教会はキリストのからだ-エペソ書1章20~23節
プロローグ
1.神の大能の力
そしてその続きが今日の箇所ということになるんですけれども、パウロの祈りはさらに新しいメッセージへと繋がっていくということが今日の箇所でわかります。
20節と21節の言葉をお読みしたいと思います。「この大能の力を、神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に就かせて、全ての支配、権威、権力、主権の上に、また今の世だけでなく、次に来る世においても唱えられる、全ての名の上に置かれました」。この大能の力、つまりパウロがひとつ前の、19節で祈ったところの信じるものに働く神の優れた力を、「神はキリストのうちに働かせた」とここに記されてあります。つまりどういうことかと言うと、もし私たちが神の力を知りたければ、キリストを見ればいいということであります。キリストの中に、神の力が豊かには証されているということです。そしてそれはどんな力なんでしょうか?
1番目にキリストを死者の中からよみがえらせた力であるということが出てまいります。
そして2番目にキリストを、天上でご自分の右の座に就かせた力であるということがわかります。この二つの事実のうちに神の大能の力が表されているということが教えられる箇所であります。
①まず神はキリストを死者の中からよみがえらせました。キリストは十字架につけられて死んで葬られましたけども、三日後に蘇った。蘇ったのは、蘇らせた神様がいるからです。神の大能の力がキリストのうちに働いたからこそ、キリストは蘇ったということがわかります。
②また、神様は、復活されたキリストをそれから間もなくして天上に引き上げて、「ご自分の右の座に就かせた」と次に出て参ります。この地上から天上に引き上げてくださった。イエス様は、自動的に天上に上がっていった わけではないですね。天国に続くエレベーターがあって、そこのエレベーターに乗ってずっと登っていったわけではなくて、神様の大能の力がキリストに表わされたからこそ、天上に引き上げられた。神様がそのようにキリストを天に引き上げてくださった、ということであります。このように神様は、まずその大能の力、神様の豊かな力を、キリストのうちに働かせてくださいました。そしてこの大能の力が、信じるものに働くんだということを19節に書いていたわけであります。「この神の優れた力が、どれほど偉大なものであるかを知ることができますように」というのがパウロの祈りでありました。そしてその神の力の具体的な表れというのが、20節に記されてあるということが分かるかと思います。
2.私達、人間には勝利できない「死」と「悪」
私たちがこの世で生きていく上で、どうしても勝利することができない二つの敵がいると思います。どうしても乗り越えることのできない障害、二つの障害があると思います。
それは死という敵であります。そしてもう一つは悪という敵であります。この二つは、私たちどんなに頑張っても乗り越えることが出来ない敵であり障害であります。
まず私たちは「死」に勝利することができません。私たちはいつの日か、必ず死ななければいけないんですね。どんなに頑張っても、どんなに健康な人でも、いつか必ず死を迎える。そしてここから逃れることはできないんです。この死を前にして私たちは全くの無力です。これが私たちの現実であります。
3.信じる者に働く神の力
①「死」に対して
ところが私たちが、もし神を信じキリストを信じればどうなるんでしょうか?ここに書いてありますね。「信じる者に、神の優れた大能の力が働く」と19節に書いてあります。そしてそれは、どのような力でしょうか?それはキリストを死者の中からよみがえらせた力である。そしてそのキリストを天上にまで引き上げた力であるということであります。このキリストに働かせた神の力が、「信じるものに働く」とここで約束されている。私たちもキリストと同じようによみがえるし、キリストと同じように私たちも天に引き上げてくださる。そのような力が「信じる私たちのうちに働く」とここで約束されているのはなんと幸いなことではないでしょうか。なんと素晴らしい約束ではないでしょうか。この神の力によって私たちはもう自分ではどうすることもできないこの問題に、勝利することができます。決して乗り越えることのできないこの障害を乗り越えることができます。「神の優れた力がどれほど偉大なものであるかあなたがたが知ることができるように」とパウロは祈りましたけれども、本当にそうだなと思いますね。私たちは生きているうちから、この神の大能の優れた力を、豊かに知ることができるように、本当に祈りたいと思いますね。そのような確信を持って、平安を頂いて、与えられた人生を歩んでいけたら、なんと幸いではないでしょうか。ぜひ信じようではありませんか。
②「悪」に対して
また私たちはこの世にあって悪という敵にも勝利できるできないですね。この悪という問題に対しても私たちは、全くの無力であります。罪人である私たちは堕落しております。罪の故に堕落しておりますね。そしてこの世の空中の支配者と呼ばれるサタンが、この世を支配しております。ですから私たちはこの世の中にあっても全くの無力だと思います。この世が非常に悪のために歪んでいて、邪悪に満ちていたとしても、私たちにはどうすることもできない現実でありますね。私たちにそれを変えることはできないわけであります。
ところが聖書には、神が「天上でキリストをご自分の右の座に就かせた」と20節に書いてありますね。天上にあげられたキリストは、神の右の座についている。この神の右の座で、キリストは何をしてるんでしょうか?21節を読んでみたいと思います「全ての支配、権威、権力、主権の上に、また今の世だけでなく、次に来る世においても、唱えられる全ての名の上に 置かれました」いう風に書いてあります。
神の右の座というのは、これは権力を行使する場所という意味であります。つまりキリストは神の右の座に着座して、神の絶対的権威をここで行使してるということであります。キリストはすべての支配、権威、権力、主権の上に置かれて、これらの上で神の権威を行使しておられる。また今の世だけでなく、次に来る世においても同じように神の権威を行使されるということがわかります。つまりどんなに時代が変わってもこのキリストの主権は変わらないということでありますね。私たちは、これからの時代がどうなっていくのか?色々不安を覚えます。いったいこれから世の中、どうなっていくんだろうか非常に心が騒ぐ、そういう世の中になってきてるんじゃないかなと思います。けれども、どんなに時代がかわっても、今の世だけではなく、次の世も、このイエス様の主権が変わらないこと、全ての権威、すべての支配、権威、権力、主権の上に君臨しておられるイエス様がおられるということを、私たちは決して忘れてはいけないのであります。
そしてこの偉大な力についてパウロは、ローマ書の中で、こう言っています。「誰が私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いやよみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座につき、しかも私たちのためにとりなしていてくださるのです。誰が私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」。「しかしこれら全てにおいても私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」。
ローマ人への手紙の8章34・35・37節を今読みました。その所にイエス様は神の右の座について私たちのためにとりなしていてくださると書いてあるんですね。神の右の座に、一番力のある、権威のあるその場所に着座して、私たちのために祈っていてくださるというのは、なんと幸いな恵みではないでしょうか。神様がすぐそばにおられる、その耳元でですね、祈ってくださっているっていうのは本当に幸いなことではないでしょうか。そしてこの世にあって私たちはキリストの愛から引き離すものは何もない、苦難も、苦労も、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、どんなものも、私たちをキリストの愛から引き離すものは、何にもない。そしてわたしたちはこの神の力に守られて、「この世にあっても圧倒的勝利者です」とパウロは告白しているんですね。私たちがこの地上を全うし、この与えられた人生を全うするために必要なのは、まさにこの神の力ではないでしょうか。天に栄光が待っているのも素晴らしいですね。その約束は変わらない。本当に感謝ですね。のぞみも与えられています。
でも将来のことだけじゃなくて、今のことも大切です。今も大変な戦いがたくさんあるけれども、そこにおいても、神の力が私たちを守っていてくださる。キリストは、私たちの主権者であるということをぜひ覚えようではありませんか。信じるものに働く神の優れた力が、どれほど偉大なものであるか。信じるものに働くと書いています。是非私たち信じようではありませんか。この神様、キリストを信じようではありませんか。そして信じるもののうちに働く神の力を、豊かに味わいながら、与えられた人生を一歩一歩前に進んでいきたいと思います。
4.キリストが君臨している場所、あるいはその位置関係
今日のメッセージはここまででも素晴らしいメッセージだと思うんですけれども、ここで終わらないんですね。パウロのメッセージはさらに素晴らしい展開へと繋がっていくということがわかります。今度は22節23節を読んでみたいと思います。22節「また神は全てのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つ頭として教会に与えられました」。23節「教会はキリストの体であり、全てのものを、全てのもので満たす方が満ちておられるところです」。このようにパウロのメッセージが展開していきます。
22節の冒頭の言葉は、21節の続きであるということがわかります。キリストを、この世の全ての力の上に置かれた神は、同時にすべてのものをキリストの足の下に従わせているということがここに書いてある。ここに上だとか下とかが出てくるんですけれども、パウロはここでキリストが君臨している場所、あるいはその位置関係に、注目しているということが分かるかなと思うんですね。
整理してみますと、まずキリストはすべての支配・権威・権力・主権、つまりこの世の全ての力の上おられるということが21節に書いてあります。そして同時に22節を読むと、この世の全てのものはキリストの足の下に従わせられているという風に書いてあるんですね。
結局よく考えてみると、この二つは同じこと言ってるなというふうに思いますね。おそらく天の方向から見れば21節のように見えるんだと思います。この地上の全ての力の上にキリストが置かれていると天の方向から見ればそのように見えるでしょう。でももし、地上の方向から同じことを見れば、22節のように見えるんではないでしょうか。この地上のすべてのものはキリストの足の下に従わせられているっていう風に見えるんじゃないでしょうか。
キリストの足の下っていうのは、これもちろん比喩であってですね、イエス様の足が見えるわけではないですけれどもでも、これは地上から見た見方であるということが分かるかと思います。そしてこのようなを両方の表現を通してパウロは何を言いたいかと言うと、キリストの絶対的主権というものをここに鮮やかに表しているわけであります。キリストが、神の力を絶対的なその主権を、この地上において行使しているということであります。上から見てもそうですし、下から見てもそうです。もうあらゆる方向から見て、キリストは明らかに主権を持ってこの地上を納めておられるという、この力強いキリストの姿を、パウロはここに書き留めている。まさに私たちの信じているイエス様は王の中の王であり、主の中の主であるということを、私たちはこの箇所をとおして信じることができるわけであります。
5.み心の奥義・・「教会」こそが神様の救いのご計画の中心
このようにして、パウロはこの箇所において、主権者であるキリストの姿を非常に鮮やかに書き留めた上で、そしてここで私たちの命を、このキリストの姿に釘付けにしておいた上で、さらに次のメッセージにも繋がっていくんですね。この辺のパウロの筆の運び方というのは、実に見事だなと思いますね。どうしてかと言うと、この後に教会が出てくるんですけれども、教会がいかに素晴らしい場所であるか、教会がいかに祝福された存在であるかということを、鮮やかに、このような展開の中で書き留めているからなんですよね。そのようなパウロのこのミステリーが、今まさに明らかにされていく、その所をハラハラドキドキしながら読んで行けたらいいなというふうに思います。そのような念入りな準備をした上で、パウロは22節23節でこういうふうに言いました。もう一度読んでみます。「また神は全てのものをキリストの足の下に従わせ、キリストをすべてのものの上に立つ頭として、教会に与えられました。教会はキリストの体であり、全てのものを全てのもので満たす方が満ちておられるところです」。このような書き方の中で、ついにパウロは、それまで秘められていたところの神のご計画、隠されていたところの、ご計画を明らかにしました。その全貌を明らかにしました。長い間 隠されていた神様の救いのご計画の中で、隠されていたみこころの奥義がはっきりとここで示された。その御心の奥義とは何でしょうか?教会であるということが分かるんです。教会こそは、御心の 、そして神様の救いのご計画の中心に置かれているということを、私たちここから教えられるんではないでしょうか。そして私たちはこのような文脈の流れを通して、教会というのは本当に素晴らしい存在なんだ、教会は本当に祝福された場所なんだということを、教えられるわけであります。
二つの事をここで私たちは教えられます。
①第一に教会はキリストの体であるということを教えられます
教会はキリストの体です。からだという時に、それは頭がキリストであるということを表してますね。私たちの頭がキリストであって、そのキリストのもとに集められて一つにされた有機体としての体である、それが教会であるということが教えられている。しかもその頭は全ての支配・権威・権力・主権の上に置かれている偉大な権威を持っている、主権を持っているキリスト、全てのものを足の下に従えているこの圧倒的力を持っているキリストが、なんと私たちの頭になってくださっている。しかもそのキリストが教会に与えられている。なんと素晴らしい、力強いメッセージが、ここに記されていることでしょう。
私たちは、このキリストのもとに集められて、そしてこの神のご計画の中で召し出されて、キリストのもとに一つとされている。これが教会であるということを、私たちは是非この御言葉から覚えたいと思います。私たちの、この手が動くのはですね、どうして手が動くかと言うと、頭から指令が出てるから動くわけですよね。頭から手を動かす指令がでるから、動きますね。私たちが頭からの指令を受けて、食事をしたり、体操したり、運動したり、歩いたり、お風呂に入ったりしてるわけですけれども、全部それは頭からの指令が出て動いてるわけであります。同じようにキリストの体である私たちは、頭になるキリストの指示に従って歩みます。それが教会であります。そのようにして、私たちはキリストの御心に従って、キリストの指示に従って、神のご計画を、この地上に進めていくみこころを実現していく、それが教会であるということを、この場所から覚えたいと思います。
②第二に教会は、全てのものを全てのもので満たす方が満ちておられるところです
このように23節に書いてあります。教会は、キリストの体であり、全てのものを全てのもので満たす方、つまりキリストが満ちておられるところですよとパウロは教えているわけであります。教会がキリストの体であるという時、教会にはキリストの命が満ちています。そしてキリストのご性質が、ここに満ちております。
そのようにして教会はキリストをこの世にあって表す存在であるということであります。私たちはこの箇所を通して教教会の素晴らしさということについて、改めて教えられるんではないでしょうか。教会というのは、本当にすごいところなんだなと、素晴らしいところなんだなということを教えられるんではないでしょうか。すべてのものの上におられ、全てのものを足の下に従わせている、すべてのものの頭である主が、教会に与えられていて、そのキリストのもとに私たちが集められていて、そして全てのものを全てのもので満たすキリストが、ここに満ちておられる。
私たちは果たして教会というものそういう場所としてとらえてきたでしょうか?教会ということを考えるとき、そういう存在として私たちは今まで意識してきたでしょうか?何か私たちの目から鱗が落ちるようなそんな箇所ではないかなと思いますね。
本当に教会に与えられている恵に、目が開かれるような、そういう聖書の箇所ではないかなと思いますけれども、私たちはもしかするとまだまだ教会の素晴らしさということについて知らないのかもしれない。教会ということについて聖書からまだまだ充分に聖書から教えられて いないのかもしれない。教会ということについて、私たちはもっと教えられていく必要があるんではないでしょうか。
先程、使徒信条の中で私たちは告白しました。「われ教会を信ず」。教会を信ずるという風に先ほど私たちは告白をしました。私たちはどうでもいいものは信じないですよね。価値のないものを私たちは信じないです。私たちは信じると告白するからには、それは信じるだけの価値があるからこそ信じるわけですよね。それが本当に素晴らしいもの、確かなものであると思うからこそ、私たちは信じるわけであります。どうでもいいものを私たち信じないんです。私たちが「われ教会を信ずる」と告白するということは、それはつまり教会が信ずるに値する価値ある存在であるということを認めているっていうことなんです。そういう認識を持って、私たちは使徒信条を告白してるでしょうか?教会が本当にそういう存在であるということを意識しながら、認めながら、私たちはその事を信じながら、告白しているんでしょうか?
私たちはまだまだ教会ということについて知らないんではないかなと思うんですね。
教えられていく必要があるんじゃないかなということを思います。
教会はキリストの体であるということ、全ての上に立つ頭であるキリストが、ここに与えられたということ、そしてそのキリストの権威のもとに私たちが集められて、そしてここで全てのものを満たす方が、満ち満ちている、そういう場所である、そういう存在である、ということをぜひ覚えたいと思います。
6.まとめ
最後に私たちは考えたいと思います。本当に私たちはキリストの体になっているでしょうか?「教会はキリストの体です」と定義してくれていますけれども、本当に私たちはキリストの体になっているでしょうか?私たちは本当に、「頭なるキリスト」に連なっているんでしょうか?キリストの指示に従って歩んでいるんでしょうか?頭であるキリストは、あんまり意識されないままに、私たちが頭になってしまってるって事はないでしょうか。
そうなってしまうと、体はバラバラですね。分裂してしまいますね。私たち自身が頭になってしまうことがないように、私たちは注意しなければいけないと思います。また私たちの家に、キリストが満ち溢れているでしょうか?神がキリストのうちに表されたこの命や力というものが私たちの中で豊かに表されているでしょうか?私達が教会に来た時に、神様の大能の力を豊かに味わい、豊かに吸収できるそのような場所になっているでしょうか?そもそもそのようなところとして私たちは教会を意識してきたんでしょうか?私たちは今日の御言葉を通して教会はキリストの体であるということをぜひ心に覚え、自覚したいというふうに思います。そして是非キリストの体としての成長を、私たちは追い求めていこうではありませんか。私たち一人ひとりが、キリストにしっかりと連なって、キリストを中心として、一つにしていただこうではありませんか。そして私たちが教会に来た時に、本当に神様の素晴らしさを、ここで経験できる神の大能の力がここで表されている、キリストがキリストにあって私たちは勝利して歩んでいけるという、その確信をここでもいただくことができるような、そういう教会を私たちは目指していこうではありませんか。