イエスか、バラバか
マルコの福音書15章1~15節
今日は2021年3月7日ということで、今週の木曜日がいよいよ大震災から10周年という時を刻む時になります。10年前の事を皆さんも色々思い出されるかもしれませんけれども、私も当時、岩手にいて大震災を経験した時の事を色々思い出しております。
岩手県の水沢という所に住んでおりましたけれども、あの時以来被災地に行ったり来たりする日々が始まったなという風に思います。それで被災の現場、変わり果ててしまった三陸の町々を見ながら、またそこで被災された方々と出会いながら、なぜこのような悲劇が起きるのかということを考えさせられました。
何故神様がおられるのに、なぜ神様はこのようにこのような悲しみが怒ることを許しておられるのだろうか?と、そういうことを考えさせられました。自分は牧師としてクリスチャンとしてその地に関わっているわけですけれども、しかし毎回駆けつけても、そのような深い問いかけに何ら答えを見出すことができないという、そういう思いを抱きながら、被災地の方々の何か何かの役に立てればと思って駆けつけるわけですけれども、根本的なところでは何も役に立っていないんではないだろうかと、そう考えさせられる時も多々あったなという風に思いました。
でもその時一つ思ったことがあります。それはもしこの家にイエス様がいらっしゃったならば、人々は救われるんじゃないだろうかということであります。このような矛盾や悩みや苦しみの全てを味わい尽くしてくださったイエス様が、もしここにおられたならば、そのイエス様の存在によって人々は救われるんではないだろうかという風に思いました。
ですからここに必要なのはイエス様だなってこと思ったんですね。
私は信仰者としてある意味ではイエス様の代わりにそこに遣わされていたと言えるかもしれませんけれども、でも本当に力不足を感じさせられました。
私自身が、もっともっとイエス様の十字架の苦しみと、その意味を知る必要があるなという風に思ったんですね。被災の現場のその人々と、イエス様を分かち合うためにも、イエス様の十字架ということが本当にはっきりと語られて行かなければいけないなということを思わされました。
私は、それまで「苦しみからの救い」については、多くを語ってきたような気がしましたが、「苦しみのその中にある救い」ということについて、もっともっと聖書から聞く必要があるなということを思わされました。
私たちも、本当にこのようで苦しんでいる多くの人々の傍にともに立つためには、イエス様の十字架、この苦しみというものを、私たち自身がよく学んでおく必要があるんではないかなという風に思わされております。
1.ピラトに引き渡されるイエス
今日も続けてイエス様がたどられた十字架の道を、私たちもともに辿っていきたいと思います。今日はマルコの福音書の15章の御言葉を皆さんで味わいたいと思いますけれども、今日はいよいよイエス様が、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けたって、さっき私達告白しましたけれども、そのピラトに引き渡される場面から今日の聖書の箇所が始まります。
1節から5節までもう一度読んでみたいと思います。
ユダヤ議会での協議を終えた祭司長達が、イエス様を縛って連れ出し、ローマの総督であってあったポンテオ・ピラトのもとに引き渡したというところから今日の話が始まります。
ピラトという人物はローマ帝国のユダヤ総督であり、普段はカイザリアという街に住んでいましたけれども、この時はおそらくエルサレムで祭りが開かれていましたので、祭りの警護のために、エルサレムに来ていたと考えられます。祭司長達は、 イエス様をこのピラトの鑑定に連れて行きました。ピラトによってイエス様を死刑に定めてもらうためです。
当時のユダヤの議会では、罪人を死刑に定めることができませんでした。その権限を持っているのはローマ帝国でした。ですからイエス様を死刑にするためには、どうしてもローマ総督であるピラトに死刑判決を下してもらう必要があったということであります。
2週間前私たちは礼拝式の中でサンヘドリンと呼ばれるユダヤ議会における裁判の様子をそこで確認しました。あの時イエス様は、「神に対する冒涜罪」の罪で有罪にされてしまいました。「冒涜である」ということが問題になりました。
ところが異教徒であるローマ人にとって、神に対する冒涜という宗教的なことはあまり重要なことではなかったんですね。ローマにとって重要だったのは、その人物がローマ帝国に対して反逆を加えているかどうかっていうこと、そこが大事なところでした。そこで祭司長たちはイエス様を訴える際に、イエス様がローマ帝国にとっていかに危険な人物であるかということを強調して訴えているということが分かる。イエス様がユダヤ人の王として民を扇動したとして、国家の反逆罪として訴えているということが分かるんですね。そしてそのために色々なイエス様にとって不利になるような訴えを、次々と重ねていきました。
とにかく彼らはイエス様を死刑にしたいというそういう、彼らの思いが、強い思いが伝わってくる内容だという風に思います。
それで2節でピラトはイエス様に尋ねてます。
「あなたはユダヤ人の王なのか?」それに対してイエス様は、「あなたがそう言っています」と答えています。「あなたの言葉の通りです」という、そういう意味だと思いますけれども、それを認めたうえで、しかしそれ以外のことは何一つお答えになっていません。様々な不利な訴えが次々となされているにも関わらず、イエス様は何もお答えになりませんでした。
その反応にピラトは大変驚いております。それにはピラトも驚いたと5節に書いてあります。
普通裁判の席において、被告人というのは自分の無罪を証明するために必死に主張したり、弁護したり、弁解したりするものじゃないかなと思うんですけれども、ところがイエス様は何一つお答えにならない。言われるままにされていました。不正な裁判なんですけども、不正な裁判をそのまま受け止めている。イエス様の姿というのがここに示されております。
そのイエス様の姿を、驚きをもって見ているピラトでしたが、実はピラトは気づいていたんですね。イエス様は無罪であるっていうことを、気づいていました。そしてこの裁判が祭司長たち、律法学者たちの陰謀によって用意された裁判であり、彼らは妬みからイエスを引き渡したっていうことを知っていた。10節に書いてありますね。その背後に陰謀がなされている。そのことをピラトは気付いていた。
2.イエスか、バラバか
ですからピラトは何とかしてイエス様を釈放しようと努力を致しました。6節からまた読んでみたいと思います。
ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放していた。そこにバラバという者がいて、暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。群衆が上ってきて、いつものようにしてもらうことをピラトに要求し始めた。そこでピラトは彼らに答えた。
「お前たちはユダヤ人の王を釈放して欲しいのか。」ピラトは、祭司長たちが妬みからイエスを引き渡したことを知っていたのである。しかし祭司長達はむしろバラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。そこでピラトは再び答えた。「ではお前たちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を私にどうして欲しいのか 。」すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」それでピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスは鞭で打ってから、十字架につけるために引き渡した。
その後の裁判の様子、どのように裁判が進んでいったかということが、これを見ると分かりますけれども、まずピラトは、祭りのたびに、人々が願う囚人を一人釈放するということを今までやってきました。そしてちょうどその時、群衆たちがピラトのもとにやってきて、いつもの祭りの時のように、罪人を一人釈放してほしいと要求し始めたんですね。それでピラトは、群衆は当然イエス様の釈放を望んでいるものだと思いました。そこで9節で「お前たちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか」というふうに問いかけております。
ピラトはこの裁判が、祭司長たちの陰謀によって用意されていることに気付いていました。ですから何とかしてイエス様を釈放しようとしているわけであります。ところがその時ピラトも想定していないことが起こりました。民は何と、イエス様ではなくてバラバを釈放してほしいと要求し始めました。バラバという男は、強盗と殺人の罪で捕らえられていた重罪人です。そのバラバの釈放を群衆はピラトに要求するということになりました。祭司長たちが、実はピラトに圧力をかけるために、あらかじめ群衆に声をかけて扇動していたっていうことがここに示されています。
おそらくピラトの読みが甘かったのかなと思いますね。ピラトにはユダヤの宗教指導者たちの狡猾さというものが、まだ読み切れていなかったんだと思います。想定外の反応が返ってきてしまいました。そこで12節でピラトは思わず言ってしまいますね。
この「では」っていう最初の冒頭の言葉に、ピラトがその時に感じた戸惑いが表されてるように思いますね。想定外のことばが帰ってきたんですね。それで「では、お前たちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうして欲しいのか」といってしまいました。
でもこれは本来言うべき言葉ではなかったと思います。イエス様を有罪にするか無罪にするかの判断を群衆に委ねてしまっている。これは裁判官が言うべき言葉ではないですね。イエス様を有罪にする権限も無罪にする権限も、実はピラトが持っていました。ピラトが決めればいいことなんです。
しかしその判断を群衆に委ねて、イエス様どうしてほしいのかと問いかけるような言い方をしているところに、彼の、ピラトのその時感じた戸惑いが表されているように感じますね。
そしたら群衆は何て答えたでしょうか?「十字架につけろ。」十字架って言葉が初めて出てきた。十字架という処刑方法がここで初めて提示された。おそらくこれも祭司長たちの先導によって出てきた言葉ではないかと考えられますけれども、十字架という言葉が出てきたんですね。
ピラトはイエス様の無罪を信じておりますので、何とかしてイエス様を釈放しようと努力したようです。マルコの福音書には出てこないんですけれども、マルコの福音とマタイの福音書の並行記事を読むと、ここでピラートの妻が夢を見ていてですね、その伝言が届いたっていう記事がマタイの福音書見ると出てくるんですね。ピラトの妻の、こんな伝言が届いたそうです。
そういう伝言が妻から届くんですね。ピラトの妻も、その日非常に悪い夢を見てですね、あの人に関わらない方がいい、有罪にするべきではないと、イエス様の死刑には反対だったっていうことが分かるんですけれども、そういうこともありましたので、ピラトは何とかして釈放しようと努力したようです。14節、
十字架につけろ、非常に激しい言葉ですよね。その言葉がもう何度も何度も繰り返されていく。しかもどんどんどんどん激しくなっていく。祭司長達に先導された群衆たちの恐ろしい反応というものがそこに表されているなという風に思います。
3.十字架に引き渡されたイエス
ピラトはその群衆の声としばらく戦ったと思いますけども、抵抗したと思いますけれども、でも最終的には群衆の声が勝利しました。ピラトがイエスを十字架に引き渡してしまった。その理由は何だったでしょうか?15節、
無罪を知ってるはずのピラトが、そう宣言することできなかった。群衆の声に負けてしまった。ローマ帝国の権力を代表するようなこの人物が、群衆の声に屈してしまった。その結果イエス様が十字架につけられていく。そういう過程を私たちはこの聖書の箇所から辿ることができます。
この箇所を通して祭司長たちの恐ろしいほどの執念深さってものを感じさせられるんではないでしょうか。とにかくイエス様を死刑にするために、彼らが本当に必死になっている姿というものがここに表されているように思うんですよね。なぜ、こんなに彼らはイエス様を死刑にすることに必死になっているのか。その原因はどこにあったのか?
聖書はその原因は彼らの心の中にある妬みだったってことをここに記しています。
10節でピラトは、祭司長たちが妬みからイエスを引き渡したことを知っていたのであると書かれています。祭司長というのはユダヤ教の宗教界の指導者たちですね。そして普段は人々からとても尊敬されている、そういう人達でした。でもそんな彼らの心の奥深くにイエス様に対する妬みが隠されていた。そしてその妬みゆえに、何としてもイエス様を片付けたい、処刑にしたいという、その思いがここにずっと記されている。妬みの感情というものがいかに恐ろしいものか、如何に破壊的な結果をもたらすかっていうことを私たちはこの箇所を通して感じさせられるんではないかなという風に思いますね。
どうしてこんなに彼らはイエス様を妬んでいるのか?今までいろんな経緯があったわけですけれども、やっぱり人々の人気が自分達ではなくて、イエス様の方に向かっていくことをとても我慢できなかったことだったろうなという風に思います。
あるいはイエス様が、あるときは安息日に人を癒したり、洗わない手で食事をしたり、断食の規定を破ったように見えて、彼らが大事に守ってきたユダヤの律法を軽んじているかのように見えることは、彼らにとっては、とても許されないことだったと思いますね。我慢できないことだったという風に思います。そこでだんだん彼らの心の中に妬みが起こり、妬みが怒りや憤りに変わり、そしてそれが殺意にまで変わっていった。人間の心が暴走すると本当にコントロールが効かなくなっていくということを、私たちはここから教えられるんではないだろうかという風に思います。
私たちの心の中にも、この妬み心がないかどうかを本当に考えてみなければいけないなという風に思います。自分と人を比較して、自分よりも恵まれている人を見ると、つい心の平安を失ってしまうということが私たちにもあるんではないかという風に思います。あるいは自分が大切にしてきたことが軽んじられたり、否定されてしまったように感じるとき、その人に対する良くない想いを抱いたり、その思いが怒りや憤りに変わっていったりということが私たちにもあることではないだろうかという風に思います。
イエス様を、直接十字架につけたものは、なんだったんでしょうか?
人間の持つ妬み心であったということを、今日の聖書の箇所から覚えたいなという風に思います。同じものが私たちの心の中にないかどうか、しっかりと私達の心の内を探って頂いて、本当にイエス様の前にそれを差し出して、しっかりと処分していただき、許していただくということがどんなに大事なことでしょうか。主の前に歩む者でありたいという風に思います。
このようにしてイエス様はピラトによって死刑に定められ、十字架刑に定められ、いよいよこれから十字架に向かっていくということになりました。でもその前に何をされたかと言うと、ここでイエス様はムチで打たれたってここに書いてあります。
ここも私達さっと読んでしまいやすい箇所かなと思うんですけれども、イエス様が十字架につけられる前に、ムチで打たれた。当時のムチっていうのはどういうムチであったかと言うとですね、それはムチの先に、石や動物の骨などが取り付けられていて、打たれるたびに体が引き裂かれ、肉片が飛び散ったって言われているんですね。イエス様は十字架の上で釘を打たれて傷つきましたけども、十字架にかけられる前からもう傷だらけになっていたっていうことが分かるんですね。どんなに痛かったことかと思いますね。どんなにつらかったことかという風に思います。そのようにしてイエス様は十字架に引き渡されていたということがここに記されてあります。
今日の聖書の箇所全体を見ていくと、1節で祭司長たちが、イエス様をピラトに引き渡したという言葉がここに出てきます。そして最後の15節には、今度はピラトがイエス様を十字架につけるために引き渡したっていう言葉が出てきます。
「引き渡す」という言葉がここに出てくるんですけれども、この言葉は聖書の中で大事な言葉です。
どうしてかっていうと、イエス様はかつて弟子達にこういう風に言っていたんですね。
私たちはエルサレムに上っていきます。そして人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
そのようにイエス様はかつて弟子たちに話していたんですね。
自分は祭司長たちや律法学者たちによって引き渡されるのだ、異邦人に引き渡されるのだ、つまりポンテオ・ピラトのもとに引き渡されるんだと、そしてその後ピラトから十字架に引き渡されるんだって、そういうことをイエス様は弟子達に教えていた。本当にその通りになったということを聖書は私たちに伝えているんですね。全ては聖書が教えている通り、予言の通りでありました。その予言の通りにイエス様は引き渡されていった。引き渡されて言ったっていうことはつまり、神の祝福から離されて、神の呪いと壮絶な苦しみの中に引き渡されていたという事実を表しております。
そのようにしてイエス様は、まるでほふりばに引かれていく羊のように、だまって十字架の道を歩んで行かれました。罵られても、罵りかえさず、苦しめられても脅すことをせず、一人定められた十字架の道を静かに歩んでいかれた。
どうしてだったでしょうか?預言者イザヤが語ってますが、それは
私たちがイエス様の打ち傷によって癒されるためだった。
と書かれてあります(イザヤ書の53章の5節。)
皆さんもいろんな傷を負ってきているんではないでしょうか。体の傷ではなくて、心の中に今までいろんな傷を負ってきているんではないでしょうか。そしてその傷がなかなか癒えなくて、何年も経っているという事も沢山あるんじゃないかなと思うんですね。体の傷はすぐに治るかもしれないけれども、心の傷ってなかなか治らないですよね。何年経っても治らない。
どうすればそれが癒えるんでしょうか。癒えるとすれば、それには何が必要なのでしょうか。イエス様の体に刻まれた打ち傷によって癒されるって、聖書は私達に教えてるんですね。
そのためにイエス様が十字架にかかって下さいました。そのためにイエスキリストは自ら私たちの罪を負って十字架にかかって身代わりとなって死んでくださった。そこで傷を負ってくださった。それは全部わたしたちの傷を癒す為であった。私たちの罪を赦すためであった。そのための十字架であったということをぜひ私たちは覚えるものでありたいという風に思います。
4.結び
被災の現場では壮絶な苦しみが味わわれたことと思いますけれど、もこの世を歩んで行く時に、私たちは、やはり理不尽な苦しみを沢山味わって行かなければいけないと思います。特に信仰者として、信仰をもって歩んで行く時にも、様々な苦しみを私達経験せざるを得ないことがある。でもそれは全部キリストの苦難であるということを覚えたいという風に思います。
最後に第2コリントの手紙の1章の4節そして5節の言葉もあわせて読みたいと思います
このように聖書の中で教えられています。神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めて下さいます。私たちが経験する苦しみも、耐えることもできないような苦しみの中にも、必ず慰めがあるって教えられている。
どうしてでしょうか?その苦難が、実はキリストの苦難だからなんです。
私たちが経験する苦難がなぜキリストの苦難になるんでしょうか?
それはその私たちが経験しているその苦しみを、主が担ってくださるから。そこに共にいてくださるから。そこで私たちと共に苦しんでくださる。その苦しみが、私たちの苦しみではなくて主の苦しみになってくださる。それを経験する時に私たちは慰められるんではないでしょうか。
そしてその慰めを経験した時に、その慰めをもって、同じように苦しんでいる人たちを慰めることができると聖書は私たちに教えています。
この主の慰めが、東日本大震災から10年を経た被災地の現場においても、本当に豊かに味あわれることを私たち祈ってって行きたいという風に思います。
そして私たちも日々の歩みの中で、特に今のコロナの影響の中にあって、多くの制約があり多くの悩みが、いろんな影響が私たちの生活の中にも及んでいますが、その悩みの中に主が共にいてくださることを味わいたいという風に思います。
その慰めをもって、私たちも互いに慰め合っていこうではありませんか。
お祈りをしたいと思います。
恵み深き私たちの父なる神様。あなたの体験された十字架の苦しみを思うことができました。その苦しみはすべて私たちのためであったことを覚えて感謝いたします。私たちが痛みを覚える中で、また傷を負っている中で、苦しむ中で、そこに主が共にいてくださって、そこでその苦しみを共にになってくださるめぐみ覚えてありがとうございます。そのために主は私たちのために十字架にかかってくださった恵みを覚えて感謝します。その主の慰めを私たち自身が深く味わい、また多くの人々と共に分かち合っていくことができるように助けてください。ここにおられるおひとりおひとりの生活の歩みの中に、様々な痛みがあり悩みがあり思い煩いがありますが、どうぞ主が1人1人にふさわしく関わってくださり、慰めを持って応えてくださいますようにお願い致します。み言葉を心から感謝し主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。