イエス・キリストをより良く知るために

自らを、聖なる生きたささげ物として。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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【1】 食べてはよい生き物と食べてはならない生き物

レビ記11章1~8、43~45節

今日の主題に入りたいと思いますが今日の聖書の箇所は、レビ記11章の御言葉です。
この御言葉を読んで、みなさんは、いったいここから何が語られるのか?やや疑問に思った方もいらっしゃるかなと思います。

レビ記は今まで少しずつ読み進めてきましたけれども、11章からガラッと内容が変わります。11から15章までは清浄と不浄に関する律法が続きます。
11章では食べて良い清い生き物と、食べてはならない汚れた生き物に関する規定を、神様がイスラエルの民に与えてくださったという、そういう内容になっております。
もう一度1節から4節まで読んでいきたいと思います。

主はモーセとアロンに告げて、こう彼らに言われた。
「イスラエルの子らに告げよ。次のものは、地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物である。
動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。
ただし、反芻するもの、あるいは、ひづめが分かれているものの中でも、次のものは食べてはならない。らくだ。これは反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。」

ところが蹄が分かれていない、例えばラクダ、岩ダヌキ、野ウサギ、ブタなどは汚れた動物で食べてはならないと、ここで定められています。そんな区別がまず「動物」から始まりましたが、この中からこのあと、9節から12節までは「水の中にいる生き物」について、さらに13節から19節までは「鳥」について、20節から23節までは「昆虫」についてということで、いろんな生き物に関する区別が付けられているということがわかります。

例えば水の中にいる生き物の中で、ひれやウロコのあるものは食べて良いが、でもひれやウロコがないものは汚れた忌むべきものであるということが9節、10節に教えられております。鳥についてはいろんな鳥の名前がこのあと出てきますけれども、ハゲワシ、ハゲタカ、黒ハゲタカ、トビ、隼の類、カラス、ダチョウ、夜鷹、カモメなど、いろんな名前が出てくるんですけれども、これらの鳥は汚れた動物なので食べてはいけないということが教えられています。あるいは昆虫の中では、羽があって群がり、4本の足で歩き回るものは食べてはならない。ただしイナゴやコウロギ、バッタは食べても良いと22節に出て参ります。

このように生き物の中で、食べて良いものとそうではないものを、神様が、区別されたということが分かることであります。今世界中を不安に陥れている、困難に陥れているコロナウイルスは一体どこから来たんでしょうか?色々調べてみますと、どうやらコウモリが持っていたものが人に取り込まれたのではないかと言われているようです。19節に食べてはいけない汚れた生き物の中にコウモリが入っています。もしコウモリがコロナウイルスの起源であるとするならば、このレビ記の11章の記事は、きわめて今日的な記事であるということになるのではないかと思います。

さらに11章を続けて読んでいきますと後半では、死体に触れてはいけない、死体による汚れについて、12章では出産についての汚れ、13章、14章は皮膚病に関する汚れ、15章は性的な漏出に関する汚れと続いてゆきます。この箇所をずっと読んでいくと神の前で汚れたものとそうでないものとを区別することの大切さ、そしてもし汚れを負った場合は、一時的に隔離されるべきこと、それらの汚れが清められた後に、祭祀の宣言を受けて神との交わりの中に加えられるということが教えられていることであります。

【2】 求められるきよさ

これらの教えはこんにちの私たちにいったい何を語っているのでしょうか。ここからどんなメッセージが発せられているのでしょうか。一言で言うならばそれは、キヨくあれ」ということになります。そしてその根拠になっている御言葉は、1章の44節、45節の御言葉であります。44と45節を読んでみます。

わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。あなたがたは、地の上を這ういかなる群がるものによっても、自分自身を汚してはならない。
わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」

ここに2回繰り返しております。
「聖なるものとならなければならない。私が聖だからである」。

44節と45節に2回繰り返されております。イスラエルの民は身を聖別して 聖なるものとなることが求められました 。その根拠は、神ご自身が聖なるものであるからだと教えられております。この神様の前にイスラエルの民は、汚れたものによって自らを汚してはいけないし、もし汚れを負った場合には、清められなければならないということが教えられているという内容の箇所であります。そのように自らを聖別することの大切さがここで教えられていることということを意識したいと思います。

これは当時の時代の中にあった文章ですし、またこの地域の色々な文化的な背景もあるんだと思います。今日の私たちにそのまま適用できるもの内容ではありませんけれども、ただ神の前で、自らを聖別することの大切さは昔も今も変わらないということを私たちは覚えたいと思います。
そうでなければ私たちは聖い神様と親しくお交わりすることができませんし、神様の栄光を表すことができないという事を覚えるものでありたいということであります。

教会は聖なる宮であると言われておりますし、私たち一人ひとりが聖徒であるというふうに教えられております。
こんにち生きる私たちも、やはり聖なる神様の前で聖さが求められているということであります。
聖くなるって言う事を聞くと堅苦しさを感じるかもしれませんが、でも聖くなるということは決して堅苦しいことではないと思います。別の言い方をするならば、聖くなるというのは、聖霊に満たされるということです。そして聖霊の実を実らせるということです。ですから私たちの幸せと繋がっています。神様の恵みに生かされるために、私たちは聖さが求められています。神様と親しくお交わりをするために聖さが求められています。今日の聖書の箇所から、私たちは生活全体にわたる聖さが求められているということを覚えたいと思います。神様が私たちに求められていることは、心や魂が聖められているということだけではない。生活のあらゆる場面で、生活のあらゆる領域で、聖さが求められております。何を食べるのか、何を飲むのか、時間やお金をどのように用いるのか、目に見えないことにだけではなく目に見える私たちの生活、生き方全てにおいて聖さが求められているということです。
宗教と言うと、何か、心の問題であるかのように、心や魂の問題であるかのように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、私たちの信仰は、心、身体、魂、人間の全体に関わってくるものであるということです。
レビ記の今日読んでもらった記述は、汚れた動物と聖い動物を分ける基準というものが示されています。何を食べるべきなのか、何を食べるべきではないのか、そしてその基準になっているものは何かと、思っていろいろ読んでいきますと、蹄が割れているとか割れていないと か、反芻するとかしないとか、鱗がついてるとかついていないとか、足が何本あるとか、何かそんな事が出てくるんですけれども、これがいったい何を意味してるのかということで、聖書の研究者の間で長く議論がされてきたはずです。
そしてそこに何か象徴的な意味が込められているのではないか、宗教的、道徳的な何かそういう意味が含まれているんではないか、例えば反芻する、何度も味わう、繰り返すという所に、何か象徴的な宗教的な意味が含まれているんではないか、蹄が分かれていると言うことに何か意味があるのではないか、いろいろそういう説明が試みられてきたことがあったようです。あるいはヒレとウロコがついているものはなぜ食べていいのか、それがないものはなぜダメなのか、人間が見た時、生理的に感じるその感覚というものが重んじられているんではないだろうかとか、いろんなことが説明されてきたんだそうです。

ところが20世紀に入りまして衛生学が、ウイルスの研究が進んでいくに連れて、聖書のこの 記されている内容が、実は私たちの衛生面や健康面に、非常に良く配慮されたものであるということが分かってきました。
例えば私も詳しくは分からないんですが、ラクダ、岩ダヌキ、野ウサギ、豚など、ここに出てくる動物は、人間に有害なウイルスを持ちやすい動物だったということが分かってきたそうです。皆さんも豚肉をお料理をする時にはよく火を通して食べるということに気をつけていないでしょうか。豚は 宗教的に汚れた動物なので、宗教的な意味で禁じられているのだと長らく考えられていたそうですが、実はそれだけではなくて私たちの衛生面、健康面に配慮されていた内容となっているということがだんだん知られてきたことであります。

今から3000年も前の、モーセやアロンの時代に、どれだけ衛生学やウイルスの知識があったかどうかは知りません。おそらくほとんどなかったと思います。ウイルスのことなんかは、ほとんど誰も知らなかった。そういう時代の中にあって、実は神様はこの当時から人間の衛生面や健康面に配慮してくださっていたということに、今日の私たちは気付かされるのではないでしょうか。当時の人たちは全然気づかないようなことを、私たちが今気づかされているのではないかなという風に思います。

私たちの神様は、私たちの体が健やかであることを願っておられます。与えられた私たちの体を、私たちがふさわしく管理することを通して、私たちは実は神様の栄光をあらわすことができるんです。

新約聖書を読んでいても、第一コリント第6章19節20節にこんなことが教えられています。

あなた方の体は、あなたがたの内におられる神から受けた聖霊の宮であり、あなた方はもはや自分のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分の体をもって神の栄光をあらわしなさい。

クリスチャンでタバコを吸う人はあまりいないかと思いますが、タバコに限らず私たちは何を食べるか何を飲むかにおいて神様の栄光を現すこともできるし、逆に栄光を現すことができない、私たちの体を大切にしないということもあり得ることかなという風に思います。

私たちは自分の体をもって、そして生活の全てを持って神の栄光を現すことが求められています。まさに食べるにも、飲むにも、何をするにもただ神の栄光を現すためにすることができるように、私たちは与えられて体を大切にし、そのようにして神様の栄光を表す者とされていきたいと思います。

同時に私たちは聖さにおいて継続的な訓練が必要であるということを覚えたいと思います。ここに出てくる食べ物の規定、食べることは日々繰り返されるものですね?一度食べて一度守ったらそれで終わりというものではありません。毎日毎日、それは繰り返し大切にしていかなければならないものであります。聖さにおいて私たちは継続的な訓練が必要です。聖書の中で出てくるアブラハムやモーセやダビデのような立派な信仰者たち、私たちが尊敬する信仰者たちも、信仰者なのに大変な失敗をし、大変な罪を犯したっていうことが紹介されています。
先日の祈り会で、創世記20章を学んだところでした。その箇所はアブラハムが失敗した場面でした。アブラハムがゲラルというところに寄留していた時に、そこに住んでいた異教徒たちのことを恐れたために、自分の妻のサラが、妻であることを隠して、妹であると言ってしまったという内容の記事でした。
サラは アブラハムの異母兄弟であり、広い意味では確かに妹であるということができるんですが、でも重要なことは、彼がサラは彼の妻であるということを隠したということ、そしてあたかも結婚関係がないかのように振る舞ったということに重大な問題があるわけですね。そのためにゲラルの王であるアビメレクに、危うく妻のサラを奪われてしまいそうになるという事件に発展してしまった、そういうことをその時学びました。
でも実は創世記12章にも、これとほぼ同じような記事が載っております。その時はアブラハムがエジプトに行った時でしたけれども、やっぱりその時も恐くなってしまって、自分の奥さんのことを妻だと言わずに、妹だと言ってしまった。20年も経ってからも同じような失敗を、繰り返していたということが聖書に書かれています。
その記事を通して、あの信仰者のアブラハムも、20年経っても何も変わっていなかった、同じ罪を犯してしまったという姿を教えられました。
あの神の友と呼ばれるくらい、いつも神様と共に歩み、親しく交わりをしていた偉大な信仰者のアブラハムでも、20年経っても克服できない弱さを抱えていた、課題を抱えていたのだということを私たちは教えられたときに、私たちが抱えている課題というのは、いかに根深いもので、いかに改善・回復が難しいものであるかということを教えられました。

そして本当に私たちは深い所から神様の取り扱いを頂い て、本当に日々聖められていくということの大切さを、その時に私たちは教えられたわけであります。信仰者として私たちは日々神様のことを覚えながら意識して歩んでいると思いますけれども、実は私たちの中にはまだまだ解決できていない課題が残されているんではないだろうかということを思います。そして私たちはやっぱりこの世の中を歩んでいますし、世俗の影響をいろいろ受けていますから、その世俗の影響が染み付いてしまって、なかなか抜けないと言う課題を抱えているんではないでしょうか。聖められていない、克服されていない者が、ある特別な状況になると急に出てきたり、急に意識されてということが私たちにあるのではないかと思います。
神様の御心を大事にしながら本当に神様に従っていきたいと思いながら、ある一つの事に関しては絶対に自分の願望を貫いてしまう、御心に従いたくないという、何かそういう聖められていない部分が、私たちの中にないだろうか。私たちはやっぱり日々継続的に聖められていくということが求められているんではないでしょうか。
私たちの罪は瞬間的に許されます。罪はイエス様によって許していただけますが、聖めは、継続的なんですよね。ずっと続いていくんです。
どうか私たちが自分の願望ではなく、本当に御心に従って生きていくことができるように、生まれながらの肉の性質に支配されるのではなく、本当に御霊による導かれて歩んでいくことができるように、日々聖められて、整えられていくことを求めていこうではありませんか。

【3】 どうすればきよい者となれるか

最後に、どうすれば聖い者になれるのかということを考えて終わりにしたいと思います。
私たちには聖めが必要です。日々聖められていくことが求められています。ではどうすればそれが可能なのでしょうか。
第一に「神をオソれる」ということがどんなに大切なことでしょうか。 先ほど読みました11章の44節・45節を読んだ時に気づかされたことがあるんですね?神様がまずご自分を「あなた方の神、主であるからだ」と私達に宣言されるんですね。さらに45節を見ると「あなた方の神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ」、あなたがたと無関係の存在ではないんだよということを宣言された上で、私達の聖別の必要が教えられているということ、この順番がとても大事なことだと思います。
それが意識されないと、私たちの信仰は、ただた決まりを守るだけの信仰になってしまうんですね。神様との生きた交わりの中に生かされる信仰ではなくて、ただ与えられている課題をこなすだけの、決められたルールを守るだけの信仰になっていく。そこには何の命もない、何の喜びもない、決まりを守るだけの信仰になってしまう。やはり私たちは、神様の前に生かされているという意識を、いつも持っていなければいけない。そしてこの方は私たちの主なんです。わたしたちがお仕えすべき方なんです。この方の前にあって、私たちは本当にふさわしく主を畏れてゆかなければならない。それが私たちが聖められるための大切な前提であるということをぜひ覚えたいと思います。
神を畏れるという言葉を聞くと、何か神様の前でビクビクしながら、恐怖に慄きながら生きることだと感じてしまう方がいるかもしれませんが、そういうことではないと思いますね。神を畏れるというのは、神様を尊敬するということです。そして神様を大切にするということです。何をすれば神様に喜んでもらえるだろうかということを、いつも考えながら、そのことを私たちのあらゆる行動の動機にすることです。今何をしたら神様は喜んでくれるだろうか、今何をして神様を喜ばせることができるのだろうか、そのことを絶えず意識しながら生きるときに、私たちは本当に神様を畏れる生き方ができる、そういうことを私たちは是非大切にしていきたいと思います。

二番目に私たちが神を畏れるためには、神の裁きの日が近いということ、そしてその裁きの日において私たちは神様の御前に立たされる時がやってくるんだということを、ぜひ覚えるものでありたいという風に思います。 第2ペテロの手紙の3章の10節11節に、「主の日」と呼ばれる最後の時について記されております。第2ペテロの手紙の3章10節と11節、

しかし、主の日は盗人のようにやってきます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れさり、地と地にある働きはなくなってしまいます。このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

「主の日」と呼ばれる最後の時の様子が描かれておりますけれど、これは「裁きの時」です。「そしてその日は盗人のようにやって来る」と教えられております。その日を意識する時に聖なる敬虔な生き方が私たちに求められているのだと、そういうことが教えられております。
私たちはやはりこの日のことを覚えていなければいけないんだと思います。いつまでもこの世が続いていくというのではなくて、やはり終わりの時がやってくるんだということを覚えていなければいけない。そしてふさわしく準備をしていなければいけないという風に思います。
ソドムとゴモラが滅ぼされた時に、これも最近の祈り会で学んだ、創世記19章の内容でしたけれども、ソドムとゴモラが滅ぼされた時に、ロトとロトの家族は救出されるんですが、ロトの妻が後ろを振り返ったために、塩の柱になってしまったということがそこに書いてありますね。体はソドムから逃げていて、神様の示された方向に向いているのに、心はソドムに置いてきてしまっているのです。それでロトの妻は後ろを振り返ってしまった。この世に対する愛着を断ち切ることができなかったということなんだと思います。
そういうことが教えられた上で、新約聖書のルカの福音書の17章32節で、イエス・キリストは「ロトと妻のことを思い出しなさい」と教えられています。「ロトの妻」のこと、イエス様が言われる聖書に出てくる人物の中で、イエス様によって名指しでこの人のこと思い出しなさいと記されている人物は、おそらくこのロトの妻だけだと思います。
イエス様はアブラハムのことを思い出しなさいと言われませんでした。ダビデのことを思い出しなさいとか、ルツやエステルのこと思い出しなさいとも言われませんでした。旧約聖書の中で失敗した人はたくさんいるんですが、例えばサムソンのこと思い出しなさいとも言われませんでした。アハブやイゼベルを思い出しなさいとか、ヤロブアムとかマナセとか、たくさんの王様のことを思い出しなさいとか、そういうことも言われなかった。
でもただロトの妻のことは「思い出しなさい」とイエス様は言われた。そこに重大な警告が含まれていると私たちは考えなければいけないと思います。
ロトの妻の姿の中に、私達が決して忘れてはいけない教訓がそこに込められているし、同時に私たちはいつでもロトの妻のようになりやすいということが、そこで教えられているのではないでしょうか。
この世のつながりを断ちきれない人は、何か事が起こった時に、必ず後ろを振り向く人ではないでしょうか。主がお帰りになった時に、イエス様がお帰りになった時に、私たちは本当に心から歓迎することができるでしょうか。ふと、後ろを振り返ってしまうことはないでしょうか。その日は近いんですね。「盗人のようにやって来る」と教えられています。
私達は本当に「聖められる事」を求めてゆかなければならないのではないでしょうか。

今日の説教のまとめをしたいと思います。
私たちの信じている神様は、聖なる神様です。その聖なる神様を前にして、私たちも聖なる者となることが求められています。そのために実はイエス様は私たちを買い取って、あがなってくださったのではなかったのではないでしょうか。ご自身の命を対価として私たちを買い取って、この世から切り離して、本当に神のものとしてくださったんではなかったでしょうか。神様のご栄光を表すものとして、私たちは選ばれたのではなかったでしょうか。救われてはいるのに、まだ罪の中を歩んでいる私たちではあります。そして世俗の影響が色々と染み込んでしまっていて、その影響の中に置かれている私たちであります。でも主は私たちを日々聖めてくださる。そのために私たちに聖霊を送って下さいました。聖霊が私たちの中に住まわれる。聖霊の宮であると私たちは教えられているんですね。
私たちはこの方の導きの中にいつも歩んでいきたいなと思います。いつも神様を意識して、神様の前に歩んでいこうではありませんか。そしてこのかたに喜んでもらえる歩みをめざそうではありませんか。さらにイエス様を迎える日が近いです。私たちは日々聖められている事を求め、そして主が帰って来られた時に、心から主をお迎えできるように、今から十分によく整えられていますように、いつも聖霊の導きに委ねることができるようにしたいと思います。

お祈りをしましょう。恵み深い私たちの父なる神様。かつてこの世の罪に支配されていた生活から私たちをあがないだし、あなたのものとしてくださったことに感謝します。どうかあなたが住まわれる聖霊の宮として私たちを聖め整えてください。神を畏れつつ、何をするにも神の栄光のために行うことができますように助けてください。そして間もなく主がお帰りになる時には、あなたを心から歓迎することができますように、どうか日々私たちを整えてくださり、よき準備をなし続けることができるように助けてください。み言葉を感謝し、み名によってお祈りをいたします。アーメン

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