横浜バンド、熊本バン ド、札幌バンド~日本プロテスタントの三大潮流
・宣教師たちによってもたらされた福音の種を、日本人はどのように受け入れたか。
1.禁教解除後も続く迫害
・1873年(明治6)、キリスト禁教の高札が撤去され、日本においてキリスト教が容認される。
・ただし、長い鎖国のもとに培われた反キリスト教の国民感情や「ヤソぎらい」は、簡単には払
拭されず、多くの信徒たちは引き続き迫害された。
「耶蘇退治馬鹿のしんこう」
・1881年(明治14)、当時のキリスト教徒たちを馬鹿にするために大阪で売り出された番付表。
天主を親だと思うて我が父母を粗末にする奴(東大関)
神宮を蔑にして耶蘇を執心する奴(西大関)
世界中に神は一人よりないといふて氏神を参らぬ奴(東関脇)
耶蘇の書籍を車に積上げて市街を売歩行奴(西小結)
耶蘇を信じて先祖の弔らひもせぬ奴(西前頭三枚目)
耶蘇を信じて人の交際をたつ奴(東前頭四枚目)
耶蘇の提灯を軒に釣り近所を信者に引入れんとする奴(東前頭六枚目)
耶蘇教を飯もくわずに聞きに行く奴(西前頭千枝引
物だかに十字架を表へたてる奴(東前頭一五枚目)
耶蘇を信じて茶ものまず白湯ばかりのむ奴(東前頭十九枚目)
耶蘇を信じてやたらにをどる奴(前頭二十五枚田 )
わかること:
①民衆の反ヤソ感情がむき出しになっている。
②キリスト教のもつ非寛容な唯一信信仰、伝道への熱心さ、ムラのきめごとを大切にしない姿、
安息日厳守の滑稽さ、生活全般の禁欲的傾向への反発、嫌悪感…。
③その反面で、旧来の社会に果敢に挑戦し、孤立や迫害にも屈せずに信仰の道を守り通したエネ
ルギーにあふれる当時の信徒たちの姿も伝わってくる。
・明治初期の伝道は牧師や宣教師ではなく信徒たちが担っていた。
・真剣に伝道する信徒たちの働きにより、日本各地に福音が広まり、教会が都市部だけでなく地
方にも建てられていった。
・その後、宣教師や牧師の数が増え、神学校が整備され。教会が組織化されるに連れ、伝道の中
心は信徒から専門の伝道者になっていった。
2・横浜バンド
(1)誕生
・1865年、ブラウンやバラの日本語教師だった矢野元隆が受洗 (日本人最初の受洗者)。病が悪
化し、その一ケ月後昇天。
・1872年 (明治5)3月1O日、イェス公会が誕生。(その後、横浜公会と改名。現在の横浜海岸
教会)
・福音同盟会が提唱する初週祈祷会は、日本人青年たちも参加。集会はリバイバルの様相を呈
し、9名の青年たちが受洗。先に受洗していた2名と合わせて日本人1I名からなるイェス公会
(横浜公会)が誕生した。
・仮牧師はバラ。執事は小川義綏と仁村守三。
・「横浜公会」は日本に初めて設立された教会として、教会の歴史の起点になっている。
(2)特徴
・宣教師たちが土台を築いた。
「ヘボンの学識、フルベッキの洞察力、ブラウンの敬虔さ、バラの情熱が、横浜バンドの骨
格を作るのに貢献した」(高谷道男・太田愛人「横浜バンド史話」)
・植村正久、井深梶之助、本多庸一、押川方義など、後のリーダーたちを輩出し、日本プロテス
タント史の一大潮流となった。
・中心人物は植村正久。富士見町教会を設立し、牧会する。「福音新報」主筆。東京神学社校長。
・特徴:教会中心の基本的姿勢。
・指導した宣教師が長老派や改革派だったために、長老制をとる。
・後に 「日本基督教会」となり、戦前における日本最大のプロテスタント教会になった。
公会主義
・「教会」ではなく「公会」と名づけた。プロテスタント諸教会の教派性から解放された超教派的
方向を目指した。
・弘前、上田、長崎、東京、各公会が設立。アメリカン・ボードの宣教師たちによって、摂津第
一、大阪梅本町、京都第一などの公会が設立されていく。
・背景:宣教師たちの意向十日本人信徒たちの持つ強いナショナリズム
・特徴:熱烈かつ単純な福音主義
・教義や信条、礼拝儀式よりも生活や実践、体験が大事
・倫理的清潔さ
・運動としてのキリスト教
・その後、公会主義は継続できず、「公会」は 「教会」になっていく。
① 様々な教派の宣教師が日本にやって来るに及んで公会の維持が難しくなった。
② 横浜公会そのものが長老主義に立つ一教派に過ぎなかった。(公会の中には会衆主義に立つ
教会もあり、その後、内部分裂した。)
③ 横浜公会そのものの中に、信条や神学を軽視する傾向が強かった。
横浜バンドの拡がりの一例:埼玉県第一号の教会、和戸教会
・I878年 (明治11)1O月、日光御成街道と古利根川によって区切られた和戸村 (現在の宮代
町) に、信徒13名をもって和戸教会が誕生 (当時の和戸村の人口は600人)。以下の三名が中
心 。
① 篠原大同:ヘボンの施療院にて、ヘボンから軟膏の作り方を伝授され、塗り薬を開発。
皮膚病、潰瘍、できものなどに効果があり「ヘボン膏」という名で埼玉県内だけでな
く、関東地方全域で人気となった。ヘボン膏の売り上げは、教会建築の費用として用い
られた。
② 小島久右衛門:養蚕の産卵紙販売のために横浜に向かう。そこで胸の病気にかかり、ヘ
ボンのところへ担ぎ込まれた。ヘボンを通して聖書のことばに触れ、横浜公会にてバラ
より洗礼を受け、その後和戸村へと帰る。たくさんの聖書を持ち帰り、和戸村で販売し
た 。
③ 小菅幸之助:和戸村の大工。西洋建築の技法修得のために横浜に出かけ、ヘボンやバラ
と出会い、横浜公会にて受洗。フェリス大学院や横浜海岸教会の建築に携わる。1882
年 (明治15)、小菅が建築を手がけ、和戸教会の会堂が建設された。
(信徒の働きにより、地方に教会が設立されていくという、明治初頭の日本各地に見られた典型
的な例。)
3・熊本バンド
(1)誕生
・明治4~9年までのあいだに熊本洋学校でジェーンズの薫陶を受け、花岡山上でキリスト教を
奉じ、この教えを日本国に宣布しようと決煮した人々を中心とする一団。
・1871年 (明治4)熊本藩が人材の育成を図るために熊本洋学校を設立。校長としてアメリカか
らL・ジェーンズが招かれる。
・ジェーンズが主催した聖書研究会に学生たちが多数集まり、参加者の中からキリスト教の信仰
を告白する者が続出した。
・1876年 (明治9)1月30日 洋学校の学生40名が、熊本郊外の花岡山にて祈り会を開催。
「奉教趣意書」を発表した。キリスト教の教えを日本国に宣布しようと決意した。
奉教趣意書
「余輩嘗て西教を学ぶに頗る悟る所あり、爾後之を読むに益々感発し欣戴措かず、遂
に此の教を皇国に布き、大に人民の蒙昧を開かんと欲す。・‥」
・学生たちがキリスト者たちになったことが大問題となり、ジェーンズは解任され、学校は閉鎖
されることになった。
・学生たちの多くは1875年 (明治8)に開校した同志社に移り、新島襄やアメリカ・ボードの宣
教師たちの薫陶を受ける。海老名弾正、金森通倫、小崎弘道、宮川経輝、横井晴雄ら、後の組
合教会のリーダーたちを多数輩出した。
(2)特徴
①信仰は進歩的・自由主義的 (ジェーンズの神学的立場が自由主義)
②国家主義的傾向が強い
③高度な倫理を追及 (横井小楠の儒学・実学の影響)
④ 神と自分の関係を、儒教的な主君と家臣との関係でとらえ、神への献身・服従を
理解した。(福音を、彼らがそれまでもっていた儒教的な枠組みによって理解
し、受け止めた)
(3)その後の展開
・熊本バンドの影響を強く受けた日本組合教会は教勢を伸ばし、日本における二番目に大きい
教派へと成長した。
・国家や社会問題に常に関心を持ち、進歩的性格が強かった。
・後にドイツ自由主義 (新神学)の影響を強く受け、教会が著しく混乱した。
・金森通倫、横井時雄など、伝道よりも社会運動・政治運動に傾斜したり、信仰を失う者も起
こった。
・1910年の日韓併合を機に朝鮮伝道に着手したが、政財界のバックアップを受ける植民地伝道
となった。
・1920年代頃より天皇制を賛美する傾向が強まった。
4.札幌バンド
(1)誕生
・1876年 (明治9)、クラークが札幌農学校の初代教頭に就任。(在任8ケ月)
・「イェスを信ずる者の契約」に、伊藤一隆、大島正健、佐藤昌介など一期生全員が署名。福音主
義とピューリタン的な生活倫理が強調されている。
・一期生の強力な働きかけにより、二期生の多くが 「イェスを信ずる者の契約」に署名。その中
に、内村鑑三や新渡戸稲造、宮部金吾などが含まれていた。
「イエスを信ずる者の契約」
・キリストの告白、十字架のキリストへの感謝、その表現としての 「真実基督教徒たる諸々の義
務」、聖書は 「神が人に言語を以て顕せる唯一なる直接の天啓」として理解した。
・1878年 (明治11)、彼らはメソジスト派の宣教師M・C・ハリスから洗礼を受けた。
・聖公会とメソジストの分裂後、教派主義の弊害を感じた彼らはいずれの教派やミッションにも
属さない 「札幌独立教会」を設立した。
(2)特徴
・当初から個人主義的、無教派的傾向が強かった。
・制度化された教会に対して批判的な傾向が見られる。(新渡戸稲造は後にクエーカー教徒にな
り、内村鑑三は 「無教会」を創立した。)
無教会主義の特徴
① 外国の教派や宣教師からの独立、② 洗礼、聖餐式の否定、③ 職業的教職制度や献金制度
の否定、④ 忠実な聖書研究集団
5. まとめ
① 三バンドとも士族中心の形成が見られる。それゆえに強い政治意識をもっていた。
② 横浜バンドの面々はその勢力を伝道と教会形成に向け、熊本バンドは社会活動や倫理的生活
の追求に向けた。
③ 敬虔を重んじたが、罪意識と贖罪理解が暖昧。
④ 神学よりは実践。教理よりも体験。
⑤ 教会観が不明確、キリスト教の伝統にも関心が薄い。
⑥ 敬虔で、倫理的で、伝道熱心だったが聖書理解は不十分だった。やがて国家主義、社会主
義、自由神学などの影響が強まった時、影響し混乱する教会が多かった。
⑦ 福音が日本人キリスト者の間に十分に受肉されていくまでには、なおしばらくの時間が必要
だった。
6.内村鑑三の生き方を通して
自分の価値観や考え方を土台とするのではなく聖書の御言葉を土台とする生き方はどのように確立されていくでしょうか?
内村鑑三一人の人生を見ても、彼の最初の頃と最後の頃はだいぶ違います。彼の信仰の奇跡を見ても、やはり少しずつ御言葉に形作られ、みことばに捕らえられていくというプロセスがあったと思います。奥さんを病気で失うとか、いろいろ迫害されるとか、娘さんのルツ子さんを失うとか、色んな経験しますけれども、そういう中でどんどんどんどん信仰が練られて行くという経過をたどっていることがわかります。明治の信仰者たちはそういう葛藤を繰り返しながら、少しずつ少しずつ成長していったんじゃないかなと思います。
そのような先人たちの姿は、やはり私たちに重なるものがあるんじゃないかなと思いますね。わしたちも、御言葉を土台とした、そのような信仰が確立されていくことを是非、目指してきたいなと思います。