イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書7章13~29節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぴます。 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。 『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預甘し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。 『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」  イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

要約

この箇所は「狭い門から入りなさい」というイエス・キリストの教えを含んでいます。以下に詳細を解説します。

  1. 狭い門と広い門 (7:13-14)
    • イエス様は「狭い門から入りなさい」と語ります。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いです。しかし、いのちに至る門は狭く、その道も細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
    • 広い門は立派に見え、多くの人が通っていて楽で快適に見えますが、実は滅びへの道です。一方、狭い門は貧相に見え、わずかな人だけが通っていて窮屈で危険に見えますが、それがいのちに至る道です。
  2. 偽預言者 (7:15-20)
    • イエス様は偽預言者に用心するよう警告します。彼らは羊の衣を着ているが、内側は貪欲な狼です。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。偽預言者たちは神のことばを自分勝手に解釈し、都合の良いように利用します。
  3. 主の言葉に従う者 (7:21-29)
    • 主なる神のみこころを行う者が天の御国に入るのです。偽預言者たちに気を付け、主の言葉に従う信仰を持つことが重要です。
    • 例えは、台風によって家が倒れるかどうかを決める土台の選択になぞらえています。私たちの人生の基盤は何か、それが重要です。

筆耕

マタイの福音書の7章 の後半部分ですけども、 選択が迫られてるって事なんですけども 最初は狭い門か大きな門か どちらかということなんですね 。そして2つ目は良い実を結ぶ 木か悪い実を結ぶ木かどちらかということなんですね。その次に出てくるのは御国に受け入れられる状態か、 それとも 御国から排除されてしまう状態かという 選択肢と言ったらいいでしょうか 、そして最後は 岩の上の家と砂の上の家という2つの話が出てきて、 みんな 対照的な2つのことが 出てきてですね 、どちらを選びますか という、そういう選択が私たちに迫られてるんだなということが 全部の話を通して気づかされることかな と思います。

 今まで イエス様は、御国の福音 という こと、つまり御国の価値観とか、御国の生き方について ずっと教えてきました。 私たちはこの世に生きてますけども 、この世にあって御国の民となった。 御国の民としての新しい価値観 、幸福感、 何が幸せかってところから始まりましたけども 、御国の価値観 そして御国で、 どうやって生きていくか という その生き方の内容を一つ一つ イエス様が教えてきたわけですよね。

 それをずっと私たちは学んできて、聞いてきたわけですけれども、 最後 に、 そのような御国の生き方を選びますか? それとも この世の生き方を選びますか? どちらですか 、ということなんですね 。そういうことが最後には問われてくる、 私たちは最終的にはやっぱり 応答するということが求められているんだなということを思います。

 ただ聞いてるうちは、なんとなく ありがたく 聞いてられるんですけれども 、でも 最終的に応答を迫られると、 私たち ちょっと緊張してしまっ てですね 、どうしようっていうことなるかもしれません けれども、 やっぱり ただ聞いて終わりではなくて、 やっぱり主は、聞いたらちゃんとそれに応答してくれることを願っておられる。 そういう方なんだな ってことですね。 最初は「狭い門から入りなさい」 ということですね。「 狭き門」 って有名ですよね 。小説の題にもなってますし、 受験生はよく 狭き門って言ってると思いますけれども、 いろんな意味で使われる言葉 かなと思いますけれども、イエス様はここで「狭い門から入りなさい」という風に命じていて、 やっぱり 私たちが「狭い門」から入ることを願っておられるということがわかるんですが 、でも実際には狭い門、もう一つ大きい門と両方あるわけですね。

 それで大きい門もあって 、 その 門は大きくて、その道は広くて、「そこから入っていく者が多いのです」って書いてますので、 ほとんどの 人たちはそちらの大きい門を通っていくんだと思います。 それはとても魅力的な門なのかもしれません。 魅力的な道なのかもしれません。 人々の心を引き付ける 何かがあるのかもしれません 。でも 私たちは狭い門から入りなさい ということが求められている。

 14節 を見ると「命に至る門 は、 何と 狭く、その道もなんと細いことでしょう 。そしてそれを見出すものはわずかです」って書いてますね 。 広い門は 、 非常にこう 通りやすい 魅力的な門なんだと思います。けれども 、その 至る先は、「 滅び」であるっていうこと が示されてますね。ところが 命の門は、 そこを通るとやっぱり「 命」に至るわけですね。 狭い門は、そこを通ると命に至るという、 そういう 違いがあるということが分かります。

ただその門は本当に狭いんですね。「 何と 狭く、 なんと 細いことでしょう」って 強調されてますね。 本当に狭いんだと思います 。そしてその先の道も、 本当に細いんだと思いますね。

 それでこの狭いっていうのは 多分、 余計なもの持ってるとくぐれないような、 そういう 狭さ なんだと思いますね。ですから その門をくぐるために、私たちは捨てなくちゃいけない。 持ってる物は、捨てないとくぐれないくらい狭い門なんだと思いますね。 そしてその先に続く道 も、狭い門を くぐったら 広い道になってくれたらいいんですけど 、広い道にならないんですよね。 細い道が続いていく。この「細い」と訳されている原語の意味には、 困難とか苦労とか抑圧とかって、そういう意味が込められてる言葉なんですね。ですから細いっていう その中にですね 、 そこは非常に苦しみの道で、本当に困難があって、あまり誰も通りたくない そういう道だということですよね。「 それを見いだすものはわずかです」ということですので、あまり人の心を惹かないそういう道なのかもしれません 。でもその先は命に続いていく道なんですね。どちらを選びますか ということ の選択がここでなされているということが、 その問いかけが、なされている。 もちろん「 狭い門から入りなさい」 ということが 、イエス様が願ってることなんだけれど、 でも最終的にはどちらを選ぶかは私たちの自由なんですよね。 私たちに任されていることですね。ですから 広い門を選ぶこともできるんです 。

でも主の御 心を知って、 やっぱり狭い門をくぐっていくということが、私たちに求められている 。それは確かにあの辛いことかも多くあるのかもしれません けれども、 でも 実はそこにね 祝福がありますね 。イエス様が 伴ってくださる 道ですね。 いろんな試練もあります。 困難もありますけども、 必ず主が伴ってくださる道ですね。 そして それは命に至る道であるということですね。 その 選択私たちには問われているということをまず覚えたいと思います。

 

 そして15節ですね。 次に行きたいと思いますが、「偽預言者たちに用心しなさい」って言葉が出てきました 。用心しなければならない存在がいるって事なんですね。 どうして偽預言者に用心しなければいけないんでしょうか?二つくらい理由が考えられると思います。

 一つは、「 彼らは羊の衣を着て あなた方のところに来るが、内側は貪欲な狼です」 って書いてますね。もう一つは「見栄え」ですね 。羊のような見栄えをしてるって事ですね。 羊のような衣を着てるのであまり 偽預言者には見えない。 羊ですから 、 とても安心感を与える そういう存在なんだと思いますね 。見栄えはそうなんです。ところが その内側は貪欲な 狼 なんだということですね。 恐ろしさを隠し持っている 存在なんだ、 だから 用心しなくちゃいけない。 見栄え では判断できないということが ここで 警告されているなと思います 。

あともう一つ 用心しなければいけない理由は、 やっぱりここの文脈の中で考えていく時に、今まで本当に御国の教えをずっと教えてきたわけですよね。御国のその生き方、素晴らしさ 、そのことをずっと教えてきた。ところが偽預言者に注意 しなさいっていうのは、 要するに そのせっかく教えられた その教えが台無しになってしまう。 せっかく そこに示された生き方ができなくなってしまう。 そういう風に 惑わされてしまう。 そういう危険がそこにあるっていうことですね 。おそらく私たちを 狭い 門ではなくて、大きな門に誘うような、 そういう働きをするんじゃないでしょうか。 そして私たちの信仰生活が実りのない、 実りの乏しい 、そんな信仰生活になってしまうんじゃないでしょうか。そういう偽預言者の存在に気をつけなさい ということなんですね。偽預言者という 言葉を聞いても 私たちは あんまり ピンと来ないかもしれませんけども、ユダヤ人たちが 偽預言者 っていう言葉を聞くと、当然 旧約聖書の話を思い出すだろうと思うんですね 。それでいろんな偽預言者たちが、 非常に 活発に活動してた時代っていうのがあるんですけれども、一つは エリアの時代がそうだったのかなと思いますが、 もう一つは 預言者エレミヤの時代ですよね。 エレミヤの時代にたくさんの偽預言者たちが活動していたということが知られていて、 エレミヤ書を読むと、 それがわかるんですけども、そこで警告もされてるんですけれども 、 エレミヤ書の 6章14節 を読むと、 こんな言葉がありますね。「 彼らは私の民の傷を、いい加減に 癒し、 平安がないのに、平安だ 平安だと言っている」んですね 。当時の 偽預言者たちの姿がそこに描かれてるんですけども、 私の民の傷をいい加減に 癒す、 適当に治療する。 そして 平安はないのに、平安だ 平安だと言っている、ということですね。 その エレミヤの時代っていうのは、本当に不安な時代 なんですね。 もう 敵が攻めてきて滅ぼされるかもしれない。 先が見えない 。真っ暗 、もう本当に不安の中にある。 そういう時代にですね、「 平安のメッセージ」を、みんな聞きたいわけですよね 。「平安」 って言葉が 聞きたいわけです。そこで偽預言者は、平安だ、平安だって言うわけですよね。 そこで聞きたい言葉が聞けるということで、 みんな喜んでいたということ、みんなが 、 その偽預言者に惑わされていたというメッセージが、 エレミヤ書の中に出てくるんですね。 それに比べると エレミヤは、全然人気のない 予言者でした。 どうしてかって言うと エレミヤ は、「悔い改めなさい 」そういうメッセージ 言うから なんですよね。「 もう本当に裁きが迫ってる 」、「もう悔い改めなさい」、 全然平安じゃないんですよね。 ですから全然人気のない 預言者だったんですね。 そういう時代背景の中で、 偽 予言者たちが活躍していた。そういう時代があったということが、 旧約聖書の中に示されていることですね。 まあそういう時代背景のことも 意識しながら読んでいくと、 私たちもやっぱり偽預言者に、「本当に気をつけなくちゃいけない」と言うことが、私たちが求めているメッセージであると思うんですね。

 それを言っていただけると 、「本当に嬉しい」という、 そういう言葉があると思うんですね。 でもそれが本当に真実かどうかわからないんですね。私たちは嘘でもいいから 、本当にそういう 慰めの言葉が欲しいって、そういう心境になってしまうことがあるんですけども、 でもそこに私たちの 惑わされやすい 危険が潜んでいるということなんですね。

 本当に私たちが聞かなければいけないのは、命の言葉、 真実な言葉 、神の言葉、 そしてそれを語る預言者たちが、どんなに必要であるかっていうことですね 。そのことは私たちも覚えておきたい。 惑わされないように、この時代が不安になると、すぐ 惑わされますので 私たちも気をつけていきたいなと思います。 それを 見分けるためには、 実を見れば分かります。よって良い実か悪い実かを見ることによって見分けることができますよ ということが次に続いてきますね。 私たちも偽預言者に惑わされないようにしなければなりません。 惑わされると、実を結ばない、 むしろ 悪い実を結んでしまう 信仰者になってしまいますので 、そういう意味でもよく用心にするものでありたいと思います 。

 

そして 3番目の方に行きたいと思いますけども、 21節からは です ね 、御国に受け入れられる者と、そうでない者っていう、そういう対象が示されているということが言えると思います。

 21節、「 私に向かって 主よ、主よ、というものが皆 天の御国に入るのではなく 、天におられる 私の父の御心を行う者が入るのです。 その日には多くの者が私に言うでしょう。『 私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって 悪霊を追い出し、 あなたの名によって多くの奇跡 を行ったではありませんか』 しかし私はその時 彼らにはっきりと言います。『 私はお前たちを全く知らない。 不法を行う者たち、 私から離れて行け』。ということですね。 せっかく天の御国に入れると思っていて ですね 、そしたら 御国に入れないって言われたら、こんなに悲しいことはないですよね。その最後の時に そういうことになってしまったら、本当に悲しい。

どうしてそんなことなってしまったのかということなんですね。 それで「私に向かって主よ、主よ、 というものが皆 天の御国に入るのではない」と出てきますので、 この人たちはイエス様が主であるって事は知ってるわけですね。 イエス様が主であるという知識は持っていますね 。よく理解はあると言っていいのかな と思います。 そして 普通は「主よ」って1回言うんですけど、 この人たちは「 主よ」 と2回言ってるんですね。 まあ 1回か、2回 言うかって、そんな大きな違いはないかもしれませんけども、でもやっぱり 熱心ですね。 とても情熱を感じます。 「主よ」って一度だけじゃなくて、2回言うところにね 非常に熱心に呼びかけている情熱がある 。この人たちは 情熱を持っているということも言えるんだと思います。 そしてこの人たちは生きてる間にたくさんの業績をあげました。「 私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって 悪霊を追い出し 、あなたの名によって多くの奇跡 を行ったではありませんか」。 すごい活躍 なんですね、 この人たちはね。 生きてる間にイエス様の名によって、 悪霊を追い出したり、 預言をしたり、 奇跡 を行ったり、もう 文句なしに この人、 間違いなく 天の御国に入れると普通は思いたいところですね。 普通 私たちはそう思うところじゃないかなと思うんです。 ところがそういう人たちでも、 天の御国に入る時に、「 私はあなたのこと知らない」って言われてしまう。「不法を行う者たち、 私から離れて行け 」。どうしてそうなっちゃうんでしょうか?この話を通して 情熱とか、実績とか、行ないっていうのは、とっても大事です。 大事だけども、 それが救いを決定することではないっていうことですよね。知識持ってることは 大事ですね 。情熱を持ってることも大事ですね。 実績を上げることも大事ですね 。それが救いを決定することではない。

 じゃあ 何が救いを決定しますか ?イエス様が言われたことは、「 天におられる 私の父の御心を行う者が入るのです」ということで、 御心を行ったかどうか なんですよね。 御心にどれだけ応答したかったかという 、そのことが最終的には問われるんだよ ということが 教えられている。 こういうこと聞かれるとですね、 私たちは、 ちゃんと御心の通りに歩めているのかしら と急に不安になったりするんですけれども 、 でも自分の行動の 吟味が、やっぱり私たちには求められてくるんだと思います 。

御心を知るためには、やっぱり 御言葉をよく聞いてないといけないんですよね。 御言葉を聞かないと、御心は分かりません。ですから よく 御言葉を聞いて、主が今何を願っているかということをよく受け止めて、 心を開いて 神様とお 交わりをしているって事が、どんなに大事かってことですよね。 そこで 主の御心がわかったら、それをやればいいわけですね。 そうすると 主が喜んでくださいます。ですから 本当に私たちは、主が今 喜んでくださっているかな、いろんなことをやってますね 。 でも本当にそれを主が喜んでくださってることかな、 意外と自分だけ喜んでいるだけで終わってないかな とかですね、 自分は喜んでるんですけど主は果たして喜んでくれてるのかどうかわからないっていうようなことではなくてね、 本当に主が喜んでくださってるなということの確かな確信の中で歩んでいくということが、 とても大事だということですね ここから覚えるものでありたいと思います ですね それが大事だということを覚えたいと思います。

 

 そして最後に行きたいと思います。 24から27節までですが、 有名なあの「岩の上のに建てる家、 砂の上に建てる家」ということですね。 その両方が示されて いて、これもどっちなのかという問いかけがあるわけですけれども、 24節ですね「ですから私のこれらの言葉を聞いてそれを行う者は皆、 岩の上に自分の家を建てた 賢い人に例えることができます」ということで「賢い人」が出てきますね。 でもその後に「愚かな人」も出てくるんですね。 

26節、「また私のこれらの言葉を聞いて、それを行わない者は、みんな砂の上に自分の家を建てた 愚かな人に例えることができます。」

賢い人と、愚かな人って出てきて、その賢さってどのような 賢さなのかなと思って 読んでみると、 それは 岩の上に家を建てる 賢さ で、愚かな人っていうのは 砂の上に家を建てる愚かさであったということが分かります。 これはマタイ福音書の記事を今読んでますけれども 、これとほぼ同じ教えをですね 、 ルカの福音書の方でも語っていまして、 ルカの福音書の 6章を読むとですね、 あの こちらは「山上の説教」と呼ばれていますけども、 ルカの方は「平地の説教」と呼ばれたりもしますけども、 ほぼ同じ内容がルカの6章にも出てくるんですね 。

そちらを読むと、こんな風に言われていますね。「 賢い人に関しては 地面を深く掘り下げ 岩の上に土台を据えた」って出てくるんですね。 イエス様は同じ話をしてると考えれば 、 この 賢さ というのは、 地面を深く掘り下げて、 岩の上に土台を据えたその賢さ なんだな っていうことがわかるんですね 。ただ 岩があって、その上に 家を建てたっていうんじゃなくて、地面を掘っていったんですね。 深く掘り下げて、掘り下げて 、岩のあるところまで掘っていった 、すごい 労力がかかってるんです。 時間がかかってるんですね 。すごい努力をしてるって事なんですね。ですから岩のところまでたどり着くまで大変だったと思いますが、 そこに行くまでやめなかったってことですね。 そしてそこにしっかりと土台を据えて、 そして家を建てたという 、そういう 賢さ なん だということが分かります。

ところが砂の上に岩を家を建てた人は、 ルカの福音書の 6章49節を見ると、「 土台なしで地面に家を建てた」って出てくるんですね。ですから、 ただ単に 砂の上に岩を建てたっていうだけ じゃなくて、 土台なしで家を建てちゃったという、そこに 愚かさがあるということなんですね 。それで 、それは 先のことをよく考えてないってことですね。 岩の上に家を建てた人というのは やっぱり、先のこと考えて家を建てたんだと思いますね。 いろんなことを想定しながら、 これから嵐がやってくるかもしれない 。洪水になるかもしれない。 そういうこともちゃんと 想定した上で、家を建てたからこそ、岩の上に建てたんだと思いますね。ところが愚かな人は、先のこと考えてないんですね 。とりあえず今結果が欲しいということなんでしょうか。 今 とりあえず手っ取り早く家を建てたいということで、 土台なしに家を建ててしまったというんですね。 まあそういう違いがここに見えるということが言えると思いますね。

 立派な家ができたと思います。両方 あんまりそんなに違いはなく、 見栄えは同じぐらいというかね、 どちらも立派な家だったと思うんですけれども、 でもその真価が問われる時が来るわけですね 。それは雨が降ってきたり、 洪水が押し寄せてきた時 、そして風が吹いてきた時に、その真価がついにわかってしまうということです。 分かりますよね。

 それで賢い人の建てた家の方は 、25節で「雨が降って、洪水が押し寄せ、 風が吹いて、 その家を襲っても、家は倒れませんでした。 岩の上に土台が据えられていたからです」ということで、しっかりと 岩の上に土台が据えられていたからこそ、 その家は守られたということですね 。ところが 27節、「 雨が降って、洪水が押し寄せ、 風が吹いて、 その家に打ち付けると倒れてしまいました。 しかもその倒れ方はひどいものでした」ということで、 もうほんとあっけなく倒れてしまって、その倒れ方も ひどかったということなんですね 。もう本当にもうめちゃくちゃになっちゃったということなのかなと思います。

その時が来た時にやっとわかる。 それは 逆を言えば ですね、 その時が来るまでは分からないということでもあるのかな と思いますね。 私たちの信仰生活、 今はですね、 それなりの 信仰生活を送っているように見えるかもしれません けれども、 その時が来た時に信仰 が試されてしまうというですね。 あのそういうことが言えるんだと思いますね。 その時に、 本当に頼るだけの信仰になっているかどうか 、そして本当に 土台が大事なんだな ってことも教えられると思いますね。 まあ すぐ結果が出なくてもね、やっぱり 本当に土台をちゃんと 築いているか、 しっかりと足が地についているか、 そして本当に 御言 葉に私たちが根差しているかどうか っていうのが、やっぱり その試練の時、 危機の時に試されるということが言えるんだと思います 。

今この両者の違いは何かということで 改めて考える時に、それはイエス様の言葉を聞いて、それを行うかどうかの違い なんだということがわかると思います。 ですから「私のこれらの言葉を聞いて、それを行うものは皆、 岩の上に自分の家を建てた 賢い人に例えることができます」ということで、 これらの言葉を イエス様は、 ずっと 今まで教えてきました。 山上の説教を教えてきました。 これらの言葉を聞いて、聞くだけじゃなくて、 それを行うかどうかの違い なんだってことなんですよね。 行う人はしっかりと岩の上に家を築いている。でもそれを聞いてもそのままで終わってしまって、行わない人は結果的には砂の上の家のようになってしまうんだよ ということが ここで教えられているということですね。

ですから まず 本当に 御言葉を聞いて 御心を行うっていうこと 大事ですよね。 そしてそれは本当にこう 積み上げていく、実践していく、ということが私たちの信仰生活にどれだけ欠かせないかということを、 私たち今日学びを通して覚えるもの でありたいと思います。

 

 最後にまとめたいと思うんですけれども 、 私たち 行いによって救われるわけではないですね。 救われるために行いが大事なのではないんですよね。 私たち は信仰によって救われました 。信じることによって救われた。行いによって救われたわけじゃないんですよね。 です から信仰が大事なんですね 。でも救われた人はやっぱり、行いによって成長していくということですね。 救いに関しては、行いは関係ないんだけれども、 救われた人は行いによって成長していくで、 それはやっぱり愛における成長ということが言えると思いますね。 それは 要するに 神様の愛に答えていく、 神様との関係が本当に祝福されていく、 そして本当に信仰が 形だけではなくて、中身が伴う 本当に喜びの信仰になっていく。 それが やっぱり イエス様の願っていること なんだなという ことは今日覚えたいと思います 。主は、やっぱり私たちに、 狭い 門から入ってくれることを願っているし、 そして、 ちゃんと実を結ぶ 信仰者になってもらいたいと願っているし、 そして一生懸命なのも嬉しいけども 、でも本当に御心を行ってくれる人を願っているし、本当に聞いて聞いた通りにそれを行うということを本当に願っておられる 。

そのようにして本当に私たちが神様との親しい 交わりの中で生きていく。 そのような関係を主は願っておられるということなんですね。そのことをぜひ今日覚えてですね 、今日でおしまい なんですけども、 是非この世にありながら、 本当に御国の民として生きていくことができるように、すぐに惑わされたり、 騙されたりですね 、振り回されてしまいやすい私たちですけども、 御言葉によって支えられながら、主と共に歩む 一歩 一歩としていきたいなと思います。

 

じゃあここでお祈りをして終わりたいと思います。天の父なる神様、 説教をずっと 学んでくることができて感謝します 。御国の正しい生き方 、価値観を私たち 与えられていることをありがとうございます。 この世ではあまり評価されることがないかもしれません し、またいろいろな苦しみも そこには伴っていますが、 主が伴ってくださる歩みであること、そして私たちを引き上げてくださり、 成長させてくださる主が、共におられることを覚えてありがとうございます 。御言葉の導きの中で 、一歩一歩歩んでいくことはできるように、日々励ましてくださるようにお願いいたします。 イエスキリストの御名によって お祈りをいたします。

 

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