イエス・キリストをより良く知るために

母の胎内にいたときから、あなたは私の神

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

詩篇22篇6~11節( 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会)

しかし 私は虫けらです。人間ではありません。
人のそしりの的 民の蔑みの的です。
私を見る者はみな 私を嘲ります。
口をとがらせ 頭を振ります。
「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。
主に救い出してもらえ。
彼のお気に入りなのだから。」
まことに あなたは私を母の胎から取り出した方。
母の乳房に拠り頼ませた方。
生まれる前から 私はあなたにゆだねられました。
母の胎内にいたときから あなたは私の神です。
どうか 私から遠く離れないでください。
苦しみが近くにあり
助ける者がいないのです。

私たちは前回から詩篇の22編の御言葉に耳を傾けております。前回は1節から5節までの御言葉に注目しました。ダビデはこの時、「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と声を上げて、神様から見捨てられるという経験をしたということがわかります。ところがそのような悲しみ、苦しみの中から、賛美の歌が生まれてきました。3節、「けれどもあなたは聖なる方。御座についておられる方、イスラエルの賛美です。」と賛美が生まれてきたということを実感し、学びました。その賛美するダビデの姿を通して信仰の素晴らしさを私たちは教えられました。

そのダビデが、今日の箇所に入ると再び現実の中に戻されているということがわかります。

1.苦しみ

6節と7節8節を読んでみたいと思います。

しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。私を観る者はみな、私を嘲ります。口を尖らせ、頭を振ります。主に身をまかせよ。助け出してもらえば良い。主に救い出してもらえ、彼のお気に入りなのだから。

このように先ほどまで賛美していたはずのダビデの口から、つぶやきのことば、嘆きの言葉が発せられているということがわかります。神様の素晴らしさに心満たされていたはずのダビデが、再び現実に戻されたということだと思います。このような詩篇の展開を通して私たちは、ダビデの賛美というのは決して苦しみや悩みから解放されたことの故の賛美ではないということがよく分かると思います。苦しみや悩みの中にある賛美であるということ、ダビデは苦しみ悩みから解放されているわけではないんですね。なおも彼は問題を抱えたままです。

しかしそこから生まれてくる賛美だからこそ意味があるのではないでしょうか。ダビデのどのような悩み苦しみの中で、どのようにして、どのような賛美が生まれてきたのか?私たちは今日の箇所に注目していきたいと思います。

ダビデは神様に向かって言いました。「しかし私は虫けらです。人間ではありません。」

この告白の言葉より、ダビデの悩みとは、自分が自分であることの悩み、自分の存在に関する苦しみである、ということがわかります。

この世にはいろんな苦しみ悩みがあると思います。病気の悩みや、人間関係の悩み、お金の悩み、いろんな苦しみがあると思いますけれども、でも一番深い悩みというのは、自分が自分であることの悩み、自分が存在していることに関する悩みというのが、私たちにとって一番深い悩みではないだろうかと思います。ダビデはまさに今そのような悩みを抱えているということがわかります。もちろんダビデは虫けらではないんですね。そして神様によって作られた大切な人間なんです。ところがこの時のダビデには、自分が虫けらのように感じられていました。自分が人間ではないと感じられてしまっていました。自分の価値に対する不安というものを、この時のダビデが抱え持っていたということがわかります。あのダビデにしてこのような心境になってしまったという点が、私たちには驚きではないかと思います。

ダビデは、若い時からイスラエルにとっての英雄でした。まだ少年だった時に敵軍であるペェリシテ人の大将ゴリアテを倒し、イスラエルの英雄になった人物です。そしてその後イスラエルの偉大な王になりました。誰もが尊敬する信仰の勇者です。誰よりもセルフイメージの高い人だったんじゃないかなという気がしますけれども、しかしこのダビデにしてこのような心境になるというのは私たちにとっては驚きではないだろうかと思います。

でも全ての人がこのような状態になり得るということだと思います。誰もがみな自分に対する自信を失い、自分が自分である悩みを抱え持ってしまう可能性があるということを、私たちはこの箇所から教えられるのではないでしょうか。

どうしてダビデはこんな心境なってしまったんでしょうか?ダビデは続けてこういうふうに言っています。「人のそしりの的、民の蔑みの的です。」ダビデに対する人のそしりや蔑みが原因であったということがわかります。しかもダビデは人の誹りや蔑みの的となっていると自分で告白をしております。ダビデは人のそしり、蔑みが集中的にぶつけられる的になってしまっているということです。ダビデを見る人は皆、ダビデを嘲りました。口を尖らせ頭を振りながら、ダビデを避けたと、ダビデは7節で告白しています。これは人が人を嘲るときの姿や態度を表していると考えられます。つまりダビデを見る人々は、言葉と態度、その姿をもってダビデの人格を否定したということであります。

しかもそのような人が一人二人ではないんですね。ダビデを見た人は皆、ダビデを嘲ったとここに記されています。このような体験に耐えられる人っていないんじゃないかなと思います。私たちにとって人格を否定されることくらい悲しいことはありません。辛いことはありません。特に人から受ける嘲り、蔑み、心無い誹謗中傷の言葉に私たちは誰もが皆深く傷ついてしまうのではないでしょうか。しかもそれが一人二人ではない。みんなからぶつけられる攻撃である時に、私たちは生きる希望すら失ってしまう、そんな体験になってしまうじゃないかなと思うんですね。それがまさにダビデがこの時に体験していた体験だったということであります。

人々はダビデに向かって言ったそうです。「主に身をまかせよ。助け出してもらえば良い。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」

これは人々がダビデに対して、神様への信仰を勧めている言葉ではないんですね。これはダビデの神は無力である。何もしてくれないと、皮肉交じりに語っている言葉であります。不幸であるダビデに対して神様何もしてくれないではないかと、彼らは楽しみなが馬鹿にしている。

私たちにも試練の時、苦しみの時があると思います。そしてクリスチャンでいてもですね、いわゆる不幸に見えてしまう時ってあると思うんですよね。そういう時に、信仰者でない家族や知人に言われてしまうことがあるかもしれない。「クリスチャンなのになぜあなたはそんなに不幸なのか」「お前の信じる神はなぜこんな不幸をおまえに与えるのか」と、「神を信じていることに何の意味があるのか?」と、言われてしまったら私たちもとても悲しいんじゃないかなと思いますね。それは本当に辛いことではないかなと思います。

でも私たちはこの聖書の箇所を通して—-これはもちろんダビデの経験なんですけれども—–イエス様も十字架上で同じ体験をされていたということを教えられます。イエス様も十字架上で、人々から散々嘲られ、バカにされました。イエス様は人々から言われました。

「神殿を壊して三日で建てる人よ。もしお前が神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

そのような言葉ぶつけられました。さらに

他人は救ったが自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。

と嘲りの言葉をぶつけられました。さらに、

彼は、神により頼んでいる。神のお気に入りなら、今救い出してもらえ。私は神の子だと言っているのだから。

そして人々は頭を振りながら、イエス様を罵った。

という言葉も福音書を読むと出てくる言葉であります。

こういう記事を読んでいくと詩篇22篇にダビデに起こったことが、イエス様にも同様に起こっているということ、そして実は詩篇22篇の御言葉というのはイエス様の十字架の予言になっているということに、私たちは気づかされるわけであります。そしてイエス様は、ダビデの詩篇22篇で体験された苦しみというものを味わいながら、思い出しながら、十字架上の苦しみを偲ばれていたということもわかってきます。

私たちも時々そういう辛い経験をすることがあるかなと思いますね。人々から嘲られる、蔑まれる、虐げられる、人格を否定される。それはとても辛いことですね。本当に生きる希望を失ってしまうような深く傷ついてしまう体験だと思いますが、それは実はダビデの経験であり、そしてイエス様の経験であったということを、その時思い出すものでありたいと思います。

2.賛美

さて私たちが注目したいのは、その後の展開であります。それは本当にダビデにとって惨めな経験でした。惨めな気持ちになる経験でした。でもそのような惨めと思われるような深い苦しみ、悩みの中からも、賛美の言葉が生まれてくるということ、そのことを私たちは注目していきたい。

9節に入るとダビデは、神様を賛美するんですね。この記事を通して賛美っていうのは、苦しみの中にあって希望の世界を開くということを、私たちに教えられるのではないでしょうか。そしてその賛美というのはやはり、神様を覚えること、神様がどういう方であるのかということを意識すること、神様が自分にどのように関わってくださっていたのかということを覚える、その時に、賛美が生まれてくるということを、私たちはこの箇所を通して覚えるものでありたいと思います。9節と10節をお読みいたします。

まことに、あなたは私は母の胎から取り出した方、母の乳房により頼ませた方。生まれる前から、私はあなたに委ねられました。母の胎内にいた時からあなたは私の神です。

このように告白し、そして賛美しているということがわかります。ダビデにとって神様ってどういう方だったんでしょうか。

1番目に、ダビデを母の胎から取り出してくださった方でした。

これはダビデが、たまたま生まれてきたのではないってことですよね。偶然この世に生まれてきたわけではなくて、神様の意思に基づき、神様のご計画の中で、神様によって作られた大切な価値ある存在であるっていうことです。ダビデが今、存在しています、生きています、その存在の根底に神様がおられるということ、そのような自分の理解を持っていたという事、私達はここで教えられることではないでしょうか。

2番目に神様はダビデを母の乳房により頼ませてくださった方でありました。

生まれたばかりのダビデは、もちろん赤ちゃんのダビデですけども、全くの無力ですね。そして弱い儚い存在です。もしそのまま放置されてしまったならば、すぐにでも死んでしまうような非常に儚い存在でありました。そのダビデのために神様が、母という存在を備えられ、その母の胸にダビデを委ねてくださった。そのダビデの生きていく上での必要を満たしてくださったということであります。

この記事から私たちは、祝福された親子関係について教えられるんじゃないかなと思います。今日は丁度、「母の日」なので私たち一人一人にお母さんが与えられている恵みを覚えて感謝したいなと思います。母と子の関係が祝福されるために必要なことは、実は母と子の間に神様に入ってもらうということです。生まれた子供は、生まれたら自動的に母親の子供になるわけではないですよね。子供は神様によって母親の胸に委ねられました。母親も神様から、その子供を自分に委ねられました。このことが確認できている時、つまり母と子供の間に神様がちゃんと入ってる時は、その子育てが、その関係が、祝福される時であります。時々母親は、自分と子供とのあいだに何も入れたくない時があるかなと思いますね。夫も入れたくないし、神様も入ってもらいたくないし、ひたすら子供と一体になりたいという、そういう願いを持つことがあるかなと思います。子供の方も、その一体感を求めてしまうことがあるかもしれません。でもそこからいろんな歪みが生じてきてしまうということもよく聞く話ではないかと思います。子供は親の所有物ではありません。神様から委ねられた大切な存在です。神様から委ねられているわけですから、責任があるんですね。神様から託されてるわけですから、私達は本当に一生懸命祈って、愛情を注いで、そして育てていくという責任がある。そのことを自覚できている時の子育てというのは、神様に祝福されるんではないかと思いますね。そのようにしてダビデも神様によって母の胸に委ねられました。神様が、ダビデのもっとも根本的基本的な必要を満たしてくださったということであります。それがダビデの信仰告白になっていたということであります。

3番目に10節、「生まれる前から、私はあなたに委ねられました。」

と告白をしております。九節ではダビデが生まれた時のこと、そして生まれた後のことが語られていましたけども、10節に入ると、生まれる前のことがここで語られていることがわかる。つまり生まれる前もそうです。生まれたその時もそうです。生まれた後もそうです。ずっと神様は私の神様だったということですね。その理解をダビデは持っていたということ、そしてその理解と確信から、最後の賛美が生まれてきました。10節の後半、

母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

このような賛美が生まれてきました。このような告白、このような賛美が出来るって事は、本当に幸せなことではないでしょうか。私達は誰もが、自分であることに不安を抱えやすいのではないかと思いますね。自分に自信がない。そしてつい人と比較してしまってですね、自分の価値に対する不安がある。そういう問題を抱えやすいんではないかと思います。人の言う事に振り回されたり、人の言葉に傷ついてしまったり、そして自分の中にも不安定なもろさがあるって言うことを、意識してしまうことがあるんではないかなと思いますね。自分の中に土台がないということを感じることがあるんではないかと思います。

そのような傾向は、現代に生かされている私たちに、強くある傾向ではないかと思います。でもそれは実は神様を基盤とすべき、私たちの人生がまだ十分には形成されていないからだと思います。私たちはぜひ創造主なる神様を信じたいと思います。その方が生まれる前から私たちの神であることを信じたいと思います。生まれた時に、私たちを取り出してくださった方であることを信じたいと思います。そして生まれた私たちも母の胸に委ねてくださった方であること、生まれる前から、生まれたその時も、その後もずっと、私たちの主であられ、私たちを導いてくださった方、この方を信じたい。

そして信じるだけではない。この方を中心として、私たちの人生を築いていきたいと思いますね。その時に私たちは揺るぎない人生の土台が与えられていくってことを、私たちを覚えるものでありたいと思います。そこから実は深い賛美が生まれてきます。いろんな厳しい状況の中で、人からいろんなこと言われたりする中で、本当に傷ついたり、振り回されたりすることの多い私たち。しかしその中から、この神様を覚える時に、賛美が生まれてくるっていうこと、その賛美をいつも歌っているものでありたいと思います。

3.祈り

そしてそんなダビデの神様に対する深い信頼から、今度は祈りが生まれてくるということも覚えたいと思います。11節をお読みいたします。

どうか、私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり、助ける者がいないのです。

このようにダビデの賛美は、祈りに変わっていったということがわかります。この11節の祈りは、ダビデの1節の言葉に対応しております。1節でナビでは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか」と、ここで叫び声をあげています。まさに見捨てられるような経験をしてですね、神様が遠くに感じられるんですよね。普通だったら、このような経験をしたら絶望してしまって、もう声も上がらないという状態になるかもしれません。でも遠くに感じている神様に向かってダビデはあきらめないんですよね。声を上げるんです。呼び続けるんです。どうか私から遠く離れないでくださいって、遠くに離れているように感じている神様に向かって、「どうか離れないでください」、実に率直な祈りではないかなと思うんですね。そしてさらに「苦しみが近くにあり、助ける者がいないのです」って実に正直な祈りではないかなと思うんですよね。私達は時々、助けが必要なのに、「助けて」と言えないことがあるかなと思いますね。遠慮してなのか、あるいは、なんか自分にすがってるからなのか、色んな理由があるからだと思いますけれども、本当は助けが必要なのに、「助けて」と言えないってことがあるような気がするんですよね。そしてそれが人間関係だけではなくて、神様との関係においてもそういう傾向を抱えてしまうことがあるかなと思います。どこか遠慮深くてですね、本当助けてと言うべき時があるのに、それを言わないで終わってしまう。そして自分の問題の中で、悩み苦しんでしまっているって言う事があるんじゃないかなと思いますね。私たちはもっとストレートに、正直に、神様に助けを求めていくべきではないかなと思います。

ダビデは本当に正直ですね。率直ですね。助けるものがいないんです。抱えてる問題の深さと合わせて、孤独なんですね。誰も助けてくれる人がいないんです。本当に孤立無援なんです。でもその中から、本当にまっすぐに神様に声を上げていったそのダビデの姿から、私たち学んでいきたい。

そしてどうしてダビデはそのように声をあげることができたんでしょうか?どうして神様に向かって、まっすぐ叫ぶことができたんでしょうか?

それはやっぱりダビデが神様のことを、よく知ってるから、そしてこの方に信頼しているからではないでしょうか。ダビデは告白しましたよね。母の胎内にいた時からあなたは私の神ですって。もう生まれる前から、生まれた時も、その後もずっとあなたは私の神だった。ずっと私と共にいてくれた。そういう人生だった。それなのに、今あなたがそばにいないのはおかしいって思ってるわけです。でもそういう神様に対する信頼があるからこそ、まっすぐに主を呼び求めることができた。このダビデの信仰に私たちは学ばなければいけないなと思うんですよね。神の愛を知っている人は、神様に深く信頼できる人です。そして神に深く信頼できる人は、深く祈ることのできる人です。是非私たち、神様に愛され、また神様を知り、深く信頼し、深く祈るものでありたいと思います。

4.結び

そして私達は、私達の子供に望むことも、こういうことではないかなと思います。子供達に祈りを知ってほしい、祈る人になって欲しい、それが信仰者の親の願いではないだろうかと思います。祈りを知っているっていうことは、神様を知っているということであり、神様によって生かされている自分を知っているということで、何かあった時に、何でも相談できる方がいるって事ですね。厳しい人生を歩んで行かなければならない子供たち。その理解が子供達の支えになってくれたら親としては本当に安心ではないかなと思います。そのためにはまず私たちが、そのような信仰を持たせていただこうではありませんか。私たちの存在の根底に私たちを作ってくださった方がいます。私たちを愛してくださった方がいます。私たちをずっと導いてくださってる方がいます。その方が私たちの人生の土台です。基盤です。ただしそれを知っているということだけではなくて、その方に生かされているということ、この方の信頼によって、私たちが支えられているということ、そのような人生を歩ませていただきたい。そこから、そのような神様に対する信頼から、深い賛美が生まれてくるということをぜひ覚えるものでありたいと思います。是非この方に私たちの人生を築き上げてもらおうではありませんか。そのような信頼から生まれてくる賛美をいつも口ずさんでいるものでありたい。そのようにして、どんな状況の中にあっても主を告白し、主を賛美するものであり続けたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様。御名を賛美いたします。生まれる前からあなたはわたしたちの神でありました。生まれた時もそうでした。生まれた後もずっと今に至るまで、私たちを守り導いてくださっている方がおられることを覚えてありがとうございます。人の言葉、ひとの態度、またいろんな反応に振り回され、悩み傷つき、苦しんでしまいやすい私たちです。すぐ自信を失ってしまう私たちでありますが、どうか深いところで、あなたが共にいてくださること、あなたがわたしたちの人生の基盤であることを思い出しながら、あなたにより頼むことができるように、あなたに祈ることができるように、そして主が答えてくださる恵みを味わいながら、あなたに信頼しいつも賛美することができるように、どうか私たちの信仰を養って下さい。御言葉を感謝し、主イエス・キリストな御名によってお祈りいたします。 

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2022 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page