聖書の語る「結婚」の意味・・・マラキ書2章11~12節
・結婚は神との間で交わされる「契約」である。
・結婚とは二人が一体となることである。
・結婚とは、神がこの地上に祝福をもたらす計画である。
これがどういう意味なのか以下に、旧約聖書最後の書「マラキ書」2章10~17節をとおしてお話しさせていただきたいと思いいます。
1.神と民との対話
旧約聖書の中に預言書と言うものが くさん ありますが 、その中の旧約聖書最後の書「マラキ書」には、他の 預言書には あまり見られない 特徴が 1つ あります 。それは神とイスラエルの民との、直接対話形式になっていると点です。
確かにマラキ書の冒頭から、神が語りかけ、それに応答する形で、民が語ると言う形式をとっています。
1章1節で、神はイスラエルの 民に「私はあなた方を愛している」と語りかけました。
これに対してイスラエルの民は「どのようにして、あなたが私たちを愛されたのですか?」と、その言葉に反応していることがわかります。 その反応は、必ずしも神が願ったような反応ではなかったかもしれませんが、一応対話が成り立っていると言うことがわかります。
神様が、預言者と語り合う、対話をするという形は、いろんな預言書ではありましたが、神が直接「イスラエルの民」に語りかけ、民がこれに答えるという対話形式が、一応成り立っているということがわかります。
ただ、私たちは思いますね、この時のイスラエルの 最大の問題は、神と民との間には対話が成立していないと言うことです。
神様は、いつもイスラエルに語りかけ、いつもイスラエルに発信しておられた。でも、イスラエルの民は、全く聞く耳を持ちませんでした。よって このマラキ書の内容と言うのは、マラキによって編集された内容であると考えることができます。
マラキは、一方では 神様のみ言葉に耳を傾け、神のみ心を理解します。 その一方で、その民の心にも耳を傾け、民の心を理解しようとします。
その両者は、話が噛み合っていないのです。 ひとつになっていません。しかし、両者をなんとかつなぎ合わせようとうと苦心 するするマラキの姿が、ここに記されています。
預言者とは、まさに、神と人との間に立って、噛み合っていない対話を、何とかつなぎ合わせようと努力する人であることを教えられます。神と人との対話が噛み合っているときには、預言者はあまり苦労しなくてもいい。 神の心と民の心が食い違っている時、その食い違いが、大きければ大きいほど預言者は悩みます。 神の民に対する愛が大きいということがわかるから、神が民に対する不従順を嘆いているとき、 預言者は悩みます。両者を何とか噛み合わせ、つなぎ合わせたいと願うからこそ、それがうまくいかないときに、預言者は苦しみます。でも きっとそれは、預言者に与えられている宿命なんだと思います。苦しさなんだと思います。
2.マラキの苦悩
今、取り上げている聖書の箇所は、預言者マラキの苦しみを強く感じさせる言葉であります。
マラキは、何度も何度も「万軍の主が仰せられる」と語られた後、2章10節から、預言者マラキ自身が語り始めます。
今までは神と民の言葉を代弁してきたようなマラキが、ここから自分の言葉で話し始めていると言うことがわかります。その 言葉に注目していきたい と 思います。10節にはこう書いて あります。
「 私たちは皆ただ一人の父を持っているではないか。ただ一人の神が私たちを創造したではないか。なぜ私たちは互いに裏切り、私たちの先祖の契約を汚すのか。」
マラキはここで、私たちは互いに神様によって作られた兄弟・姉妹なのに、互いに裏切り合っている。そしてそのことによって、彼らの先祖たちが神様と結んだ契約を汚してしまっている、とマラキは、ここで嘆いているのです。 かつて、神様が、スラエルの民と契約を結んでくださった。それは イスラエルを祝福するという契約でした。
「今、もしあなた方が真に私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、私の宝となる 」出エジプト19章3節。
神は、イスラエルの民を宝にすると約束してくださった。マラキのこの時代 、その契約は軽んじられ、神の祝福は失われ、イスラエルは祖国に祝福をもたらすのではなく、 つまずきをもたらすような、そんな存在に成り下がっていた。そのことに対するマラキの嘆きが、この言葉に 表されています。
3.神に対する裏切りは人に対する裏切りとなる
この言葉から、私たちは、神に対する裏切りは、 人に 対する裏切りにつながっていくと言うことを教えられます。
マラキ書の、ここまでの聖書の記述は、イスラエルの神に対する捧げものについて、ずっと問題にされてきました。イスラエルの民が、祭司達を中心として、随分いい加減な生贄(いけにえ)を捧げものにしてきたと、いうことが問題にされてきました。
汚れたパンとか、盲目の獣、病気の物とか、まったく価値のないものをもって、主を礼拝し、そのことによって神を冒涜してきたということを、これまで見てきました。
つまり、スラエルの民の神に対する姿勢が、いかに歪んでいたのかということが、ここまでのマラキ書の内容だったわけですが、この聖書箇所から私たちは教えられます。神とのゆがんだ関係は、人とのゆがんだ関係をひき起こし、神に対する裏切りは、結局人に対する裏切りにつながっていくということを、この聖書の箇所が 私たちに教えてくれます。
当時のイスラエルの民は、同じ民族の間で、互いに裏切り合いをしていると言う状態でありました。 同じ主なる神様を仰ぐ家族なのに、兄弟姉妹なのに、その間で互いに対する裏切りがあったと記されています。実に残念な嘆かわしい当時のイスラエルの姿がここに指摘されていることを、私たちは知ることができます。
4.神への裏切りは「結婚」に顕著に表れる。
そして、その裏切り行為が最も顕著に示されてきたのが、 実は結婚 たったというのが、今、見ている聖書箇所から、私たちが教えられることです。当時のイスラエルにおいて結婚が非常に軽んじられていたと言うことがわかります。
二つの形で結婚が軽んじられていました。
一つ目は 、イスラエルの民が外国の神の娘を娶るという雑婚を通して。
二つ目は 、若いときの妻を裏切る離婚を通して。
結婚というものが、この2つのことによって、軽んじられていたということが、指摘されているのであります。
では、 雑婚のほうから見て いきたいと 思います。
まずマラキ2章11節 12 節 をお読みください。
11節 、12節、「ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では、忌まわしいことが行われている。まことに主の愛された主の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった。どうか 主 がこのようなことをするものを、たとえその者が 、万軍の主に 捧げ物を捧げても、一人残らずヤコブの天幕から断ってくださるように」。
こ の よ うにマラキは神様に祈っています。この「忌まわしい」という言葉は、神を冒涜すると言う 強い意味の言葉ですが、この言葉が、何を 示しているかと思って読んでいくと、 それは彼らが、「外国の神の娘」を娶(めとる)という行為であったと いうことが わかります。
つ ま り「異教徒の娘を娶る」ことによって、 彼らは 主の愛する聖所を汚していると言っているのです。
主に捧げ物をすると 言う、 一見して敬虔な信仰スタイルが あったと しても 、このようなことをするものを、1人の らず ヤコブの 天幕、つまり イスラエルの民から断ってくださいとマラキは祈っています。
異教徒の 娘を娶るということが、神に対する 重大な罪と捉えられていることがわかると思います。これは、ここに始まったことではなくて 、かつてエルの民は、荒野での四十年の旅を終えて、約束の地カナン(イスラエル)に入るとき、あの モーセ の時代から、もうすでにイスラエルに警告されていることでありました。
申命記の7章3節の中に命じられておりました。
「また彼らと互いに縁を結んではならない。なたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子に娶ってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らが他の神々に仕えるなら、主の怒りがあなた方に向かって燃え上がり、主はあなたを立ちどころに根絶やしにしてしまわれる」
その異邦人である彼と「あなたの娘、息子を結婚させてはいけない。彼らがイスラエルの中に偶像礼拝をもたらし、神様からあなた方の子供たちを引き離すであろうから」と警告されていました。
あの時そのような命令が発せられていて、その後 、約束の地に入ってから ずいぶん時間が経っていますけれども 、このマラキの時代、あの時の神の 命令は 完全に無視されていたということがわかります。
あなた方を根絶やしににしてしまうと 警告されていたにもかかわらず 、彼らはその命令に無頓着 でした。そして堂々と外国の神の娘を娶って、そして、その上で、神様に対する 礼拝を続けていたのです。
それが 大きな 罪である と 言う ことが 彼ら には 全く わからなく なって しまって いたのですね。
当時のイスラエル の 民 は もう一つの 形を とおしても、結婚を軽んじていた。 そ れ は 外国の娘たちと結婚するためだったと思われるのですが、 そのために自分たちの若い ときの妻を裏切って離婚するという形で 結婚を軽んじていたということが、13・14 節を読み進めていくとわかることであります。
13・14節を読んでみたいと思います。
「あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主が、もうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。「なぜなのか。」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに」。
13節にあなた方は涙と悲鳴と嘆きで主の祭壇を覆っているとあります。
当時の礼拝が喜びと感謝ではなく、涙 と悲鳴と嘆きに よって覆われていたと言うことがわかる 。
どうしてなのでしょうか? かそれは 主が捧げものを顧みず、イスラエルの民から それを 喜んで 受け取らないからと、ここに記されています。 いくら捧げても、その 礼拝を神様 は「礼拝」として受け取ってくれない。それは、主に喜ばれる礼拝ではないということです。
しかし 彼らにはその理由が わからない。 一生懸命礼拝をささげているのに、その 意識はあるのに 、主はなぜその礼拝を受け止めてくれないのか? そのことが 理解 でき ません。
その理由 は 何 なのか ?それは 彼らが 若いときの妻を裏切ってしまったから。 そしてその妻と離婚してしまったからでありました 。おそらくそれは外国の娘と結婚するためであったったんだろうと考えられますから、自分 の若い 時の妻を裏切って、外国の妻を娶るという行為によって、罪を犯し、結果的に、 結婚と言うものが非常に軽んじられている。
しかも その深刻さに、民が全く気づいていない。なぜ 神が怒っているのか、なぜ彼らの礼拝を主が受け入れてくださらないのか、彼らは 全く理解 できない。 その戸惑いが 「なぜ なのか」と言う14節の 言葉に示されている。
あるいは 17 節 でも 彼らは 「どのようにして 私は神様を 煩 わしていたのか」と、神様に 向かって問いかけていますが、このことが、彼らの鈍感 さをよく示している ように 思います。
「あなたがたは、あなた方の言葉で主を 煩わせた。しかし、あなた方 は言う。どのように して、私たちが煩わしたのでしょうかと」
彼らは 自分たちの 言葉によって、行為によって 主を煩わせて いた にも関わらず 、その ことに 気づいて いない。 そんな 矛盾 に 満ちた た スラエルの 姿 が ここに示されているのです。
なんと厚かましい姿なのかと私たちは思うんですけれども、 でも、これが 私たち、「罪びと」としての姿ではないでしょうか?
私たちは、私たちがどこまでも自分の正当さを主張して、矛盾を覆い隠そうとします。そのような 私たちが 、聖書のみ言葉によって、はっきりと照らし出される必要があるのではないでしょうか。
神様との歪んだ関係 は、 結局は人との歪んだ 関係を引き起こして 行きます。しかもその罪にはひたすら鈍感になってゆき、 深刻さに気づかなくなって、「 何が悪いのか」と、絶えず人を押しのけ、攻撃するようになってしまいます。
罪を そのまま にしておくと言う事、罪を保持しておくと言う事とが、 どんなに恐ろしい ことかという言うことを、私たちは ここから学ばなければならないならない。
私たちは 神様 の声 によって、もっともっと探っていただかなければ ならない。どこまでもどこまでも、自分勝手な私たちが、しっかりと主の前に差し出されて行く、そして、そこで与えて下さる赦し(ゆるし)の恵みを 、しっかりと味わうと言う事が、私たちに求められていると言うことを、み言葉の前に覚えたいと思います。
最後に15・16 節の み言葉を味わっておきましょう。
このことばは、非常に 興味深いと言う か、注目すべきことかなと思いました。どうしてかと言うと、ここに 結婚とは 何か ?結婚はなぜ尊ばれなければ ならないかと 言う ことが 書かれて いる からです 。「私は 離 婚 を 憎む」と 言われています。
そしてその 結婚と言う事について15節 ・16節を読むと、
「神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。「わたしは、離婚を憎む。」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう。」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。」
5.まとめ
このみ言葉から、私たちは三つのことを学びたいと思います。
⓵初めに 結婚とは、契約であると 言う事がわかります。
14 節の最後に、あなたの契約の 妻であるのに 、彼女は はあなたの伴侶であり契約の妻であるのにと記されていて、妻は単に妻であるのみならず「契約の妻」であることを示しています。
結婚が契約であるとすれば、誰に対する契約でしょうか?お互い同士の契約でしょうか?14節の前半に「それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり」と示されている。
つまり神様 ご自身 が、結婚する2人の証人 であると示されています。その契約は神の前での契約であると言う事、2 人 のお互い同士の契約である以上に、神さま の 契約であると言うことが 教えられていると いうことがわかります 。
ですから 結婚した 2人は神様 前に果たすべき 責任が あります。
新約聖書のエペソ人への手紙5章24節の中に「 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」とあります。
聖書に よると 夫と妻の 関係は キリストと教会の関係と同じです 。私たち 教会が、 キリスト教に従っているように、妻は夫に従わなければならない。キリストが 教会を命を懸けて守ってくださったように、 夫は命をかけて妻を 愛さなければ ならない。
ですから、結婚すると言う事は、それだけ大切な責任を担うということであります。「そのような責任を果たします」と神様の前に約束すると言う 事、これが 「結婚」です。 この 結婚が 軽々しく扱われていいはずがありません。 そのような自覚を持って、私たちは 結婚生活を歩んでいるかどうかを、自ら吟味 したいと思います。
⓶二番目に 教えられるのは結婚とは、二人が一体になることであるということです。
15節 に神は人を一 体に作られたのではないかとあります。創世記の 記事の中で神は「人は一人でいるのは 良くない。私は 彼のために彼にふさわしい助け手 を造ろう」と語られ ました
神様は、人間を一人では不完全な存在 として造られ、ふ さわしい助け手がいてはじめて完成する ように造られたと言うことがわかります。 そして、アダムにふさわしい助け手として、エバが造られ、2 人が 引きあわされた時に神様はおっしゃいました。
「それゆえ男は、父母を離れ 妻と結びあわされ、2人は 一体 と なる ので ある」。
夫と 妻は結婚して、二人は一体と なると聖書に記されて あります。 誰が 二人を一つにした んでしょうか? 全く別の人間を、誰が一つにした んでしょうか?
神様が、み手を以て 、二人を一つに した。
ですから、イエス 様も新約聖書 の 中で教えられておりますね 。「それでもはや、二人ではなく一人なのです。こういうわけで、主が結び合わせたものを引き離してはならない」。
結婚とは 神が結び合わせたものであるというふうに 教えられているですから、人間の 勝手な 都合によって神が結び合わされたものを離したり、くっつけたりする事は許されないという事がわかる。その ことを 私たちは 教えらているのではないでしょうか ?
⓷3番目に 結 婚 は、 神様がこの地に祝福をもたらす計画であると言うことがわかります 。
15節の続きの箇所にこう書いてあります。 「彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか」。
一体と された人は何を求めるでしょうか? ここに「 神の子孫でははないか」と 記されています。
二人は結婚して、それでゴールインであるわけでは無い。それで終わりでは 無い。二人は、結婚したその日から、その瞬間 から、 家庭を築くと言う 共同 作業を 始めていきます。
何の ために家庭を築くんでしょうか?
一つは、子孫を 残すため。
そして もう一つは、 神様の祝福を後世に残すためであることがわかる。
聖書を読むと、神様が人を作られたその時から、 結婚と いう制度を作られたという事がわかり ます。 創世記二章から既に、結婚の制度が定められていたということがわかる。そして それは、神様の大切なご計画の中で、み心を 行うための1つの大事な方法であったということを私たちは教えられる。
それは結婚を通して神様の祝福を全地に もたらすと言う、その計画であります。
神様が人を造られたられた時におっしゃられました。「産めよ、殖やせよ地に満てよ、地を従えよ」「すべての 生き物を支配 せよ」と。
神様は人を 通して全世界を祝福 したいと願っておられ ます。 そして、特に結婚を通して、その祝福を、子々孫々にまで 届けたいと願っておられる。 その 神様の御 計画の中で定められているのが結婚であると 言うことを思う時に、神様 は、結婚をとおして家庭を祝福し、そしてこの天地を祝福したいと願っておられるという ことを私たちは教えられるのではないでしょうか。
よって結婚と言うのは人間が作り出したものでは ないんですよね 。神様が 作り出した制度であるということ、その結婚が 軽んじられていいわけがありません。
私たちは 聖書が教える結婚というものを、 よく覚えながら、自らの結婚生活を吟味する者でありたいと思います。 そして自らへの祝福としていきたいと思います。 今、結婚の意味とか意義とかを考えることがほとんどないような 時代になってしまっているんじゃないかと思いますね。
結婚が 非常に軽んじられている世の中になってしまっているんではないでしょうか?そして家庭崩壊が進んでいるということをあちこちで耳にするようになりました。
その中で、私たちには聖書が与えられていると言うことを、決して忘れ てはいけない。 聖書を通して、 私たちがどう生きるべきかをちゃんと教えられているという恵(メグミ)を絶対に失ってはいけない。
結婚に関しても 、生涯を通して、ちゃんと祝福の結婚が教えられていると言うことをもっともっと 私たちは 自覚 して、 理解して いくと いうことが 求められている のでは ないでしょうか?
ここに 祝福 が あると いうことを、このように伝えていくと言うとが、私たちに求められているのでは ないでしょうか? まず 私たちの家庭から始まるという事 、まず 私たちの結婚から 始まるということを、ぜひ 覚えたい 。
でも 私たちは、 気をつけていないと、この世のいろいろな価値観、結婚に関する考え方に惑わされてしまって、何が 真実であるかわからなくなってしまう。
でも、聖書は、 ここに ちゃんと 歩むべき道を示していてくださるということを、ほんとに 感謝したい。神様は間違いなく私たちを祝福したいと 願っています。私たちをとおして、このこの世を祝福 したいと願っているんです。 そのために、み言葉が 与えられている。そのことを、もっともっと感謝して受け止めたいと 思います。家庭を、結婚を、このみ言葉に照らし ながら 整えていこうではありませんか。そして神様の祝福をたくさん 味わって、主とともに歩んでゆきたいと思います。