イエス・キリストをより良く知るために

あなた方に恵みがありますように。エペソ6章23~24節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

いよいよ今日はエペソ書からの最後のメッセージということになります。ここまでたどり着くのにおそらく一年半ちょっとかかったかなと思いますけれども、エペソ書という一つの書物から連続してメッセージを聞き続けることができたことを感謝しながら、今日の最後のメッセージも期待して耳を傾けていきたいと思います。

エペソ人への手紙、この御言葉に聞きたいと思ったそもそもの理由は、教会とは何かということについて、皆さんと共に学びたいという願いがあったからでした。

教会ということについて聖書が何て言っているか、なんて教えているかということですね。教会が何をすべきかということを考える前に、そこから出発したいという思いがありました。そしてその点に関して私たちはいろんなこと、たくさんのことを、教えられてきたなという風に思います。

1.私達は何者であるか

教会とはまず、召された者たちの集まりであるっていうことを学んだと思います。私たちは今集まってますけども、ただなんとなく集まってきたのではなくて、神様から一人一人召し出されて、そしてここに集まっているということです。神様の召しを頂いて、神様のご計画の中で、主の御心を行うために、このようにして集められている交わりが教会であるということを学んだと思います。

また教会は神の所有のものであるということ、あるいは聖なる国民であるということ、神の家族であるということ、神のみ住まいであるということ、キリストの体であるということ、本当にいろんな言葉で表現されている、教会の豊かさ、素晴らしさということについて、一つ一つ教えられてきたかなという風に思っております。

そしてそこに召された私達としては、召された聖徒としてのふさわしい歩みが求められているということ、あるいは私たちが、愛の内に建てられていく共同体なんだと言うこと、いろんなことを教えられてきたなという風に思います。

私たちが何者であるかという理解は、私たちがこの与えられた人生、この地上での歩みを、本当に喜んで生き生きと歩んで行くために欠かせない大切な理解じゃないかなと思います。ですからそういう意味でエペソ書のメッセージが与えられてきたことを本当に感謝したいと思います。そして先週の学んだ箇所においては、本当にこの教会の麗しい交わりの素晴らしさということについて、具体的に教えていただけたかなと思っております。

パウロがエペソの信徒たちのことを心配して、祈ったり、手紙を書いたり、自分ではいけないので、テキコを送り出したり、そういう風にして本当に励まし合ったり、祈りあったりしているそういう姿、またその教会の信徒たちもパウロのことを心配し、祈っていたと思いますし、そのような愛の交わりに生かされている教会の生の姿というものを先週は教えられて、本当に素晴らしいなと思いました。ですから私たちもぜひ、この教会の姿に倣って、祈ったり、御言葉によって励ましあったり、訪問したり、いろんな関わりによって励まし合っていきたいと前回教えられたことと思います。

2.私たちには限界がある

ただ私たち、ひとつ注意しなければいけないことがあるかなと思います。それは私たちには限界があるということです。私たちの人に対する訪問や具体的な関わりが、その人にとって励ましになることもありますけれども、そうなってゆかない時もあるかなと思います。

私たちが人に対して書いた手紙とか、人にかける言葉が、その人の励ましになるということはあると思うんですけれども、そうなってゆかなくて、逆にその人を傷つけたり、その人を苦しめる結果になってしまうということも起こり得ることかなと思います。私たちはいつも祈ることができますけれども、その祈りも、時々ピントの外れてしまっている祈りになっているということもあるかなと思いますね。私たちは自分の中に限界があるということを、よくわきまえておく必要があるんじゃないかと思います。

3.ヨブの話から気付かされること

旧約聖書のヨブ記という書物の中に、苦しむヨブを励ますために、3人の友達がやってきたという話が出てまいります。ヨブは大変な 財産を失い、家族を失い、そして大変な病気に侵され、本当に苦しい経験をしました。そのヨブを励ますために、3人の友達がやってきたという話なんです。彼らは本当にヨブを励ますつもりでやってきたと思います。聖書を読むと彼らはヨブに同情し、慰めようと、互いに打ち合わせてきたという風に書いてありますね。ですから3人相談してヨブが大変なことになってるから、みんなで行って慰めようと、そういう気持ちでやってきたということがの聖書に出てくるんですね。本当に彼らはヨブのことを心配して、ヨブのためを思って、ヨブを慰めるために、少しでもヨブの力になりたいと思ってやってきた。そしてやってきたときに、ヨブの姿を見て、彼らは声を上げて泣いて、自分の上着を切り裂いて、チリを天に向かって投げて、そのチリを自分の頭の上に撒き散らしたと、そういう事も聖書に書いてあります。ヨブの姿があまりにも可哀想で、あまりにも哀れで、彼らは声を上げて泣いたとあります。本当に優しい人たちだなと思いますね。情が厚くて、そして本当に優しい友達をヨブは持っていたんだなということが分かるんですね。

ところが彼らがヨブに話しかけていくと、その話が思った通りに通じていかない。あるいは期待した反応がヨブから帰ってこないという時に、彼らはだんだんイライラしてくるんですね。そして言ってしまうんです。3人それぞれ順番があるんですが、それぞれ違う言葉ですけれども、ヨブに言ってしまうんですね。あなたの苦しみの原因は、あなたの中にあるんじゃないですか?あなたが神を恐れていないから、あなたはこういう目にあってるんじゃないですかっていうことを、3人それぞれ違う言葉でしたけれども、言ってしまうんですね。

そんな内容の事をヨブは言われてしまったんですけども、その言葉はヨブの励ましにならないだけではなくて、ヨブを苦しめる結果になっていく。一体彼らは何のためにヨブの所にやってきたかという、そういう話なんです。

彼らはヨブのことを慰めるために来たんじゃなかったんでしょうか?最初はそうだったんです。最初はそのつもりだったんです。

ところが結果的にはヨブを苦しめる結果になってしまった。この話というのは本当に私たちの姿をよく表してるんじゃないかなという風に思うんです。

私たちの中にも善意があります。優しさを持っています。人のためになりたいという願いを持っています。その動機を持って人と関わります。ところが思うように期待した通りに事が前進していかない。期待した反応が返ってこない。そういう状況になってくるとどうでしょうか、私たちの心の中にだんだんイライラした思いが出てくるんじゃないでしょうか。

そして思わず言わなくてもいいことまで言ってしまう。こんなこと絶対言ってはいけないなと普段は思っているようなことまでふと出てしまい、その結果、その人を傷つけてしまう、その人苦しめてしまう、そういう結果になってしまうことがあるんじゃないかなと思うんですね。そういうところを私達みんな持っているんじゃないでしょうか。そのつもりではなかったはずなのに、でも何かが自分の心の中にあって、それがつい出てきてしまって、結果的には本当に人間関係がぐちゃぐちゃになってしまったり、信頼関係が壊されたり・・・、聖書って本当に人間の姿を的確に表してるんじゃないかなと思います。

でもそんな経験をしてみて、私たちは初めて気づくのかもしれないですね。

私には本当に愛がない、愛だと思っていたものは全然愛じゃなかった、結構冷たい人間なんだ、そういうことに気づかされて愕然とするようなことが、私達に時々あるような気がします。

人と関わる時に、私たちは、愛において実に乏しいということ、限界があるということを、私たちはよくわきまえていなければいけないんじゃないでしょうか。だからこそ私たちには祈りが必要だと思います。

4.パウロの最後の祈り「平安と愛と恵みが、豊かにありますように」

パウロはエペソ書の最後のメッセージ、最後の言葉を祈りの言葉を持ってこの全体の手紙を閉じております。それはどんな祈りだったでしょうか?それは、

平安と愛があなたがたと共にありますように。全ての人とともに恵みがありますように。

そういう祈りの言葉でした。教会の上に、あなた方の上に、平安と愛と恵みが、豊かにありますようにって、そういう祈りでこの手紙が閉じられているということを心に留めたいと思います。

この祈りが私たちにも必要なんじゃないでしょうか。この祈りが教会にも、私たち一人一人にも、必要なんではないでしょうか。そのことを今日、心に留めていきたいと思います。

①私たちが切実に求めている平安と愛 

まず23節でパウロはこのように祈っております。

信仰に伴う平安と愛が父なる神と主イエスキリストから兄弟たちにありますように。

このように平安と愛が兄弟たちにありますようにと祈っております。教会の上に平安と愛を求める祈りであったということがわかります。平安と愛と、セットになって出てきておりますけれども、この平安と愛というものは本当に私たちが必要としているものじゃないでしょうか。私たちが本当に心から欲しいなと思っているものではないでしょうか。

子育てをしている時もそうですね。本当に子供が言うことを聞いてくれない、もうイライラしてくる。神様、平安と愛を、私に!子育て真っ最中の親はみんなそういう祈りがあるんじゃないかなと思いますね。夫婦の関係でもそうですし、親子の関係でもそうですし、親戚の関係でもそうかもしれません。私達はひとたび人間と関わろうとする時に、必ずそういう問題が起こってきますね。そうすると本当に、「神様、平安と愛が私に与えられますように」と、祈らざるを得なくなってくる。そういう私たちじゃないかなと思います。

私たちは多くの場合、心に平安がないですね。私たちの心いろんな不安や恐れ、焦り、そういうものに支配されていることが多いんではないでしょうか。そのために私たちは、なかなか人を愛することができないです。愛だと思っていたものが、よく考えてみたら、それは愛でも何でもなくて、それは支配したい、コントロールしたい、あるいは執着心だったというようなことがあるんじゃないかなと思いますね。

また「平安」とここで訳されている言葉は、ギリシャ語の言葉では、平和とも訳せる言葉ですけれども、私たちの色んな人間関係において、全く平和がないっていうようなことがあると思います。

私たちは心の中では平安がなく、具体的な人間関係においては平和がない、その結果私たちの間に、なかなか愛が発揮されていかない、あるいは愛が歪んでしまう、そういう問題をみんな抱えているんじゃないかなと思いますね。

②一体、平安と愛はどこにあるんでしょうか?

聖書に書いてますね。

平安と愛が、父なる神と主イエスキリストから兄弟たちにありますように。

私たちは平安と愛の源であるかたに目を向けて、本当にこのかたに祈っていかなければいけない、そういうことを教えられます。パウロはこの平安と愛という事について、エペソ書でずっと教えてきたことでありました。2章の14節のところからパウロはこんなことを言っておりました。

実にキリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において隔ての壁である敵意を打ちこわし、様々な規定からなる戒めの立法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて、平和を実現し、二つのものを一つの体として、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

と、2章のところでそういうメッセージを語っておりました。キリストこそが私たちの平和であると、そこに書かれてありました。

当時ユダヤ人の人達とユダヤ人以外の異邦人の人たちが一緒になって教会を築いていくっていうのは本当に大変なことだったんですね。ユダヤ人達は、自分たちは特別な民族であるという特権意識を持っておりました。そして異民族・異教徒たちを、見下すようなそういう体質というのが、もう何百年の伝統の中に染み付いていたわけですね。そういう人たちが異邦人と一緒に教会形成やるなんて考えられないという感覚がきっとあったと思います。 そして異邦人の方も、そのように見下すユダヤ人に対する反発が当然あったと思うんですね。そういう人たちが一緒になって教会を形成していくっていうことは、本当に至難の技だったと思います。人間的に考えたら絶対にできないことだったと思います。

が、しかしそれが可能になる道があるんだよ、それはイエス様なんだよ、イエス様があなた達のそして私たちの平和なんだよ、イエス様が私たちの間に入ってくれたら必ずそこに平和が実現するんだよ、そういうことをパウロは教えてくれていた。敵意の壁が砕かれて、私たちの内にある敵意が廃棄される、そういうことも語られていましたけれども、パウロはもうすでにエペソ書の中で教えておりました。

また3章19節のところでは、

あなた方が人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

と、そう祈っている箇所がありました。キリストの愛がいかに広くて、長くて、高くて、深い愛であるか、私たちには知り尽くすことができない大きな大きな素晴らしい愛があるということを、あなたたちが知ることができるようにと祈っていたんですね。

愛もキリストによって与えられるということを教えられます。

平安と愛はどこからやってくるんでしょうか。それは父なる神と主イエスキリストから与えられる。その事をパウロはエペソ書の中でも教えてきたし、そして最後にそのことを繰り返す意味で、ここで祈りの言葉として、語っているということを心に留めたいと思います。 

私たちに本当に必要なものではなんでしょうか。平安と愛、それが本当に必要ですね。

平安と愛の源である神様、そしてイエス様を仰いでゆきたいと思います。

そのためには信仰が必要だと書いていますね。私たちは自分で人を愛せると思わないほうがいいのかもしれません。

この人は私がいなければ駄目になってしまうとか、私が何とかしなければならないとか、そういうことを思うことがあるかもしれません。どこかで私たちは愛せることを証明したい、そういう思いが隠されていることがあるかもしれません。そういうことを思っているとだんだんたかぶっていきますね。だんだん高慢になっていきます。私たちには愛は全くない。平安も全くない。その事を認めるべきではないでしょうか。

そしてどこからそれがやってくるのか、それをもたらす方をちゃんと見極めるということ、そしてその方に祈るということ、信頼するということ、それが私たちに求められているんではないでしょうか。普段の様々な人間関係の中で、私達は本当に探られますけれども、その祈りを、私たちの祈りとしていきたいと思います。平安と愛が、父なる神と主イエスキリストから兄弟たちにありますように、そのように祈るものでありたいと思います。

5.恵みがありますように

さていよいよエペソ書最後のメッセージに耳を傾けていきたいと思います。24節の言葉です。

朽ちることのない愛を持って私たちの主イエスキリストを愛する、全ての人とともに、惠がありますように。

先ほどは平安と愛でしたけれども、今度は「恵みがありますように」です。

最後の最後の結びの言葉は、私たちの上に、教会の上に、惠みを祈る、祈りの言葉であったということであります。ギリシャ語の聖書で読みますと、この 「惠」という言葉に定冠詞がついているって事に気づかされるんですね。定冠詞というのは英語で言うところの「The」という言葉です。つまりパウロはここで一般的な広い意味で「恵み」を語っているのではなくて、「その惠」と、言ってるんですね。つまりパウロが既にエペソ書の中で言及してきたところの「惠」、既に語ってきたところの「恵」、惠を意識しながら、その恵がありますようにとここで祈っているということに気づかさます。

パウロはエペソ書の中で恵について語ってきておりました。そして特に冒頭の1章2節でパウロはこんな風に祈っていたんですね。

私たちの父なる神と主イエスキリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

最初の手紙の一番最初です。一番最初の部分で、私たちの父なる神と主イエスキリストから恵みと平安があなたがたにありますようにって祈っていました。つまりエペソ人への手紙は「恵みがありますように」と、恵みを祈るパウロの祈りから始まり、「恵みがありますように」と祈る、パウロの祈りで終わっているっていう事なんですね。初めと終わりが同じなんです。

つまりこの手紙は、最初から最後までこのパウロの祈りの中で書かれていた手紙であるということに気づかされます。この手紙の中に、いろんなメッセージが、次から次に出てきますけれども、この祈りがずっとこの手紙の中に貫かれていたっていうことです。そういう祈りに基づいてパウロは、この手紙をずっと書き続けてきた。そして最後にもう一度最初に戻って、そのことを確認して、そして最初と同じように、最後にもう一度繰り返してあなたがたの上に惠があるようにと祈っている、そういう全体的な構造が見えてきます。

6.恵みがなければ、平安もない

1章2節で、恵みと平安があなたがたの上にありますようにと祈って、そこから手紙が始まるんですけれども、でもこれは実はパウルの決まり文句でした。どの手紙を見ても同じです。ローマ人への手紙を見ても、ピリピを見ても、コロサイを見ても、コリントを見ても、ガラテヤを見ても、みんな同じですね。必ず最初にこの祈りから始まります。恵みと平安があなたがたにありますように、そういうお祈りから手紙が始まるんです。

そしてその全てで恵みと平安という順番で出てきます。平安と恵みがありますようにということは、ひとつもないですね。全部、恵みと平安がありますようにと、そういう言い方になっています。

これは何を表しているんでしょうか?惠があって、平安があるっていう事ですね。惠がなければ、平安もないということですね。

もし私たちが本当に平安を得たいと思うならば、惠が必要だっていうことなんです

私達の心にはなぜ平安がないんでしょうか?平静を装いながらも、胸に手を置いてじっと考えてみると、心の中はなぜいつも不安と恐れでいっぱいなんでしょうか?私たちは心の平安を得ることができないために衝動的になってしまったり、感情的になってしまったりするんでしょうか。それは私たちがまだ恵みを知らない、恵みを十分に味わっていない、その恵みを体験していない、そういうところに原因があるんではないでしょうか。その経験がないために私たちはいつも不安と焦りと恐れと動揺と、何かそういうもので心を支配されてしまってることが多いんじゃないかなと思うんですね。私たちに惠がいかに必要であるかということを聖書は私たちに教えている。パウロはいつでも祈りました。恵みと平安があなた方の上にありますように。惠が先だっているということを、心に留めていただきたいなと思います。

7.恵みを拒む心のパラドックス

そこで私達は惠が大切だということに気づかされますね。頭ではめぐみの必要性を理解し、心でもめぐみが欲しいなと思い、本当に恵があったら素晴らしいなと思います。ところが惠を歓迎しているようで、実際には恵みを拒んでしまうということも私たちに多くあることじゃないかと思います。

めぐみを経験したいと願っているのにもかかわらず、心の深いところではその恵みを拒絶してしまう、拒否してしまう、そういうことがあるんじゃないでしょうか?そういう矛盾に陥っているのにそのことに気づかないで、歩んでしまっていることも多いんじゃないだろうかと考えさせられるんですね。

なぜ私たちは日々惠が注がれているにもかかわらず、その恵みを拒むような愚かなことをしてしまうのか?それはおそらく惠が私たちの心の中にあるものを全部明らかにするからではないだろう かと思うわけですよね。

私の中にある、心の中にある罪の現実、そして神様に背き続けているその姿、それを私たちはあまり見たくないですよね。

私たちは自分の外側にある闇には非常に敏感です。この世の様々な不正とか、邪悪とか、矛盾とかそういうものには敏感に反応して、時に怒りを覚えたりすることがありますね。

でもそれと同じ闇が、自分の中にもあるんだっていうことに私たちはなかなか気付かないように思います。気づこうとしないし、気づきたくもないんじゃないかという気がします。

そして自分の中にある闇が明らかになることに抵抗してしまう。そういうことがあるんじゃないでしょうか。表面では敬虔さを装いながらも、心の深いところでは御心に背き、自分のことに固執して、自分自身を貫いてしまうっていう、そういうありかたがあるような気がする。そんな罪人としての姿、私たちの不従順な姿を、恵みの光が明らかにする。それで私達は困ってしまうんではないでしょうか。都合が悪いんではないでしょうか。それが分かるからこそ、頭の中では惠が素晴らしいと理解していながら、心の深いところでは、それを歓迎することができない、そういう問題というものを私たちは皆抱えているんじゃないだろうかと思いますね。そして形だけの信仰生活をまるでマニュアルのようにこなして、それで満足してしまうという誘惑が、どこかにあるような気が致します。確かに恵は私たちの罪を明らかにします。そしてそれは私たちにとって、心を痛めることかもしれない。

8.恵の本質

でもそれで終わりではないですよね。惠はなぜ惠なんでしょうか?それは私たちの心の中にあるものを 、全部光に変えてくださるからこそ惠なのではないでしょうか。私たちの心の中にある色々な私たちが見たくもないような現実、あるいは隠したいような物が全部光に変えられてしまうとしたら、それは何とすごい仁ではないでしょうか。だからこそめぐみなんじゃないでしょうか。惠の惠たる所以はそういうところにあると思うんですね。

人生50年60年70年、生きてくれば、私たちは本当に思い出したくもないような経験とか、失敗とか、挫折とか、あのときあんなことを言ってしまって人を傷つけてしまったというような、思い出したくもないようなことがたくさんあるんじゃないかと思います。 それを触れられるということはすごく嫌なことかもしれない。

でもそれさえも全部神様の恵みによって許されるとしたらどうでしょうか。それらを全部神様が光の経験に変えてくださるとしたらなんと素晴らしいことではないでしょうか。

わたしたちに許されない罪はひとつもない。どんなに深刻な罪であったとしてもどんな大きな問題だったとしても、許されない罪はひとつもない

どうしてでしょうか?それは神がご自分のひとりごを、 私たちのためにくださったから、そしてそのひとり子が私たちの罪の全てを背負って十字架にかかって死んでくださったから、私たちの身代わりとなって神の怒りを受けてくださったから、だから私たちの罪は全部 許されている。イエス様を信じる全ての者に、この恵みが与えられる、それが聖書のメッセージですよね。 それを知らないで終わってしまうのと、知ってはいるけれども経験しないで終わってしまうとしたら、それは本当に残念なことではないでしょうか。これが惠が恵みであることの所以であるということを、ぜひ私たちは覚えたいと思います。

9.まとめ

ジョン・ニュートンというイギリスの人が、この惠という言葉を形容する言葉として、アメイジングと言う言葉を使いましたね。 アメイジング・グレースという歌を彼は作りました。この歌は「驚くばかりの恵み」と訳されて私たちもよく歌う賛美歌ですが、 世界中の人に愛される歌になりました。 ある人はこれを、「信じられないくらいのめぐみ」、「びっくりする位の恵み」と薬したそうです。絶対にありえないことなんです。絶対に許されないことなんです。絶対に許されない罪なんです。 人間のレベルで考えたら絶対に許されないその罪が全部許されるその喜びがこの言葉の中に込められています。ジョンニュートンという人はかつては奴隷貿易に従事する奴隷船の船長だったということです。アフリカの黒人たちを大量に捕まえて売り飛ばしてしまうという、本当に最低な仕事に手を染めていた人だと言っていいかもしれませんが彼の手によって一体どれだけのアフリカの人たちが苦しんだことでしょうかどれだけアフリカの人たちの生活が人生が破壊されたでしょうか。そして、どれだけの悲劇がそこで引き起こされたでしょうか。そのように取り返しのつかない罪をたくさん犯した人ですね。 

でも  ジョンニュートンはイエス様に出会って人生が変わりました。イエス様に出会って惠を知りました。惠が何であるかを知りました。全ての罪が許される。そしてこの人は牧師にもなったと言われております。 そしてこの方が Amazing Grace という歌を作りました。。

神様の恵みはアメイジングである。そのジョンニュートンの大きな喜びがこの歌の中に込められているということを思いながら私たちはこの歌を賛美していきたいなと思います

パウロはエペソ書の最後で、「惠がありますように」 、「朽ちることのない愛をもって私たちの主イエスキリストを愛する全ての人とともに 」という祈りで終わっています。

私達が本当に深いところから解放されて、生き生きとした信仰者として歩むために必要なものは何でしょうか?それは「惠」です。私たちの教会が本当に愛に溢れた交わりにされていくために必要なものは何でしょうか?「惠」です。私たちがこの神様の愛を頂いて、この神様の愛に応えて、主体的に生き生きと積極的に生きていくために必要なものは何でしょうか?それは「惠」です。「 惠」は私たちの中にあるもの全部を明らかにしながらも、全部それを光に変えてくださるとすればそれは何と大きな恵みではないでしょうか。このめぐみが日々注がれているということを、私たちは覚えたいと思いますね。そして、この恵みにしっかりと浸る者でありたいと思います。その恵みを拒んでしまうというような愚かなことをすることなくしっかりと照らしていただこうではありませんか。 そしてこの祈りを私たちは大切な祈りとしてこれからも互いに祈りあっていきたいと思います。全ての人とともに恵みがありますように。

 

お祈りをしたいと思います。

愛する神様、今日エペソ書の最後のメッセージを閉じるにあたって、ここに至るまで主はこの書から豊かにいろんなことを教えてくださったこと、そして私たちの信仰を養ってくださったこと、特に教会の素晴らしさを教えてくださったことを覚えて感謝します。そして最後に、私たちが心から必要としている、私たちが主にあって喜んで生きていくいくために必要である、平安と愛、惠、それが全て主から与えられることを覚えて心から感謝いたします。どうぞ信仰をもって、いつもあなたを見上げ、この恵みに浸りながら、めぐみに導かれて歩んでいくことができるように、私たちを守ってくださるようにお願いいたします。み言葉を心から感謝して、イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。

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