イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書8章1~17節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
1.イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。 2.すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かつてひれ伏し, 「主よ、お心一つで私をきよくすることが、おできになります」と言った。 3.イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。 4.イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」 5.イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、 6.「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。 7. イエス は彼に「行って彼を治そう」と言われた。 8.しかし、百人隊長は答えた。 「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。 9.と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」 10.イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。 「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。 11.あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。 12.しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」 13.それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。 14.それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。 15.イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。 16.夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。 17.これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。 「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

要約

新約聖書のマタイによる福音書8章1~17節は、イエス・キリストが様々な病を癒やす奇跡を行ったことが記されています。以下はその要約です:

  1. らい病人の癒し(1-4節): イエスが山から下りたとき、ツァラアト(らい病)に冒された人が来て、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言いました。イエスは彼に触れ、「きよくなれ」と言われ、彼の病は清められました。
  2. 百人隊長のしもべの癒し(5-13節): イエスがカペナウムに入ると、百人隊長がしもべの中風の癒しを請うた。イエスはその信仰を称え、「あなたの信じたとおりになるように」と言われ、しもべはその時に癒やされました。
  3. ペテロの姑の癒し(14-15節): イエスはペテロの家に行き、熱で苦しむ彼の姑を癒やしました。彼女は起き上がり、イエスをもてなしました。
  4. 多くの病人の癒し(16-17節): 夕方になると、悪霊に取りつかれた者を含む多くの病人がイエスのもとに連れてこられました。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆癒しました。これはイザヤの預言「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」が実現するためでした。

これらの出来事は、イエスが神から遣わされたメシアであり、人々の罪を赦し、病を癒す権威を持つことを示しています。

筆耕

マタイの福音書6章7章で山上の説教について私たちは今まで学んできてですね、 イエスキリストの教え 、御国の教えと言ったら良いでしょうか、その教えがたくさん教えられていたところを学んで、 そして今日はイエス様が山から降りて来られると というところから始まりますので、山から降りてきた場面から始まります 。そうすると大勢の群衆がイエスに従ったと続きますので、 おそらく たくさんの人たちが イエス様が山から降りてくるのを今か今かと待っていたのかもしれないなと思います。 そして今日の場面は本当にたくさんの人たちが、 イエス様と出会って 本当に病を癒していただいた、 悪霊を追い出していただいたという、 そういう場面ですね。ですから 当時 この地方においては、本当に絶望している人たちが たくさんいたってことだと思うんですね。 そこに イエス様が来られて、本当にイエス様にすがるような思いで、 イエス様に近づいてきた人たちがたくさんいたということですね 。そしてそこに主の御わざがなされたということ、 そのことを今日味わっていきたいなと思います。

 

 今日は特に 病の癒しということが一つ大きなテーマになってるかなと思いますが、何人かの方が癒された記事が集中してここでまとめられて紹介されているということが言えると思います。

 

1.

 まずはツァラアトに犯された人が出てきますで 、2節に「すると見よ、ツァラアトに 犯された人がみもとに来て イエスに向かって ひれ伏し、 主よ 心一つで 私を清くすることがおできになります」と言った。ツァラアトと いう病気ですね、 以前の聖書ではらい病と訳されていましたけれども 、差別語に当たるということでいろいろ 問題になりまして訳が変わりましてね 、それで言語 そのまま使ってツァラアト という表記になりましたけれども 、これは感染すると、 体が少し少しずつ 腐っていく病気ですね。 そして だんだん髪の毛が抜けたり、 あるいは 歯が抜け落ちたり、顔が歪んできたり、 本当にひどくなると耳が取れちゃったりとかですね、そういうこう 非常にこう 見た目に恐ろしい病気と言ったら良いでしょうか、 感覚もなくなっていきますね 。そういう病気がありました 。そしてそれ 肉体的 だけではなくて 、宗教的にも汚れた人とみなされる、 そういう病気でした 。ですから もしその病気に感染したら もう家族と一緒に生活することはできません。 友達と一緒にお食事することもできません。 もう完全に隔離されて、社会から追い出されると言っていいと思いますね 。そういう病気だったわけです。ですから これは本当に人々に恐怖と戦慄を与える病気だったと言っていいと思います。 非常に人から恐れられる、 そしてそれゆえに もし このツァラアトに感染してしまったら、その人の絶望はもう本当に深い、どこにも救いがないと、まあそう言ってもいいくらいの非常に大変な病であったということになります。 それで まあ 私たち コロナのことを経験しましたので 少しツァラアトに感染した人の気持ちが少しはわかるようになったかなというか、 コロナに感染した時も 隔離されちゃいましたね。 私たちも もう、 コロナに感染すると誰にも会えないというね 、最近はもう コロナ 当たり前になってきたかもしれませんけど、 初期の頃は本当にみんな怖かったと思いますね 。そして コロナになっちゃったらどうしようって、みんなそういう恐怖で、そういう生活をしてた時期があったと思いますけれどもね、まあ 少し私たちにもその恐怖が感じられるかな と思うんですけれども 、まあさらにね 、本当にこう 恐ろしい病気だったということだと思います 。

その後に「 ツァラアトに犯された人が御もとに来て」ってね、 まあ 本来 なら隔離されてなければいけない人が、人がたくさんいるところにやってきたっていうことが 、異常事態なんですけれどもね、 ですから もうみんなびっくりしたと思いますね。 ツァラアトの人がやってきたということで、 もうみんなびっくりしたと思いますが 、まあ それだけ 本当にイエス様にすがるような思いでやってきたということなんだと思います。 そしてこの人はイエス様のもとに来て言いました 。ひれ伏して言いました。「主よ、お 心一つで 私を清くすることがおできになります 」と話しかけたということですね。でこのツァラアトの人の言葉からいくつか気づかされることがあると思いますけれども、 彼は彼の願いは、清くされることだったということが一つ気づかされることかな と思いますね。 私 を清くすることがおできになります と。ですから まあ 病の癒しはもちろんなんですけれども、清くなるって事は 病が癒されるって事 に繋がっていくんですけれども 、ただ単に 病が癒されるということだけでなくて、本当に清められたいということですよね。 病気の癒しに合わせて、本当にこの汚れた自分を清めていただきたいという、 そういう 意識ですね。 それを待っているということがわかると思います 。

 

そして2番目に気づかされることは、イエス様にはそれができると確信してるっていう事なんですね。「 私 を清くすることがおできになります」って言い切っていますね。 イエス様は 必ずできると信じてますね。 必ず自分のことを清くしていただけると信じてるからこそ来たんでしょうね。

 

ただもう一つ気づかされることは、「お心一つで」 ということ言っていますね。 信じてるんですけれども 、でもそれもやっぱり イエス様の心次第 、本当にイエス様がこんな自分に目を留めてくれるか ?本当にこのイエス様 は、この醜い汚れた自分を、本当に顧みてくれるのか? 信じてはいるけれども、 不安なんですよね。 不安で、 そして、こう葛藤している、自信がないと言ったらいいでしょうかね、 あの信じてはいるけれども、 自信がないという 、そういう不安と葛藤を抱きながら、でもイエス様のところにやってくる 。そういう彼の気持ちが伝わってくる言葉じゃないかなと思います。

 

 その後 イエス様 どう反応されたでしょうか。 3節 「イエスは手を伸ばして彼に触り、『 私の心だ 清くなれ』と言われた。 すると彼のサラートは清められた」と。

 まず イエス様は、手を伸ばして彼に触られたということなんですね。で、これはもう本当に衝撃的な場面だったと思います 。もうツァラアトに触る人なんか誰もいません 。もうそれ 触ったらもう 感染する可能性 高い 。もう その病気が感染するだけじゃなくて、 それは汚れた人に触るというのはですね 、その人も穢れてしまうってことなんですよね。 そういうことをあえてしたと見てる人もびっくりだったと思いますね。 もう衝撃的な場面ですね 。でも触られた本人はもっと驚いたと思いますね。 触ってくれるはずなんか全然 期待してなかったと思いますね 。ただ「 声をかけてきてくれれば」 と。ところが イエス様は触ってくださったんですね 。それはもう本当に彼に、大きな大きな感動を与えたんじゃないかなと思うんですね。 イエス様がこんな者に手を触れてくれた、その手のぬくもりというものを、彼は本当にこう 味わいながら感じ、 感謝したんじゃないかな と想像するんですね。

 そして イエス様は言われました。「 私の心だ、清くなれ」って。でこの「私の心だ」というこの言葉はですね、 彼が「た だ、お 心一つで」 という言葉と対応してるんですね 。本当に主がそのこと願っておられるかどうかわからない、 不安なんですね。 こんな自分に目を留めてくれるか? こんな自分を顧みてくれるのか自信がないんですけども、 でもイエス様はそのことも全部わかった上で、「 私はそれを願ってるんだよ。 それが私の心なんだよ。お前のことを本当に癒したいんだ。 清めたいんだ 。それが私の心だよ」と そうゆうこ 前置きをおいてですね、病気を清めてくださった、 そして 清められたという、 そういう展開になるわけですね。ですから 、これはただ単に病気が癒されたとか、 清められたということ以上に、彼に本当に大きな喜びをもたらしただろうということは考えられますね 。本当に、イエス様がこんな自分に目を留めて、本当にそのことを願ってくださったというですね 、もうただ 病気が治るとか、もうそれ以上の喜びがそこにあったんじゃないでしょうか。

そしてさらにイエス様は彼に言わ れました。4節「誰にも話さないように気をつけなさい。 ただ行って自分を祭祀に見せなさい 。そして人々への証のために 、モーセが命じた 捧げ物をしなさい 。」ということで、 誰にも話さないようにということ と、まず行って祭祀に見せなさい」って指示を出してですね、 本当に社会復帰するためには 祭祀のところに行って、祭祀から癒された と宣言してもらわなくちゃ、 社会復帰できないというルールがありましたね。 ですから イエス様はここでまず祭祀のところに行って見せなさいと、 そして本当に癒された、清められたそのことを見せて、「癒された 清められたと宣言してもらいなさい」と、そういう指示を出したということ、 つまり 彼がちゃんと人間関係を回復することができるように、社会復帰できるように、その道も備えてくださっているということが言えるんだと思うんですね。

 

ですから もう本当 にイエス様という方は、 病気も癒してくれるし、 罪も清めてくださいますし、 そして本当に深く関わってくださるし、 さらにこの人がこの後、 病気が治っただけじゃなくて、 ちゃんとこの世界で生きていけるように 、失われた人間関係をちゃんと取り戻すことができるように 、そこまで配慮して彼に関わってくださった。 そのように導いてくださったということなんですよね 。

 

この話から私たちは、やっぱり主を呼び求める者には、主は必ず答えてくださるということを教えられるんじゃないかなと思います。 私たちの中には遠慮もあるんですね 。こんな自分にイエス様は 目を向けてくれるはずもないと、 最初から諦めてるような人もいるかもしれませんね 。自分の自信のなさとか 、頼りなさとか、今までいろんな罪を犯してきたとか、そういうことが目に見えてくると、とても祈れないとか、とてもイエス様に近づいていけないとか、そういう 遠慮を覚えたりですね、 そういう 、こう壁を感じたりすることがあるかなと思いますけども 、でもそれでももう、 イエス様には必ず癒す力があると、必ず救ってくださると信じて、 イエス様のもとに行く時にですね、 必ず主は答えてくださって 、その求めたこと以上の祝福を もって私たちに返してくださる、 そういう方じゃないかなと思うんですね。

ですから、 そういう方の関わりが与えられたら 、それは それはもう本当に嬉しい、 病気が癒されること以上にね、 本当にこの方に顧みられている、 覚えられているということは、本当に私たちにとって嬉しいことじゃないかなと思いますね 。

 

2.

で2番目はですね、 5節からなんですけども、 今度は 100人隊長が出てきます。 1人の100人隊長が身元に来て 懇願し、「主よ、 私の下僕が中風のために家で寝込んでいます。 ひどく苦しんでいます」と言ったということで、 次の場面では、 100人隊長と呼ばれる人が出てきます。 これはローマ帝国が支配している時代でして、ローマ帝国にはいろんな軍隊の駐屯地が各地にありまして 、それで軍隊の組織がちゃんと整っていて、それで1000人隊、100人隊っていろんな部隊があるわけですけれども、 その100人隊の100人隊長 ということですね。ですから この人は異邦人 ですし 、ユダヤ人から見ると、 憎き ローマ帝国の兵士ですね。ですから 本当にこう 嫌な存在ということになるのかもしれませんが、 でもこの人はとても人格者であるということが分かります。 どうしてかって言うと、自分のしもべ が病気なんですね。 自分のしもべ が病気、中風で苦しんでいて寝込んでいるって、それで 彼はその部下の癒しを求めて イエス様のところに来て、 懇願したって書いているんですよね。 もう切実に訴えて、 ただお願いしたのではないね 、ものすごく強い お願いなんですね。こんな上司を持ってる部下は幸せだなと思いますね。 ここまで心配してくれる上司がいたら、本当に幸せだなと思うんですけれども 、さらにこの人は人格者ですよね。 それで その部下の癒しを求めて イエス様のところにやってきて 、そしてこの人は、本当に人格者だったし、とても謙遜な人だったということもわかるんですね 。イエス様が7節でイエスは彼に「行って彼を直そう」と言われたということで イエス様 じゃあ これから行きましょうって言ってくださったわけですね。 もう 喜んで 私たちだったら是非どうぞどうぞ 来てくださいって言いたくなるところなんですが、 この人はこういう風に言いまし た。 8節「しかし100人隊長は答えた。『主よ、 あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は私にはありません』」ってあなたのような方を私の家の屋根の下に入れる資格は私にはないって、もうすごく謙虚な人なんですね。 来て欲しいのに、来てくれないどうなっちゃうんだろう という感じなんですけれども 、でもこういう風に言うんですよね。「 ただお言葉をください。 そうすれば 私の下僕は癒されます。 と申しますのは、私も 権威の下にあるものだからです 。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に行けと言えば行きますし、 別のものに来いといえば来ます。 私もべにこれをしろと言えば 、そのようにします。」ということで 、なんと この人は来てくださらなくても大丈夫。 ただお言葉をください。 そうすれば 私の下僕は癒されます って言ったんですね。

で、この信仰にイエス様は驚かれるわけですね。 彼の人格 に驚いた っていうことではなくて、 この信仰にイエス様は驚かれた。「その信仰って何か」というとですね 。もう イエス様 行かなくてもいいんですね。 もう言葉 だけあれば十分です 。イエス様の言葉があれば必ず 癒されます、 と信じてるんですね 。イエス様の言葉にどれだけの力があるか、 そのことを彼は信じている。どうしてそういう風に言えたんだろうと思って 読んでいくとですね、 彼も自分のことを 権威の下にある者という風に、自分で紹介してますね。 まあこのローマ軍の組織の中にいて、 その権威の下にあって ですね 、彼の上にも上司がいる。彼の下には 部下がいる。そういう 上下関係があって、 彼も権威の下にいるわけですけれども、 あるいはそもそも 信じてないかもしれませんね 。もう自分の努力と頑張りでなんとか祝福を勝ち取ろうなんて思ってる人もいるかもしれませんし、みんなそれぞれだと思うんですけれども、 意外と私たちに 「御言葉でも十分です 」というところに なかなか立てない。 そういうことが多いんじゃないかなと思うんですね 。でも私たち今日は 改めてですね、 神の言葉、この聖書の言葉は、権威ある言葉なんですよね 。神の言葉ですね 。神から来ている権威ある言葉です。 もう この言葉だけで十分なんですね。 もうその言葉に 信頼できる、信頼する価値のある言葉、 私たちもこのような、百人隊長のような信仰を持たせていただきたい 、御言葉に対する信頼ですね 、ぜひ それを持たせていただきたい。 そして私たちも願わくはイエス様から、「 これほどの信仰」とね、 呼んでいただけるような 、そんな信仰者を目指していきたいなと思います。

 

3.

 はい そして今度 3番目なんですけれども今度は です ね、ペテロの姑ですよね。 14節 、15節ですけど 今度はあのペテロの姑、 ペテロの家に行きます。 14節 「それから イエスはペテロの家に入り、 彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。彼女の手に触れられた。 すると熱が引き彼女は起きて、イエスをもてなした」ということで、 今度 3番目の癒しの記事 なんですけれども、ペテロのうちに行って ですね、 そしたら ペテロの姑が熱を出して寝込んでいたということなんですね。 そういう場面に遭遇したということが分かります 。それで その時に 、イエス様 何をされたかというと、「彼女の手に触れられた」、人 触られたというのがありましたけども、 今度も触れられたんですね。で これも見てる人にはちょっとびっくり というか、 衝撃の場面だったと思うのは、どうしてかというと、当時のユダヤ社会では男性が女性の体に触れるということはなかったんですね。 そんなことしちゃいけないことだったんです。 ところが イエス様は、この女性である ペテロの姑の手に触れちゃったんですね 。触れたっていうのは、 それはもう病気がうつるかもしれないし 、宗教的な意味においても、 それは してはいけないことだったと言われていますけれども、 それもあのびっくり なんですけれども 、でも 触られたほうが、とても嬉しかったんじゃないかなということを考えますね 。そして熱を癒してくださって、 そしてその結果 彼女は起きて 、イエスを もてなしたということに繋がっていきます。熱が引きました。どれくらい寝込んでいたのかわからないんですけれども 、熱も、皆さんも高熱にうなされて熱が引いた後の状態って、なんとなくわかると思うんですけど、なんか元気ないですよね 。なんか起き上がっ仕事するっていう感じではないというか、 まだまだ 体力が消耗していてですね、 とても 起き上がって仕事できるような状態ではないと思うんですけれども 、まあこの姑はですね、起き上がってですね 、もうすぐにイエス様をもてなした。お食事の準備をしたのか、 何をしたのか分かりません けれども 、「も て な し た 」って訳されてる言葉は、仕えたという意味の言葉が使われてるんですね。ですので 、本当にこのイエス様に仕えることが、彼女の喜びになった。 彼女にとっての一番の喜びになったということが ここに含まれているんだと思います 。ただその時、もてなしだということ以上にですね、 本当にイエス様によって病気を癒していただいたことが、 彼女にとっては本当に嬉しくて、ただそれだけじゃなくて、本当にこの方に仕えていきたいという、そういう信仰が与えられたということですね 。そういう結果につながっていたということなんだと思います。

 

 最初の2人 は、求めてやってきて、それに応えてくださったという、 そういう例だったんですよね 。こちらは求めてたかどうかわからないんですが、 たまたま イエス様が ペテロの家に来たんですね。 そこに病で 寝ていた。 それを 癒していただいた。で その結果として、 彼女はイエス様に仕える信仰が与えられた。 救われた後の信仰と言ったらいいでしょうかね、そういう結果につながっていったということが わかると思います。

 それでペテロのことを考えてみるとですね、 ペトロは イエス様に従う時に、 全て捨てて 従ったはずなんですね 。網も捨ててですね、 父親も残して 、家族も捨てて、 なんか全部捨てて、 イエス様に従ったかのような 、そういう印象を受けるんですけれども 、その後、 家族 どうなっちゃったのかなって、 ちょっと私たちは心配になる場面でもあるんですよね。 全部捨てて イエス様に従っていく っていうのは、素晴らしいことなんだけれども、 でも その後の家族は、 どうなっちゃうのかなって、 心配になる場面なのかなと思うんですけれども、 でも この場面を通して、やっぱり イエス様はちゃんと従った人に対しては、やっぱ その背後にあって、家族 のこともちゃんと顧みてくださって、守ってくださるし、 結局「神の国とその義を第一にする」っていうことが、結果的には全てのものが与えられていくという祝福につながっていくというね、そういう原則が ここで教えられるんじゃないかなと思います 。本当に家族に仕えるべきか イエス様に仕えるべきか、どうしたらいいかって 迷っ、ね なかなか踏み出せないっていうこともあるんですけれども、 でも イエス様は、自分に従ってくる人にはちゃんとその人の背後にある必要も答えてくださいますよね。家族のことも 顧みてくださるし 、そのようにして最初はいろいろね 、戸惑いもある、みんな家族の反対もある、 いろんなこと言われるかもしれないけれども 、長い時間の中で 振り返ってみる時に、やっぱり イエス様を大事にした人の人生というのは、家族も祝福されますね。 間違いなく それは、私たちの 互いの例からも確認できることじゃないかなと思いますね。ですから そのように、 ペテロの姑、 ペテロの家族も、本当に救われて、そして イエス様に仕えるようになったって、本当に大きな私たちにとっての励まし でもあるんじゃないかなと思います。

 

 そして今日の最後のまとめとしては16節17 節ですね 、「夕方になると、 人々は悪霊に憑かれた人々を大勢 みもとに連れてきた。イエスは言葉をもって悪霊どもを追い出し、 病気の人々を みな 癒された」ということで 、最初の3つの例は、本当にごくわずかな 代表的な例だったと思うんですけれども、 その他にも もうたくさんの人たちが 、イエス様のところにやってきて、 みんな絶望してるわけですけれども 、悪霊を追い出していただいたり病気を癒していただいたり罪を清めていただいたりしながら、 みんな神様のみわざを頂いたということですね。そんなことが出てきます。

マタイが、 この記事を書いた目的は何だったでしょうか。 こういうことをいろいろ紹介して、素晴らしい人だな っていうことが 私たちわかるんだけれども、 マタイ が この記事を紹介した目的は何だったでしょうか。

 最後に出てくるんですね。 17節「 これは預言者イザヤ を通して語られた ことが成就するためであった」ということで 、預言者イザヤの預言した 御言葉、「 彼は私たちの患いを担い、私たちの病を負った」という この言葉ですね、 これはイザヤ書 の 53章4節の言葉ですけれども 、その言葉を紹介しながら 、あの預言者イザヤ が預言した預言が成就したんだと、 つまり イエス様は旧約聖書で預言されているところのメシア なんだと、その救い主の到来を告げる出来事 なんだということですね。 それを伝えたくて、 マタイはこのような記事を 順番に記していったということがわかると思うんですね。 まさにイエスキリストは救い主であるということですね。 そんなことを この箇所を通して、私たちは 覚えることができます。 そしてその救いの中身ってことについて、今まで私たちは学んできましたけど、ただ 病気が癒されるとかね、清められるとか、それ も嬉しいけれども 、でも イエス様の救いって、 もっと深いものがあると思いますね 。

それはどういうところにあるかというと、 イザヤの預言の言葉に、 「彼は私たちの患いを担い、私たちの病を負った」って、 ただ人ごとのように直してくださったってことだけではなくて 、イエス様がその煩いを担ってくださった、 病を追ってくださった 、その苦しみ悩み そして私たちが 呻いているその時に、そこに共に来てくださって、 背負ってくださって 、同じように悩んでくださり 、苦しんでくださって 、それが十字架につながっていくんだけれども、 そのようにして私たちと共にあって、私たちを救ってくださるという、 そういう 恵み なんですよね。 そういう 救い主だということです。 ともにいてくださる主の恵みということですね 。それが ここに示されていることを 最後に覚えたいと思います。 今日はこのようにしてイエス様の到来と 、そして御国が広がっていく 、まさに 御国がやってきたという、 その姿を 私たちはここで学んだんですけれども、 イエス様ってそういう方なんだな ってことを 改めて感謝したいと思います。私たちも このツァラアトの人の ように ですね 、本当にイエス様 求めてきたいと思います。あるいは100人隊長のように 、本当に 御言葉に信頼していきたいと思います。 そして ペテロの姑のように、 本当に神の愛に応えて、本当にイエス様に仕えていくそのような人生にしていきたいと思います。8章の学びを感謝したいと思います。

 

 お祈りをします 。

天のお父様、イエス様がどういう方であるかを、今日は 改めて御言葉を通して確認できたこと、 イエス様が 私たちの 本当にすぐそばに来て、 病を担い、その患いを担って、そしてそれを背負って 、そしてそこに 共にいて、私たちを救い出してくださる方であることを覚えてありがとうございます。 私たちにもためらいもあり、 またいろんな遠慮もあり、 求めることの乏しい私たちであることをお許しください。 どうぞ あなたに心開いて祈ることができるように、そこに主が応えてくださる恵みを知ることができるように、 そして 御言葉に信頼することができるように、そしてあなたの愛に応えて、 あなたに喜んで仕えていく人生へと私たち一人ひとりを導いてくださいますようにお願いいたします 。御言葉を感謝し、尊き キリストの御名によって お祈りをいたします。

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