イエス・キリストをより良く知るために

一人の政治家の間違った判断のために、民が犠牲になるということ。・・第一サムエル22章

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

聖書の中には大きく分けて二つのことが記されていると見ることができると思います。

 一つは神様の素晴らしさ、神様の偉大さ、神様の愛の大きさ、神様について記されています。私達は聖書を通して、神を知ることができます。

 もう一つの事も記されています。それは人間の罪深さ、人間の弱さ、愚かさも記されております。ですから、私たちも聖書を通して自分自身の姿を教えられます。

 このように恵み深い神の光の部分と、罪深い人間の闇の部分の両方が、聖書に記されているということになります。その両方が大事です。そしてその両方があるから私たちは、本当に神が必要であるということ、そして信仰が大事であるということを教えられます。そのようにして私たちは聖書を通して養われていくということを覚えたいと思います。

1.一人の政治家の間違った判断のために、民が犠牲になるということ

 今日の箇所は、人間の愚かさ、罪深さについて教えられる箇所であります。神への礼拝を司る祭司達85人が、イスラエル王国の王のサウルによって皆殺しになるという非常に恐ろしい事件が起きたということが、今日の箇所に記されてあることであります。そしてそれだけではなくて、祭司だけではなくて、祭司たちが住んでいたノブという町の住民たちも、虐殺されてしまった。男も女も子供も乳飲み子まで、さらに牛やロバや羊さえも皆殺しになる大量虐殺事件が起きたということが19節に記されています。読むのも非常に辛いようなそういう記事でありますけれども、一人の政治家の間違った判断のために、民が犠牲になるということが、わたし達人類の歴史の中で繰り返されてきていると思います。そしてその時に一番犠牲になるのが、力のない女性たちや子供たちであるということが歴史の中で何度も繰り返されてきてるんじゃないかなと思います。ヒトラーの時代のドイツがそうだったと思いますし、スターリンの時代のソ連もそうだったと思いますし、ポルポト政権のもとのカンボジアでもそういうことが起こっていたということが言われております。また今でも世界のどこかでそういうことが起きてるんじゃないかなという風に思いますけれども、そのような事例がもう聖書の時代からあったということを私たちは教えられます。そのことが今日の聖書の箇所にはっきりと告げられていることであります。

 アヒメレクをはじめとする祭司たちの殺害と、ノブの住民達の大量虐殺という、この恐ろしい事件がなんで起こってしまったのか?その原因がやはり、イスラエルの王のサウルにあったということが分かると思います。イスラエル王国の王であったところのサウルの、間違った判断によって引き起こされてしまったこの事実、このような記事を読むにつけて私たちは、やはり国のリーダーたちのために祈るということが大事であるということを教えられるんじゃないかなという風に思います。


新約聖書の第1テモテの手紙の2章1~2節に、こんな言葉がありますね。「全ての人の為に、王たちと高い地位にある全ての人のために、お祈り、とりなし、感謝を捧げなさい。それは私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです」。
 

 私たちは為政者たちの為に国のリーダーたちのために祈らなければならないと聖書に命じられています。そしてそれは私たちが、平安で落ち着いた生活をするためであるということで教えられております。このみことばに私たちは支えられながら、立てられている国のリーダーたちが、正しい判断のもとに、正しくこの国を導いていうことができるように、そして私たちが平安で、安心した生活を続けることができるように、 本当に祈っていかなければいけないということを是非覚えたいと思います。

2.サウルの三つの課題

 さて聖書に入りたいと思いますけれども、この時のサウルの状況・状態は一体どんな状態だったんでしょうか?どんな心理状態だったんでしょうか?どんな課題を彼は抱えていたんでしょうか?

 そのことを通して私たちのことも考えてみたいと思いますけれども、この時のサウルは三つの課題を抱えていたということが言えると思います。

(1)サウルは非常に不安定な精神状態であった

 

 

この時のサウルの心が、非常に不安定であったということが今日の記事を通してわかります。それはサウルの語る言葉を通して感じることですけれども、彼の強さと弱さが交互に出てくると、強気の感情と弱気の感情が交互に表されているというところに、その不安定さが示されているということを覚えます。

① サウルの強気な気持ち

 7節の言葉を読んでみます。22章の7節です。「サウルはそばに立っている家来達に言った。聞け、ベニヤミン人。エッサイの子が、お前達全員に畑やぶどう畑をくれたり、お前達全員を千人隊の長、百人隊の長にしたりするだろうか。

 このようにサウルが家来たちに語ったというのがこの言葉ですけども、ここにサウルの非常に強気な気持ちが表されております。エッサイの子というのは、ダビデのことを表していますけれども、そのダビデが、お前達に畑やぶどう畑くれただろうか?お前達に1000人隊の長、100人隊の長と言った高い地位を、おまえたちに与えただろうか?といふうに問いかけているわけです。つまりこれは、ここでサウルが主張していることは、ダビデなんか、お前たちに何もしてあげることができないだろうと、俺こそが王だ、王である俺が、お前たちを支えてやってるんだということですよね。ここにサウルの非常に強いの気持ちというのが表れていることがわかります。

②サウルの弱気な気持ち

 ところがそれに続く言葉には、一転してサウルの弱気な気持ちが表されております。8節も読んでみます。「それなのに、お前たちは皆私に謀反を企てている。息子がエッサイの子と、契約を結んでも、誰も私の耳に入れない。お前たちの誰も、私のことを思って心を痛めることをせず、今日のように、息子が私の下僕を私に逆らわせて待ち伏せさせても、私の耳に入れない。

 8節の冒頭、最初の言葉「それなのに」、この「それなのに」と入ってるところにサウロの強い感情が込められていることが分かると思います。「俺がお前たちのために、こんなにしてやってるのに、それなのに」、というそういうサウルの戸惑いと、落胆の感情がここに込められております。そして彼は言います。「お前たちはみんな私に謀反を企てている。息子ヨナタンとダビデの間のこと、知ってたくせに俺に伝えなかった。教えてくれなかった。そして誰も私のこと思って心を痛めない」と、心の内を吐き出している。非常にサウルの気持ちのこもった言葉であるということがわかります。ここにサウルの不満、怒り、寂しさ、孤独の感情が、表されているということが分かると思います。

③孤独な気持ち

 特に最後の言葉ですね。「誰も私のことを思って心を痛めない」というこの言葉には、非常に深いサウルの孤独の気持ちが表されている。ほんとに痛ましいくらい彼は孤独だったということが感じられる言葉であります。これらの言葉から、私たちはサウルとダビデに対する強烈なライバル意識のようなものを感じるんではないでしょうか。人々の気持ちがだんだん自分からダビデの方に移っていくということの不安、恐れ、本来自分のものであるはずの人気や力が、少しずつダビデの方に流されて行く、奪われてしまうことの焦り、そして誰も自分の味方になってくれないという怒りと孤独、そのような様々な感情にこの時のサウルが、囚われてしまっているということが伝わってきます 。

 これらの内容からこの時のサウルは非常に不安定だったということがわかります。おそらく自分の弱さを非常に意識することの故に、力とか権力とか立場とか実績とかそういうものにすがらざるを得ない、そういう状態だったんだと思います。船が錨を失った時のように、この時のサウルの心は自分を支えてくれるものを見失って、情に流されていると言うか、非常に不安定であるそういう状態であるということを私たちは意識したいと思います。

 私たちは、サウルとは全く違う立場ではありますけれども、王様ではもちろんないけれども、でもこういう心境になってしまうということはよくあるんではないかなと思いますね。誰も私のことを解ってくれない、誰も私のこと覚えて心を痛めてくれない、自分は本当にひとりぼっちであるという気持ちに捕われて、そして自分で自分を苦しめてしまうようなことがあるんじゃないかなと思うんですね。そして自分の弱さや不安定さを意識する中で、必要以上に強がってみたり、つッ走ったりしてしまうことがあるんではないだろうかという風に思います。そう思う時にこのサウルの姿というのは実にに私たちの姿であるということが言えるんではないでしょうか。常に不安定だったということが一つわかると思います。

(2)冷静な判断ができない

 2番目のことですけれども、この時のサウルに見られる二番目の特徴は、不安定な心が引き起こした結果であるということが言えますけれども、冷静な判断ができないということであります。

それは家来たちに「お前たちは皆私に謀反を企てている」という風に言ってるんですけれどもこれは事実ではないですね。このときサウルに謀反を企てている家来は一人もいませんでした。彼らは一生懸命サウル王に仕えようとしてるわけですよね。またサウルは、息子ヨナタンが、ダビデを自分に逆らわせるように仕向けたという風に語っていますけれども、これも事実ではないです。ダビデがサウルに逆らったっていうことはないし、ヤナタンがそのように仕向けたということもないですよね。むしろヤナタンは何とかしてサウルとダビデの関係を回復させようと頑張ってたんですね。ですからこれも違うんですね。認識が違います。

さらにサウルは、「お前たちその事実を知っていたのにも関わらず、私に教えてくれなかった」と家来たちを責めてますけれども、これもちょっとおかしいと思いますね。確かに教えなかったかもしれないけど、それは別に悪意をもって教えなかったわけではないですよね。サウルの理解はことごとく間違っているということがわかる。全部サウロの勝手な思い込みであったということがわかるわけであります。 つまりこの時のサウナは、冷静な判断ができないですね。冷静な状況判断ができないんです。その後ドエグという家来の報告を受けて、サウルは祭司アヒメレクと、その他の祭司たちを呼んでくるんですけれども、そしてその後のやりとりが13節以降に出てまいりますが、そこでもやっぱり同じです。13節でサウルはアヒメレクに向かってこういう風に言っております。13節、「サウルは彼に言った。『おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。お前は彼にパンと剣を与え、彼のために神に伺い、そして彼は今日のように私に逆らって待ち伏せしている』」。

 これもサウルの勝手な思い込みであるということが分かると思います。「私に謀反を企てている」とサウルにはアヒメレクに向かって言ってます。けれどもこれはアヒメレクにとってびっくりするような言葉ですよね。そんなこと全然してない。この時のサウルは全く人を信頼できない状態でした。強烈な被害者意識に捕われて、そして冷静な判断が全くできないということですよね。そしてその間違った認識の故に、大変な恐ろしいことをしてしまったわけであります。アヒメレクを含む祭司たち85人を殺してしまう。それだけではなくてノブの町の住民たち、女たち、子供達も含め、全部殺してしまうという、考えられないような恐ろしいことをしてしまった。

 一つの国を治める王にとって一番大事なことは何でしょうか?それは正しい状況判断ができるということ、そして適切に判断を下し、冷静な指示が与えられるということですよね。これがリーダーに求められる資質です。リーダーがもしその資質を見失ったら、民全体が迷惑をしますね。本当に国全体が苦しまなければいけないですね。このときのサウルにはその冷静さが全く失われてしまったということが分かるわけであります。

 このサウルの姿は本当に痛ましいと思いますけれども、しかし私達はここから孤独がいかに人間の判断を狂わすのか、いかに人の心を蝕んでしまうのかということを、教えられるんではないだろうかと思います。そしていかに人を追い詰めて、冷静な判断ができなくなってしまうかということを教えられるんではないでしょうか。この姿もやはり私たち一人一人の人間の姿であるということを覚えなければいけません。

(3)失敗、挫折の経験が、十分に処理されず、生かされなかった。

 そしてサウルの特徴として、最後に指摘しなければならないことは、それはサウルの心の中で過去にしてしまった失敗、挫折の経験が、十分に処理されないままにずっと引きずられているということですね。非常に不安定なサウルですけれども、彼は以前からこういう人ではなかったですね。様々な経験を積み重ねる中で、自分の弱さや課題と向き合うことがたくさんあったわけですが、しかしその時に受けた挫折・感敗感、そういうものをその時に処理しないで、ずっと引きずってしまった。そしてそれがどんどんどんどん蓄積されてしまう、そのマイナスの感情の蓄積によって、サウルがどんどん自分追い詰めていく、そういう経緯というものをサムエル記の記事を通して私達は教えられるわけであります。

 サウルを非常に不安定にした最初の経験は、皆さん思い出すと思いますけれども、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と女たちが歌ったあの歌声ですね。あの歌声を聞いた時に、ダビデと自分を比較して、あたかもダビデの方が優秀であるかのように、人々が、女たちが評価しているその歌を聞いた時に、非常に不安になる。サウルのプライドがすごく傷ついたんだと思います。そしてその後、ダビデを不信の目で見るようになりました。自分の娘ミカル、あるいは息子のヨナタンがサビデの逃亡に手を貸したって言うなこともありました。それもサウルとっては非常に大きなショックだったんじゃないかなと想像いたしますね。自分が信頼していたところの娘や息子が、自分にみかたをしないで、ダビデの逃亡に手を貸したっていうことは、非常に親としては残念なことだったんじゃないでしょうか。22章8節で「ヨナタンがダビデを自分に逆らわせるように仕向けた」っていうのことを書いてますけども、そういう風に言ってます。そんなこと全然ないんですけれども、そういう風に見えたわけですよね。ヨナタンがダビデの味方をしている、自分の味方をしてくれないと、それが非常に寂しい、親として寂しいという、そういう感情を抱いているということも分かります。

 そしてサウルは何度か神様の命令に従うことができないという失敗犯しました。ある時は本来ならば預言者サムエルが到着した後に捧げなければならない捧げ物を、サムエルが少し到着が遅れたということで焦ってしまってですね、自分でさ下げてしまった。それはしてはいけない事だったんですね。ところが、そんなことをしてしまった、罪を犯したという事件がありました。またアマレク人との戦いで大勝利を収めた後に、神様はその全てを主に捧げなさいと命令されていたのにも関わらず、一番いいもの取って置いたって言う、そういう罪を犯したこともありました。そのたんびにサムエルを通して、神様を通して、怒られたりしてるわけですけれども、このように見ていくと、サウルは今までプライドを傷つけられたり、失敗をしたり、罪を犯したり、自分の弱さに向き合わされたり、いろんなそういう経験をしてきたわけですね。そのたんびにサウルは、自分の心と向き合って、そこで悔い改めたり、反省したり、 あるいは砕かれたりすればよかったのかなと思いますけれども、それが十分になされないままにその敗北感、挫折感、そういう気持ちだけがどんどんどんどん積み重なってしまう。それを処理すれば良かったですね。処理ができないために、どんどんそれが蓄積されていってしまう。そのような中にあって、彼がどんどんどんどん人に心を閉ざしてしまう。そして神様に向かっても心を閉ざしてしまう。そして自分自身の中に閉じこもって苦しんでしまう。そういうサウルの人間の姿というものを、私たちはここで教えられるわけであります。

 かってサウルは悪い人ではなかったんですけれど、そして以前は信仰者でした。信仰者ですよね。本当にサウルは信仰者です。神様を信じる信仰者でした。そして非常に王としてふさわしい人物だったからこそ、神様によって選ばれて、イスラエル王国の王になったわけですよね。この箇所、この22章だけ見ると、サウルはいかに悪魔的な人間であるかという感じがしますけれども、でも彼は本当に普通の人だったですよね。立派な信仰者でした。決して彼は悪魔的な人間だったわけではなくて、むしろ好青年だったんです。でも彼はいろんな経験を積み重ねていく中で、自分自身をどんどん苦しめてゆくようになってしまう。

 私たちはこのサウロの経験から教訓を得ていかなければいけないという風に思います。私たちも孤独を感じることがあると思いますね。そして色々な時に傷ついたり、あるいは敗北感を味わったり、挫折感を感じたりすることがあるかもしれませんね。思うようにいかなくて、がっかりして、その時、私たちは自分の心とどう向き合っているでしょうか?

 その孤独の感情とどう向き合っているでしょうか?

 その時に本当に神様との関係で、ふさわしくそれを処理しないままで、ずっと引きずっていくとですね、私たちはだんだんだんだん自分の部屋の中に閉じこもって、心を閉ざし、人にも神にも心閉ざしてしまうことになるんではないでしょうか。その時、その時に、私たちは本当に神様に心を開いて、神様に深く取り扱っていただく必要があるんではないでしょうか。自分の心と向き合うということが、すごく大事であるということ、そして自分の心を見つめるということが求められているということを、私たちは覚えたいと思うんですね。

3.心を注ぎだして神に祈る者に

 サウルのようなことにならないように、私達は、いつも神様との関係を絶やすことがなく、ダビデのように祈る者になりたいなと思いますね。

 ダビデも孤独でした。前回の箇所は、ダビデが孤独だったんですね。ダビデが本当に孤独だった。その場面を見てきましたけども、彼は孤独の中で祈ったんですよね。心を注ぎだして、神様に祈ったんです。「自分は孤独です」と全部打ち明けたんです。そしたら神様の導きがあって、助かった。たくさんの方々が来てくれて、助けてくれたという、そういう話を前回学びましたけれども、私たちも是非ダビデのように、心を注ぎだして神に祈る者になりたいという風に思います…

4.サウルは本当に一人ぽっちだったのか?

 最後に考えてみたいことはですね、サウルは本当に一人だったかということです。8節で、サウルは、「誰も私のこと思って心痛めない」という風に告白をしておりますね。非常に痛々しい告白だなと思いますね。誰も自分のことを解ってくれない、誰も自分の事を心配してくれない、心痛めてくれない、そういう心境になってるわけですよね。私達もそういう心境になることがあるかもしれませんけど、その時、私たち、思い出さなければいけないと思います。本当に誰もいないんでしょうか?本当に心を痛めてくれる人はいないんでしょうか?本当に一人ぼっちなんでしょうか?そうではないということですね。

 私たちは忘れてはいけないことがあります。このとき神様がサウルのこと見つめていたということ、そしてサウルのことを心配し、心を痛めていたということを、私たちは意識したいという風に思います。

 神様はイスラエルの国をいつも守ってくれました。サウルはイスラエルの国王です。トップですね。非常に重たい責任を背負っていましたね。そして特にこの時は、ペェリシテ人という敵から攻められて、本当に危ない状況と言うか 、脅威にいつも晒されている状況でしたけども、神様はイスラエルの国をちゃんと守ってくれてますよね。どんなに敵が攻めてきても、ちゃんと守ってくれているんです。そしてそのようにして、サウルの事を祝福してくださっていましたよね。そのためにちゃんとダビデも用意してくれたわけです。ダビデっていうのは、まさに、サウロのために備えられた神の器でしたね。イスラエルが守られるために、イスラエルがペリシテ人との戦いに勝利できるように備えてくださった。めぐみとしてサウルのために与えられためぐみと与えられたダビデだったわけですよ。

 ですからそれは本当に愛されていた、本当に神様によって守られていた、祝福されていた、そういう人だったわけです。

 でもその恵みとして与えられたダビデが、サウルにとっては躓きになってしまった。恵みが恵みとして感じられなくなってしまうところから、人間の堕落が始まっていきますね。神様が与えてくださってる恵みを感謝して受け止められなくなるところから、私たちの堕落が始まってしまいます。そのことをサウルを通して教えられるんではないでしょうか。

 そしてだんだんそのことを自分で処理できなくなってしまったんですよね。神様の言葉が語られて、本当にそこに自分の心を向き合って、全てを神様に捧げなさい、悔い改めなさい、反省しなさい、いろんな導き、いろんな語りかけがあったにもかかわらず、彼はその声に耳を閉ざして、だんだんだんだん自分の問題中に閉じこもってしまう。そんなサウルを見て神様は心痛めていた。何とかしてサウルを立ち直らせることを狙っていた、そういう神様がおられたということを、私たちは覚えたいという風に思います。この神様の心が少しでもわかったら、そういう神様がおられるんだということが少しでも意識できたらば、解放されたんじゃないかなと思いますねこ。んなに恐ろしい事件は起きなかったんじゃないかなと思うんですね。でもそれが見えなかった、聞こえなかった、そこにサウルの悲しさがあるということを私たちは覚えたい。

 そして私たちはそのようなことにならないように、普段のあゆみの中でそういうことにならないように、気を付けなければいけないという風に思います。

今あなたの心は満たされているでしょうか?あなたの心は孤独に苦しんでいるということはないでしょうか?誰も私のことをわかってくれない、自分一人だけで苦しんでる、そんな心境になってはいないでしょうか?誰も自分の事を思って心配してくれない、そんな心境になってしまってることはないでしょうか?あるいは、今までいろんなことがあった、いろんな挫折、失敗、いろんな経験、それをずっと引きずってしまっているって言うことはないでしょか?心の傷とか、誰かから言われたことが忘れられないとか、そのような感情が自分の中で正しく処理されているでしょうか?

それが蓄積されてしまう時に、私たちはだんだん冷静な判断ができなくなってしまいますね。そのような思いを私たちは、神様に注ぎ出していく者でありたいと思います。

5.まとめ

 最後にペテロの手紙第一、15章7節の言葉を紹介して終わりたいと思います。「あなたがたの思い煩いを、一切神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」ペテロの手紙第15章7節の言葉です。あなたがたの思い煩いを一切神に委ねなさい、そのように聖書において命じられております。皆さん今どんな思い煩いがあるでしょうか?いろんな思い煩いがあると思います。生活の思い煩い、お金の思い煩い、あるいは人間関係の思い煩い、そして自分の心の中にある罪の思い煩い、いろんな思い煩いがあると思いますが、それは一切主に委ねなさいと命じられております。そしてその後に続く言葉は「神があなたがたのことを心配してくださるからです」という風に記されてあります。私たちの抱えているその思い煩いの一切を主に委ね、そしたら神様が心配してくださる、ひとりじゃないですね私たちはね、 一人で悩むってことありえないことなんです。もし神様とのこの生きた関係が与えられていたら、私たちは一人ではないですね。もう一人で「誰も心を痛めてくれない」そんな心境になることはないんですね。痛めてくれる人がいるんです。神様が私たちの思い煩いを全部担って心配してくださる。だからイエス様をくださった。だからイエス様は私達の身代わりになって死んでくださった。こんなに私たちは愛されている、祝福されている、それが見えなくなってしまうのはなんと残念なことではないかと思うわけであります。是非、私たちの思い煩いの一切を主に委ねようではありませんか。そして主が心配してくださるその恵みを味わおうではありませんか。どうか私たちが心を閉ざしてしまうことがありませんように。人に対しても神に対しても、心を閉ざしてしまうことがないように、そして自分の部屋の中に閉じこもってしまうことがないように、いつも主に向かって心を開こうではありませんか。めぐみを豊かに味う毎日としていきたいと思います。

 お祈りをいたします。愛する神様、み言葉を感謝します。私たちの思い煩いの一切を主にお委ねいたします。どうぞ主が、私達を正しく取り扱ってください。そして神様、どうか立てられている為政者たちが、本当に神様の守りの中で正しい判断のもとに、この国を導いていくことができるように。立てられている首相や大臣等、リーダーたちをお守りくださいますようにお願い致します。み言葉を心から感謝します。キリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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