イエス・キリストをより良く知るために

イエス・キリストとパウロ、そしてルターの宗教改革

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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今から500年前、 1517年 1 0月31日に、95箇条の提題を、教会のドアに貼り付けた ところから宗教改革 が 始まったと 言われています。

ローマ人への手紙1章16節と17節のみ言葉は、 ルタ ー を 改心に導いた言葉 として知られて います。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです」。

この言葉に よって ルーターの人生が全く変えられました。このルターによって宗教改革が引き起こされましたので、このみ言葉はルターの人生だけではなく、世界の歴史を変えてしまったと言えるほどの、み言葉だと言えるでしょう。
このみことばは、私達が初心に帰らされるみ言葉でもあります。 私たちは、なぜクリスチャンとなったのでしょうか。 なぜ私たちは信仰を持って歩んでいるのでしょうか?

1.私は福音を恥とは思いません

その答えが、このみことばに示されています。1章16節で、パウロは「私は、福音を恥とは思いません」と、力強く告白しています。これは「私は福音を誇りとしています」という意味の言葉です。そういう言い方でもよかったと思うのですが、でもパウロは、あえて「私は福音を恥とは思いません」という言い方をしました。 そう語ることによって、パウロの強い気持ちがよく表されています。同時にこれは、福音を恥としてしまいやすい、私たちの傾向を意識した上でのみ言葉でもあります 。
パウロはこの 手紙を ローマの 教会の 信徒 たち に書きました。
当時ローマは世界の 中心です 。
今 で も 2000年前のローマ帝国の繁栄がいかにすごかったかと いう ことを思わされる建築物がたくさん残っているかと思います。ロマンチックと言う 言葉 が 今でも残っていますし、ローマ 的だとか 、ローマ 風 などと言う言葉は、うっとりさせられるとか、甘美であるという意味を含んだ言葉でもあります。


当時、ローマと 言うのは誰もが 憧れる都市で、ローマ人であるということが最高の自慢でした。それが当時の 常識 であり 、考え方で ありました 。ローマと言う言葉は、力強さ、素晴らしさ、美しさを 象徴する 言葉だったわけです
その繁栄のローマ帝国の中心にある教会の人達に向かって、パウロは「 私は福音を恥と思いません」と告白しました。
パウロの誇りはローマではなくて、福音であるとの告白でした。では福音とはいったい何でしょうか福音の 中心に あるのは、イエス様の十字架で あります 。有罪 判決を 受けて磔になっている、 血だらけ になっている イエス様の 姿 、全く 見 すぼらしい 、全く 魅力が ない 、惨めな姿の罪人とされたキリストの姿。

その救い主メシアについて、預言者イザヤは「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を貴ばなかった」とイザヤ書53章で預言しています。
これが福音の中心です。これが、私達が信じている福音の一番大事な点です 。
どこに そんな 魅力が ある のでしょうか。 一 体 誰が その 福音 に 魅力を 感じ 、この 福音を誇りと するんでしょうか 。しかもこの福音には、私たちに、「あなた方は 弱い、罪人 である 、神 の 呪いの 下 に 置かれている 」。そういう 風な ことを はっきりと 伝えている。
誰 が このような メッセージ を喜んで聞く でしょうか 。どうしてこれが福音なのでしょうか。これが福音だとしたら、 誰も耳を 傾けないと 言うような メッセージ では ないでしょうか。

私 た ち は普通 このように言って 欲しい のでは ないでしょうか 。 あなたは すばらしい。あなたは 魅力的 です。知的です 。立派です 。 そ の よ う に 言って 欲しい のでは ない でしょうか 。そのように言ってくれる方が嬉しい。それこそまさに福音ではないかと私たちは感じてしまうのではないでしょうか。
し か し この福音は 私たちの 罪人 としての 姿を暴き、 私たちが 神に 呪われた 存在であると言うことを 示しています。 そして 救われる ため には この 十字架 が必要 だと言う ことを述べ ています。
一体 どこに 魅力が ある のでしょうか? 誰が この メッセージ を 信じるでしょうか。 私たちが福音を恥としてしまうのであ ば、その 最大の理由は福音 そのもの 中にあります。私たちは普通の感覚では福音を信じることができません。

生まれながらの肉の性質を持つ私たちは 、この 福音 に つまずきます。 福音を憎みます。 パウロは第一 コリント の 中で 十字架 につけるイエス様について、「ユダヤ人に とっては はつまずきであり異邦人に とっては 愚か である」 と言う ふうに 語って おります 。多くの 人 にとって キリスト は つまずき なんです 。普通 つまずく んです。 そして多くの人にとって、それは 愚かな 内容なんです。
その 記述を信じる 私たちも 当然 愚かな ものと みなされてしまいます。
ですから 私たち は 時々 福 音 を恥と思って しまうことがあるのではないでしょうか?こ の 世 の 常識 とは 全く 逆 の ことであるからです。 でもパウロはここで告白しています「私 は 福音を恥と思いません 」。
私達はこのように 告白 できている でしょうか。 福音を恥とは思わないと言う ことを心から告白 できる でしょうか 。 どこかで福音を 恥ずかしい と 思って しまう ような 事は 無いでしょうか ? どこか 救 わ れ た ことを 恥ずかしいと 思ってる ところは ない でしょうか ?
この世の中にあって 自分が クリスチャンで あると 言う ことを 、隠してしまいたくなる。クリスチャンとして堂々と信仰を証することができない?

「自分はもう救われた。イエス様のために生きていきたい」とはなかなか言えないことですね。
パウロの ように 「私は福音を恥とは思いません」 と 言い切れる でしょうか 。信仰を告白しているだろうか。 十字架が私たちの信仰の誇りになっているだろうか 。
私達もパウロのようにしっかりと信仰告白できるように神様に導いていただけるよう祈っていきたいと思います。

2.「福音を我が誇り」と告白できる理由。

パウロが「私は、福音を恥としない」と告白できた、 その理由は何だったのでしょうか 。
その根拠は どこに あるん でしょうか。 そこが 大事な ところです。
その部分をみ言葉 から確認 していきたい と思います。16節17節をもう一度 読んで みたいと 思います 。
「 私は 福音を 恥とは思いません。福音は ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも信じるすべての人にとって、救いを得させる神の 力 です。 なぜ な ら福音 の 内には神の「義」が啓示されて いて、 その「義」は 信仰に始まり信仰に歩ませるからです。「義人は 信仰 によって 生きる 」と 書いて ある通り です 。
このようにパウロが福音を恥としない、誇りと思うその理由 は、 福 音 が 「信じる すべての 人にとって 救いを得させる神の力で あると」 言う 事です。それがパウロが福音を誇りとする理由です。

パウロは信じました。その時に、救われるという経験をしました。
パウロは神の力に よって救い出され ました。 これが パウロ が 福音 を恥としないと言う言う理由です。 これが誇りです。 信じると言う ことがいかに、 どれくらい大きな確信を 与えるもので あるかということを私たちは ここから教えられるのでは ないでしょうか。
ここで 聖書の中で最も大事な言葉 「救い 」と言う 言葉 が 何度も 出て きます けれども、 この 救いと言う 言葉が 語られる時に前提と なって いることが あります。

それは、人間は 堕落していると 言う ことです。 私たちは 神に背を向けて 自分勝手に歩んできた一人一人でした 。それゆえに 私たちは堕落したものでした。 罪の ために、とても 返す ことが できない罪の負債を負ってしまっている 。しかもどんなに頑張っても、 自分の努力では返すことが できない、 そういう 罪の 責任 を負わされています。
また私たちの性質は、汚されてい ます。生まれた時は神の形 として 素晴らしい性質を 与えられていた のに、 罪のために 私たちの与えられていた ものが 歪んで しまって、 私 た ちは罪 の 束縛 の 中に生きて いる。

自分の したい ことができない。自分の願っているように生きることができない。 束縛 されて いる 。これらのことによって、とても 神を 愛する ことが できない。 人 を 愛することが できない 。神の栄光を現すことが できない 。さらに深刻 なのは 、 神の 裁き が 計 画 されて いる と 聖書に記されている 。
さばき にあう ことが定まっている 。死んで 終わりでは 無い 。 人間は一度死んだ後に さばき にあうことが 定まっている 。そして、その 罪 人である 私たちに くだされる裁きは、 永遠の 滅びで あります。 燃えるゲヘナに投げ込まれるともう逃げ ら れ な い 。どう 頑張っても そこから 救いだされる事は無い 。そんな 私たち 一人一人 だった わけです。

そんな私たちを哀れんでくださって、 目を留めてくださって、 神のひとりご「イエス・キリスト 」を私たちに 送ってくださった。 そのイエス様が十字架にかかって 、本来、私たちが 受け なければ ならない神の裁きを、 身代わりになって受けて くださった 。 そのことのゆえに イエス・キリストを 私たちが信じた ときに、神の力によって私たちは救われる。

パウロも、その十字架を信じて神の力によって救われました。
そういう経験をしたからこそ、彼はこのように告白できたわけであります 。これがパウ ロ が 福音を 誇りとするするところの理由です。 私たちが、福音を誇りとするときに、その理由はこのことになって いるでしょうか。

私たちが クリスチャンであることを喜んでるその最大の理由はここに あるでしょうか 。私たちはこの ことゆえに、福音を誇りとしている るでしょうか 。

福音は 単なる 人生の 処方箋 なのではない。 精神 安定剤のようなものでもなく、心理学の カウンセリングのようなものではない。 そんな程度のものでは ありません 。
でも時々福音が 、そのようなものとして啓示されてしまうということがあるかもしれない。
でも、私たちは、福音に何を期待しているでしょうか 。福音を誇り たいと 思う時に、何を持って それを誇るんでしょうか?

福音によって道が開かれ、 病気が 癒される ことでしょうか 。心の平安がもたらされることでしょうか?それも大事なことかも しれない 。でも 福音はその程度のものでは無い。

福音は、信じるすべての人に、救いを得させる神の力であると いう ことを 私たちは 本当に 喜び としている だろうか 。そのことのゆえに 私たちはこの福音を誇っているだろうか?

私たちは救われたんです。罪の束縛と、 支配 から、 またその 結果で ある 永遠の 裁きから、 救われたんです。その ことが 私たち の 1番 の 喜び になっているだろうか?

その ことのゆえに 私たちは 福音を 誇っている でしょうか 。ぜひこのことの故に私たちは福音を誇るものでありたいと思いますね。私たちに神の力が及んだ 、そのことに よって、私たちが救われた、 その恵みを絶えず喜び 感謝 したいと思います。

3.宗教改革者ルターの話

ルターも若い頃 真剣に 悩んで いたそうです。 なぜ 悩んでいたかと、 自分が罪人であるとこういうことを 知っていたからです 。神を 愛したいと 思う けれども 愛することが できない。 神のために生きていきたいと願っている のに そういう 生き方は 自分の 中にはない 。
そういった自分自身 ことに気づいていた。神に認めてもらいたい と願って、いろんな努力を 続け ました。 アウ グ ス チ ヌ ス 会という、当時のとしては 最高に厳しい 修道会に 入って、死に物狂いの修行を積み重ね 、祈ったり 断食を したり いろんな ことを していく んですが、 どんな にどんなに 努力 しても 心の 平安を 得る ことが できない 。罪の意識 から 全く 解放されない 。彼は 思い出せる 限りの 自分の罪を告白して、教会の 司祭 さんに 聞いてもらった そうです。思い出される罪 が 次 から次 へ何時間も 何時間 も告白していたので 、しまいには司祭が怒り出して、 次に来る 時は ほんとに 告白するべき 罪を まとめてくる ように と 指導されたと言う エキス エピソードがある くらいです。 でもルターは必死だったんですね。

 罪 が ある 限り 自分は 裁かれると言う ことが 分かって いたから、 この 罪が 全部 処分 されない限り 自分が、 間違いなく 裁かれると、まじめに真剣に悩んでいました。
  
 神の 裁きからなんとか救われたいと思い、そ し て 神 の ために義としてもらうために。 死に物狂いの 努力を 続けて いた んですね
それが 若い 時のルターで あったようです。

 ルターの 真面目さ 、生まじめさを、私たちは とても笑うことが きない んじゃ ないかなと思います 。
なぜならルターは自分が罪人であ ということを知っていたから 、自分が罪人であるという ことに 向き合っていたから、 そして 神の 裁きが下されるということもわかって いたから 。

 私たちは 、これくらい 真剣に 自分と 向き合った ことが ある でしょうか 。私たちは ルーター くらい 神の裁きがあると 言う ことを、 真剣 に、自分 のこと として 向き合ってきたことがあるだろうか。
聖書 には 神の 罪人に 対する 裁き が はっきりと 警告されて います。 その 聖書の メッセージをルーターほど真剣に、自分対する事実として受け止めて来たことがあるだろうか? それを思うとき 私たちは ルターの ま じ め さ を 笑うことが できない んじゃ ないかと 思います

 しかしこのルターが、ある日、ローマ2章17節 のみ言葉と出会う。
「なぜなら この 福音のうちには 神の義が啓示されていて、その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです」 というみ言葉にであった。

 「神の義 」と 言うのは 自分の 力 や 努力に よって 獲得 すべき 義では なくて、 神様が 信じる者に恵み として 与えてくださる義である と言うことが わかった。神様が ただそれを与えたいと 願って おられ るゆえに 、それを 信じ 受け止める だけで いいんだ という ことが わかった 。それを得るために 自分の 努力 とかふさわしさとか、 そ の よ う な 事は 全然 関係の ない ことだ と いうことが わかった 。その一方的 な 恵み を知らされた 時 に 、ルターは 心から の改心に 導かれました。 その出来事を 振り返って、 ルターが 「 私は新しく く 生まれ 変わり天国 の門 は開かれた」と告白を しております 。それは ルーターに とっては 全く 生まれ変わる 経験 でした。 天国の門 が 今 開かれた と 確信 させられてたそういう時 であった と 言うことで あります。そして ルターは、その日以来、 180度人生が 変わり ました 。信仰に よって 生きる 人に なりました 。パウロのように 福音を恥と しない、福音を誇りとする人 になって いた。

 その後 ルーターの宗教改革を巡ってカトリック教会 との 対立と 混乱に 巻き込まれ て しまう わけですが 、いろんな経験を します。

 1番 有名な のは 1554年のホルムスの帝国議会に呼び出されて、当時の 神聖ローマ帝国 の皇帝の前に立たされて、今まで の主 張 を 全部 撤回するように言われた ことがあった そうです 。この ときルターは自分 の死を覚悟したと 言われています 。なぜならこの前の時代、 同じような目にあって、ボ ヘ ミ アのフスが処 刑 されていたからです。 し か し 彼 は こう告白 し た と 歴史 に記録 されて おります。
「私 の良心は 神の言葉 の 虜 です。 私は それを 撤回 できません し、 そのような 意思もあり ません。 私は ここに 立って います。神よ、どうか私を お助け下さい 」

 大勢の前で このように 信仰 告白を した ルターについて 言う ならば、「 私は 福音を 恥とは思いません 」という ことに なるんでは ないか 。これが ルーター の誇り でした。 誇りを 捉えて とらえて離さ ない それがルーター の 全て でした 。その確信を、誰も 取り消す ことが できない、 そして ここにルーター が 1人立って、 その後の事 は 全部 神様 に お任せして、「 神様 助けて ください」とのその 祈りは 聞かれて、守られた 。そういう告白をした と言う ことが 言われて います。
どうしてそういう 告白がきたん でしょうか。

 これは 間違いなく、ルターの力 では なくて、 ルターを捉えている 神の力によって 告白させていただいた、ということではないでしょうか?

 も し 私たちがこの 神 の 力に 生かされて いるのであれば、もし こ の 神の力 を味わっているのであれば、私たちも このように 信仰告白をして させて いただけると 言う ことを このルターの ことから 学びたい、そしてパウロの姿から学びたいとおもいます。
わたしたちにもこの力が与えられていることを信じようではありませんか
私 た ち は 自分 の 力 では とても このように信仰告白する ことが できません。でも 神様の 力 に よってこのように告白できるものに 変えて いただけるように 祈って いこう では あり ませんか 。 信仰 持って 歩んで いく もので ありたいと 思います。

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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