裁きにおいて不正をしてはならない。
レビ記19章33節~37節
今日はこの箇所より、「裁きにおいて不正をしてはならない」という題で、本日の説教を語りしたいと思います。先週の礼拝では白髪の老人の前で起立せよという題で、19章32節の御言葉から、高齢者を尊敬することの大切さということについて、私たち教えられました。そしてそれがただ単に高齢者を大切にするということだけではなくて、神を恐れるということに繋がっていくんだという内容のメッセージを頂きました。
先週は老人がテーマだったんですけれども、今日は寄留者に対する愛というものがをで教えられていることがわかります。33節の御言葉をもう一度お読みいたします。
【1】 寄留者を虐げてはならない
あなた方と共にいる寄留者は、あなた方にとって、自分たちの国で生まれた一人のようにしなければならない。あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない。あなた方もかつてエジプトの地では寄留の民だったからである。私はあなた方の神、主である。
このようにイスラエルの民と共にいる寄留者、以前の聖書では在留異国人という訳になっていたと思いますけれども、この寄留者を虐げてはならないということ、大切にしなさいということがここで教えられております。
聖書読んでいますと、多くの箇所で寄留者とやもめと孤児が三者セットになって教えられている箇所がたくさんあります。
例えば申命記27章19節には、「寄留者、孤児、やもめの裁きを曲げる者は呪われる。」という言葉が記されてあります。
また詩篇146篇9節には、「主は寄留者を守り、,みなしごとやもめを支えられる。」という風に書かれてあります。
さらにゼカリヤ書の7章10節にも
「やもめ・みなしご・寄留者・貧しい者を虐げるな」と記されてあります。
他にもたくさんあるんですけれども、聖書読んでいるとこの寄留者、やもめ、みなしご(孤児)ですね、この三者がセットで神様によって守られなければならない、守ってくださっている存在であると言うか、そしてこの三者が異常に虐げられやすい存在であったということがわかります。
どうして虐げられやすいのか?それはおそらく社会に対する貢献度の低い社会的弱者であったということが言えると思います。さらに寄留者の場合はそれに加えて、イスラエルの民とは違う文化習慣を持っている異国人だったということが考えられます。社会に対する貢献度が低いという理由、あるいは自分たちとは違う文化価値観を持っている異国人であるというわけで、その人たちはイスラエルの社会からは排除されがちな人物、人々であったということが言えると思います。しかし神様はこの箇所で、寄留者は虐げてははならないし、さらに虐げないだけではなく、その人を自分自身が自分の国で生まれた一人のようにしなければいけない、そして自分自身のように愛さなければならないと、むしろ積極的な愛を持ってその人達を愛しなさい、受け入れなさいということが命じられております。たとえその人が外国で生まれた外国の人であったとしても、あるいはその人の滞在がもしかしたら一時的なものかもしれません。そのような一時的な滞在であったとしても、その人を私たちの国の大事なメンバーとして受け入れ、十分な愛を持って接するようにと、ここで神様が教えてくださっているわけであります。
私たちの国に住んでいる外国の方々は、どんな思いでこの国で生活しているだろうかということを考えさせられました。私たちはそれらの人々を社会的貢献度が低いとか、あるいは単に異質な人であるという理由で排除してしまっていることないだろうかと考えさせられました。
私たちの教会にも時々外国の方はいらっしゃる時があります。そのような方々が来た時にはですね、今日の御言葉を思い出しながら、ふさわしい態度と心構えで、それらの方々を歓迎し、受け入れる教会でありたいという風に思います。
さて、ここで注目したいのは何故寄留者を虐げてはならないのかというその理由です。
その理由として、ここで教えられていることは、34節の後半部分に記されていますけれども、それはイスラエルの民も、かつてエジプトの地では寄留の民だったからと、その事実にその理由があるということが聖書の箇所を通して分かると思います。
イスラエルの民は今はエジプトから解放されまして自由です。
でもかつてはエジプトの地で奴隷として扱われそ、の地においては寄留の民でした。つまりイスラエルが、かつてエジプトで寄留の民であった時の体験というのが、とても大事だし、その体験が、寄留者を愛する際に用いられていくんだということがここを通してわかることではないでしょうか。それが寄留者を虐げてはならないし、そして寄留者を大切にしなければならないわけであったということは、私たちは心に留めたいと思います。
新約聖書でパウロは、私たちも以前はキリストから遠く離れ、イスラエルの民からは除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちであったというこをエペソ書の2章12節で教えております。
キリストと出会う前の私たちは、罪と死の奴隷状態でした。そして神の民には入れなかった、神の民からは除外されていて、この世にあっては望みもない、神もない、そういう人であったんだということを聖書で教えられております。つまり私たちは神も望みもない他国人だったということです。
その救われる前に他国人だったという体験が、とても大事だし、救われた後に、救われていない人々を愛するために、その体験が豊かに用いられていくということを私たちはこの箇所から教えられるのではないでしょうか?とても興味深い点だなと思いました。
私達は、イエス様を信じた時に、「古いものは全て過ぎ去って、全てが新しくなりました」と教えられておりますね。それまでの古い生き方、古い価値観、古い性質から解放されて、イエス様による新しい命をいただいて、全く新しい人になったんだって、そういうふうに教えられています。
でもこの箇所読む時に、かつて奴隷だった時の体験を忘れてはいけないと教えている。
別にそのことの故に、私たちが過去に戻るわけではないんですね。過去の古い生き方を引きずるわけでもない。過去は過去です。
もう私たちは、キリストにあって新しい者です。でもそんな私たちにとっても、かつての私たちの体験はとても大事だし、それは「神様の恵み」っていうものを、いつも心新たに覚えるために必要なことなんだと思います。同時にそれが他者を愛する時に用いられていくんだということを、私たちは心に留めたいという風に思います。
皆さんは自分が救われる前の状態について覚えているでしょうか?もうだいぶ前のことなのですっかり忘れてしまったという方もいらっしゃるかもしれません。
でもかつて私たち求道していたとき、神様を知る前の私たちは、やっぱり罪と死の奴隷だったんじゃないでしょうか。罪の中にもがいて、そして死の恐怖に怯えて、そして心には平安もなく、人生の指針もなく、彷徨っていた、苦しんでいた。そういう時があったんではないでしょうか?
その体験はもうずっと過去のことかもしれないけれども、でもそれは大事だってことなんです。特にまだ救われていない未信者の方、罪の中に歩み、罪の中に苦しんでいる人々を愛する際に、そのような体験が用いられていくということなんです。
私たちもかつてそういう歩みの中にいました。そのこと思い出すことによって、同じように罪の中に苦しんでいる人を見るときに、そこにかつての自分の姿を見ます。そのことを通して私たちは、共感をもってその人々を愛し、受け入れることができるようになるんではないでしょうか、救われてはいるけれども、全く別の人格を与えられているけれども、でもかつての自分の姿をその人の中に見ることによって、その人と同じ立場に立つことができる。
そのようにしてかつての私たちの体験も用いられて行くとするならば、それは本当に神様の素晴らしい恵みの御業ということが言えるんではないかと思います。
私たちの他者に対する愛は、しばしば共感の乏しい善意の押し付けで終わってしまうということがあるんではないかなという風に思います。
私たちは真理を知っております。イエス様と出会って、聖書と出会って、真理を知っている。その真理を知っているということが、ややもするとプライドになってしまって近寄りがたい存在になってしまっているということがないだろうか?
イエス様は、どのような方だったんでしょうか?ヘブル人への手紙の4章15節にこういう言葉があります。
ヘブル人への手紙の4章15節。私たちの大祭司というのはイエス様のことですけれども、イエス様は私達の弱さに同情できない方ではない。どうしてでしょうか?全ての点において私たちと同じように試みに会われたんだという風に書いてある。罪は犯しませんでした。罪は犯しませんでしたけども、罪の結果として起こってくる人間の不幸であったり、理不尽であったり、苦しみであったり、嘆きであったり、そういうことを全部イエス様は味わってくださいました。私たちと同じように試みに会われたんです。
ですからイエス様は、私たちが罪の中で苦しんでいる時に、同じ立場に立ってその苦しみをともに担ってくださるし、ともに共感して下さる、そういう方であると私たちは聖書を通して教えられる。このイエス様の心を本当に私たちも、与えられたいものだなという風に思います。
ですから当時の人々は、どんな罪人であったとしても、この社会からは完全に虐げられて、見下されてるような、そういう罪人であっても、イエス様に対しては安心して近づくことができましたね。安心して心を開くことができました。
イエス様は聖い方なんです。
でもその方の前で人々は、本当に安心して心を開くことができた。私たちの他者に対する愛は、どれだけそのような共感が含まれているでしょうか?私たちも是非イエス様のような心を持たせていただきたいと思います。そのために、かつて私たちが救われる前の罪の中で苦しんでいたあの経験というものが、本当に豊かに用いられていくということを是非覚えたい。遠い昔の話かもしれませんけれども、かつての自分もそうだったということを思い出しながら、私たちは他者に、まだ救われていない人に、あるいは寄留している人に、本当に心寄せていくものでありたいという風に思います。
【2】 さばきにおいて不正をしてはならない
続きの箇所を読んでいきたいと思いますが、35節36節の御言葉をお読みたします。
その次の箇所において教えられていることは、裁きにおいて不正をしてはいけないということであります。特に不正のはかりを用いずに、正しい秤を用いなさいということをここで教えられております。これを読むと、物差しとか、秤とか、天秤とか、重り石とか、升とか、容器とか、当時色々な物を使って量る、いろんな秤があったんだなとおもわされます。
長さであったり、容量を測る重さであったり、水の容量、液体の容量を測るものであったり、色々な物はかる秤があったわけですよね。
その秤において、不正な秤は使ってはいけない。正しい秤を使いなさいということですね。そのことがここで教えられている。そして聖書読んでいると、この教えが結構出てきますね。そして当時の社会の中にあって、この不正の秤を利用する人たちが結構いたんだなということが感じられます。
例えば申命記25章13節から16節にも同じような事が出てまいります。そちらもちょっと読んでみたいと思います。
この箇所を見るとですね、イスラエルの民の中に、袋の中に大小異なる重り石があったり、家の中に大小異なる升を持っている人がいたっていうことがわかります。袋の中に入ってますから見えないんですよね。あるいは家の中にありますから見えないんです。見えないんですけど、その見えないことを利用して、ある時には大きな重り石を出してきて、あるときは小さい重り石を出してきて、そのようにして人々を騙して、欺いて、不正を働いて、そういう異なった秤を利用している、そういう習慣があり、そういう人たちがいたっていうことが感じられるわけですよね。それらの二つのはかりを都合よく利用しながら、ごまかしたり、欺いたりしていたということであります。
なぜそういうことするんでしょうか?なぜ人々は正しいはかりを使わないで、そういう不正の異なった秤を利用するんでしょうか?それはもちろん人を欺いて儲けるためですよね。自分だけがより多くの利益を得たいんです。それは欲深い人間のなせる業であるということになるんだと思います。そしてその結果、力のない弱い人、真面目な人が、犠牲になる。
そのような不正の秤というものは、今の世の中にもたくさんあるんではないかなという風に思いますね。欲深い人が異常に得をして、真面目な人が損をするという、そういう社会になっているんじゃないでしょうか。そしてよく考えるとそれはつまり、自分が秤になってるって事です。自分の判断で、いくつかのはかりを利用して、ある時には大きいの出し、ある時には小さいのを出し、それは結局自分が秤になってるって事です。そのようにして都合よく人を利用したり騙したりごまかしたりしているということは、つまり自分が秤になっている。しかもその秤の歪みに気づいていないということです。不正な秤を利用して、その自覚があるうちはまだいいと思いますね、まだ自分が悪いことしてると自覚があるうちはまだ修正がきくかもしれない。改善の余地があるかもしれない。
その自覚がなくなった時が怖いですね。自分が秤になってしまっているために、その歪みに全然気がつかない。そしてその結果人を苦しめている。不正なさばきがなされているとするならば、それは本当に残念なこと、悲しいことではないでしょうか?
皆さんは自分が定規になっているということはないでしょうか?自分が秤や升になってしまっているということはないでしょうか?自分が歪んだ定規や、秤や、升によって、人を測ったり、人を勝手にさばいたりしているということはないでしょうか?しかもその歪みに気づいていないということはないでしょうか?そのために人々を傷つけたり、苦しめたりしているのに、そのことに無自覚であるということはないでしょうか?
そうならないために、やっぱり私達に正しい秤が必要なんです。そしてその正しい秤というのは、自分の中に無いんです。私達の外側にあります。神のみことば、聖書の言葉、これが正しい秤です。正しい定規です。その秤によって、まず私たちの歪み具合が図られなければいけない。そして歪み加減がしっかりと示されて、正されて、直されていくということ、そのことがまず私たちに求められていることではないでしょうか。詩篇119篇130節にこんな御言葉があります。
この体験が私達にも必要ではないかなと思うんですよね。みことばの戸が開かれる。その光によって照らされる。そして浅はかな私達に悟りが与えられる。そのようにして私たちが整えられていくということが、どんなに求められていることでしょうか。
しっかりと私たち自身がみことばの光に照らされて、神様によって整えられていくということが、本当に求められていることをぜひ覚えたいと思います。
私たちは自分のゆがんだ定規で人を計るのではなくて、聖書に基づく神様の正義によって、自らと他者を判断し、裁く者でありたいという風に思います。
【3】 神の愛から始まる
そして今日の箇所に戻りますが、今日の箇所の最後で神様はおっしゃっておられます。36節の後半部分、
最後に神様は仰られました。私はあなたがたをエジプトの地から導き出した、あなた方の神、主であると宣言されました。
私たちなぜ神様の掟に従うんでしょうか。37節には「あなた方は、私の全ての掟と全ての定めを守り、それを行いなさい」と、命じられました。
今までたくさんの掟がここで紹介されてきて、語られてきて、最後にこれらのすべての掟を守りなさいと命じられて、どうして私たちは神様に従い、神様の掟を守るんでしょうか?
それは、神様が私たちの救い主であるということ、私たちを救ってくださったからではないでしょうか。つまり神様から出発するってことですね。
私たちの他者に対する愛は、多くの場合自分から出発するということがあるんではないでしょうか?自分が出発点になりがちではないでしょうか?それゆえに他者に対する共感の乏しい、自分の正義の押し付けで終わってしまうということがあるんではないでしょうか。
そして自分には愛がない、そしてまた本当に人が自分の言うこと聞いてくれないと言って悩んだり、苦しんだり、もがいたりすることが結構あるんじゃないかなと思うんですよね。そして自分では正しいことを行っているつもりでも、相手が苦しんでいるということに気づかないこともありますね。自分の正義が歪んでいるということに気づかない。キリスト者でありながら、聖められていない性質、肉の性質に支配されていることが結構多い私たちではないだろうかという風に思います。
でももし私たちが本当に神様に愛されているという安心感を持つことができるならば、私たちは自分の姿を本当に素直に直視することができるんじゃないでしょうか。本当の愛を知って私たちは初めて、自分が握りしめているものを手放すことができるんではないでしょうか?そして本当に神様の光に照らされることによって、自分自身を本当に受け入れることができるんではないでしょうか。そこに自分の歪みや弱さを知らされても、それを神様の前に悔い改めて、神様にお委ねすることができるんではないでしょうか。そのような体験に導かれていくことによって私たちは本当に神様によって生かされている恵みを味わうことができるんではないかというふうに思うんですよね。
私たちは普通、自分の歪んでいるところを見せたくないし、指摘されたくないし、他の人に測られたくもないし、だから自分が秤になってしまうってとこあると思うんですよね。自分の中にそのことを認めたくないという心があるんですね。ですからそういうの人から見られるのも嫌だし、測られるの嫌なんです。ですから自分が秤になって人を測ってしまうっていう、そういう罪人としての性質をみんな持ってるんじゃないかなと思うんですよね。
でもそんな私達を、そんな私達であるにも関わらず、そのままの状態で愛してくださってる方がいるとしたらばどうでしょうか。そしてその方がなんと私たちのために死んでくださった、十字架にかかってくださった、救い出してくださったという、その愛を知らされたらどうでしょうか。私たちの人生は変わるんではないでしょうか?
自分の歪みを素直に認めて、神様に悔い改め、神様にお委ねできるんではないでしょうか。その恵みに、私達は生かされるものでありたいという風に思います。
まず神様が私たちを愛してくださったんです。神様が私たちを一方的に救い出して下さったんです。そしてこの方は私たちの主なんです。変わらずに私たちを導いてくださる羊飼いの主なんです。
きょうの聖書の箇所の最後で、神様は今まで何度も何度も繰り返して宣言して来られました。でも最後にもう一度ここで念を押すかのように、もう一度繰り返して私たちに語ってくださっているその言葉、「私は主である。
神様は私達にとってどういう方なんでしょうか?
私たちの主なんです。この関係は永遠に変わらないんです。神様のめぐみと導きは絶えず私たちについてくる。そのような恵みの中に生かされている。まず神の愛から出発しなければいけない。自分から出発してはいけないんです。神様から出発しなければいけない。私たちが祝福を受けるために神様に従うのではないんです。祝福されているからこそ神様に従う。この方に私達は心から支えていく者になろうではありませんか。この愛に応える者になろうではありませんか。そのようにして愛する者として成長してくものでありたいと思います。
【4】祈り
お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様、み言葉ありがとうございます。どうか私たちの、人に対する愛がキリストの心を伴う真実なものとなりますように。そのためにあなたの愛の内を歩ませてください。尊きイエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。