イエス・キリストをより良く知るために

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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

ダビデは11節で「どうか私から遠く離れないでください」と祈りの声を上げました。この祈りをきっかけとして、この祈りの時にダビデの心の扉が開いたのではないかと思います。この祈りをきっかけとして、さらに大胆な祈り、さらに正直な祈りへと、ダビデが導かれているからであります。そしてダビデ自身の苦しみを、率直に伝える祈りがそこに生まれてきました。

1.ダビデの苦しみ

今日の箇所を読む時に、その時ダビデが経験していた、苦しみの中身というのが見えてきます。それはどんな苦しみだったんでしょうか?

それは「敵に取り囲まれる」という苦しみでありました。12節にこう書いてあります。

多くの雄牛がわたしを取り囲み、バシャンの猛者どもが私を囲みました

このようにダビデは声をあげていますけれども、その時彼は、敵たちに完全に取り囲まれていた、そういう状態にあったということが見えてきます。

バシャンという地名が出てきました。バシャンとは、ヨルダン川の東側の地域の地名で、この地域は川が近いということもあって、放牧に適している土地だったようです。たくさんの牛が放牧されている光景で知られている場所でありました。アモス書4章1節に、次のような言葉が記されています。

サマリアの山にいるバシャんの牝牛どもよ、お前たちは弱い者を虐げ、貧しい者を迫害し、自分の主人に、「何か持ってきて飲ませよ」と言っている。

こちらは牡牛ではなくて牝牛が出てきますけれども、サマリヤの山にいるバシャんの牛たちが、獰猛で横暴な存在として描かれていることがわかります。

詩篇22篇で、ダビデを取り囲んでいた敵達は、ここで「バシャんの猛者ども」と記されてありますけれども、バシャんの牛のように獰猛で横暴であったということが分かる。

そのような敵たちに、ダビデが取り囲まれていたということであります。

その牡牛に譬えられているダビデの敵たちが、13節に入ると、今度は(シシ)に譬えられていることがわかります。13節をお読みいたします。

彼らは私に向かって、口を開けています。かみ裂く、吠えたける獅子のように。

12節では牡牛に譬えられていたダビデの敵たちが、13節に入ると獅子、ライオンに譬えられているということが分かる。敵たちはダビデに向かって口を開けています。かみ裂く、ほえたける、獅子のようにダビデを狙っています。飢えた獣によって、今まさに餌食にされようとしている、獲物のようにダビデはこの時、本当に恐ろしくて怯えていたっていうことがわかる、そういう言葉であります。

聖書の中では獅子は、しばしば信仰者を脅かす恐ろしい敵の象徴として描かれていることがわかります。新約聖書の第一ペテロの5章8節で、ペテロは、

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。

と記し、私たちの敵である悪魔が吠えたける獅子として表されています。

この時のダビデも、そのような凶暴な敵に取り囲まれ、恐れおののいていたっていうことがわかります。その敵が、今度16節まで読み進めていきますと、「犬ども」に例えられていることがわかります。16節から18節まで読んでみます。

犬どもがわたしを取り囲み、悪者どもの群れが私を取り巻いて、私の手足に噛みついたからです。私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし、私を見ています。彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。

という風に出てきます。皆さんの中に、ご自宅で犬を飼っている方がいらっしゃると思います。そして「私は犬が大好きです」という方も、たくさんいらっしゃると思いますけれども、その方にとっては残念なんですけれども、聖書では、犬という動物は、多くの場合悪い動物として描かれております。パウロはピリピ人への手紙3章2節にて、「犬どもに気をつけなさい」という言葉を語っています。犬どもに気をつけなさい、悪い働き人達に気をつけなさいって、そこで教えている箇所がありまして、悪い働き人たちのことを、「犬ども」とよんでいることがわかります。聖書で「犬」と出てきますと、それは多くの場合「悪者たち」を表しているようです。この詩篇22篇16節でも、「犬どもがわたしを取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻いて、私の手足に噛み付いたからです」と、そのように記されてあって、「犬ども」という言葉が、「悪者ども」を表しているということがわかります。この悪者どもが、私の手足に噛み付いたって、犬のように噛み付いてきたっていう風に書いてあります。おそらくこの敵が、ダビデの衣服を剥ぎ取って、ダビデを裸にしてしまったということが考えられる。その結果ダビデはやせ細って、浮き出てしまった自分の骨を、「みな数えることができます」と17節で告白をしております。そしてその敵たちは、裸になってしまったダビデを、目を凝らして見ながら楽しんでいる姿が、17節に記されています。

さらに彼らは、ダビデから剥ぎ取った衣服を、くじ引きして分け合い、楽しんでいるということが18節に記されています。

牡牛に始まり、獅子、犬どもに譬えられてきたダビデの敵たちは、動物のように獰猛で横暴で残酷で無慈悲な存在として、そこに描かれている。ダビデはそのような敵たちに完全に取り囲まれてしまいました。そのような苦しみ、苦境の中に、ダビデが置かれていたということ、その中で生まれてきた詩篇であり、その中で生まれてきた賛美であるってことを、私たちはこの箇所から教えられるのではないでしょうか。

17節と18節の言葉は、実はイエス様の十字架の預言になった言葉です。

イエス様も、十字架に磔になる際に、衣服を剥ぎ取られ、裸の状態で十字架につけられました。そのイエス様の姿を通りすがりの人々が、目を凝らして見つめ、嘲ました。さらにローマの兵隊たちは、イエス様から剥ぎ取った衣服を、くじ引きして分けあったってことが、福音書の記事に出てきます。まさに17節18節に記されてある通りになったということであります。

これはダビデの経験ですね。ダビデが自分の経験を書いていますけれども、同時にこれはイエス様の体験にもなっていったということを、私たちは教えられる。ダビデもイエス様も、恐ろしい敵に取り囲まれるという、そういう経験をしたっていうこと、そのことを私たちは覚えておきたいと思います。

2.弱り果てるダビデ

そのような非常に厳しい状況の中に、ダビデは置かれていたわけですけれども、その中にあってダビデはすっかり弱り果ててしまったということが、14節と15節を読むと分かります。その弱り果てたダビデの心境が、14節と15節で述べられています。読んでみたいと思います。

水のように、私は注ぎ出され、骨はみな外れました。心は、ロウのように、私のうちで溶けました。私の力は、土器のかけらのように乾ききり、舌は上顎に張り付いています。死のちりの上に、あなたは私を置かれます。

このようにダビデは書きました。ダビデはそのように自分の心情をここに記しています。

これを読むと、本当にダビデは疲れ果てて弱り果ててしまったということを感じるという言葉ではないかと思います。「水のように私は注ぎ出された」というのは、水が注ぎ出された後の皮袋のように、ダビデのうちから、力も気力もすっかり抜け落ちて、心が萎えてしまったということを表していると考えられます。「骨が皆外れた」って告白してますけど、これはダビデを内側から支えていたものが、全部崩れてしまったっていうことを表していると考えられます。さらに心は、「ロウのように」ダビデのうちで溶けてしまったという風に告白しています。これはもうダビデのうちに力が全部抜け落ちてしまって、力が全く入らない状態ということが言えると思います。ダビデの力は「土器のかけらのように乾ききり、舌は上あご に張り付いた」ってダビデは語っていますけども、ダビデの心だけでなくて、体にも異常が出てしまっているということが感じられます。すっかり弱り果て疲れ果て悩み苦しみが心にも体にも不調をきたしていました。そしてダビデは最後に 「死のチリの上に、あなたは私を置かれます」 と告白していますが、その悩み苦しみはダビデに死を意識させるほどのものであったということがわかります。

このような状態になり、このような心境になってしまうということが、私たちにもあるのではないかと思います。

非常にストレスの多い世の中に、今、私たちは生かされていると思います。冷たい社会の中にあって、私たちの人格が否定されてしまうという、そういう経験をすることもあると思います。いろんな困難に取り囲まれて、その中で一人悩み、呻き、その影響が、心だけでなくて体にも及んでしまうことがあります。心も体も病んでしまうということがあります。その中で疲れ果てて、弱り果てて、そして自らの死を意識するくらい追い詰められてしまうということも、私たちには起こりうることではないかと思います。

ダビデもこの時、同じような困難の中に置かれていました。そしてそのような中からダビデは、ここで弱音を吐いているということが言えると思います。

でも弱音を吐き出せているところに、救いがあったんではないかというふうに考えます。

今、多くの悩み苦しみに囲まれて、自ら死を選んでしまう人がたくさんいるという風に言われています。そのような方々の中で、もし本音を誰かに打ち明けることができたならば、正直に弱音を吐くことのできる人がいたならば、もしかすると救われた人がたくさんいるんじゃないかなという風に思うんですね。むしろそのような人が誰もいない中、一人で問題を抱え込んでしまい、悩み苦しみ誰にも相談できないままに、ゆき詰まってしまう例が、たくさんあるんではないかと考えられます。

ダビデはイスラエルの王でした。誰からも尊敬される人物だったと思いますが、イスラエルの王ならではの孤独を、ダビデは抱えていたのではないかと想像します。

でもそんなダビデにも、安心して弱音を吐ける方がおりました。何でも正直に告白できる方がいました。それはダビデの神様、その神様がいるっていう事が、ダビデの救いだったということであります。

皆さんは疲れた時に、「疲れました」と神様に告白しているでしょうか。苦しい時に、「今私は苦しいです」と神様に正直に打ち明けているでしょうか。弱音を吐くことが信仰者としての敗北であるかのように思っていないでしょうか?

ダビデは正直に打ち明けましたね。14節と15節を見ればわかります。もう自分は今こういう状態です、もう力がありません、もう本当に弱り果てていますと、神様に向かって正直に告白しています。私たちもそのようなものでありたいなと思います。

3.ダビデの正直な祈り

この弱り果てたダビデの口から、「祈り」が生まれてきたということを、次に私達注目していきたいと思います。19節20節2節を読みます。

主よ、あなたは離れないでください。私の力よ、早く助けに来てください。救い出してください。私の魂を剣から。私のただ一つのものを犬の手から。救って下さい。獅子の口から、柳生の角から、

この言葉を読んでみても、本当にダビデがこの時、危機的な状況の中に置かれていたということ、死を意識していた ということ、犬の手から、獅子の口から、野牛の角から、ということで、犬、獅子、野牛と出てきますけれども、そのような敵の存在の中で、本当に苦しんでいたということがわかります。

主よ、あなたは離れないでください。早く助けに来てください、救い出してください、救ってくださいと、切実で、まっすぐで、正直な求めが、ダビデの口から次々と発せられていることがわかります。

このような「祈り」が生まれてくること自体が、素晴らしいことではないかと考えます。悩み苦しみの中にあっても、このような求めがなかなか産まれてこないことが、結構たくさんあるんじゃないかなと思うんですね。

18節と19節の間に行間が入っております。この行間があるおかげで、ここで一段落するんだなっていうことが、私達は分かりますけれども、この行間から、私たちは問われることがあるんじゃないでしょうか。

厳しい状況の中に私たちが置かれて、そこで悩み苦しみ、その苦しみが私たちの心や体にいろんな影響や異常を及ぼすことがあります。私たちも心身ともに疲れ果てて、弱り果ててしまうことがあります。私たちもここに出てくるような、ダビデのような心境になってしまうことがあります。そんな状況の中で、そんな状態を抱える中で、私たちはそこで何を考え、どのように判断するでしょうか。

いろんな選択が可能だと思います。私たちはそこで諦めてしまうこともあるかもしれない。あるいは人生を呪ったり、人を責めたり、自暴自棄になってしまったりすることもあると思います。人の助けを切望するということもあると思いますし、あえて黙って耐え忍ぶという人もいるかもしれません。

でもその時に、神様を見上げて、まっすぐに声をあげることができたならば、私たちは救われるのではないでしょうか。苦しみの中で、神様を見上げ、まっすぐに神様に向かって声をあげることができたならば、私たちは解放されるのではないでしょうか。

そのように声を上げることのできる方を、私たちが知っているということが、私たちにとっての幸せではないかと思うわけであります。

ダビデも本当に厳しい状況の中に置かれていました。恐ろしい敵に取り囲まれています。その恐ろしさの中で、すっかり弱り果てています。もう自分の中に何の力も残っていない状態でした。そのまま打ちのめされ、倒されても仕方がないというそういう状況だったと思います。が、しかし、ダビデはこの18節のあと、この余白のところ、空白のそのスペースの時に、何をしたんでしょうか?何を考えたんでしょうか?そしてどうして19節から始まる祈りが生まれてきたんでしょうか?

それはそこで、ダビデが神様を仰いだからであります。弱り果て疲れ果てた状態の中から、ダビデは神様を仰ぎました。神様はダビデにとってどのような方だったんでしょうか。

19節でダビデは神様のことを、「主よ」と呼びかけています。さらに「私の力よ」と、そのように呼びかけています。ダビデにとって神様って「主」だったんですね。生まれた時からずっと導いてくださった方、いや、生まれる前から、もう生まれる前から、母の胎内にいた時から、あなた私の神ですと告白する、そのような主なる神様、生まれる前から、生まれた時も、そしてその後も、今に至るまでずっと導いてきてくださった主、「私の主よ」と、そのように呼びかけている、そして「私の力」、ダビデダビデにとって神様っていうのは「私の力」でした。もうダビデには力がないんです。何の力も残っていません。気力も全部抜けてしまいました。何の力もない状態で、でも、「あなたは私の力です」と告白をしている。神様がダビデの力であったということが分かる。その神様を仰ぎ、神様を 覚えた時にダビデのうちから祈りの言葉が生まれてきました。 「あなたは離れないでください。早く助けに来てください。救い出してください。」 と次から次に祈りの言葉が生まれてくる。

4.結び

「主よ、あなたは離れないでください」という言葉は、11節の言葉の繰り返しだと思いますね。 11節の段階でも「どうか私から遠く離れないでください」 という風に、祈っています。でも19節では「主よ」と呼びかけています。11節の段階では呼びかけの言葉がまだありません。少しまだ漠然とした祈りだったかもしれませんね。でも19節に来ると、同じ言葉ではあるけれども「主よ」と語りかけた上で、はっきりと意識した上で、神様のことをはっきりと認識した上で呼びかけている。そして「私の主よ」と呼びかけている。そのような呼びかけの中から祈りが生まれてきているということを、私たちはここで教えられるのではないでしょうか。自分の苦しみを正直に訴えながら、助けを神様に求めています。そのように声を上げることのできる方を、ダビデが知っていたということ、そしてその方との関係に生かされているということが、ダビデにとっては本当に幸せだったということを、私達は覚えたいと思います。

私たちも時々疲れ果ててしまうことがあるのではないかと思います。多くの問題に悩み、苦しみに囲まれて、行き詰まってしまうようなこともあるのではないかと思います。その時に私たちも一旦立ち止まって祈る時が必要ではないでしょうか。しばし自らの歩みを止めて祈り、神様を見上げる時が必要ではないでしょうかか。ダビデはそのようにしました。ダビデはそのように目を上げて、神さまを見つめました。神様がダビデにとってどのような方であるかということを、そこで知らされました。

私たちもダビデのように、神様に目をあげるものでありたいと思います。私たちの神様は、私たちにとっての主です。私たちをずっと導いてくださっている方です。そして神様は私たちにとって私たちの力です。何の力もない、気力も湧いてこない、そういう時にも私たちに力を与えてくださる方です。この方を意識する時に、この方を覚える時に、私たちのうちに本当に切実な祈りが生まれてくるのではないでしょうか。真っ直ぐな祈りが生まれてくるのではないでしょうか。そのように私たちは、与えられている主なる神様との親しい交わりの中で、日々支えられ、日々養われていくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。天の父の神様。そして私たちの主なる神様、力なる神様、あなたが私たちと共にいてくださる恵を覚えて感謝します。私たちの悩み・苦しみの時も、共にいてくださる恵みを感謝いたします。どんな状況の中にあっても、あなたを仰ぎ、あなたに向かって声をあげることができますように。あなたを親しく呼び求めることができますように。私たちの祈りの時を、あなたが祝福し導いてください。御言葉を感謝します。主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

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