストです。キリストは教会の頭だとパウロが教えてくれました。あるいはキリストは教会の礎であるということも教えてくれました。そして教会はキリストが住まわせる神のみ住まいであるということも教えてくれました。つまり上も下も真ん中も、全部キリストだということを教えていたわけですよね。教会の中心はキリストなんです。キリストの住まわれる宮なんです。それが教会なんです。そんな、私たちにとって忘れてはいけない、そして中心におられるべきはずのキリストが、いつのまにか教会にいないということにならないように、いつのまにか隅っこに追いやられてしまっているということにならないように、いつのまにか、私たちの思いと感情と常識と、そういうものだけが教会の中心にならないように、私たちの中心にいつもイエス様がおられるように、そのことを、みんなで覚えあっていかなければいけない。その時に、教会は愛のうちに建てられていきます。そのことをぜひ覚えるものでありたいというふうに思います。もし教会の中心にキリストがおられなければ、私たちの交わりは、組あったり、結びあったり、つなぎあったりする交わりではなくて、それはおそらく、もつれ合いだったり、もたれ合いだったり、いがみ合いだったり、さばき合いだったり、そんな交わりになってしまうんじゃないかなと思うんです。そしてイエス様中心の温かい交わりではなくて、人間中心の殺伐とした交わりになってしまうと思います。是非私たちはこのキリストの愛のうちに、とどまり続けたいと思います。教会の中心にいつもキリストがおられますように、その中心におられるキリストを、いつも私たちが共に覚え会うことができますように、そしてキリストによって建てられてゆきたいと思います。愛のうちに建てられて行こうではありませんか。そのようにして私達は、個人としても、全体としても成長して愛のうちに建てられてゆくものでありたいと思います。

5.祈り

お祈りをいたします。神様、今日は教会ということについてとても大切なことを教えてくださったことありがとうございます。本当に私達は個人としても、全体としても、まだまだ成長の足りないものでありますけれども、御言葉を通して私たちを励ましてくださいますし、どのように目指して行ったら良いのか、本当に具体的なところまで示してくださることも感謝いたします。どうぞ主よ、あなたとの親しい交わりを大切にしながら自分自身に与えられている、「分」というものを良くわきまえることができるように、正しく自分を量ることができるように、そして与えられた「分」を通して、心から主にお仕えしていくことができますように。4月から始まる新年度においても、私たちは生き生きと、よろこんで主にお仕えできるように、またそこで与えられる交わりを感謝し、互いに組みあったり結び合わされたりしながら、共に愛のうちに成長していくことができますように、どうぞ私たちを導いてください。御言葉を心から感謝し、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします 。

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