イエス・キリストをより良く知るために

明治維新とキリス ト教 ~ プロテスタント宣教の幕開け

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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1.初めに

表題の写真の真ん中にフルベッキ先生がいらっしゃるのが分かるでしょうか。その周りにいるのはみんな侍です。これは、あの当時の一つの象徴的な写真なんです。当時、侍階級の人達がフルベッキから学んだということなんですけれども、もう時代が変わって、侍としては生きていけない時代になってしまった。ちょんまげも、刀も、取り上げられ、今まで武士として生きてた人たちがこれからどうやって生きたらいいのか分からない、そういう危機感をみんな持っいたわけです。そういう中に西郷隆盛とか、大隈重信とか、そういう人たちもいたわけですけれども、そういう人たちが、フルベッキ先生の所に行って、新しい学問を学んで、そしてそこで教えられた人たちが大活躍するわけですけれども、その一つの象徴的な写真と言ったらいいでしょうか。女性がほとんどいないですね。みんな男ばっかりという、そういう形ですけれども、こういう形でこれが次のテーマに繋がっていくんですけれども、あの明治時代のクリスチャンというのは侍階級士族階級の人達がすごく多かった。

これが日本のキリスト教のスタイルを決めていくひとつの大きな要因になったと思います。つまりキリスト教は、「インテリの宗教」であると見られてしまう、ひとつのきっかけにもなった。つまり、なかなか大衆にまで届いていかない一つの要因にもなってしまったということも言えるかなと思います。もしかしたら未だにそういう傾向があるかもしれないですね。それは私たちのこれから取り組んでいかなければいけない一つの大きな課題ということが言えるのかなと思います。

 

また、私たちに与えられている信教の自由がいかに尊いものか、この自由獲得のためにどれだけ多くの人々が殉教されたのでしょうか。私たちは、当たり前のように日曜日礼拝して、当たり前のように神様を賛美できるわけですけれども、これは当たり前じゃないんですね。

この自由を獲得するためにどれだけ多くの人たちが、祈ってくださったことか、そして宣教師たちがどれだけ努力をしてくださったのか。その背後に 初期の宣教師たちが本当に日本を愛して、祈って支えてくださった姿があったということも私たちは忘れてはいけないことじゃないかなというふうに思います。ヘボンさんとか、フルベッキさんとか、ベッテルハイムとか、そういう人たちの努力を、少し知ることができたら幸いかなというふうに思います。

2.明治初期のキリスト教

1.日本政府の禁教政策

  (1) 江戸幕府未期

1開国
・1853 ペリーの黒船の浦賀沖来航
・1854 日米和親条約締結→開国論と壌夷論の抗争激化
・1858 日米修好通商条約→オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好
通商条約を結んだ。
・1859 横浜、箱館、長崎、新潟、神戸を開港→宣教師たちが次々と到着
・1868 明治維新

2 幕末の宣教と迫害
・1844 パリ外国宣教会の日本宣教開始(フオルカード、那覇)
・1862 横浜に最初の天主堂が建立される。
・1865プディジャンにより長崎に大浦天主堂が建立される。
浦上村の男女が聖母像の前にひざまずき、先祖伝来の信仰を告白
(キリシタンの復活)
・1867浦上四番崩れ
3000名以上のキリシタンたちが各地に流刑にされ、600名が殉教した。

開国を経ても日本の社会に、浸透していたキリシタン邪宗観は簡単には払拭できなかった。

  (2) 維新政府

1 禁教一致期(慶応4~明治4)
・1867 (慶応3)王政復古大号令(明治新政府のスローガンは「王政復古」)
・1868(慶応4)・祭政一致布告→天皇を頂点とした統治機構を確立するため
に、皇室神道を中核とずる「神道国教化政策」を推進
・神祇官の再興→すべての神社を神祇官下に所属させた
・五箇条の御誓文:天皇が天地神明に誓った明治政府の基本方針
・五榜の掲示・第三札
切支丹邪宗門ノ儀ハ、堅ク御禁制タリ。
・1868 (明治元) 禁教の高札を全国に立てる。
神仏判然令→神社より仏教を一掃(廃仏毀釈)
・1871(明治4) 大小神社氏子取調規則(寺請制度の継承)

2 国民教化期 (明治5~6)
・1872 (明治5) ・神祇省が廃止され教部省が設置 (教部省も1877 年に廃止)
(神道国教化政策と政教分離政策の矛盾が明らかになる)
・自葬禁止令 (葬儀は仏教と神道のみ → 解除は1884年)
・太陰暦を太陽暦に変更
→ ただし神武天皇の即位日・紀元節を2 月11 日に定めた。

・プロテスタント教会へのスパイ潜入
安藤劉太郎/仁村守三/ 桃江正吉:
三人とも僧侶。太政官の異宗捜索謀者として日本基督公会に潜入。宣教
師や教会、信者らの情報を太政官に報告した。

国家が最高位に立ち、宗教をその足下において国家に奉仕せしめる徳川幕府以来の政治体制
が、明治期にまで引き継がれることとなった。

文明開化の風潮の中で、政府は神社を宗教より分離。神道は宗教性を喪失して天皇制イデオ
ロギーとして利用されていく(→神社非宗教論)
※ 神道国教化政策は、この後、巧妙になった。

2.禁教撤去要求

  (1)外国人による外国人のための信教の自由要求

1  外国人葬儀
2 居留民の信教の自由
3 踏絵の廃止

  (2)外国 人による日本人のための信教の自由要求

1 アメリカ: 総領事ハリス
2 浦上四番崩れに対する西洋キリスト教諸国の公使たちの激しい抗議活動。
3  岩倉使節団に対するアメリカ等の要求
・使節団は条約改正を交渉するも、日本のキリスト教禁止政策を口実としてこれを問題
としなかった。→ 1873(明治5)、高札の撤去へ
4 在日宣教師たちの初週祈祷会 → 福音同盟会への祈りの依頼

  (3)日本人による日本人のための信教の自由要求

1 江戸時代の蘭学者たちの活躍:前野良沢、杉田玄白、高野長英 ~ 西洋精神に対する
理解の深まりが、儒仏世界観の打破、キリシタシ邪宗門の否定につながった。
2 浦上キリシタンの信仰告白:目葬問題が発端 → 多数が殉教した。
3 自由主義者たちの活躍:森有礼、中村敬宇らが、信教の自由を主張。
→ 自由民権運動に引き継がれる。

1873年 (明治5)、キリスト教禁制の高札が撤去され、日本における信教の自由が認められる。
(政府の見解:キリスト教禁制は熟知であるから撤廃する。外交政策上、キリスト教を黙認しただけ。
→基本的人権としで信教の自由を認めたわけではない。)

3.初期宣教師たちの活躍

  (1)時代背景

l859年 日本プロテスタント教会の開始
→日本に次々と到着した宣教師たちは福音主義的立場に立つ宣教師たちだった。

・リギンズ、ウィリアムズ (聖公会)、ヘボン (アメリカ長老派)、ブラウン、シモンズ、フルベッ
キ (米国オランダ改革派)、ゴーブル (バプテスト:1860年)、バラ (改革派:1861年)グリーン
(アメリカン・ボード:1869年)

・宣教師たちの特徴:
・ピューリタンとしてのすぐれた人格
・中国伝道の経験 → 宣教協力の意識
・熱烈な福音主義
・キリスト教禁制下だったため、聖書翻訳、医療、教育などの面で尽力した。

  (2)代表的宣教師たち

① ベッテルハイム
・イギリス海軍琉球伝道会の宣教師として1846年に那覇に上陸。医師であり語学の達人。
・那覇の護国寺を住居とし、迫害を受けながらも8年間伝道。
・ベッテルハイムの伝道によって崎浜禿能という青年が入信するも、迫害を受けて殉教。
・琉球に寄港したペリーに日本の情報を伝え、外交上の協力をする。
・四福音書、使徒の働き、ローマ書を琉球語に翻訳。
・診療所を作って多くの病人を治療。牛痘接種を紹介。

② ヘボン
・アメリヵ長老教会派遣宣教師として1859年秋に来日。かつては中国で医療宣教に従事。
・医師としての立場を利用して医療伝道に従事。
・ヘボン塾 (明治学院の前身)にて日本の青年たちに洋学を教えた。
・日本語を熱心に学び「和英語林集成」(和英,英和辞書)を出版。 → へボン式ローマ字
・辞書の版権を丸善に譲り、それによって得た二千ドルを全額明治学院にささげた。
・横浜指路教会の創立に尽力”
・「ペリーは日本の鎖国の門を開き、ハリスは日米通商の道を開き、ヘボンは日本人の心の戸
を開いた」(グリフィス著「ヘボン」)

③ フルベッキ
・オランダ人。アメリカのオランダ改革派教会派遣宣教師として、1859 年にブラウンととも
に来日。
・長崎の済美館、佐賀の藩校・到達館で洋学を教える。大隈重信、副島種臣らが教え子。
・1866年、佐賀藩家老・村田若狭守と弟綾部に洗礼を授けた。
・明治政府から東京に招かれ、大学南校 (東京帝大の前身)に教頭としで招かれる。
・岩倉具視を団長とずる欧米使節団の派遣を提案し、立案した。
・ぞの後、明治政府外交に関する法律顧問として政府で働く。
・公職を辞した後、宣教師としての活動に戻り、聖書翻訳、神学教育、伝道に従事。
・無国籍だっだが、大隈の尽力により、日本人と同じ待遇で日本永住権を認められた。グリ
フィス著のフルベッキ伝のタイトルば”Citizen of No Country(国籍なき人)。
・1898年、死去。青山墓地に埋葬された。

3.まとめの資料

最後に資料として付け加えた「フルベッキ書簡」を読んでいただくと、このフルベッキイがいかに日本人から信頼されていたか、そしていかに日本のために祈っていたか、日本が変わることを祈っていたか、そして岩倉具視の使節団がどういう経緯で始まったかというのもこの下の方に書いてあります。本当に祈りをもって岩倉使節団を送り出したということがわかるそういう文章になってます。

ここから資料———————————————————————————

「フルベッキ書簡集」高谷直男編訳・新教出版社より
1867年9月7日長崎 JM・フェリス師宛

宣教の地盤がだんだん開けつつあります。すぐる二カ月の間、中国語のキリスト教書籍や
小冊子を少なくとも1,600冊ほど頒布いたしました。その中にぼ旧新約聖書も多数あり、
金も払ってくれました。これほ福音の進歩です。
先月、加賀藩主からわたしにその国を訪ねるようにと、立派な汽船を差し向げてくれました。
この藩主は日本国内の藩主のうちでも最もも裕福な藩主です。この地の学校(致遠館)と同
様な学校を設立するため加賀の国に来るようにとの懇請です。また大体同じような招請状を
薩摩藩主からも受げました。四国の土佐藩主および、九州の肥前の藩主からも同様な勧誘を
受げましだ。これら四つの藩主は日本国の革新的な雄藩であり、いずれも外国の政治の原理
に基づいて前進せんとしています。しかもそれがキリスト教的であってもよろこんでこれを
取り入れたいとの態度です。過去二十四力月間にわたり、三人の有力な藩主の関係者および
二人の幕府の奉行からの訪問をうけました。
自慢ではありまぜんが、貴伝道協会の宜教師の名が高く評価されていると申してもよいので
す。でもただひとりの宣教師では、必要に追られて、こういうことなどについて申す場合に、
箴言二七章二節「自分のくちびるをもってせず、ほかの人にあなたをほめさせよ」の言葉に
そむくようなことがあるのは残念です。どうか、われらの「主」が適当な時期に、単なる名
声よりも、もっと実質上の援助を与えてくださることを願っています。

1871年11月21日 江戸
神学博士J・M・フヱリス師宛

昨朝、時計が4時を告げると同時に起床し終日仕事に従事し、米国公使と日本の総理大臣と
の会見をおわりました。その会見は午後5時から11時まで続行されました。
本月17日の先週金曜日、わたしは天皇に拝謁する光束に浴しました。
政府は欧米に特命全権大使の一行を近く派遣することになりました。わたしは随員の人に、
あなた宛の(特別)書簡を渡します。全権大使一行はサンフラソシスコに向けて12月22日
に出帆する予定です。大使一行の長は龍と旭(ニューブランズウィック留学中)の父親で
す。日本帝匡の総理大臣(岩倉卿)で、最も勢力のある人物です。この使節の派遣は永年に
わたり、熱望しているキりスト教信教の自由をもたらすかもしれず、あるいは少なくとも、
それに近づくのに大いに役立つかもしれないというのがわだしの希望であり、祈りであり
ます。先便で為替第一号を送付した前田、高橋宛の為替522・50ドルの第二号を同封いた
します。
E・クラーク氏は当地で健在です。あなたが先便で言及しておられるようにサソフランシス
コからの二人を迎えたのですが、もう二人給料の安い普通の学校教師を雇わねばなりません
ので帰航の船で派遣して下さい。クラーク氏に申し込むには期間も条件も適当ではなかった
のです。しかし同氏は今ではその当時してあげることができた以上によく仕事をしておられ
ます。
わたしは学校を改革し、再編成をしている最中です。おそらく、わたしほこの大学ヘグリフ
ィス氏を呼び戻すことになるでしょう。乱文ですみません。

G・F・フルベッキ

ここまで———————————————————————————

飯能キリスト聖園教会・金曜集会・日本キリスト教史の学び3 若井和生師

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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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