イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書25章31~46節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」( マタイの福音書 25:31-46 JDB )

要約

このメッセージは、マタイの福音書25章の最後の場面についての説教です。ここでは、イエス・キリストが最後の審判において人々を「右」と「左」に分けられる場面が語られます。右に置かれた「羊」のような人々には、神の御国を受け継ぐ祝福が与えられますが、左に置かれた「ヤギ」のような人々には、「悪魔とその使いのために用意された永遠の火」に入るという厳しい裁きが語られます。

この裁きの基準は、「最も小さい者のひとりにしたことが、イエス様ご自身にしたことと同じ」という点にあります。つまり、私たちが日々の生活の中で、困っている人、助けを必要とする人にどれだけ愛を注いだかが、イエス様への愛の表れとなるというのです。

この章で、イエス様はご自身の教えの締めくくりとして、弟子たちにこの重要な真理を伝えました。26章からはいよいよイエス様の十字架への歩みが始まります。ですからこの教えは、イエス様が最も伝えたかった「最後のメッセージ」としての重みがあります。

私たちも、主の再臨の日を覚えて、与えられた場所で愛をもって人々に仕え、イエス様の愛に応えていく生き方を実践していくことが大切だと語られています。主はその愛の行動を見ておられ、やがて「よくやってくれた」と語りかけてくださる日が来ると信じて、日々を生きていこうという励ましで締めくくられています。

筆耕

マタイ25章の3回目、最後になります。
今まで2回、25章を学んできました。
最初は1節から13節まで、5人の愚かな娘と5人の賢い娘のたとえ話でした。これは、「花婿がいない間に、ちゃんと油を用意して待っていなさい」という、そういう内容でした。
そして2回目は、先週、14節から30節までの「タラントのたとえ」でした。ある人には5タラント、ある人には2タラント、ある人には1タラントが与えられ、それぞれがどう用いたかという話ですね。ここで問われたのは、「小さなものに忠実である」ということでした。そのようにして、主人が帰ってくるのを待ちなさい、という教えです。
この2つのたとえには共通点があります。花婿や主人が留守にしていた、という点です。ですから、「その留守の間、いかに待つか」「待ち方」についての教えであったと言えると思います。
そして今日は3回目です。「その待っていた日が来たときに、何が起こるのか?」ということですね。その日が来たとき、そこに起こるのは「裁き」である、ということです。神の裁きが下される日が来る――最後の審判の時ですね。その時の様子が、今日の箇所に記されていることが分かります。
今日読んでいただいた箇所から、4つのことをみんなで確認していきたいと思います。
まず、1つ目。「誰が裁くのか?」
2つ目は、「誰が裁かれるのか?」
3つ目は、「何を根拠に裁かれるのか?」
4つ目は、「裁かれた結果、どうなるのか?」
この4つのことを、今日の箇所から確認していきたいと思います。
(1)

まず1つ目、「誰が裁くのか?」ということですが、31節にはこうあります。
「人の子は、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来る時、その栄光の座に着きます。」
つまり、「人の子が来られる」――これはキリストのことですね。キリストが来られる。そして、その来る姿は、すべての御使いたちを伴い、栄光の座に着くということです。それは、まさに「裁きの座」ということになります。
これはイエス・キリストの再臨を示しています。イエス様がもう一度戻って来られることを、私たちは「再臨」と呼んでいます。英語では「The Second Coming of Jesus Christ」と言います。「セカンド・カミング」、つまり「二回目の到来」というふうに呼ばれます。
1回目にイエス様が来られたときと、2回目に来られる時の姿は、全く異なります。
最初に来られた時、イエス様はベツレヘムの貧しい馬小屋に生まれてくださいました。そして、本当に貧しい歩みをされました。それは、すべて人々に仕えるためであり、支配するためではありませんでした。
最終的には、人々から虐げられ、嘲られ、鞭で打たれ、唾をかけられ、十字架にかけられて死んでいかれました。
預言者イザヤは、このイエス様の姿をイザヤ書53章でこう予言しました。
「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ書53章3節)
本来、王であった方が、そのような輝きのない人生を歩まれた――それが、最初のイエス様の到来でした。
ところが、もう一度来られるときの姿は全く違います。まさに、王として、支配者として、そして裁き主として来られるのです。
このことが、31節に示されています。これがキリストの「本来の姿」です。キリストは王として君臨し、支配し、そして最後の審判を下される――キリストが裁き主である、ということをまず1番目に覚えておきたいと思います。
(2)次に2番目。

「誰が裁かれるのか?」ということです。
32~33節を読みます。
「そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊を山羊からより分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」
ここに、「すべての国の人々が御前に集められる」と記されています。つまり、世界中のすべての人々が、御前に集められるのです。私たち自身も、そこに集められることになるでしょう。
そしてその時、裁き主であるキリストは「より分ける」とされます。
「羊飼いが羊を山羊からより分けるように」――つまり、右と左に分けられるのです。羊を右に、山羊を左に。
これは、当時のイスラエルでよく見られた光景だったのではないかと思います。羊飼いが羊と山羊を分ける、そういう日常の行為をたとえとして用いながら、イエス様は「最後のときにはそのような選別があるのだ」と教えておられるのです。
そして、「あの中間はない」ということなんですね。右か左か、どっちかだということです。中間があったらいいのになあ、と思ったりも話しますけれどもね。でも、もうどっちかしかないということは、それは非常に厳粛な瞬間である、ということではないでしょうか。
右になるのか、左になるのか、はっきりわかるということなんですね。それで、私たちが本当に右に行くのか、左に行くのか……その時の瞬間、もう本当にドキドキですけれどもね。そういう厳粛な瞬間が、最後に待っているということですね。そのことが、イエス様によって示されていることだと思います。
(3)

じゃあ、3番目にですね、「何を根拠にして、裁き主なる主は右と左により分けるんでしょうか?」ということです。何か根拠があるんでしょうか? 何を根拠にして右と左により分けるんでしょうか?
そのことに関して、話が続いていきますけれども、35節から読んでみます。
「あなたがたは、私が……」これは右にいる人たちに言ったんですね。
「あなたがたは、私が空腹であった時に食べ物を与え、乾いていた時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸し、私が裸の時に服を着せ、病気をした時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからです。」
ということで、右により分けられた、羊のように右により分けられた人たちが、なぜ右に呼び分けられたのか。その根拠は何かというと、それはキリストの必要に応えたかどうか、人生の中でキリストに愛を表したかどうかということ、それが根拠になっているということですね。
主は言われるわけですよね。
「私が空腹であった時、乾いていた時、旅人であった時、裸であった時、病気をした時、牢にいた時」——この「私」は、全部イエス様ご自身のことですよね。イエス様がご自分でおっしゃっているわけですよ。
「私がそういう時に、あなたは助けてくれた。だから、あなたたちは右にいるんだよ。」
それが根拠になっている。
でも、そう言われてもですね、この右側にいた人たちはピンとこないんですよね。認識がないんです。それで問いかけるんですね。
すると、その正しい人たちは答えます。
「いつ、私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、乾いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか? いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか? いつ、私たちはあなたが病気をしたり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか?」
——と、全然その認識がないんですね。イエス様に対してそんなことをした覚えはない、という認識になっていることがわかります。
それに対して主は言われるんですよね。こう答えられます。
「まことに、あなたがたに言います。あなたがたがこれら、私の兄弟たち——それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。」
ということで、「私の兄弟たち」、その中でも「最も小さい者たちの一人にしたこと」、それは実は「私にしたことだったんだよ」と。そのときにそのことが明かされて、それが根拠となって右側に呼び分けられた、ということが見えてくるかと思います。
じゃあ一方、左の方により分けられた、ヤギのように呼び分けられてしまった人は、どうして左の方に行ってしまったんでしょうか?
それに関しても、今度はこう言いますよね。42節からです。
「お前たちは、私が空腹であった時に食べ物をくれず、乾いていた時に飲ませず、私が旅人であった時に宿を貸さず、裸の時に服を着せず、病気の時や牢にいた時に訪ねてくれなかった。」
——「私がこんなに困っていた時に、お前たちは何もしてくれなかったね」と言っているわけですよね。
それに対して左にいる人たちも、認識がないわけですよね。それで言いました。
「私たちは、あなたが空腹であったり、乾いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか?」
——「そんなことしてませんよ、そんなことは知りません」ということで話をしているんですね。
それに対して主はこう答えました。
「まことに、お前たちに言う。お前たちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、私にしなかったのだ。」
ということで、「お前たちがその兄弟たち、そして最も小さい者たちの一人にしなかったでしょ? それは私にしなかったんだよ」、ということですね。
それが根拠になって、左の方により分けられた。これが、右か左かに分けられる根拠であったということが、わかるかと思います。つまり、私たちが兄弟愛をもって互いに愛し合うということ、そして特に「最も小さい者の一人」に惜しみなく愛を与えたかどうかということですね。
「最も小さい者」とは一体誰のことなんだろう、と考えさせられますけれども、おそらくこの文脈の中から気づかされるのは、貧しい人、植えている人、乾いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢の中にいる人……そういった人たちのことが意識されているんだろうなと思いますね。
経済的にも社会的にも、あるいは健康の面においても、本当に社会的弱者と呼ばれるような、そういう人たちの一人です。たくさんじゃなくていいんです。その一人ひとりに、本当に愛を惜しみなく与えた人——その人は、実はイエス様に対して愛を注いでいたんだ、ということですね。
逆に、そういう人を見ても全然関心がなく、何もしなかった人というのは、実はイエス様に対して何もしなかったのだということです。それが裁きの基準になっている、ということをイエス様はここで教えておられます。
この箇所を読むと、少し「あれ?」と思うような印象を受ける人もいるかもしれません。「行いも大事なのかな?」「救われるために、右に行くためには行いが必要なのかな?」という印象を受けるような話にも聞こえます。
でも、やっぱり人は行いによって救われるわけではないと思います。ただし、「行いは、救われたかどうかの印である」ということですね。その人が本当に救われているかどうかは、実は行いによって明らかにされるということも、聖書が教えていることじゃないかなと思います。
それは「ヤコブの手紙」に示されています。「ヤコブの手紙」2章17節にはこう書かれています。「信仰も、行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」。行いがない信仰であれば、それは死んでいる信仰です、とヤコブは教えています。
また、2章20節では、「あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか? 行いのない信仰は益がありません」とも教えています。そして22節では、「あなたが見ているとおり、信仰はその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました」とあるように、信仰というのは行いとともに働き、行いによって完成されるのです。信仰と行いはセットなのだ、ということですね。
これがやっぱり、聖書で教えられていることかなと思います。そして「行いのない信仰は無益である」、必ずそこには行いが伴っている、ということです。
ですから、この右側に呼び分けられた人たちは、信じていたのです。信じたからこそ、そこに行いがあったということです。
私たちは、イエス様によって救っていただいた、救われたんですよね。救われた経験をしたなら、必ず、救ってくださった方のために生きたいと願うと思います。
私たちは本当に滅びるしかなかった人生でした。でも、イエス様が十字架にかかって、身代わりになって死んでくださった。そして、救いの道を開いてくださった。私のために死んでくださった方。その方のために生きたいと、普通は願いますよね。
救われた人は、必ずそうなると思います。イエス様のために生きたい——ですから、必ずイエス様に仕えていきたい。それは救われた人の証です。
信仰には必ず行いが伴うというのは、普通に考えればよくわかることじゃないかなと思います。だから私たちは、本当に救われた者として、イエス様の愛に応えて生きていく。イエス様に仕えていく。それがどういうことかというと、兄弟愛に生かされていく、特に小さな者に愛を惜しみなく注いでいく。そのことによって、実は私たちはイエス様に対して応えているのだと思います。
(4)

最後、4番目ですね。裁かれた後の結果はどうなっていくのでしょうか。右と左により分けられたあと、それぞれの最終的な結果はどうなるのでしょうか。
まず、右側の羊のように呼び分けられた人たちに対して、イエス様は34節でこう言われました。
「それから、王は右にいる者たちに言います。『さあ、私の父に祝福された人たち。世界の基が据えられた時から、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい』」
ということで、右にいる人たちに対しては、「さあ、私の父に祝福された人たち」と呼びかけられています。この人たちは、父なる神様によって祝福された人たちなのです。
そして、もうずっと前から、世界の基が据えられた時から、その御国が備えられていた。つまり、神の計画の中に、最初からその御国が用意されていたということなのですね。その計画されていた御国、この時、与えられる、受け継ぐ者になるという素晴らしい祝福が待っているということですね。そのことが、ここで提示されていることだと思います。
では一方、左により分けられた、ヤギのように呼び分けられた人たちはどうなるのでしょうか。なんて言われてしまったのでしょうか。それは41節でしょうかね。
「それから王は、左にいる者たちに言います。『呪われた者ども、私から離れよ。悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ』」ということで、さっきは「祝福された者たち」と言われましたけど、こちらは「呪われた者ども」と言われてしまっているんですね。
そして、なんと「私から離れよ」。イエス様から離されてしまうんですね。そして、「悪魔とその使いのために用意された永遠の火」に入れられてしまうという、そういう結果になってしまうのだなと思います。
『黙示録』を読んでいると、最後に、黙示録の20章には「悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」とあります。最後に悪魔も滅ぼされる、火の池に投げ込まれてしまう場面が記されていますけれども、その悪魔のために用意されている火の池の中に、投げ込まれてしまうという、そういう結果が待っているということですね。
そして最後、46節でまとめとしてイエス様は言われました。
「こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠の命に入るのです。」
永遠であることは変わりません。でも、片方は永遠の刑罰。刑罰が永遠に続いていくという、本当に考えたくもないような、恐ろしい結末ということになります。でもその一方で、永遠の命に導かれていくということですね。
そのようなどちらかにより分けられる瞬間が、やがて来ますよ。その時が来ますよ、ということをイエス様はおっしゃっているのですね。
そしてそれを前提として、私たちが本当に救われているかどうか、そして本当に仕えている者は、イエス様に何に応えて生きているかどうか、そのことが本当にここで問われているということですね。
そのことを、ぜひ覚えたいなと思います。
これが、マタイ25章の最後のメッセージなんですけれども、5章から始まったイエス様の一連のメッセージ——「心の貧しい者は幸いです」という御言葉から始まった、イエス様の教えが、ここで一応完結したと考えていいかなと思います。
なぜなら、26章からいよいよイエス様の十字架が始まるからです。来週からは、イエス様の十字架がテーマになります。いよいよ、これから十字架に入るのですね。
その前の、最後の瞬間が今日の箇所なんです。これはイエス様の最後の言葉、最後の大事な教えとして、弟子たちに最も伝えたかったことだったと考えられると思います。それだけしっかりと伝えたかったイエス様の言葉なんだと思います。
私たちはこのことをよく聞いて、よく自覚して、その時が来るということを意識しながら、本当に救われた者としてイエス様の愛に応えて生きていく——そういう生き方を、ぜひ実践していきたいなと思います。
それは、目の前にいる私たちの、本当にすぐそばにいる「小さい者のひとり」に、私たちがどれだけ愛を注いだかどうか。それが、実はイエス様に対する行為であり、その人に対する愛の行為は、実はイエス様を愛しているということなんだ、ということですね。
皆さんそれぞれに、今本当に愛を注がなければならない「小さいひとり」がいるんじゃないでしょうか。そういう方々が、神様によって用意されているんじゃないでしょうか。家族かもしれないし、教会の方かもしれないし、地域の方かもしれない。
本当に私たちの助けを求め、必要としている「小さなひとり」が、きっといるのではないでしょうか。その人に心を込めて愛を注いでいくということが、実はイエス様を愛することなんだということです。
イエス様を愛すること。それは、その人を愛することによって、イエス様を愛しているということなんだということを覚えて、今、私たちの置かれたところで、本当に惜しみなく愛を注いでいく者となりたいと思います。
そして、それをイエス様はちゃんとご存じです。そして最後に、「私のためによくやってくれたね」と、ねぎらいの言葉をかけていただける——そういう時が来ることを思いながら、今置かれたところで、本当に主に仕えていく者でありたいと思います。
はい、ということで、なんとか終わりました。感謝します。
それではお祈りをもって終わりたいと思います。

お祈り:
愛する神様、
聖書の学びがここまで守られ、今日も無事に守られたことを感謝いたします。イエス様がお伝えくださった大切な御言葉、どれだけ伝えきれたかわかりませんが、どうぞ一人一人の心の中で実を結んでいくことができますように。
やがて主のお帰りの時が来ますので、目を覚ましてその日を待っていることができるように、また私たちの置かれたところで精一杯、主に仕えることができるように。私たちの目の前にいる一人一人に、惜しみなく愛を注いでいくことができるように。
そのようにして主に仕えていくことができるように、あなたの愛に応えていくことができるように、助けてください。御言葉による励ましに感謝し、イエス様のお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

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