イエス・キリストをより良く知るために

わが神、わが神、どうしてわたしを・・・・

 
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マルコの福音書の15章の33節から41節

さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。聖書 新改訳2017

今日はマルコの福音書の15章の33節から41節まで、ここから「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」という題で説教を、お語りしたいと思います。

教会のシンボルと言ったら、やっぱり十字架ということになると思います。教会に行くと必ず十字架が掲げられていると思います。私たちの教会にも屋根に十字架が立っていますし、礼拝堂の正面にも十字架が掲げられています。また外には十字架のタワーまでありますけれども、どこの教会に行ってもやっぱり十字架があると思います。

1.極刑としての十字架

しかし教会の歴史を振り返って見る時に、教会の歴史の最初の段階では、十字架は教会のシンボルではありませんでした。十字架というものが人々に戦慄と恐怖を与える、呪いの象徴だったからです。死刑に定められた人を処刑する方法はいろいろあるんだと思いますけれども、絞首刑とかギロチンとか電気椅子とか歴史の中で色んな方法が用いられてきたと思いますけれども、しかしこの十字架刑くらい惨い処刑法は他にないと思います。
どうしてかと言うと、これは囚人を苦しめながら長い時間をかけてじわじわと少しずつ殺していくという、そういう方法だからです。両手に釘を打たれたときに、もう、ものすごい激痛が体中に走ったと思いますけれども、その十字架が立てられた時に、全体重がこの釘のとこにかかる。そこでまた非常に激しい痛みをイエス様は感じられたことと思います。普通私たち人間は、耐えられないような苦しみを経験すると、気絶するようになっているんだそうですね。ところが十字架の場合は、気絶すると体重が、ぐっと前にかかってしまってですね、釘のとこにかかってしまうために、そこでまた目が覚めてしまうっていうんですね。気絶することさえも許されない。そういう惨い、ひたすら苦しめ続ける、そういう処刑法だったという風に言われているんですね。
そのあまりの惨さは、それを見た人が、もうトラウマになって忘れられないくらい、もうしっかり脳裏に焼き付いてしまう。そういう処刑法だったという風に言われている。ですから、この十字架刑の恐ろしさをみんな覚えているうちは、決してこれは教会のシンボルにはならなかったという風に言われています。

イエス様はまさに、そのような本当に惨い十字架刑を経験されたということであります。イエス様は十字架の上で肉体の本当に激しい痛みを経験されましたし、先週学びましたけれども、その間、人々から散々罵られたり、嘲られたり、馬鹿にされたり、精神的な苦しみも味わいました。

しかしイエス様にとっての最大の苦しみは、それらの苦しみではなくて、もっと大きな苦しみがあった。それは何かというと、それは父なる神様に見捨てられるという、そういう苦しみでありました。
今日の聖書の箇所の中で十字架上のイエス様が叫ばれた、その言葉が記されてあります。それはエロイ・エロイ・レマサバクタニっていう言葉。これをイエス様は大声で叫ばれたっていう風に聖書に記されてあります。この言葉の意味は、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味です。つまりこれは神から見捨てられた者の叫びであったということがわかります。
私たちにとって父なる神様に見捨てられるくらい悲しくて恐ろしいことはないと思いますね。私達はどんなに辛くても、どんなに悲しくても、色んな経験をします。いろんな辛い時がたくさんあります。けれども、でも、それでも生きていけるのは主が私たちと共にいてくださるという、信仰があるからですよね。それがあるから私たちは、どんなに辛くてもでも支えられて生きていけるんです。
ところがその神様に、もし私たちが見捨てられたとしたらどうでしょうか。もうこれは考えたくないことですね。それは恐ろしいことですね。絶望です。でもイエス様はまさに十字架の上でそのような体験をされたということであります。そして同時にこれはイエス様が神様、聖なる神の御怒りに触れて、御怒りを受けた。そういう体験でもあった、ということが言えます。33節に、

さて12時になった時、闇が全地を覆い午後3時まで続いた。

という風に書いてます。真昼間の12時に、闇が全地を覆った。一体何が起こったんでしょうか。砂嵐が起こったんでしょうか。それとも黒雲がもくもくと立ち込めてきて、太陽を覆い隠してしまったんでしょうか。詳しいことはわからないんですけれども、とにかくこの時、周辺が異様な雰囲気に包まれたっていうことがわかります。聖書を読んでいますと、暗闇というのは裁きの象徴であるということがわかります。例えば旧約聖書のヨエル書という書物がありますが、ヨエル書の3章14節と15節には、やがて来る裁きの日の情景についてこのように描かれています。

判決の谷には群衆また群衆、主の日が判決の谷に近づくからだ。太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う

って、そこにそう描かれています。判決の日って、これは裁きの日ですけども、この裁きの日には太陽も月も星も暗くなり、その輝きを失うっていうことがそこに描かれている。
イエス様の十字架の時も辺りは闇に包まれました。これはまさにイエス様が聖なる神の御怒りを受けて、裁かれたということを表しております。

その後イエス様は大声を上げて息を引き取られた。37節に書いてありますね。本当にこれは神様に向かっての叫びだったと思います。大声を上げて、そして息を引き取っていかれた。壮絶な死を遂げたということが言えると思います。

2.被害者は誰か

今月は東日本大震災から10年の節目の時なので、どうしても大震災の時の話が多くなってしまうんですけれども、10年前のことを色々思い出してるんですけれども、あの大震災の後、当時岩手にいた私は、しばらくの間被災地に対する支援活動に励んでおりました。
最初のうちは、これはまさに神様から与えられた使命だと思って、使命感をもって被災の現場まで結構行ったり来たりしてたんですけれども、あのだんだんですね、いつまでこれが続くのかなということを考え始めましたね。その状況が1ヶ月、2ヶ月、半年、1年、2年、3年と続いていきました。だんだん疲れも蓄積されていくんですね。そして最初はある意味では気持ちもそこに在るのですけど、だんだんですね、何のためにこれやってるのか分からなくなってくるような、非常に気持ちがついてこないような、体だけ動いてるのに気持ちがついていかないっていうような、そういうこともあったかなと思います。
さらに当時、福島原発由来の放射能問題にも、私たち悩んでたんですね。それで色々疲れが蓄積されて、非常に辛い気持ちが募っていくっていう、そういうことを経験いたしました。

そのように苦しんでいるときというのはですね、ちょっと精神状態が普通ではないんだろうなと思うんですが、その苦しんでいる自分の事が理解されないということがとても寂しくなったり、とても辛くなったり、そしてその理解してくれない人々に対する不満が、どんどん心の中で膨らんで行ったり。そして自己憐憫の感情のようなものにもひたってしまうという、ちょっとそういう被害者意識と言うんでしょうか。そういう気持ちに囚われてしまったことがあったなあというふうに思うんですね。

で、私もそういうことを経験しましたけども、私たち時々被害者意識のような気持ちにとらわれてしまうことがあるかなという風に思います。自分の受けた傷や痛み、そこにあるわけだけれども、それは必要以上に強調して人を非難したり攻撃したりしやすい性質や傾向というものを私たちは持ってるんじゃないかなという風に思います。そこには確かに受けた傷があり痛みもあるわけで、確かに被害者ということが言えるかもしれませんけれども、でもそこからだんだん離れられなくなっていく、だんだんその思いに縛られてしまう。そして、どんどんどんどん苦しんでしまうという、そういう傾向に陥ってしまうということが時々あるんじゃないかなという風に思います。

でもそういう時に私たちは、本当の被害者って誰だったのかなってことを思い出す必要があるかなという風に思います。本当の被害者はイエス様だったんじゃないだろうかという風に思います
聖書は私たち人間が生まれながら、御怒りを受けるべき子等であったという風に教えてるんですね。これはエペソ人への手紙の2章3節に出てくる言葉なんですけれども、

私たちは生まれながら、御怒りを受けるべき子等だった

と教えています。生まれた時にもう神の御怒りを受けるべき、受けなければならない、そういう存在であったということを教えてる。

 

神の御怒りを受けるって、どういうことですか。それはイエス様のような体験をするっていうことですね。私たちも実はイエス様のように十字架にかかって神の御怒りを受けるべき、また裁かれるべき、神に見捨てられるべき存在であったってこと。しかも生まれながらにして、そういう状態であったということを聖書は教えてるんですね。
私たちは生まれた時は純粋な可愛い赤ちゃんですね。でもだんだん大人になるにつれて罪を犯してっていう風に考える傾向があるかなと思うんですが、でも聖書は実はもう私達が生まれた時に罪ある者として生まれたって、そういう風に教えてる。ですから、もう私たちは生まれた時から御怒りを受けなければならない。そういう存在だったということなんですね。これが私たち人間の出発点なんだってことを、聖書は私たちに教えてます。

でも私たちは、ややもすると私たちは愛されるべき存在である、という風に思っていることが多いかなと思います。それが私たちの人間としての出発点になっていることが多いんじゃないかなという風に思うんですね。そのためにその願いを叶えてくれない人を見ると、非常に不満が自分の心の中に膨らんでいったり、その人に対して批判的になってしまうということがあるように思うんですね。そして知らず知らずのうちに、自分を被害者の立場において、人に愛を要求するっていう、そういう傾向があるんじゃないかなという風に思います。

でもそこで私たちは、イエス様は何のために十字架にかかってくださったのかということを思い出す必要があるんじゃないかなと思いますね。なぜイエス様は十字架にかかって本当に大変な苦しみを味わわれた上で死んでいかれたんでしょうか。

それは私たちが罪人だからです。つまり私たちが加害者ですよね。そしてイエス様は被害者です。私たちは罪人ですから、罪人である私たちが罪の結果として、いろんな苦しみを受けるのはある意味では当然のことじゃないかなと思います。罪人であり加害者でもある私たちが神の聖なる裁きを受けるのも、ある意味で仕方のないことじゃないかなと思うんですよね。
しかし何の罪も犯していないイエス様が、生涯にわたって一つも罪を犯したことのないイエス様が、裁かれるのは極めて異常なことです。イエス様は大変な被害者ってことになるんじゃないでしょうか。おそらくこの世で最大の被害者はイエス様だったということになると思います。

それなのにその被害者であるイエス様が加害者である私たちを、それにもかかわらず愛してくださり、そんな私たちの罪を赦してくださるとするならば、それは私たちにとって考えられないくらいの恵みですね。
そこに表されてる愛というものは、私たちにとっては信じられないような愛だと思いますね。そのような愛を私たちが知ったらば、もう被害者意識から解放されていく。それほどまでして自分が愛されているということがわかったら、私たちはそこに留まっていることができなくなるんじゃないでしょうか。

3.救いの道が開かれた

イエス様はまさに私たちのために死んでくださったっていうことを本当に覚えたいという風に思います。イエス様が大声を上げて息を引き取られた。ちょうどその時に38節に、

すると神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

という風に書いてあります。これは非常に象徴的な表現なんですけれども、これはイスラエルの神殿内部の至聖所の入り口にある幕が、上から下に二つに裂けたということを表しています。
神殿の中には至聖所と呼ばれる特別な部屋がありました。これは神の臨在の場所だったんですね。その部屋には、人は入ることが出来ませんでした。大祭司が一年に一回だけ入ることが許されていましたけれども、他の人たちは決して入ることのできない部屋があったんですね。ところがその部屋の内と外を隔てる幕が二つに裂けた。

これはイエス様の死によって、私たちが神の臨済に近づくことができるようになった。
つまり救いの道が開かれたっていうことを意味している言葉です。

上から下に二つに裂けたというのは、これは神ご自身によって救いの道が開かれた、ということを表しています。このようにイエス様の死というのは、イエス様の十字架の死によって神の怒りがなだめられて、そして救いの道が開かれた、ということを聖書はここで表しているわけであります。
イエス様は十字架の上で本当に苦しみを受けられました。そしてその後、壮絶な死を遂げられました。そのイエス様の様子を見ていた人たちが、周りにはたくさんいたんですね。でもイエス様の十字架を見ていたけれども、その意味を理解できない人達もたくさんいました。
イエス様が十字架の上で大声で叫ばれた時に側に立っていた人たちの何人かは、エリアを呼んでいるというふうに考えました。そしてエリアが下ろしに来るかどうか見てやろうっていうことで、そういう反応もここに出てきますけれども、イエス様の姿と死を見ても、これだけすぐそばで見ていても、イエス様の十字架の意味を知ることができなかった人たちがたくさんいた、ということがわかります。
でもその中で一人だけ、このイエス様の死の意味を理解できた人がいた、ということが今日の聖書の箇所に記されております。それはイエスの正面に立っていた百人隊長。百人隊長というのはまさにイエス様のこの処刑を執行したところのローマ兵百人隊の隊長ですけれども、この人がイエスの正面に立っていたって、ここに書いてありますね。
おそらくイエス様の十字架上の振る舞いとか、その語る言葉一部始終見てたんだと思いますね。そして辺りが暗くなっていくこととか、その中でイエス様が苦しまれていること。また散々色々と人々から嘲られ、罵られていたその時のこと。そして最後叫ばれたその時も全部見ながら、そして最後にイエス様息を引き取られた後にこの百人隊長は言ったんです。

この方は本当に神の子であった。

百人隊長だけはイエス様がどういう方であるのかを理解することができた。そしてイエス様が何のために十字架にかかって下さったのか、理解することができた。これは本当に幸いなことだったんじゃないかなという風に思います。

十字架の周りにいろんな反応がありましたけれども、では私たちはこのイエス様の十字架とどのように向き合っているでしょうか。私たちはこの十字架にかかっておられるイエス様をどのような思いで見つめているでしょうか。これは他人事でしょうか。自分とは関係のないお話でしょうか。歴史の中に出てくる一つの事件でしょうか。自分とは特に関係のないことでしょうか。それとも自分のことでしょうか。自分のこととしてイエス様の十字架あおいでいるでしょうか。イエス様がなぜ十字架にかかって、このような苦しみを味わわれたのか。その理由を決して忘れないようにしていきたいなという風に思います。今日は最後にコリント人への手紙の第2、の5章21節。今日の週報の中にプリントしてある言葉をみなさんで味わって終わりにしたいと思います。週報の方をご覧になっていただければと思いますけれども、コリント人への手紙の第2、5章21節にこのように記されてあります。

神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは私たちがこの方にあって神の義となるためです。

こういう風に聖書は教えてます。神様は罪を知らない方、つまりイエス様を罪とされたと、ここで教えています。イエス様は罪を犯したことは一度もない。罪を全く知らない、このイエス様を神様は罪とされたって、そしてこの方を、イエス様を神様はお裁きになりました。罪ある者としてお裁きになった。それは何のためだったんでしょうか。それは私たちがこの方にあって神の義となるためであった。私たちは義でもなんでもないですよね。

生まれた時から神の御怒りを受けるべき子等だった。生まれた時から罪ある者として、この世にやってきて全然正しくないんですね。神様の前に全然正しくない。そしてもう、ずーっと罪を犯し続けている。
でも、その私たちが義とされた、神の前に正しいものとされた。

これはもう考えられないことです。私たちが信じられないことですね。でもそれを私たち与えられている。そのためにイエス様が十字架にかかって死んでくださり、私たちの身代わりとなって苦しんでくださった、その恵みを是非皆さんに覚えていただきたいなという風に思います。

このイエス様の十字架上の体験とは、本当は私たちがしなければいけない体験だったんですよね。私たちが十字架の上にかかって、イエス様がもう見捨てられたように、私たちが神様から見捨てられなければならない。そういう存在だったんです。でもイエス様が代わりにその罰を受けてくださったことのゆえに、私たちの罪は許されたんです。救いの道が開かれたんです。この恵みを私たちは、ぜひ無駄にしないように本当に感謝して受け止めるものでありたいという風に思います。

4.結び

今皆さんの中で自分の罪の中で、もがき苦しんでいる人はいないでしょうか。人に対する憤りとか不満とか憎しみとか恨みとか、何かそういうものにとらわれてしまって、そこから離れられないと、そういう風に苦しんでいることはないでしょうか。確かに私達、傷を負ったり痛んだりするとですね、なかなかそこから離れられなくて、人に対する色々な悪い気持ちにとらわれてしまう。そして結果的に自分も苦しんでしまう。自分も傷つけてしまい、そういうことになりがちかなと思うんですね。
そういう経験をすると私達はそこからなかなか離れられないんですね。でも私たちが経験した、味わったそれ以上の苦しみを、私たちの代わりに味わってくださった方がいるっていうことを、私たちは忘れないようにしたいと思うんですよね。

イエス様が身代わりになって、代わりに苦しんでくださって、そして死んでくださいました。全部それは私たちの罪を赦すためです。わたしたちを救いに導くためです。もう今、救いの道開かれてるんですから、是非皆様を救い主として信じ、受け入れていただきたいなという風に思います。そして本当に罪から解放されて、許された者として、解放されたものとして、本当に恵みの中で生かされていくものとなろうではありませんか。主の恵みを決して無駄にすることがありませんように。主と共に歩んでいく日々としていきたいと思います。

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様、イエス様の受けられた御苦しみと尊い犠牲によって、私たちのすべての罪が赦され、救いの道が開かれたことを覚えて感謝します。与えられた恵みを私たちが無駄にすることなく、本当にしっかりと受け止めて、主を信頼し、主を信じて許された者として、歩んでいくことができるように助けてください。どうか一人一人が、ここにいらっしゃる一人一人が、イエス様を救い主として信じ、主と共に歩む日々へと導いて下さいますようにお願い致します。御言葉を心から感謝しキリストの御名によってお祈りをいたします。

 

 

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