イエス・キリストをより良く知るために

救いの兜、御霊の剣‥エペソ書6章16~17節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

「私たちは狙われている」というメッセージは、このところ毎回お話をしております。私たちの敵である悪魔が私たちを狙っているんだということですね。そのメッセージの今日は3回目になります。

第1回のメッセージの時には私達の敵である悪魔の特徴について、私たちは確認しあいました。それは非常に強い敵であり、悪い敵であり、ずる賢い敵なんだという、悪魔の特徴について私たちは確認できました。

前回の2回目のメッセージの時には、私たちの側の「対策」について教えられました。悪魔と対するために、私たち堅くたたなければならないという必要について教えられましたし、そのためには神のすべての武具、つまり神様のご性質によって、しっかり武装することの大切さということを、私たちは御言葉を通して教えられたところであります。

そしてパウロがその後、紹介している六つの武具のうちの、最初の三つについて前回は学びました。「腰に締める真理の帯」、「胸につける正義の胸当て」、そして「足に履く平和の福音の備え」、以上の三つについて私たちは前回学びました。

今日は後半の三つの武具について学んでいきたいと思っております。

1.悪魔の攻撃の方法の認識

その三つを見て行く前に、改めて私たちは敵である悪魔について、まずは認識を深めていきたいと思います。敵である悪魔は、私たちをどのように攻撃してくるんでしょうか。突然、あるとき病気になるとか、突然不幸なことが起こるとか、何か祟りのような呪いのような、そういう攻撃ではないと思います。

多くの場合それは、私たちの日常の歩みの中で、私たちが気づかないところでなされている、静かな攻撃であるという風に考えるべきだと思います。それ故に、ほとんど私たちは意識することがない、意識されない、そういう戦いに私たちは晒されているんだということを、やはり自覚していなければいけないと思います。イエス様はある時弟子たちに向かって、ご自分がエルサレムで長老たち祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺されるんだということを告げました。するとペテロは言ったそうです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」と言ったんだそうです。そうしたらその時に、イエス様はペテロに言いました。「下がれサタン。あなたは私をつまずかせるものだ。あなたは神の事を思わないで、人のことを思っている。」と、そういうふうにペテロは言われてしまったという、そのやり取りがマタイの福音書の16章に出てまいります。ペテロは、イエス様にサタンと呼ばれてしまって、本当にびっくりしたと思いますね。もしかして、傷ついたんじゃないかなという感じもするんですけれども、ペテロにしてみれば、イエス様を励ましたかったんじゃないかなと思うんですね。

「そんなことが起こるはずがありません。そんな恐ろしいことがあなたに起こるはずがありません。」そんなこと起こったら大変ですけれども、そういう思いの中で、ある見方によれば、非常に配慮に富んだ言葉であるように見えると思うんです。しかしその言葉は神の御心を著しく妨害する言葉でした。神のご計画を否定したり、排除したりする語りかけでした。

そんなペテロの言葉に、悪魔の力が働いているということをイエス様は敏感に感じ取ったということが分かります。ペテロはそんな意識は全然なかったと思いますね。

自分の、その語る言葉、その想いの中に、悪魔の影響が及んでるなんて全然意識したことがないと思いますけれども、結果的に、知らず知らずのうちにそのような影響を受けてしまっているということであります。この箇所より私たちは神の事を思わないで、人のことを思う心の中に、私達の心の状態の中に、悪魔は忍び込み易いんだと教えられるんではないだろうかと思います。これが悪魔の攻撃ですね。私たちはほとんど気づかないところで、なんとその巧みな攻撃がなされていることでしょうか。それを思う時に、本当に私たちは武装しなければいけない、わかりやすいのは、いいんですけれども、本当に悪魔であるっていう事が分かっていれば、なんの問題もないんだと思って、ちゃんとした対処ができるんだと思うんですけれども、気づかない故に、恐ろしいですね。ですから本当に私たちは神様のご性質によってしっかりと身を固めるっていうことが、どんなに大事でしょうか。私たちの日々の信仰の勝利のために、それが求められているということを、ぜひ覚えたいと思います。

2.後半の三つの武具について

その上で今日は後半の三つの武具について一つ一つ学んでいきたいと思います。

その三つの武具とは、「信仰の盾」、「救いの兜」、「みたまのつるぎ」、という三つの武具があります。

①4番目の武具=信仰の盾

今日の箇所の第1番目の武具、そして全体で見る時に、4番目の武具は何かと言うと、それは「信仰の盾」であるということがわかります。16節の言葉をお読みいたします。

これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪いものが放つ火矢を全て消すことができます。」と16節に書いてあります。

このように、これらすべての上に、つまりそれまで紹介された三つの武具全てを身につけた上で、信仰という盾を取りなさい。それによって悪いものが放つ火矢を全て消すことができるからと、ここで教えられているということがわかります。「信仰の盾」とここに記されておりますが、以前の聖書の訳でありますと、ここは「信仰の大盾」という訳になっていたと思います。これは盾のサイズが小さくなったという意味ではないですね。盾という言葉に訳されているギリシャ語の言葉、「スレイオス」という言葉があるんですけれども、この言葉の元々の意味は、「扉」という意味だそうです。ですから、それはもう扉のような大きな盾なんですね。ですからあえて大盾と訳さなくても、盾という言葉で十分に大きい、そういう盾だということが分かると思います。

ローマの兵士たちは、戦争に駆けつける時、そのような大きな盾を持って戦争に駆けつける姿があったそうです。そのサイズは一説によると、縦1.2 m横75 cm の大きさだったという風に言われております。2枚の板を合わせて作った合板の盾で、全体が革で覆われ、縁を金属で補強していたと、ある解説書には記されてありました。

パウロはおそらく、そんなローマ兵の姿を思い浮かべながら、この言葉を使っていると思われます。そのような盾は、兵士たちを敵の攻撃から守るために本当に大切な武具でした。特に敵が放つ火矢から自らを守るために、とっても大きな働きをした武具であるということが言えるわけであります。

パウロはここで、「悪いものが火矢を放つ」ということを記しております。実際にそのような攻撃方法が、当時あったんだと思います。悪いものが打ち込む火矢とは、二重の効果をもたらすという意味で、非常に恐ろしい敵の攻撃でありました。まずそれは、兵士の体に突き刺さって、兵士を負傷させる、傷つけるという意味で、恐ろしい武器ですね。そしてさらにその負傷した兵士たちを、火だるまにしてしまうという意味で更に恐ろしい攻撃方法であったということが言えると思います。この敵の攻撃から、身を守るために、この大きな大きな盾が、どうしても必要だったということであります。

私たちの敵である悪魔は、私たちに火矢を放ってくる敵であるということを、私たちは意識していなければいけないと思います。火矢によって私たちを傷つけるだけではなくて、さらに私たちを炎上させてしまう、火だるまにしてしまう、それ位破壊的な力を持っている、そういう攻撃を仕掛けてくるんだっていうことを、私たちは意識していないといけないという風に思います。

悪魔はそのように、平穏だった私たちの心の状態やその生活に、色々な攻撃を加えて私たちの心を憤りや、怒りや、不満や、そういう思いでいっぱいにしてしまう、まさに炎上させてしまうということが起こりうるんじゃないかと思います。悪魔はどうやら私たちの心の弱い部分をよく知っているような気が致します。私たちのどこに火矢を放てば、その人が炎上するかということをよく知っているんじゃないでしょうか。どこに火矢を打ち込めば、私たちの心が感情的になり、かたくなになり、自分勝手になってしまうかっていうことを、よく分かってるんじゃないでしょうか。その部分に火矢を放たれることによって、私たちはすぐに自分の思いにとらわれる、そういう傾向をみんな持ってるんじゃないかなと思います。私達は、クリスチャンになって救われて、そして神様の義の性質を与えられて、清いものにされているんだけれども、でも、その義の性質の裏側には、まだまだ清められていない肉なる性質が隠されていますね。私たちの自己中心の思いが、吹き溜まりになっているようなところ、非常に私たちの肉的な、清められていない、こだわりが強いところ、そういうものをみんな持ってると思うんですよね。そこにもし火矢を放たれ打たれたら、すぐに感情的になってしまい、すぐに自分の力に頼ってしまう、そういうところをみんな持ってるんじゃないでしょうか。そこが狙われてしまうんですね。そのようにして私たちは、だんだん神様に信頼できなくなっていったり、信仰的な判断が難しくなったりしてしまうことがある。まさに外側からの攻撃と、内側からの反応と、両方から私たちは煽られて、まさに火だるま状態、炎上状態ということになるんじゃないでしょうか。

この悪魔の攻撃をちゃんとシャットアウトする、遮断する、大きな大きな盾が、私たちに必要なんではないでしょうか。その盾の中にすっぽりと隠れることができるくらい、大きな大きな盾、私たちの弱い部分もみんなちゃんと覆い隠すことのできるような、大きな大きな盾が必要ではないでしょうか。

その盾とは何でしょうか。聖書によるとそれは「信仰」であると書かれてあります。信仰の盾を取りなさいということ、そこに信仰が求められている。

では、信仰とは何でしょうか。信仰とはいつも主なる神様を見つめていることです。そしてこのかたから目を離さないことだということですね。詩篇25篇15節にこんな言葉があります。

私の目はいつも主に向かう。主が私の足を罠から引き出してくださるから。

ダビデの言葉ですけれども、私たちの足が敵の罠から救い出されて、守られるために必要なのは、目を主に向けていることだ。そしてその方から目を離さないこと、そのことが信仰であるということをぜひ覚えたいと思います。ヘブル書の12章2節には、

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

そういうふうにも教えられております。私たちの内に、信仰を始めてくださった方も、その信仰を完成させてくださる方も、イエス様です。このイエス様から目を離してはいけないんです。そういうことが新約聖書においても教えられております。悪魔の執拗な攻撃、絶えず寄せられている、それはもう本当に火矢のような、鋭い鋭い攻撃から身を守るものは信仰であるということ、イエス様に対する信頼であるということを、しっかりと心に留めようではありませんか。私たちの恵み深い主、力強い主にしっかりと目を向けて、悪魔の攻撃を完全にシャットアウトする、そのような信仰の盾を、私たちはしっかりと手にとっていきたいと思います。

②第5番目の武具=救いの兜

私たちに必要な第5番目の武具は何でしょう。

それは、「救いの兜」であるということがここで教えられています。17節の最初のところに、「救いの兜をかぶりなさい」と、教えられております。

兜というのは、もちろん頭にかぶるものです。ですから、頭を守る者ですけども、当時のローマ兵の兜は、銅や鉄でできていて、非常に硬い兜だったということがいわれているようです。ですからちょっと重かったと思いますけれど、でもそれは頭を守るために、敵の攻撃から守るために、それはとってもとっても大事な武具であったということがわかります。

そしてその兜は「救い」であるとここで教えられております

私たちの敵である悪魔は、救われているはずの私たちの、その「救いの確信」を揺るがす、その確信を攻撃してくる、そういう敵であります。そして救われたはずの私たちなのに、自分がもしかしたらまだ救われていないんじゃないだろうか?とか、私の救いはまだ不十分なんじゃないだろうか?とか、そんな思いを私達に吹き込んでくる、そういう攻撃があるということを警戒しなければいけないと思います。そして結果的に救いの確信を揺るがせてしまいますので、私たちは堅く立つことができなくなる、前をしっかり見て戦うことができない、そういう状態になってしまうのではないでしょうか。そのような敵の攻撃から身を守るために必要なのは、「救いの兜」、私たちが救われたというその事実そのものであります。詩篇140篇の7節にこう書かれてあります。

私の主、神、私の救いの力よ。あなたは私が武器を取る日に、私の頭を覆ってくださいました。

と、書いてあります。「私の頭を覆ってくださったのはあなたです。私の主、私の神であられるあなたです」と、ダビデはここに告白しておりますけれども、私たちの頭を、救いの兜で覆ってくださるのは、どなたでしょうか。それは神様ご自身ですね。自分で自分の頭を覆ったわけではないんです。神様が私たちの頭を、救いの兜で覆って、守ってくださった。つまり救いとは、神様によって与えられた恵みであるということを、私達はこの御言葉を通しても教えられます。

そして実はパウロはエペソ書の中で、その事をずっと教えてきたわけですよね。復習になりますけども、エペソ書の2章4節から8節まで、もう一度読んでみたいと思います。

しかし、憐れみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは、恵みによるのです。

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちを共に蘇らせ、ともに天上に座らせてくださいました。それはキリスト・イエスにあって、私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。この恵みのゆえに、あなたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

ここで重要なのは、全部過去形だっていうことなんですね。パウロはこの中で、「あなたがたは救われた。」「神は私たちを蘇らせた。」「天上に座らせてくださった。」「あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われた。」と、みんな過去形で書かれてあります。

私たちは、まだ天国へ行っていないですね。天国がどんな場所かまだ分かりませんね。でもここでパウロは、もうすでに私たちが、「キリストとともに天上に座らせてくださいました。」と、もう既に終わったことであるかのように書いているんですね。まだこれからのことなのに、あたかもそれが成し遂げられたかのようにして書かれてあるんです。

これはどういうことでしょうか。これは確実だっていうことです。もし私たちがイエス様と共に死に、イエス様と共に生き、イエス様の命に連なっていれば、もうそれは確実だっていうことです。救いは与えられた賜物だっていうことです。

これは信仰によって、恵の故に与えられたものなんだ、イエス様を信じた時に、賜として与えられたものなんだっていうことが、ここで教えられている。つまりその救いは確実であるということがここで教えられております。

この「救いの兜」によって、私たちは頭を守らなければいけないですね。私の頭はしっかりとその事実によって守らなければいけない。

私たちは時々自分自身を見ると不安になることがあります。クリスチャンとしても、いろんな問題を抱えております。なかなか成長していかないという面があるかもしれません。何年経ってもクリスチャンとして成長していかないということがあるかもしれません。同じ失敗を何回も繰り返してしまうということがあるかもしれません。そのような自分を見ていると、段々自信を失っていくっていうことがあるかもしれないですね。本当に自分は救われているんだろうか、こんな自分を本当に神様は愛してくれているんだろうか、救われるためにはもうちょっとふさわしい行いが必要なんじゃないか、とかですね、色々心配になってくることがあるんじゃないでしょうか。そしてそんなふうに考えてくると、救いの喜びがだんだん無くなってしまいます。救いの確信が揺らいできてしまいます。

結果的に、頭をまっすぐあげて神様の前を歩むことが出来なくなっていく、悪魔が狙っているのは、まさに私たちがそういう状態になることですね。そのために私たちの弱さとか、不十分さとか、至らなさとか、過去の失敗とか、いろんなものを大きく見せようとして、私たちに自信を失わせてしまうということがあるんですね。

私たちには「救いの兜」が必要です。私達は恵みのゆえに信仰によって救われた。それは神様の賜物です。神様が私たちの頭を覆ってくださいました。神様が私たちにその恵みを与えてくださった。その確信を決して失うことがありませんように、しっかりと私たちはこの福音の兜を頭にかぶっていくものでありたいと思います。

③6番目の武具=御霊の剣

さて最後6番目の武具を見ていきたいと思います。それは何でしょうか。

それは「御霊の剣」であるということがここで教えられております。17節の後半部分に、

御霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい

と教えられております。「御霊の剣」とはすなわち、「神の言葉」であるということ、神の言葉を通して御霊が働かれるということが、この言葉を通して気付かされることであります。

この六つ目の最後に出てくる武具が、唯一の攻撃の武器であるということが分かると思います。今まで出てきていたその武具は全部身を守るための武具であったということですね。防御のための武具であったということです。今まで教えられてきたことは、しっかり身を守りなさいということですね。でも防戦一方ではないということが最後にわかります。

最後にはちゃんと攻撃の武具が出てきます。れは御霊の剣、神の御言葉であるということがそこで教えられている、そしてこの御霊の剣、神の御言葉を私たちはしっかりと手にとって、この敵と向き合っていくということ、このような現実と戦っていくということが求められているということがここで教えられております。

3.神の御言葉の鋭さ

「神の言葉」と、ここに出てきますけれども、聖書で「言葉」と訳されることが二つあるんですね。新約聖書の中で言葉と訳されるギリシャ語は、一つは「ロゴス」という言葉がありますね。もう一つは「レイマ」という言葉があります。ここで使われているのはレイマという言葉なんですけども、このレイマという言葉は、どちらかというと、語られた言葉、話し言葉ということですね。そういうことを表していることが多いという風に言われております。特にここではイエスキリストが語られた、その言葉が表されていると考えられます。

黙示録の19章の15節にこんな言葉が出て参ります。

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのはこの方である。

と黙示録の19章の15節に出てくるんです。

この方ってイエス様のこと、キリストのことを表していますけれども、この方の口から鋭い剣が出てるっていうんですね。そういう表現が黙示録の中に出てきますけれども、それは諸国の民を打つための鋭い剣であるということが示されています。イエス様の語る言葉、キリストの語る言葉に、剣のような鋭さがあるということですね。そして皆さんの中にはヘブル書の4章12節の言葉を思い出す方もおられるかもしれません。そこにはこういうことが記されています。

神の言葉は生きていて、力があり、諸刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

と、ありますね。神様の言葉は生きています。そして力があって諸刃の剣よりも鋭い、私たちの心を刺通す、というそういう言葉なんですね。

あなたは、今までクリスチャン生活をしていく中で、これを経験したことがあるんじゃないでしょうか。聖書の言葉を読んでいて、あるいは講壇から語られる御言葉を通して、グサッと心が刺されたっていう、そういう経験をしたことがあるんじゃないでしょうか。そういう経験が一度もないという方はちょっと問題かなと思いますね。それが本当に神の言葉であるって言うことを、よくかみしめて聞くならば必ず、そういう経験が与えられるんじゃないでしょうか。神の言葉は生きているんですね。そして私たちの心に何があるのかを見分けるんです。判別するんですね。私たちの心の中に何があるのか、どのような状態になっているのか、私たちの心の中に隠されている部分に何があるのかっていうことに、御言葉は、ズバット貫いていく、刺し通すということがあるんじゃないでしょうか。まさにそのようにして私たちは、心を御言葉によって照らされて、そして罪を明らかにされてしまう、そういうことがあると思います。それはとっても、私たちにとって大切な経験ですね。どうしてかと言うと、そのことを通して私たちは砕かれるんですね。そしてそのことを通して、私たちは本当に悔い改めに導かれますね。そして本当にイエス様が必要だっていうことがわかるんですね。イエス様の十字架がなければ、とても私は生きていけないっていう事に、本当に気づかされる。それは本当に大切な経験ですね。そのことを通して本当に赦されている、イエスキリストの恵みが、本当によくわかる、イエス様が十字架にかかって死んでくださったことを、本当にありがたいと感じることができる、そういう恵に生かされるようになっていくんじゃないでしょうか。ですからそれはとっても大切な経験、まさに御言葉は生きている、そして御霊がそこに働いている、私達を本当に神様のもとに導く力であるということを教えられるんではないでしょうか。私たちは神の言葉が生きているんだということを、本当によく心に留めたいと思いますね。そこに御霊が働いているということをぜひ覚えたいと思います。そして私たちはこの御言葉、御霊の剣をしっかりと手にとって、この世を歩んで行かなければいけない、そしてこの御霊の剣を手にした上で、私達の敵である悪魔と戦っていかなければいけない。

あなたの手に御霊の剣は握られているでしょうか。あなたの手に、実際にその御言葉があるでしょうか。これをちゃんと振りかざしているでしょうか。この世の現実を歩んで行く時に、日々の生活を歩んでいく中で、本当に御言葉が手にあるでしょうか。頭の中にあるかもしれませんね。毎回教会に来てよく学んで、頭の中には収められています。でも手には何もないっていう、そういう状態になっていないでしょうか。とても戦えないと、この世の現実と、様々な試練、あらゆる攻撃に向かって、ちゃんと対処できないということになっていないでしょうか。その意味ではちゃんと私達の手の中に、御霊の剣が握られているかどうかということは本当に大事なことじゃないかなと思いますね。

4.イエス様の悪魔の試みに対する武具

イエス様もそのようにして悪魔に勝利されたということを思い出すのではないでしょうか。イエス様も悪魔の試みを受けたことがありました。マタイの福音書4章を見るとその場面が出てきますけども、悪魔の試みに会われた時に、イエス様はどうやってそれに対処したんでしょうか。どうやってそれに勝利したんでしょうか。

全部、御言葉だったということを、その箇所を読むと教えられますね。

悪魔がやってきて、40日40夜の断食した後でしたけれども、「あなたが神の子ならこれらの石がパンになるように命じなさい」ってそういう風に言われた時に、イエス様は言われました。「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と書いてあると言うんですね。聖書の言葉を、まさにそこで提示して、悪魔の誘惑に勝利したっていうことが分かると思います。

次に悪魔はイエス様を神殿の屋根の上まで連れて行って、そしてこう話しました。

あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と聖書にも書いてありますよ」と、聖書の御言葉を引用したりしてるんですね。

聖書の言葉を利用して、イエス様を誘惑しているということがわかります。

それに対してイエス様は『あなたの神である主を試みてはならないと書いてある』とすぐに答えております。ここでもやっぱり御言葉を提示して勝利したということがわかります。

最後に悪魔はイエス様を高い山に連れて行って、この世の全ての王国とその栄華を見せて言いました。

もしひれ伏して私を拝むなら、これを全てあなたにあげよう。」

するとイエス様は言われました。「下がれサタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」3回同じことを言いましたね。全部3回とも、「書いてある」「書いてある」「書いてある」という風に繰り返し言っているんですね。

それは聖書に書いてあるっていう意味なんですけれども、イエス様がどれだけ聖書によく親しんでおられたか、そして具体的ないろんな誘惑・攻撃に対して、具体的な御言葉をもって対峙し、そしてそれに勝利したかということを教えられるわけですね。

まさにイエス様の腕には、御言葉が握られていた。御霊の剣が握られていた。これによってふさわしく対処し、勝利し、そしてサタンの攻撃をはねのけたということを教えられる。

これが私たちが目指すべき姿なんですね。私たちもこういう風に言えるでしょうか。

いろんな生活の場面、場面、いろんなことが起こります。いろんな誘惑にさらされるその時に、聖書にこう書いてありますと言えるでしょうか。言えるだけ私たちが、御言葉に親しんでいるでしょうか。本当に具体的な場面で、御言葉が聞こえてくるでしょうか。その御言葉によって支えられながら、励まされながら、その御言葉に基づいて判断ができるでしょうか。心が不安にとらわれて、本当に怖くなってしまった時に、「恐れるな私はあなたとともにいる。たじろぐな私があなたの神だから」と聖書に書いてあると、のようにに言えるでしょうか。あるいは先が見えなくて、本当に不安になってしまって、どうしたらいいか困ってしまってる時に、「心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道、全てにおいて、主を知れ。主はあなたの行く道をまっすぐにされる」という、そういうことが聞こえてくるでしょうか。聖書に書いてあると提示できるでしょうか。

自分の努力の結果、良い結果が出て、すごく喜んでいる時に、「神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」と、そういうことが聞こえてくるでしょうか。高ぶっている自分の姿に気づくことができるでしょうか。そして死と向き合って本当に恐怖に怯えてる時に、「わたしはよみがえりです。命です。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と、みことばが聞こえてくるでしょうか。全部聖書に書いてある。聖書にこう書いてある。だから私はこの御言葉に支えられて生きていくと、提示できるものを持っているでしょうか。私たちの手に、本当に御言葉の剣が必要だと思いますね。これをもって私たちはこの世の中に出て行き、悪魔との戦いに勝利していく者でありたいと思います。

5.まとめ

今まで私たちは神の六つの武具について学んできましたけれども、これは神の武具なんですね。神様が私たちにめぐみとして与えて下さっている武具ですね。全部、私たち自身の努力で手にしたものではない。全部、与えられたものです。その与えられたものを、私たちが、しっかりと身につけるということが求められているんですね。しっかりと身につけて、そして特に御言葉の剣をしっかりと手にとって、私たちはこの一週間、歩んでゆこうではありませんか。色んな事が起こるかもしれません。いろんな誘惑にさらされるかもしれません。いろんな思いになるかもしれません。でもその時にちゃんと御言葉はこういう風に書いてある、このようにして戦っていく、そのような判断ができるものでありたいなと思いますね。与えられた武具にしっかりと身を包んで、今週も主と、ともに歩んでいく日々にしたいと思います。

お祈りをいたします。

愛する神様、あなたは恵として、私たちに本当に、神様の性質を与えてくださっていることを覚えて感謝します。それをただ頭で理解するだけではなくて、しっかりと味わって、そしてしっかりと身につけて、私たち自身のものにしていくことができるように、どうか助けてください。そしてみことばによってしっかりと立てられ、そして御言葉を手にとって、私たちの具体的な現実の歩みの中でいろんな事柄に対処できるように、悪魔の誘惑に、攻撃に、策略に、勝利できるようにどうぞ私達を助け導いてください。御言葉を感謝し尊いイエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。 

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