イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書26章1~16節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。( マタイの福音書 26:1-16 JDB )

要約
この文章は、マタイの福音書26章に記されたイエス・キリストの受難直前の出来事と、そこから学ぶ信仰の本質についての説教内容です。

主な内容
マリアの行為と福音の本質
マリアが高価な香油をイエスの頭に注いだ行為は、弟子たちには「無駄」や「もったいない」と映りましたが、イエスは「良いこと」「福音」として高く評価されました。この行為には、イエスへの深い愛と感謝、そして自己犠牲的な献身が込められており、福音の本質である「神と人との愛の関係」を体現しています。

弟子たちとユダの反応
弟子たち、特にイスカリオテのユダは、表面的には貧しい人への配慮を装いながら、実際は自分の欲望や偽善にとらわれていました。ユダはイエスの評価に反発し、ついに裏切りを決意します。

信仰者への警告と励まし
信仰者もまた、形式や評価にとらわれ、心が高ぶったり偽善的になったりする危険があります。大切なのは、子どものような素直で砕かれた心を持ち、イエスの愛に応えて生きることです。

祈りと結び
読者(聞き手)に対し、マリアのような真実な信仰と謙遜な心を持ち続けるようにと励まし、ユダのような頑なな心にならないよう祈ることで締めくくられています。

まとめ
この説教は、表面的な行いや評価ではなく、イエスへの真実な愛と献身こそが福音の本質であること、そして信仰者が常に謙遜で柔らかな心を持ち続けることの大切さを教えています。

筆耕

マタイの5章から、山上の説教が始まりましたけれども、そこからイエス様は弟子たちにたくさんの教えをしてくださいました。もう十分に教えてくださったのだと思いますね。それが全て語り終えたのだと思います。教え尽くされたのだと思います。そして、それが終わって、いよいよ十字架の道に進んでいくということですね。そういうつながりになっていることが分かりますけれども、イエス様はちゃんと終わりの時を意識しながら、その時が来るまでに教えるべきことは弟子たちに教えておこう、というご配慮とご計画の中で、しっかりと教えるべきことを弟子たちに教えていたのだと思います。そういうことが伝わってくるのではないでしょうか。

それで、そのようにして、十字架の道へと進んで行かれるわけですが、2節に「あなたがたも知っているとおり、2日経つと過ぎ越しの祭りになります。そして人の子は十字架につけられるために引き渡されます」とあります。イエス様は「2日経つと過ぎ越しの祭りになる」とおっしゃいました。そして、イエス様の十字架というのは、まさに過ぎ越しの祭りの時に実行されたということになります。ですから、もうあと2日後には十字架につけられる、そのために引き渡されてしまうという、その日が迫っているということですね。

十字架の予告というのは、今までも3回なさっています。これが4回目と数えることもできるかと思いますが、もう本当にその時が迫っている。そして「引き渡される」という言い方をしています。イエス様がこの後、どのように引き渡されていくのか、その工程がこの後描かれていくということが分かるかと思います。

その頃、イエス様を知らない人々の間で、またイエス様ご自身はもちろんご存知だったでしょうけれども、その背後で何が起こっていたのかということが、3節から5節のところに記されています。その頃、祭司長たちや民の長老たちは、カヤパという大祭司の邸宅に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談しました。彼らは「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた、ということです。

祭司長たち、民の長老たち、そしてカヤパという大祭司、この人たちが皆集まって、大祭司の邸宅で相談していたということで、ユダヤ教の指導者たち、つまりユダヤ教の中心的な大祭司や祭司たちが集まって、何の相談をしていたかというと、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談していたのです。陰謀、つまりそういう計画が進んでいたということですね。

本当にどうやって殺そうかと、あれこれ思い巡らしていて、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していました。過ぎ越しの祭りですので、たくさんの人たちがエルサレムに集まってきます。そこでそういうことが起きると、暴動が起きることを恐れていたわけですね。ですから、祭りの間はそれができない、祭りが終わってからそれをしようと、策略をいろいろ思い巡らしながら相談していた。そういう動きが背後で進展していたということです。そのことが分かります。

そういう不穏な空気、エルサレムに不穏な動きが密かに進行している、その最中にあって、一人の女性のイエス様に対する信仰の姿が表されていた、というのが今日の内容かなと思います。

さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに侵された人シモンの家におられるとき、ある人が非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、イエスのもとにやってきました。そして、食卓についておられたイエス様の頭に、その香油を注いだということが起きました。

場所はベタニアです。ベタニアでツァラアトに侵された人シモンの家にイエス様がおられた、ということですね。これは、マルコの福音書14章とヨハネの福音書12章に並行記事が出てきます。ヨハネの福音書12章の記事は、少し表現が違っているところがありますが、同じ出来事であると考えるならば、これはマルタ、マリア、ラザロの家であったということです。イエス様はよくそこにお泊まりになられました。マルタ、マリア、ラザロの家、そしてこの「ある女」と出てくるのはマリアであったということが、ヨハネの福音書の記事を見ると分かるかと思います。

このある女性が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持ってきて、イエス様の頭にその香油を注いだのです。マルコの福音書には「壺を割った」と書かれています。マタイには「割った」という言葉は出ていませんが、マルコの記事を読むと、壺を割ってその油を全部注いだということだと思います。そして、全部頭に香油を注いだと。ヨハネの福音書の記事を読むと、「純粋で非常に高価なナルドの香油、1リットラ」という表現が出てきます。非常に高価なナルドの香油、しかも純粋で非常に高価な、ものすごく高いナルドの香油であったと。

この後、マタイの福音書には出てきませんが、ヨハネの福音書を読むと、弟子たちが憤慨して、「この香油は300デナリ以上になる」といった表現があります。

なんてもったいないことをしているんだ、と。「これを売ったら三百デナリ以上にもなるのに」といった言葉が飛び出している、というのがヨハネの記事を見ると分かります。そういうことになると思いますので、もう約一年近く、そのお金があれば生きていけるくらいの、ものすごく高価な額だったということですね。それくらい価値のあるナルドの香油を、あっという間に、一瞬のうちに割って使ってしまったということなんですね。

これが後で弟子たちの非難につながっていくのですが……。もう一人、入ってきました。すみません、もう一人入ってきましたね。はい、手が入りましたね。はいはいはい。今、マタイの福音書26章ですね。26章を学んでいるところです。ナルドの香油を、女性がイエス様の頭に注ぐ場面なんですけれども、それくらい高い香油を全部イエス様の頭に注いでしまったために、ヨハネの福音書の記事を見ると「家は香油の香りでいっぱいになった」と出てきます。そういうことが書かれているんですね。

それくらい非常に良い匂いのする、そしてとても純粋で高価なナルドの香油を、この女性はイエス様の頭に注いだということです。また、この女の人がイエス様の足に注いだ、とも出てきます。そして、マルコは「頭に注いだ」と書いていて、イエス様は「足に注いだ」とも出てくるので、「あれ、どっちなんだろう?」と、これもしかしたら違う記事なのかな、とか、いろいろ考えるところかなと思うんですけれども、おそらく考えられるのは、頭に注いだその油が足にまで垂れてきて、その足をマリアが拭った、ということが考えられるのではないかな、と。その場面をヨハネは記したのではないかと思います。ですから、それだけ全部の油を頭に注いだら、もう体中になりますよね。おそらく、そういうことが起こったということですね。

それで、今度は人々の反応なんですけれども、それを見ていた人たちはびっくりしたわけですよね。突然、女の人が油をイエス様の頭に注いだということで、どういう反応をしたかというと、8節。弟子たちはこれを見て憤慨して言いました。「何のためにこんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。なんてもったいないことをしているんだ」ということですね。それで、憤慨して言った、つまり非常に憤りを覚えたということだと思います。そして「無駄なことをしている」と。「それは貧しい人たちに施しができたのに」という、そういう言い方をしていることが分かります。

マタイの福音書では「弟子たち」と書いていますが、マルコの福音書を読むと「何人かの者が憤慨した」という説明になっています。やはり憤慨しているんですね。そして、それだけではなくて「彼女を厳しく責めた」という表現もマルコの福音書の記事には出てきます。だから、怒っただけではなくて、彼女のことを責めた、叱責したということだと思います。

ヨハネの福音書の記事を読むと、この憤慨をしている弟子たちの中心は、実はイスカリオテのユダであったということが出てきます。非常に憤慨して怒って、同じような反応を示すのですが、そこに解説がありまして、「ユダがそういうふうに言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かっていたのに、その金入れからお金を盗んでいたからだった」と書いてあります。ですから、彼は憤慨して「なんてもったいないことをしているんだ。貧しい人にちゃんと施しができたのに」と言って怒っているのですが、実はその背後に、彼は盗人であって、お金を着服していたという事実があったということが、ヨハネの福音書の記事には指摘されていることだなと思います。

ですから、彼は全然、貧しい人のことを心にかけていないんですね。かけているように見えますけれども、そういうやり取りがあったということが、聖書に指摘されています。

それで、女性は精一杯の思いでイエス様に頭に油を注いだわけですが、みんなから怒られてしまった、叱責されて責められてしまったわけですね。それで、とても彼女にとっては悲しい経験だったのではないかと考えられます。

では、イエス様はどう反応されたでしょうか。10節、イエスはこれを知って彼らに言われました。「なぜこの人を困らせるのですか。私に良いことをしてくれました。」まず最初にイエス様がおっしゃったのは、「なぜこの人を困らせるのですか。」彼らの反応、その態度が、この女の人、マリアを本当に困らせてしまっている、そういう態度であったということが分かります。彼女は精一杯のことをしたのだと思いますが、それを責められてしまった。弟子たちから、それはとても彼女にとっては悲しい経験だっただろうなと思います。

でも、イエス様はその彼女を守るための言葉をかけてくださったのですね。「なぜこの人を困らせるのですか」と言って、彼女のことを守ってくださっていることが分かります。

私たちも気をつけなくてはいけないことが、ここにあるかなと思います。一生懸命、神様に向かって奉仕をしている人を困らせるようなことをしてはいけない、ということですね。まあ、私たちも時々、そういうことがあるかもしれませんね。一生懸命、神様に仕えて、本当に心から奉仕している人に向かって、困らせるようなことを言ってしまったり、足を引っ張るようなことを言ってしまったり。そういうことがないように気をつけたいなと思うんですね。

精一杯の、それがどんな振る舞いであったとしても、そこに本当に真心があるならば、それは本当にイエス様が喜んでくださる行為であるということ。それを、私たちの思いで何かを引っ張ってしまったり、邪魔をしたりすることがないように、私たちも注意が必要かなと思います。

そして、二番目にイエス様は「私に良いことをしてくれました」とおっしゃいました。その女性、マリアの行為を見て、「こんな無駄なこと」と弟子たちは言ったんですね。弟子たちの目から見たら、それは本当に無駄なことに見えるわけです。もう意味がないことに見えるんですね。ところが、イエス様の目から見たら、それは良いことに見える。同じものを見ているんですよ。弟子たちもイエス様も同じものを見ているのですが、全然違う評価になっているということなんです。同じものを見ても、受け止め方、感じ方は全然違うということなんですね。

これも私たちの信仰生活の中に起こりうることかもしれないなと思います。私たちの目から見たら、「なんて無駄なことをしているんだろう」と見えるようなことがあるかもしれません。けれども、もしかしたらそれはイエス様にとっては本当に良いことなのかもしれない。その「無駄なこと」「良いこと」、それを判断する基準はどこにあるかというと、それはイエス様が喜んでくださっているかどうか、ということですよね。

私たちの人間の評価っていろいろありますよね。人間それぞれ、みんな基準を持っています。ですから、その基準に合わないと、「もったいないことしてる」とか「無駄なことしてる」とか「なんであんなことしてるの」と、冷たい評価になってしまうことがありうるかなと思うんですけど、大事なことはそれで、イエス様がどう思ってくださっているかなんですよね。イエス様がそれを喜んでくださっていれば、それは良いことなんです。そこを私たちは見失わないようにしたいなと思います。

そして、私たちの奉仕も本当にそういう奉仕であるかどうか、ということですよね。みんなの評価を気にしての奉仕ではなくて、本当にイエス様が喜んでくださっている奉仕になっているか、ということ。イエス様が「良いこと」と言ってもらえるような、そういう奉仕になっているかということですね。それも、私たち自身の奉仕の姿勢を吟味する上で、とても大事なことじゃないかなと思います。

そしてさらに、イエス様は三番目に、11節で「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、私はいつも一緒にいるわけではありません」とおっしゃっています。イエス様は、この女性の奉仕をとても喜んでくださっています。どうして喜んでくださっているのか、その理由が11節と12節に出てくるかなと思います。

「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるんだけど、しかし私はいつも一緒にいるわけではない」と、イエス様はまもなくお別れの時が近づいているということを意識しています。いつまでも一緒にいるわけではないんです。一緒にいられる時間はもう限られています。もうこれが最後の機会かもしれません。その一緒にいる時に、彼女が精一杯のことをしてくれたということは、とてもとても嬉しいことだったということですね。それが分かると思います。

しかも12節で、今度四番目ですね。「この人はこの香油を私の体に注いで、私を埋葬する備えをしてくれたのです」とおっしゃいました。「埋葬」という言葉が出てきたんですね。彼女が油をイエス様の頭に注ぐというその行いは、実はイエス様の埋葬の準備であったということを、イエス様はおっしゃっています。イエス様は間違いなく、この後自分は死ぬということを意識しているわけですよね。知っているわけです。

分かりませんが、マリアは埋葬の準備のために油を注いだわけではなかったんじゃないかなと思います。そんなこと全然考えてなかったのではないでしょうか。ただ、マリアはイエス様に対する感謝を表したかったんだと思うんですよね。愛を表したかったんだと思うんですけれども、結果的にそれはイエス様にとっては埋葬の備えになったということですね。

それに、イエス様はとても慰められている。イエス様は本当にこの後、死と向き合うわけですよね。十字架の苦しみを耐え忍ぶわけです。本当にすごい孤独の中で歩んでいかなければいけない。その前に、このマリアの行為によって、イエス様は深い慰めを経験しているということですね。そのイエス様の気持ちがこもっている言葉じゃないかなと思います。ですから、これはイエス様にとって本当に良いことだったんですね。

そして最後、13節でおっしゃられました。「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでもこの福音が述べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」ということで、最後に、この女性がしてくれたことが、これから福音が述べ伝えられるところでは、どこででも記念として語られますよ、と。もうこれは一回限りの出来事じゃないですよ。これはもう世界中の人々に記念として伝わる、素晴らしいことですよ、と。

今、私たちもまさにこの女性のことを記念として学んでいるわけで、何度も何度も繰り返し語られていく、素晴らしいお話になるということを、ここでお伝えして、イエス様は彼女をとても高く評価してくれているということが分かると思います。

で、この「福音」っておっしゃいましたね。「この福音が述べ伝えられるところ」と、注いでくれたそのことを「この福音」と呼んでくださっている。どうして「福音」という言葉を使ったんだろうか、とちょっと考えさせられます。別に「福音」という言葉を使わなくてもいいんじゃないかな、とも思います。「福音」と聞いたら、私たちはイエス様が教えてくださったメッセージであり、イエス様が十字架にかかって死んでくださって、それまでも私たちを愛してくださった素晴らしい知らせ、良い知らせ、それが「福音」だと理解しているわけですけれども、でも、この彼女のしたことが「福音だ」「この福音」というふうに言っているわけですよね。なんだかちょっとイエス様、大げさじゃないかなと思ったりもしましたけれども、イエス様が「この福音」という言葉を使った。それはどうしてだったんだろうか、と考えさせられる時に、あのマリアのこの行為、この行いの中に、福音のとても大事な本質的なものが込められている、含まれているということを、イエス様はここで指し示されたんじゃないかなと思いました。

では、福音が私たちにもたらすものって何でしょうか。福音が私たちに与えるものって何でしょうか。それはやっぱり、イエス様との愛の関係に生きるということじゃないでしょうかね。神様との愛の関係に生きることが、福音に生かされるということですよね。もう神様が私たちのことを愛してくださっていて、イエス様をくださって、イエス様が私たちの代わりに十字架にかかって死んでくださって、そこまでして私たちのことを愛してくださった。その愛に応えて生きていきたいと私たちが願うこと、そしてそのような思いを持ってイエス様にお仕えしていくこと、それが福音に生きるということじゃないかなと思います。

ですから、彼女はまさにそれを体現しているわけですね。イエス様に愛されたんです。この女性、マリアは。だから、ラザロのことも生き返らせていただいたりとか、本当に今までよくしてくださって、本当に感謝でいっぱいなんですよね、マリアは。それで、本当にこの感謝を表したい、一番大切にしていた女性にとっての香油って本当に大事なものだったと思うんですよね。もしかしたら結婚のために用意していたものかもしれないし、ものすごく大事なもの、高価なものを、全部イエス様に捧げたというのは、もう彼女の愛の表れなんです。それくらいイエス様のことを愛しています、という表れなんですね。

何か決まりを守ることではないし、ちゃんと振る舞うことでもないし、そして何かクリスチャンらしくすることでもない。時々、私たちは信仰を誤解していて、「ちゃんとやらなければ怒られるんじゃないか」とか、「決まりをいっぱい守らなくちゃいけないんじゃないか」とか、そういうふうに、それが信仰であるかのように感じてしまうことがあるんですけども、結果的にもちろん従うということも大事なんだけれども、一番大事なことは、イエス様の愛に応えて生きていきたい、もうイエス様に私のこの心も体も全部捧げて生きていきたいと願って、イエス様に従っていくことですよね。それが信仰で、まさにこのマリアはその信仰を表しているわけです。福音の一番大事なことを体現している、そういう女性であった。それがイエス様には本当に嬉しかった、イエス様を喜ばせる、そういう姿であったということですね。

ですから、私たちもこの女性はもう記念として語られる、世界中で記念として語られる、その記念を、私たちもこの女性から本当に学んで、私たちの信仰もこのような信仰であるように、イエス様の愛を受けて、その愛に応えていく、そのような思いでイエス様にお仕えしていくものでありたいなと思います。

これで今日は終わりにしてもいいのですけれども、最後に話をして終わりたいと思います。14、15、16節のところですが、その時、十二人の一人、イスカリオテのユダという者が祭司長たちのところへ行って、こう言いました。「私に何をくれますか。この私が彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払いました。その時から、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた、ということです。

14節に「その時」と出てきますが、この「その時」という言葉は何を指し示しているかというと、ユダの裏切りが本格的に始まったのは、この出来事がきっかけだったということなんですね。この女性がイエス様の頭に油を注ぎました。そして、弟子たちは怒りました。その中心はユダだったんですよね。ユダが怒って、「なんて無駄なことをしているんだ」「なんてもったいないことをしているんだ」と。しかし、イエス様はその女性をかばったんですね。そして、その女性を高く評価した。その姿、その言葉に、ユダはカチンときたんだと思います。それが一つのきっかけだったんですね。

そしてその時、ユダが祭司長たちのところに行って、相談をしたんです。最初、ちょっと取引をしました。「私に何をくれますか。この私が彼をあなたがたに引き渡しましょう。」イエス様のことを私が引き渡しましょう、と。そしたら、彼らはもうその前の場面のところで、どうやって殺すか、どうやってだまして殺すかと相談していましたね。そこにユダが来たわけですから、もう大喜びですよね。「どうやって殺そうか、祭りの間は暴動が起こるからできないな」とか、いろいろ悩んでいたところに、なんと十二弟子の一人のユダがやってきた。そして、「一緒にやりますよ」ということを提案してきたわけですから、もう大喜びですね。

そこで、一気にイエス様の十字架の道が開かれたんですね。そこから道が整えられて、イエス様は十字架に引き渡されていくという、そういう展開につながったということを、聖書は記しているわけです。

それで、この姿から私たちは学ばなければいけないなと思います。福音を受け入れようとしない人の心が、いかに頑なであるかということですよね。そして、彼は罪を犯していました。けれども、彼は実はみんなの知らないところでお金を盗んでいた、着服していたんですね。それなのに、そのことを誰にも言わないで、いかにも信仰者らしい振る舞いを見せていたんです。

この女の人が油を注いだ時に、「なんで無駄なことをしているんだ。もったいない。貧しい人に分け与えればいいのに」と、いかにも敬虔そうな姿を現しながら、でも全然貧しい人のことなんか考えていなかったんですよ、彼は。彼はもう高ぶりとプライドでいっぱいで、そしてちょっとしたことで傷ついて、傷ついたら本当に怒るんですね。激しく怒るんです。

そして、密かに思いを燃やし、裏切るということで行動に出ていき、「何をくれますか」と。やっぱり彼は金が欲しいんですね。もう欲望の虜です。彼は罪の虜であり、欲望の虜なのに、それを隠している。彼はもうどこかこわばっていくんですね。そして、だんだん頑なになっていって、どこか力が入って、でも表面的には良い行いを振る舞うので、どんどんどんどん無理が出てくる。そして、ますます心が硬くなって、イエス様から離れていってしまう。

そして、その裏切りがなんと十二弟子の一人の中から出てきてしまったということ。そのことから、私たちも気をつけなければいけないなと思うんです。「ユダにはなるまじ」という歌詞の歌がありますけれども、本当に私たち、ユダになってはいけないんですね。でも、ユダになりやすいんです。実は私たち、信仰者であることのゆえに、実はユダのようになりやすい、そういう面があると思います。

私たちも、どうやったら敬虔な生き方ができるかって、一応分かっているんですね。頭の中には、「こう振る舞ったらクリスチャンらしく見える」ということが、みんな分かっています。そして、他の人よりも、もしかしたら何が正しくて何が悪いかということも、ちゃんと判断できる。そういうものを、私たちは与えられていますが、それゆえに、実は私たちは偽善者になりやすい。そして、私たちの思いは本当に高ぶりやすい点でしょうか。そういう傾向を、私たちみんな抱えている。信仰者であることのゆえの、そういう危険というものを、私たちは意識していたいなと思います。

いつも私たちは、本当に砕かれた心でいないと、そして本当に心柔らかな心でいないと、どんどんこわばっていきますね。そして、本当に聞くべき言葉も聞こえなくなります。イエス様の言葉が、だんだん聞こえなくなっていくんです。そして、自分の思いにどんどんとらわれて、プライドがだんだん強くなって、高ぶって、何か言われると傷ついて怒って、という、そういう傾向になりやすいですね。

ですから、私たちはそうならないように、素直さを失っていくことがないように、いつも子供のような心でいることができるように、いつも主の前に本当に砕かれた心で、柔らかな心で、石の心ではなくて肉の心で、聖霊に満たされたところで謙遜に歩んでいくものでありたい。そのように、ぜひへりくだって、主の前に祈るものでありたいなと思います。

はい、ということで今日はそこまでにしたいと思います。お祈りをしたいと思います。

愛する神様、私たちの心をどうぞお守りください。イエス様の愛を多く受けながら、その愛に応えていく、この女性のような、マリアのような信仰を私たちにお与えくださいますように。私たちの奉仕が、あなたに対する信仰が、心からのあなたの愛に対する応答になるように。そして、どうかユダのようになることがないように、私たちの心が頑なになってしまうことがないように、いつも砕かれた悔い改めの心で、あなたの前に歩むことができるように、あなたの恵みの中で成長していくことができるように、どうぞ私たちの心を、また歩みを守っていてくださるようにお願いいたします。

み言葉による励ましと導きに感謝し、イエス様の御名によってお祈りいたします。

 

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