マタイの福音書1章
聖書講座
今日から新約の方に移ってマタイの福音書の学びができることを感謝したいと思います。
最初にマタイの福音書についての特徴を3つだけ確認をして、 そして1章の学びに入っていきたいと思いますけども 、
1.マタイの福音書の特徴
マタイの福音書の著者は マタイ 、イエスキリストの12弟子の一人マタイです。 それでこの人は取税人マタイっていうことで出てきますけれども、 取税所の近くで座っていた時に、 イエス様から声をかけられて、 そして イエス様に従って行ったという その記事が、 マタイの 9章に出てきます 。そしてマルコの方を 読んでいると、アルパヨ の子レビという名前で出てきますが 、このレビとアルパヨは同一人物であると考えられます 。このマタイによって記されたのが 「マタイの福音書」ということになります。
2番目の特徴として非常にユダヤ的で、そしてユダヤ人に読んでもらうために記された内容であるということが言えると思います。 旧約聖書とのつながりがとても強く 意識されていて、そして旧約聖書の預言の成就であるって事がいろんなところに出てきますけれども、 あの 旧約聖書の律法をよく知っているユダヤ人に対して記された、まず読んでもらうために記されたという内容になっています。
そして もう1つは 、よく出てくる言葉があります 。それは天の御国っていう言葉ですけども、 その内容の中心は御国ですね。 天の御国ということです。 それではイエス様が来てくださったことによって 御国がこの地上にやってきたということ 、そして 弟子たちが その御国の弟子として選 ばれて、そして訓練をされて 、そして イエス様の十字架 ・復活を経て、 マタイの福音書の最後は、結論は何かというとですね、最後の言葉は、 28章の最後の言葉なんですけれども 、それはですね、「 あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」っていう そういうこと、 そこが最後なんですよね。 それでまあ御国の建設が始まり 、弟子たちが選ばれ、 そこで 訓練されその弟子たちが 御国を伝えるために、 全世界に 派遣されていくってところでこの福音書が終わります。ですので これ 全体の構造としては、やっぱりそういう御国ということが大きなテーマになっているということが言えると思います 。
2.全体像をつかむ
確認した上で1章の学びに入っていきたいと思うんですけれども 、一応 毎回1章ずつ読んでいくつもりでいます。長いところはもしかしたら2つ 3つに分けるかもしれませんけど、 基本的に1回につき1章 学ぶということで 、それはあの丁寧な学びはあまりできないっていうことですね。でもこれ1節 、1節、 とっても内容が豊かで、本来であれば 一つ一つ丁寧に学んで行った方が良いのかもしれないと思います。 礼拝の説教であれば、あの1つの箇所から丁寧に学んでいくことをするんですけれども、祈り会では それよりも 全体の流れをみんなで確認し、 全体像を理解するということを大切にしたいなと思っています。 その中でも大事なポイントがいくつかありますので 、 全部触れることはできないんですけれども、 2つ 、3つ 大切なポイントを確認して、そういう学びにしていきたいなと思います 。
聖書の一つ一つ丁寧に学んでいく ってことも、とっても大事なんですけれども、 それに合わせてやっぱり全体の流れをよく こうわきまえて理解するっていうのも、 とても大事なことかな と思いますね 。全体像、 全体の流れがあるっていうことです。 私たちの信仰者の歩みもそうなんですけど、 目の前のこと、 丁寧に取り組むというのとっても大事なんですけれども、でもやっぱり全体の神様のご計画をよく 意識して理解しているって事は、とても大事なことで 、それを忘れてしまうとですね、 時々何のためにやってるのかわかんなくなってしまうことありますね 。うまく結果が出ないとか、なかなか思った通りにいかないとかですね、 まあそれでこう 悩んだり 、そして 何のために自分はこんな 奉仕をしてるんだろう、 何のためにしてるんだろうって、なんかこう、わかんなくなってしまうことがありますけれども、 でもそういう中に神様のご計画があって、その中に私たちが選ばれていて、そしてここに遣わされていて、 ここから 訓練されて、 そして こう遣わされていくんだという、 そういう大きな枠組みが見えてくるとですね、 非常に信仰を持って受け止めることできるようになりますね。ですから そういう意味で 丁寧な 小さい学びも大事ですし、 大きくこう 広く見ていくと両方大事だという 、そういうことを覚えながら、 マタイの学びを開始していきたいと思います 。
3.キリストの系図の意味
1章 読んでいただきました。 大きく2つの場面に分かれます。で、 前半はキリストの系図が出てきます。 後半はキリストの誕生について記されています 。前半と後半と2つに分かれるということが分かります。
それで 前半はキリストの系図が出てきまして 、たくさんの人の名前がいっぱい 並んで、系図が記されている記事になります。 今、新約聖書の最初のページが系図ということで読んでいて、あんまり楽しい記事ではないかもしれません 。もうちょっと、読んでいて楽しい記事から始めると、 新約聖書に入りやすいのにと思う人もいるかもしれません。 けれども 、どういうわけか系図 から始まっていて、実はこれ、とても大事なことです。
どうしてかって言うと、ユダヤ人にとって系図っていうのはとっても大事なものでした。 ユダヤ人にとっては 系図 というのは本当に大事なもので、自分がどこから来ているのか、 そして自分はアブラハムの子孫である 。そして アブラハムの子孫の中にもいろんな部族があります。 どこから来て、自分はどういう風に つながってここまで来ているのか っていう理解はですね 、ユダヤ人にとっての民族のアイデンティティとしても、とっても大事なことだったんですね。ですから とても 系図を大事にする 民族ということになると思います。 その系図をとても大事にする ユダヤ人に、イエス様がどういう方であるのかということを伝えるために 、系図を用いるのが一番いい方法だったんですね。ですから私たちにとっては、何か 人の名前ばっかりで退屈だなという記事かもしれませんけども、これ、 ユダヤ人の人がイエス様を理解するためにはとっても大事な記事だということになるんですね 。そこから始まっているということを覚えたいと思います。
①、そして最初に出てきます、 アブラハムの子 ダビデの子イエスキリストの系図って最初に出てきて、 これはイエス様の系図なんだよ という 前置き から始まるんですけれども 、もうここで全部言い尽くされていると言ってもいいと思います。 イエス様はまず、アブラハムの子とをして生まれたということです。 でアブラハムの子って言われた時には、 それはユダヤ人の子孫としてユダヤ人になったっていう意味なんですけれども、
でも それだけでなくて ですね、 アブラハムの子になったということは 、アブラハムの約束を継承している、 そういう存在なんだと言うことでもあるのです。
アブラハムというのは 祝福の基として選ばれましたよね。 創世記の12章出てきますけれども 、アブラハムは選ばれた時にですね、 全ての民の祝福となるっていう風にして選ばれた。ですから アブラハムを通してですね、 祝福がユダヤ人だけじゃないですよね、 もう全ての民のために広げられて いく。その基として アブラハム が選ばれて、その子供として生まれたということは、イエス様は、 まさにそういう方として生まれたということですよね。 ユダヤ人になりましたけども、ユダヤ人だけではなくて、全ての民のために祝福をもたらす、 祝福の基となったということが、ここに含まれていることです。
②、 そして2番目に、イエス様はダビデの子としてお生まれになったということですね、ダビデ というのはユダヤ民族にとって本当に偉大な英雄になるわけですけれども、 その子供として生まれたということは、 これはダビデ王朝を再建してくれるメシアとして お生まれになったということが 、ここに表されています。 ダビデ王朝で栄えていた時代があって、今は没落をして、その国はないんだけれども、 でも やがて メシアがやってきて、ダビデの王国を築いてくれるという、 そういう 信仰 みんな持ってたわけですけれども、 そのダビデ王朝を再建してくれるメシヤがやってきたと、 そして それは単なるイスラエル王国ができるということではなくて、 これは御国の王 なんです。御国の王として 、全世界の王として、この方がいらっしゃったということが示されている。ですから この一節にもう全てが言い尽くされていると言ってもいいくらいですね 。
ちなみにイエスキリストの系図って出てきますけど、 キリストっていうのは救い主って意味です。 イエスっていう名前ですけれども、 キリストというのはメシヤ、 救い主って意味ですから、 まさにイエス様は救い主として アブラハムの子 、ダビデの子としてお生まれになったということが 、ここに言い尽くされているということが言えます。
③、 でこの後ずっと人の名前が出てきて、 系図の 順番が出てくるわけですけれども、 この系図はですね、 私たち は、あんまり何も感じないかもしれませんが、 ユダヤの人たちが読んだら 非常に戸惑いを覚える。 もしかしたら怒りを覚えるような 、そういう内容の系図になっているということが言えると思います。
たくさんの人の名前が出てきて、どういう人かわかんない人もいるんですけれども 、この中に4人の女性が出てきます 。 今 ユダヤの系図の中に女性の名前が記されるって事はほとんどなかったそうですね。ですから まあほとんど 男性の名前が出てくる中で、女性の名前が出てくるってことは、異例中の異例だということなんだと思うんですが、そこに出てくる4人の女性もですね、非常に 問題があるというか、載せなくてもいいのにな、と思うような名前が出てくると言っていいのかなと思います。
3節にユダがタマルによって ペレツとゼラフを生みという風に出てきて、タマルという女性が出 てきます。 これはずっと前に創世記を学んだ時にやりましたので思い出す方もいらっしゃる かもしれませんが、 創世記の38章に出てくる女性で、 このユダのお嫁さんだった方 なんですけれども、いろいろありまして 結局 ユダと姦淫して、その姦淫の結果 生まれたのが、ここに出てくる ペレツと ゼラフっていう子供 なんですよね。 ですから これは非常にスキャンダラスな事件を 思い出させるような、そういう結果として生まれた子供達 っていうことなんですよね 。非常に、まあある意味では恥ずかしい話ということになるのかな と思います。
そして4節 5節にサルマが ラハブによって ボアズを生みということで、 この ラハブっていうのは、あのヨシュア記に出てくる 遊女 ラハブであると考えられますけれども 、あの 遊女として 知られている 、しかも 異邦人の女性であるということが言えると思います。
さらにその先 読んでいくと、 ボアズ がルツによって オベテを生みということで、 ルツは皆さんよくご存知でね、 非常に信仰深い、信仰者の模範として知られていますが 、でもこの人は異邦人でした 。モアブ人ですね。ですから異邦人 が、 異邦人の血が入ってくるっていうのは、ユダヤの民族にあっては、とても良くないこと なんですね。 そういう人の名前があえて 記されているということが分かります。
そして 極めつけはですね 6節に出てくるダビデがウリヤの妻によって ソロモンを生みと 出てきますね 。名前は出てきません けれども、 ウリアの妻というのは、 皆さんよくご存知ですけども 、バテシバ という名前ですが、これはダビデが姦淫を犯して、そしてその結果 生まれたということですよね。 そして最初の子供は死んでしまいますけども 、その次の子供がソロモンだったということで 、その話が出てきますけれども 、これはまあダビデと言ったら偉大な英雄です 。もう ユダヤ人がもう本当に誇りにしていた偉大な英雄 の、本当にこう 恥ずかしい部分と言うんでしょうか、そういうものをちゃんと 書き留めて、でその上で生まれた子供 、そしてそこに その続きの中で イエス様が最後に生まれてきたということですね。 そういう 展開になっているということが分かります。ですから 読んでいるとですね 、ユダヤの人たちが読んでいると、とても恥ずかしくなったりですね、 憤りを覚えたり、 戸惑いを覚えたりしてしまうような 、そういう系図であるということがわかるんですね 。
④、そしてもう1つの特徴はですね、 あの17節ですけども 、それで アブラハム から ダビデ までが全部で14代 、ダビデ から バビロン捕囚までが14代、バビロン捕囚からキリスト までが14代 となる、ということで 綺麗に 14代ずつ、3つの時代に分かれているっていうことが 紹介されています。
厳密に見てみるとですね、 結構 省略 があるんじゃないか 、必ずしも 14代じゃないんじゃないか っていう そういう指摘もあります。 でもそういうことが大事なの じゃなくて ですね、 結局みんな神様のご計画の中にあるんだよ っていうことが 、ここに示されてるんだと思うんですけれども、 3つの時代に別れるということが言えると思います。
それで最初のアブラハム から ダビデ までの14代というのは、この聖書を 順番に読んでいくと、 聖書で確認できますけれども、 途中 色々 色々ありますけれども 非常に祝福されていった 14代 と言っていいのかな と思いますね。士師の時代もあったりして、サバキヅカサが 納められていたような 、あまり 神様の前にふさわしくないような時 がありました。けれども、とても祝福されて ダビデの時にその祝福が本当に絶頂に達したということですね。
そういう 祝福の 14代でも、その後のダビデ から バビロン捕囚 までの14代は、その祝福されていた イスラエルが 祝福を失っていく 14代、 没落していく 14代 、だんだん 神様から離れて背いて祝福を失って、最終的にどうなったか。 バビロン捕囚 ですよね。 バビロンに滅ぼされて、捕囚となって イスラエルの人たちが みんな 連れて行かれてしまうという14代。
そして捕囚からキリスト までの14代というのは、 これは没落をさらに超えて 暗黒の 14代と言ってもいいのかな と思うんですね。 その多くは 聖書に出てきません。 もう 神の声も聞こえないという、没落がさらに深まって、希望も見えない 、もう本当に虐げられて、どこに希望があるのかもわからないような、暗闇 の時代と言っていいかもしれません 。それが14代続いていく。
4.イエス様の誕生
そういう 歴史を踏まえて、その果てにですね、 イエス様が誕生したという、 そういう展開になっているということがわかるんですね。
それでまあこう見ていくと、 本当に ここから教えられることは 、救い主はこういう 人間の現実の中にやってきてくださった 、罪に満ちた人間の現実のただ中に来てくださった 、そこに人となってきてくださったということが一つ言えますよね 。
でももう一つはそのような人間の罪深さにも 関係なく、 神様の恵みは歴史の中に貫かれているということですね 。そういう 本当に没落して、もう暗黒の中で歩んでいる、本当に希望のない、そういう私たちのところに、 イエス様は 来てくださったというんですね。 そこに 神様の恵みがあるっていうことがわかると思います。
そして最後に同じことなんですけども、 神の愛は変わらないってことですよね。 私たちがどんなに 罪深くて、 神から背いて、離れてさまよって暗闇の中を歩んでいても、神の愛は追いかけてくるんですよね。 神の愛は変わらないということ、そのことが この系図に示されている。 読んでいて退屈な内容かもしれませんけど 、ここにすごいメッセージが込められているって事なんですよね。そのことを意識しながら読むと、系図もまた違う 味わいになっていくのかなと思います。
これは旧約聖書と新約聖書をつないでいる。 つなぎの部分 なんですね.。 ここで旧約と新約が繋がってるんです。 これはとても大事なところです。でこ こ この系図を経て、いよいよ新約が始まるということ ですね。 オープニングになっていくということ、その展開を私たちは 意識 したいなと思います。
そして 後半はイエス様の誕生の記事で、クリスマスの時によく 朗読されて、クリスマスの時に解き明かされたりする。皆さんも何度も何度も聞いてる話ですのであまり詳しく説明はしません けれども、 まあ ヨセフという人に注目が向いているということが分かります 。今まで イスラエルの全体の歴史っていう 、すごい 壮大な広いところを映してたカメラがですね、 一気にそのカメラの焦点を絞めて、 ヨセフという一人の男性のところにキューとですね この焦点を合わせているっていう、 そういう カメラワークって言ったらいいでしょうかね 、まあ 当時はカメラ あるわけじゃないけれどもね、 なんかそういうものを意識させる 記事内容になっていますけれども、 あの ヨセフに注目をします。
それで今日の場面で ヨセフは神様から2つの選択を迫られたということが言えると思います 。1つの選択はマリアをどうするかという選択です。マリアは婚約中でした 。ちょっと読んでみますけども、 18節 イエスキリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、 2人がまだ一緒にならないうちに、 聖霊によって身ごもっていることがわかったということで、 ヨセフとマリアは婚約中でした。 婚約中でも、もう妻と呼ばれていますけれども 、1年間の準備の期間を経て正式に結婚するというのが ユダヤのルールでした。 ですから婚約中であってもですね、 一緒に生活するってことはなかったですし 、そこで準備をしっかりした 上で、結婚に至るという、まあそういう 準備期間を過ごしていたわけですよね 。ところが そのマリアが妊娠をしたという知らせが入るわけです。 ヨセフ にとっては 、ヨセフの立場に立って考えてみれば、 衝撃的なニュースですね 。もう自分で婚約していて、もう結婚を約束していた相手がですね、 妊娠をしたわけですね。 これはもう本当に ショックだったんじゃないかな と想像します。 でも妊娠したっていうことは、ここに聖霊によって身ごもってってと書いてますけど、 それがわかるのは後なんですよね。 その後の話なんです。 この時はまだ分かっていなかったんですね。 それで まあ 当然 マリアが不貞を犯したということになると思うんですね。そこで ヨセフが取りうる 選択としては2つあったと思いますね 。一つは マリアの罪を暴いて晒し者にするっていう選択ですね。 明らかにマリアは罪を犯したと思ってるわけですね。 姦淫の罪を犯したと、結婚前にそういう関係を持ったということですね。ですから これは罪を犯したということですから、本当に 正しさを追求する人であればですね、 むしろ 罪をちゃんと 暴いて、 さらけ出してちゃんとさばいてもらった方が正しい判断だったという言い方もできるんだと思うんですね。 それが一つの選択肢だったと思います 。
でも ヨセフにはもう一つの選択肢もありました。 それはマリアを晒し者にしないで、密かに 離縁をするという選択肢ですね。 それをしたらもう本当にマリアは傷ついてしまいます。ユダヤの法律ではもう 死刑 というかね、そういうことも あの レビ記の中で言われて 教えられてることですから、大変なことが起きるわけですけれども、 でも まあ ヨセフは晒し者にしないで、密かに 離縁して、 要するに マリアを守ろうとしたということであります。ある意味で ヨセフは裏切られたと思っても仕方がないような境遇だったと思いますね。 それでもう本当にその怒りによって、、感情的になってマリアをさらし者にするということもできたんだろうと思うんですけれども、 でも ヨセフはそれをしなかったというところに ヨセフの人格を感じるんじゃないかなと思いますね。
でもう1つの選択は、み使いが、夢で現れた、 そのメッセージを信じるかどうかっていう選択です 。ヨセフはマリアを守る決心をして、 それで密かに 離縁しようと思った。そういう選択をしたということはわかるんですけども、 でも彼がこのことを思い巡らしていたって 20節に書いていますので 、内心は複雑だったんだと思いますね。 一応そういう判断しても、やっぱりこういろんな思いが次から次に込み上げてきてですね 、本当にそれで良かったんだろうかとか、 本当にどうしてこうなってしまったんだろうかとか悩んでたんじゃないかな と想像しますけれども 、そこに主のみ使いが夢に現れて、「ダビデの子 ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい 。その胎に宿っている子は聖霊によるのです」とみ使いが夢に現れ、 御言葉が与えられたんですね。でもここでもう一つの選択が迫られているということが分かります。 それは一度、彼は決めたんですね 。離縁してそのまま去らせようとも決めたんです。 そのまま、その通りにしてしまうと一つの選択があったと思いますね 。夢で見たっていうことでね、 私たちも 時々 夢で見ますけれどもね 、その夢で神様 が語られていたとして、 本当にそう信じることができるか?夢だったんじゃないかなってそれで終わってしまうようなこともあるでしょうし、しかも聖霊によって身ごもったって事実を知らされて 信じることできるだろうか? 今、 私たちはもうそれが当たり前で、そういう風に信仰告白してますから、 イエス様は聖霊によって身ごもったってみんな信じてるから、当たり前のことと思ってい ますけど、何もそういう 知識がない状態で初めてその事実を聞いて、マリアが 聖霊によって身ごもったって知らされて、 信じられるだろうか? とても信じられない。ですから 、自分の持っている価値観とか、常識とか、この世の人の考えること、 そういうことを判断にして自分の思った通りに判断することもできたと思うんですね 。
でももう一つの選択肢がありました。 それはその御言葉を信じるっていう選択肢ですね。 それが本当に神様から来た言葉なんだということを、しっかり 信仰を持って受け止めて、その御言葉を 信頼して信じるっていう、 それにしたがっていく っていう選択肢もあった。で、どちらを選んだかということで 、24節に、 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じた通りにし 、自分の妻を迎え入れたが、子を生むまでは彼女を知ることはなかったとあります。目覚めて主のみ使いが命じた通りに、 自分の妻を迎え入れた 。恐れもあったと思います。 この後どうなってしまうんだろうか ?先のこと考えると不安な不安もいっぱいあったと思うんですけども 、主が言われたことに従ったと、ここに ヨセフの信仰があった。
そのようにして、彼は2つの選択肢があったと思いますけれども、 2つのことを主から問われたと思いますけれども 、その時々で信仰を持って応えていったということ 。そのことによって イエス様はお生まれになっていく、 そういう展開に導かれていくということがわかるの かなと思います。
最後にまとめたいと思います。 この1章の結論はですね 、まず1つは、救い主は罪人である私たちのもとに来てくださったっていうことが一つですよね 。私たちは、もうどうしようもない 、もう罪に汚れて自分ではどうすることもできないような現実の中にいる。もう暗闇の中に閉じ込められて、先も見えないような、そういう私たちのもとに 、イエス様は、 向こうから来てくださったってことなんですよね。 もう 恵み なんですね。 神の愛は追いかけてくるんですね。 そのことが一つ 示されています。
でも、その神様の祝福を受け止めるためには信仰が必要だってことですよね 。ヨセフは信仰を持って受け止めました。 自分のいろんな価値観とか常識とか 戸惑いと か、いろんな自分の気持ちに引きずられて判断してたら、 イエス様の誕生はなかったわけですよね。 マリアを受け入れることなかったわけでしょ。 そうしたら イエス様は、 本当に祝福の中で生まれてくることはなかったわけです。 でも ヨセフはそれを信仰をもって受け止めたんですね。 そしてマリアと一緒に苦労を共にしていく っていう 、そういう決断をするんです。 信仰に応える形でイエス様の誕生が導かれていくということですね。
その2つのことを今日は1章のメッセージとして受け止めたいと思います。 私たちにも神様は 色々 恵みを注いでくださって、 本当に導いてくださっていて、そしてまた私たちに御 言葉を語ってくださってますね。 本当にみ声を聞かせてくださっている 。その時々で、私たちは、その選択を問われているんだと思いますね。 自分の価値観とか、この世の人がどう見てるかとか、 人がこう言ってるとか、そういうことじゃなくて、本当に主が語っておられる そのみ声を聞いて、それに従っていくっていった、その時に、神様のご計画は進んでいく っていうこと、 神様の祝福が本当に及んでいく っていうことですね。 私たちは今日の1章の御言葉から、信仰を持って受け止めていくものでありたいと思います 。
Comment
1)細かいことですが、イエス様の誕生「もう一つの選択」で、v20:「精霊」とミスプリント?だと思うのですが、「聖霊」ですね。
2)確かに「人は何処からきてどこへいくのか」を知ることは大切であると同感ですが、趣旨はもはやイエス様においては「ユダヤ人も日本人もない、ただ罪びとと救い主イエス様だけである」とうけとめたのですが・・・
3)マタイ伝で記憶に残っている事柄は、系図と「大宣教命令」です。私にとって先月までの「ヤコブの手紙」で習ったこと、「教えを実行しなさい」とは「福音を伝えて、弟子を作る」ことが重要だと思います。
コメントありがとうございます。ご指摘修正します。つづけてお読みください。