イエス・キリストをより良く知るために

自分の父や母をののしる者は、必ず殺される?

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

レビ記20章1~9節

毎年11月の第1日曜日は子ども祝福式を行って来たんですけれども今年は頃なることもありまして中止に致しました後で教会学校に集っている子供たちの祝福をその時を持ちたいと思っていますけれどもそういうわけで今回は不十分な形ではありますがしかし相変わらず私たちは子供たちのために祈っていくものでありたいと思っていますそして子供達にのために祈るということはつまりは家庭への祝福を祈るということであります神様はアブラハムを召し出して約束を与えてくださった時にアブラハムを祝福するしそしてアブラハムの子孫を祝福すると約束してくださいましたそれはつまりアブラハムだけではなくてアブラハムの家庭を祝福してくださるということであります個人にとどまらずか体全体に神様の祝福が及んでいくということを聖書が教えてることであります

今私達の周りでは本当に凄まじい勢いと規模で、家庭崩壊が引き起こされているのだと思います。親に愛されない子供達、親に反逆する子供たちが至る所で増えている、そういう状況ではないからだろうかと思います。

私たちはこの教会から神様の祝福が家庭に及んでいくように、私たちは日々祈らなければならないと思います。

【1】 親の子どもに対する罪

今日は与えられている聖書の箇所から「家庭の祝福」ということについて、学んでいきたいと思います。

レビ記20章の御言葉が開かていますが、1節と2節の御言葉をお読みいたします。

主はモーセにこう告げられた。「あなたはイスラエルの子らに言え。イスラエルの子ら、あるいはイスラエルに寄留している者のうちで、自分の子供を取って、モレクに与える者は誰であれ必ず殺されなければならない。民衆がその者を石で打ち殺さなければならない。

こういうふうに記されております。神様このような命令をまた警告を、イスラエルの民に与えているということが分かります。

モレクという言葉がここに出てまいります。モレクというのは、カナンの地で信仰されていた異教の神の一つで、このモレク神に対する礼拝の中に、自分の子供を全焼のいけにえとして、火で焼いて捧げるという人身供養の儀式がそこに伴っていたということです。つまり子供を殺して、モレイクに捧げるということ。

 

このモレク礼拝をする者は誰であれ、必ず殺されなければならない。そして民衆の石打ちによって殺されなければならないということが、ここで命じられております。

しかも5節を読みますと、その礼拝の中には淫行という不道徳な儀式まで行われていたということがわかります。5節を読んでみますが、

わたし自身が彼とその家族に顔を向け、彼と彼にならいモレクを慕って淫行を行う淫らな者をみな、その民の間から断ち切る。

とそういうふうに記されてあります。

つまりモレク礼拝というのは偶像礼拝であり、そこに殺人が行われ、さらに姦淫がそこに加えられていたという、どれひとつとっても恐ろしい罪なんですけれども、偶像礼拝と殺人と姦淫が一つセットになっていて、しかもそれが宗教行事として行われていたということであります。

この罪を犯す者は必ず殺されなければならない。これは私たち人間にとっても非常に恐ろしく感じられる行為、罪だと思いますが、何もよりも神の御前で本当に深刻な罪であったということがわかります。3節にそれが神の聖所を汚し、聖なる御名を汚したと書いてあります。ですから神様にとって、それは本当に深刻な罪であったということがわかります。

こんなに恐ろしい罪を神の民である、選びの民である、イスラエルが犯すはずはないと私達は普通考えるわけですけれども、ところが旧約聖書を読んでいきますと、このモレク礼拝が時々出てきます。

あのイスラエル王国の王となったソロモンが、異教徒の妻をもらった影響で、モレク礼拝を始めてしまったという事実が、第一列王記の11章7節に出てまいります。その後の歴代のイスラエルの王達の中にも、例えばアハズという王てあったりマナセという王が、、この礼拝を堂々と行っていたということが聖書を読むと気付かされることであります。

それは神の聖なる民が、異教習慣に影響されて、聖さを失っていく姿を象徴的に 表しています。

その結果どうなったでしょうか?北イスラエル王国も南ユダ王国も滅ぼされてしまった、そういう結果になったんだということを私たちは聖書を通して教えられるわけであります。

今日の聖書の箇所を読む時にこのモレク礼拝がもうすでに、モーセの時代に存在していたしもうその時代に礼拝があったし、その危険が意識されていたし、またそうならないようにと神様によって警告されたということが分かることであります。

 

しかしそんな神様の警告にもかかわらず、イスラエルは歴史の中でこの異教習慣に影響されて、この恐ろしいモレク礼拝を行ってしまったと、それがひとつの事実として聖書に示されております。

 

私たちはこんな恐ろしい罪を犯さないと思うかもしれません。現代には確かにモレク礼拝は存在しないのかもしれませんけれども、このモレク礼拝を成り立たせていたところの価値観や考え方は、今の時代にもしっかりと生き続けているのではないかと考えさせられます。

 

それはどういう考え方かと言うと、親の幸せのために子供を犠牲にするというそういう考え方であります。親が幸せになりたいがために子供を犠牲にするという、そういう価値観の中で、このモレク礼拝が行われていたということであります。そういうことであれば今日の私たちの周りにもよく見られることではないかと思います。

親の都合で胎児を殺してしまう中絶の問題は、一つ大きな問題だと思いますし、あるいは幼児虐待の問題も、同じ根を持つ問題だと思います。それらの問題の土台になっているのは、親が子供を私物化してしまうという問題だと思います。

私たちは子供を殺さないかもしれません。もちろん殺しません。また虐待もしないもしれません。むしろ私たちは子供たちを愛しているのかもしれません。

でも時々私たちは気をつけないことがあると思うんですね。親の都合で、また大人の勝手で、子供達を私物化してしまうということが私たちにもあるんではないかと思われます。

この日本においては、絶対的な神という神概念が乏しいことの故なのかもしれませんが、なかなか人命の尊さとか、子どもの人権という考え方が成り立って行かない面があるんではないかなと思うんですよね。その考え方の基盤になる根拠というものが、非常に弱いんではないかと考えさせられます。

それゆえに子供というのは、どうしても親のものであるというふうに考えてしまって、つまり人間のものと考えることになってしまって、子供自身の価値ということよりも、大人の都合のほうが優先することがあると思います。

そういう傾向や考え方にの中にあって、私たちは本当に聖書の価値観に基づいて、聖書の基盤に立って、子供と向き合ったり子供を愛してゆくということが、どんなに求められていることでしょうか。

 

聖書は子供たちは神のものであると主張しております。神は人を神のかたちとして創造されて、そしてその人に息を息を吹き込まれたと描いてあります。それは本当に尊い尊い、神の切な存在であるということがそこで教えられている。

そしてダビデも先週の礼拝の中でも紹介した言葉でしたけれども、ダビデの詩篇22編10節の言葉の中に、

生まれる前から私はあなたに委ねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です。

そういう告白の言葉がありますけれども、生まれる前から私たちは神様に委ねられていたし、母の胎内にいたときから、私たちは生まれる前から、神さまは私達の神であったと、ダビデが告白しております。

それはもう子供が胎児の時から、本当に神様のものなんだということを教えている言葉であります。そしてイエス様は私たち一人一人のために十字架にかかって死んでくだった、それは大人達だけのために死んでくださったのではなく、ちいさな子どもたち一人一人のためにも死んでくださったわけです。イエス様はしかも子供が大好きでした。ちかくに子供が居ることをとても喜んで下さった。弟子たちが邪魔者扱いにしたとしても、イエス様はそうではなかった。イエス様ご自身が、子どもは尊い存在なんだということを証明して下さっているわけであります。

子供達は親の所有物ではないんですね。私有物でもないんです。子供達は神様のものなんです。私達に子供達は一時的に委ねられていますが、それはいずれ神様に返さなければならない大切な子供たちなんですね。そしてそのような価値観によって子供たちに一人ひとりに向き合うことが大切です。そのような存在として子供たち一人ひとりと向き合うことが求められております。そのような神様の尊い子供達として私たちも関わり育て、愛情を育てていくということがどんなに求められていることでしょうか。それぞれの家庭において子育ての取り組みが今なされております。子供の成長の段階に合わせて、色んな必要があって、その必要をどうやったら親として満たすことができるのかという具体的なアドバイスをいただいたんですが、でも基本的な姿勢はいつも同じです。

それは子供達は愛されなければならないということです。その愛をどのように親として表していく必要があるのか?そのような神様の子供達を本当に私たちは大切に祈り、育てていく者でありたいという風に思います。

このレビ記の20章の1節から前半分ですね、8節ぐらいまでは、親の子供に対する罪ということが警告されておりました。

 

【2】 子どもの親に対する罪

今度は9節のみ言葉に注目していきたいと思います。9節、

誰でも自分の父や母を罵る者は、必ず殺されなければならない。その人は自分の父あるいは母を罵ったのだから、その血の責任は彼にある。

最初の部分では親に子供達に対する警告でしたが、この9節では逆に、子供の親に対する罪が警告されているということがわかります。

子供の親に対する罪と言うと、どういう罪だったんでしょうか?

それは子供が自分の親を罵るという罪であったということがわかります。

「誰でも自分の父や母を罵る者は必ず殺されなければならない」と警告されている。この罪に対する刑罰は、先ほどのモレク礼拝と同じですな。「必ず殺されなければならない」と先ほども警告されておりました。子供が親を罵る事が、神様にとってはモレク礼拝と同じぐらい深刻な罪であるということがわかります。そのことに私たちは驚かされるんじゃないかなと思うんですよね。

モレク礼拝は明らかに恐ろしいなと思いますよね。私たちでも、こんな恐ろしいことは許されない、本当によくないと身震いしながらその恐ろしさを感じるんじゃないかなとおもいます。それが深刻な罪であるというふうに思いますよね。

 

ところが「子供が親を罵る」ということに関してはどうでしょうか?意外と私たちはよくやっていることではないかなと思いますね。そこまで深刻な罪としてはあまり感じないのではないでしょうか?

しかし神様にとっては、子供の親に対する罵りは、母親が子供を殺してしまうくらい深刻な重大な 罪として感じられているということを、私たちは聖書を通して教えられます。

 

そしてこの教えは、聖書の中で繰り返し教えられております。

出エジプト記21章17節でも、「自分の父や母を罵る者は必ず殺されなければならない」と、この聖書の言葉と同じものが出エジプト記にも教えられております。あるいは申命記27章16節には、「自分の父や母を軽んじる者は呪われる」ということが書いてあります。さらに箴言30章の御言葉の中に、びっくりするような言葉が記されてあります。30章の17節にこう書いてあります。

自分の父を侮り母への従順を蔑む目は、谷のカラスにえぐり取られ、鷲の子に食われる

という言葉があって、その風景、情景を想像するだけでも恐ろしくなってしまうような、そういう言葉だなと思いますが、いかに子供達が親を罵ることが重大な罪であるかということが伝わってくる言葉ではないかという風に思います。

 

この教えの大元になっているのは、皆さんよくご存知の十戒の第5戒、「あなたの父と母を敬え」という戒めがもとになっております。そしてこれは5番目の戒めですけれども、この5番目の戒めが、殺人より前に来ている、姦淫より前に来ている、盗みや、欺きや、そういう罪よりもまず先に来ているという順番に私たちは気づかされる時に、これがどんなに大切な教えであるかということに気づかされるわけであります。

 

聖書を読んでいるとたくさんの親子関係が出てまいります。創世記のなかにヤコブという人物が出てまいりますが、このヤコブがお母さんのリベカと一緒になって、お父さんのイサクを騙してしまったという記事があります。お父さんのイサクが年を取って、目が見えなくなっていることをいいことに、自分がお兄さんのエサウに変装して、エサウに与えられることになっている祝福を横取りする場面があります。そのようにして、ヤコブは、父親の権威を侮った。

その結果自分の犯した罪の結果を受けなければならなくなった。もう家にいることができなくなりました。お兄さんの怒りを買って、恨みを買って、もうそこから逃げていかざるを得なかった。そういう展開になる。

しかもそれからしばらく経って、何年も経って、自分が子供を与えられて、人の親になった時に、今度は自分が子供達から騙されるという経験をするんですね。そのようにしてヤコブは自分が犯した結果を引き受けていかなければなかったということを教えられます。

 

またノアの方舟の話も、ノアが方舟によって救われたあとの話ですけれども、あるとき酒を飲んで、裸で酔っ払って寝ていたという場面があるんですが、創世記の9章の中に出てきますが、その時にハムという息子がいました。このハムがその父の姿を見たと書いてあって、そしてそれを他の二人の兄弟に話してをしたっていう記事が出てまいります。

そこで「父の姿を見た」と訳されている。見たという言葉はこれはちょっと見たという意味の言葉ではなくて、じっくり見た、凝視したという、そういう意味の言葉が使われていて、これはつまりハムが淫らな想いに耽りながら、父を侮りながら見ていたということを表わしている。そういう形で息子が父親を侮ったという記事が出てくるわけですけれども、その他の息子、セムやヤペテは、ハムとは対照的に、父の裸を見ないようにしてお父さんに上着をかけてあげたという展開になっています。セムとヤペテはそのようにして親に対する尊敬を表わしました。それは本当にお父さんのみっともない姿ですね。本当に無様な、酒に酔っ払って裸で寝ているだらしない姿です。 でもそれを見ないでそして上着をかけてあげた。そしてそのようにして二人の息子は尊敬を表した。この二人の息子はこの後、祝福されていく。ところがハムはその後呪われていった。そういう展開になったことが聖書にかいてあります。

親に対する態度の違いで、その後の結果は全く違うということを、私たちは創世記の記事から教えられるわけであります。

 

またダビデの息子に、アブシャロムという息子がいたんですけれども、このアブシャロムも問題ですね。父親のダビデにあからさまに反逆するような息子でした。そして父を殺してでも父の王位を奪い取ろうと策略を巡らした。そして人の心を盗み取って、自分の仲間を増やしていった。お父さんに対する恨みがあったんだと思うんですが、しかしそのアブシャロムは最後どうなったでしょうか。戦いの最中、自分が自慢としていた長い髪の毛を木の枝に引っ掛けてしまって宙吊り状態になってしまった。その時にダビデの部下によって殺されてしまった。そういう悲惨な結果を遂げたということが聖書で教えられていることです。

 

いろんな例を挙げることができますけれども、聖書を通して親を侮辱した子供に下される神の裁きということが繰り返し教えられております。

つまり私たちにとって父と母は、最大級の尊敬が払わなければならない存在であるし、罵るなんていうことはもってのほか、そういうことが絶対あってはいけないということを私たちは聖書を通して教えられる。

なぜ親はそんなに大切にされなければならないのでしょうか?尊敬されなければならないのでしょうか?

それは親は神の代理者だからです。親の権威は神が授けたものです。ですから親の権威は神の権威を表している。神を表してる存在なんです。ですから親を罵る者は神様を大切にすることができない。親を大切にすることで、私達は本当に神様を愛することができる。それゆえに私たちにとって親を尊敬するということはとても大事だということをぜひを覚えたいと思います。

私たちの親子関係も吟味し考えてみたいなと思います。また子供たちに対して、そのような者として相応しく指導していくことが大事だなとおもいます。

【3】 家庭を祝福される神

このように今学んだレビ記の20章の1節から8節までは、親の子に対する罪が警告されており、9節は子の親に対する罪が警告されています。そして10節以降は夫婦の関係を破壊する罪がここに警告されております。例えばそれは不倫であったり、重婚であったり、近親相姦だったり、それは全部夫婦関係を破壊するものですね。

このように20章全体を見渡す時に、私たちの家庭を破壊してしまう罪がここで繰り返し繰り返し教えられ、警告されているということに気づかされるというわけであります。
この20章全体を通して私たちが感じることは、神様は私たちの家庭を祝福したいと願っておられるということです。
そしてその祝福を阻んでしまう様々な要因、家庭をを壊してしまうものに徹底的に気をつけなさい、それを取り除きなさい、それを撤去しなさいということがここで繰り返しを教えられているということを私たちは心に留めたいと思います。

 

そして本当にこの御言葉から、私たちのそれぞれの家庭が、聖書の価値観を土台として築かれていくということを本当に志し、祈っていく必要があると思います。私たちの夫婦関係がそして親子関係が神様の前に整えられていくということ、夫と妻が神様の御手によって一つとされるということ、そして親が子供達を、自分のものとしてではなく、神のものとしてふさわしく育て上げるということ、そして子供が神様を恐れるようにして親を敬うということ、つまり家庭の中に神がいるかどうか、そして神が意識されているかどうかで、その家庭の祝福が変わってくるということを、ぜひ私たちは覚えるものでありたいという風に思います。

どうぞそれぞれのご家庭に、本当に神が共にいてくださいますように。共にいてくださるんですけれども、共に居てくださることを、本当に私たちが親も子も夫も妻もそれぞれが意識しながらみ言葉に支えられながら、与えられた努めを十分に果たしていくことができるようにそれぞれの家庭の祝福を祈っていきたいというふうに思います。

日本におけるクリスチャンホームの形成というのは、本当にいろんな戦いがあると言われておりますね。どうしてもこの世的な考え方が忍び込んできてしまうことがよく言われます。家庭では一番本音が出る場所なんです。自分の自が出る場所です。ですから一番清められづらい、そういう面があると思うんですけれども、そのところにおいて本当に主が共にいてくださることを私たちは求めて行かなければいけない。いろんな戦いがあると思います。色んな誘惑、課題があると思いますけれども、しかし私たちは忘れないようにしたいと思うんですね。

神様は家庭の祝福を願ってるって言う事なんですね。神様は私たち一人ひとりだけではなくて、必ずその家庭を祝福したいと願っているんです。その願いを受け止めることからまず始めたいと思います。みことばに良く聞いて、みことばに信頼して、み言葉に支えられながら、そこに祈りも必要です。祈りつつ夫として、妻として、親として、子として、本当に与えられた務めを十分に果たしながら、家庭の祝福を味わって行くものでありたいという風に思います。どうぞそれぞれのご家庭に神様の祝福が豊かにありますように。私たちも互いに祈りあっていくものでありたいと思います。

 

【4】お祈りをします。

 めぐみ深き私たちの父なる神様。あなたの御計画の中に私達が導かれていることを感謝します。アブラハムを祝福し、またアブラハムの子孫を祝福すると約束してくださったあなたが、私たちをも祝福し、また私たちの家庭や子孫をも祝福してくださることを覚えてありがとうございます。実際的には色々な課題もあり、戦いもあることと思いますが、しかし主は御言葉を通して、私たちを導き整えまた祝福してくださる方であることを覚えて感謝します。どうぞそれぞれのご家庭に主がはっきりと御臨在してくださいまして、私たちを支え導いてくださいますように。また特に子育てに取り組んでいますそれぞれのご家庭の中に、色んな課題がありますけれども 、主が知恵と力を与えてくださって、子供たちをよく愛し続けることはできますように導いてくださるようにお願い致します。与えられた御言葉を心から感謝します。尊き主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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