神のさばきを覚えつつ生きる。(山上の説教)・・・マタイ伝7章
イエス様が山の上で弟子たちに語られた山上の説教をした順番にそのメッセージに耳を傾けてきております.
「山上の説教」はマタイの福音書の5章、6章、7章と、3章にわたって記されています。それぞれの章ごとに実は大きな主題があります.
5章においてはこの世において生きるキリスト者の姿というのが大きなテーマでありました。6章では天の父である神との交わりの中に生きるというのが大きなテーマでした。
これからお話しします、七章では、さらに新しい主題が加わります。それはどういう主題かと言いますと「神の裁きを覚えつつ生きる」というテーマであります。
私たちに与えられた人生を、神様の前に道を歩んだのかどうか、生きてきたのか、ということが問われる時がやってくる、それは裁きの時である。
そのことを自覚して生きなさい。そのことを覚えながら生きなさいということが、7章全体において教えられていることであります。
そのことを意識しながら今日から7章を読み進めていきたいと思います今日のメッセージに早速耳を傾けていきたいと思います。
一節二節において、まずイエス様は弟子たちに、「裁いてはいけません」と命じられました。今日はこのさばいてはいけませんという、このみことばを私たち、心に深く留めたいと思います。
さばいてはいけませんとイエス様が私たちに語られる時に、そこで意識されるひとつのことがあると思います。
それはすぐに人をさばいてしまう、人をさばいてしまいやすい私たちの傾向であります。そしてイエス様は確かにそのような人間の傾向を、意識した上でこの命令を弟子たちに語っておられます。おそらく弟子たちは互いにさばきあっていたんだと思います。
1. 他人を裁いてはいないでしょうか?
イエス様の十二弟子同士の関係は、実は非常に複雑なものだったということが、聖書を読んでいると分かるんですけれども、この時に、もうすでに彼らは裁きあう、そういう関係だったということが予想されます。そしてこれは初代教会が等しく抱える問題でもありました。
例えば、パウロは、ローマ人への手紙の手紙の二章一節でこうに語ってます。「ですから全て他人を裁く人よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人を裁くことによって自分自身を罪に定めています」と教えてます。
あるいはコリント人への手紙第一の4章5節でもこういう風に言ってます。
「あなた方は主が来られるまで何についても先走った裁きをしてはいけません」。
こういう記述を通して私たちが気づかされるのは、ローマの教会でも、コリントの教会でも、信徒たち同士が裁きあってたという問題がそこにあったということであります。
そしてヤコブという人も、ヤコブの手紙の中で4章11節にこう書いてます。「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです」。
このように信徒同士が互いに悪口言い合ったり、互いにさばきあったりするという問題が、初代教会に等しく見られる問題であったということを新約聖書読んでいると気づかされることであります。そしてこのような聖書の記述を通して、この問題は全ての時代の、すべての教会に見られる普遍的な問題であるということを教えられるわけであります。
私たちはどうでしょうか?皆さんは誰かを裁いてはいないでしょうか?口に出さなくても心の中で、誰かをさばいているということはないでしょうか?すぐに人を裁いてしまう、さばきやすい私たちではないかと思います。
おそらく兄妹姉妹としての親しい関係があるから、さばきあってしまうのかな?とも思います。あるいは同じ神を信じているという「共通認識」があるからこそ、私たちは互いにそうなってしまうのかなと思います。
おそらく考え方、価値観が全く違う人であるならば、ある程度考え方が違う、そのような関係であるならば、あまりそこまでさばきあるということがないかもしれません。むしろ同じ信仰を共有している兄妹姉妹であるということが、お互いを意識して、互いに気になってしまって、さばきあってしまうということではないだろうかという風に思います。
そんな私たちに対して、イエス様が「裁いてはいけません」と命じておられるという、そのみことばを今日私たち心に留めたいという風に思います。
2. なぜさばいてはいけないのか?
どうしてさばいてはいけないんでしょうか。
その理由についてイエス様ここで語っておられます。
一節をもう一度読みます。「さばいてはいけません。裁かれないためです。」さばいてはいけない、その理由は何でしょうか?それは「裁かれないためである」とここでイエス様はおっしゃっておられます。
そしてそれに続く2節では「あなた方が裁く通りにあなた方も裁かれ、あなた方が測る通りにあなた方も計られるからです」と続けて語っておられます。
人を裁いた同じ基準で、自分も裁かれ、人を測った同じ測りで自分も計られるということが、ここで教えられています。さばきが自分のところに戻ってくる、人を裁けば自分も裁かれるということがここで教えられている。
3. 一体誰が裁くでしょうか?
一体誰誰によって私たちは裁かれるんでしょうか?このことははっきりここには書いていないんですけれども、ここで神の裁きというものが意識されているということを私たちは覚えたいと思います。私たちが人を裁いた通りに、私たちも裁かれる。
私たちが人を裁く時っていうのはどういう時かと言うと、私たちが絶対者になってる時です。神ではないのに、あたかも自分が神であるかのように振舞っている時です。そんな私たちを絶対なる神が裁くんです。
私たちは恵みによって救われました。ですから私たちはもう、永遠のさばきにあうことはないですね。これは本当に恵みであり、感謝なことです。そういう意味で私たちも裁かれることはないんです。
でもこの理解と、与えられてると特権が、時々私たちの意識を鈍らせてしまうことがあります。私たちの罪意識を曖昧にしてしまうことがあります。ですから私たちには注意が必要だと思います。
私たちは絶対者の前に生かされているということ、この神は私たちの罪を見過ごしにすることはないということ、もし私たちが誰かを裁けば、同じようにして私たちは裁かれる 。そのような権威ある神の前に立たされ、生かされているということを、私たちは忘れてはいけない。その事実を私たちは、忘れないで、意識しながらあゆむものでありたいと思います。
4. 「 裁いてはいけません」という教えを聞くときの、注意するべきこと。
この世には、正しい裁きが下されなければならない時というのがあります。人間が犯した罪に対しては、はっきりとした裁きが下されなければならないですね。
そのために司法制度という制度があります。
司法制度というのは法に基づいて人が人を裁く制度 であります。そして確かに裁くという言葉の中には、良き判断を下すとか、善悪を正しく判断するという意味も込められております。そのような正しい意味でのさばきがここで否定されているわけではないということですね。その点は私たち注意する必要があるかなと思います。
イエス様がここで「裁いてはいけません」と語られるとき、正しいさばきを行使するのをやめなさいという意味で教えているのではないということであります。