心を広くしてくださる方
詩篇119篇の今日は4段落目に入るんですけども、今日の聖書の箇所25~32節を読んでいただきました。お聞きになって皆さん気づいたことがあるかなと思うんですけども、今日の段落には「道」という言葉が何度も何度も出てくるということなんですね。日本語でももちろん出てきますけども、「道」という言葉はヘブル語では「デレク」と言うんですけれども、へブル語の聖書では、「デレク」という言葉が、何度も何度も出てきますね。しかも、それぞれの言葉の最初に出てくるんです。
26節でも「デレク」という言葉から始まる、27節も「デレク」という言葉から始まる。29節、30節も「デレク」という言葉から始まる。32節の最後の言葉も「デレク」という言葉から始まる。ですから日本語の聖書以上に、ヘブル語の聖書を読んでいると「デレク」「デレク」「デレク」と出てくるんです。それでこの時の詩篇の著者にとって、「デレク」という言葉が、とても重要な強く意識されている言葉だったということが、はっきりと伝わってくる。そしてこの詩篇の著者にとって、「道」について非常によく考えている、そういう箇所なんだということがわかります。
私たちも皆、若い時はみんな自分の「道」で悩むんではないかと思いますね。年をとってももちろん悩むと思いますけど、とりわけ若い人にとっては「道」ということについて、本当に悩むんじゃないでしょうか。私も若い時がありましたけども、本当に自分の「道」について悩んでいたなと思います。私は若い頃、20代の頃はフィリピンに留学をしていまして、フィリピンでの生活をとても満喫していたようにも見えるんですけれども、でも心の中はいつも不安でいっぱいでした。フィリピンまで来て学びをして、「これからどうなっていくんだろう?これがどういうふうにに生かされるんだろうか?」ということで、いつも心配でした。心細かったんですね。それでイエス様をもちろん信じていましたけども、「本当に主はどのような道に導いてくださるのか?」ということが見えなくて、本当に不安な日々を過ごしていたなと思います。当時私は牧師になろうなどということは全然思っておりませんで、違うことを考えていたんですけれども、でもその後、不思議な導きで30代になってから神 学校に導かれて今に至ってる。その後は神様が導いてくださってるというのは分かりましたけれども、それが定まるまではだいぶ不安定な日々を過ごしていたなと思います。
私たちは皆、「道」で悩むんですよね。どの「道」を歩んで行ったらいいのかってことで悩むんですが、この詩篇の著者もやっぱり悩んでいるなと思います。
この人、まず二つの「道」をここで意識してるんですが、まずは自分の道のことを考えてます。26節で、
ということですね。自分の道を申し述べたこの人が神様に自分の道について相談がしているということがわかりますね。それに対して神様は「答えてくださった」ということで、そこに神様との親しい交わりが経験されているんだなという事分かりますけれども、「あなたの掟を 私に教えてください」と続いていますので、どうやらこの人は、自分の道に満足していないということが分かるかなと思います。それは本当にその通りでして、なぜなら自分の道というのは「偽りの道」だったからなんですね。29節、
という風に語っております。彼は「自分の道」とはつまり「偽りの道」でありまして、そしてその偽りの道を取り除いてくださいと、この日祈っております。ですから彼は自分の道に失望しているということが分かるわけであります。このように彼は自分の道のことを考えていますけれども、でも一方ではもう一つ違う道のことを考えているということがわかります。それは「神様と共に歩む祝福の道」、その道を彼は考えています。27節で、
と語って、ここに「戒めの道」という「道」が出てきます。さっきの「自分の道」、「偽りの道」とは違う道ですよね。そして30節では、
「真実の道」という道、そのように言い表しています。最後32節に、
またここにも「道」が出てきます。このように主と共に歩む祝福の道というのは、神様の「戒めの道」であり「真実の道」であり、神様の「仰せの道」なんだということが分かる。そしてこの人は、この道を求めています。「あなたの戒めの道を、私に悟らせてください」って祈ってるんですね。この道を知りたいんです。「私は真実の道を選び取り、私あなたの仰せの道を走ります。」この道を彼は求めてるんですよね。つまり彼は自分の道に失望していますね。自分の道に失望しながら、でもだからこそ神様の祝福の道を求めている、活動している人なんだということ、そのこと私たちは教えられるんではないでしょうか。
そしてその道が本当に祝福の道になるために必要なものが、「み言葉」であったということがわかります。ですから彼は「み言葉」を求めてるんですね。26節で、「どうかあなたの掟を私に教えてくださいって」と祈ってますね。あなたのおきて、み言葉を私に教えてください。そして28節で、
29節、
彼は繰り返し繰り返しみ言葉を求めてます。この道を歩むために、この神様の祝福の道を歩むために、「み言葉」が必要なんだ、だから「み言葉」を教えてくださいと祈っている。そのような祈りの詩篇であるということを、私たちも覚えたいと思います。
私たちの目の前にも、いつも二本の道が開かれてるんじゃないかなと思うんですね。「自分の道」と「神様の祝福の道」という、この2本の道が開かれているんではないでしょうか。そして私達は、「自分の道」を歩めば歩むほど、失望してしまうことが多いんではないかなと思いますね。でもそこから「祈り」が生まれてきますね。本当に祝福をの道を歩みたい、神様と共に歩む祝福の道を歩みたい。そしてその時に必要なものは「み言葉」なんですね。ですから私たちもこの詩篇の著者のように祈るものでありたいと思います。
「どうか私にも掟を教えてください。あなたのみ言葉を教えてください。あなたの仰せを教えてください」と、そのように祈る者でありたい。そして祝福の道に導かれる者になりたいと思います。そのような道を共に歩んでいけたら幸いだなと思います。
ただ私達、 丁寧にもう少し深く考えてみたいと思います。私たちはそもそも本当にこの祝福の道を歩みたいと心から願っているでしょうか?もちろんそう願ってると思うんですよね。本当にそのような祝福の道を歩んでいきたいなと思っていると思います。
でも実際にはどうでしょうか?意外と実際に私たちそのように願いを願いながら、神様の祝福の道を歩みたいなと思いながらも、相変わらず自分の道を歩み、自分の道の中にとどまり、そして自分の道を貫いてしまっているということが結構あるんじゃないかなと思うんですよね。クリスチャンとして、ずっと長く歩んでいたとしても、それで生活が安泰になるかというと、必ずしもそうではなくて、クリスチャン生活が長くなれば長くなるほど、いつまでたっても自分の道から離れられない。相変わらず自分の道を歩み続けている。そしてそこから離れられないで、それを貫き通そうとしている。そのような自分の現実ってものを示されて、よりはっきりと見えて来るっていう事があるんじゃないかなと思うんですね。
ですから私達いつもこの二本の道をどこかで意識せざるを得ない、そういう状況じゃないかなという風に思います。
今、私達の時代では、一つの生き方がすごく流行ってると言うか、求められている生き方があるんじゃないかなと思うんですよね。それはよく聞く言葉だと思います。それは「自分らしく生きる」っていう生き方ですね。よく聞くなと思います。自分らしく生きたい、自分らしく輝いていたいと言うんですね。自分らしさが求められる。自分らしさが追求される、期待される。そんな時代に私たち生かされているんじゃないかなと思うんですね。そして私たちも実は心の深いところではそう願ってることが多いんじゃないかなと思うんですね。自分らしく生きたい。誰にも邪魔されないで、本当に自分に与えられた人生を、自分らしくそして自分の色を輝かせて歩んでいきたいって言う、何かそういう願いを、心の深いところで持ってるような気がするんですよね。
でも本当にそれが神様が願ってる生き方なのかどうかということは、私たち、注意深く見る必要があるかなと思います。何かすごくもっともらしいことのように聞こえますけれども、でも神様が私たちに願っていることは、違うところにあるんじゃないかなと思うんですよね。人のそういう期待に応えていく、人の声に耳を傾けていくということも大事ですけども、一番大事なことは、「神様の声に耳を傾けていくということ」、「神様が何を願っているかということ」なんですよね。
もし本当に私たち、「自分らしさ」というものが本当にはっきり見えた時には、私達、自分に失望してしまうんではないかなと思うんですね。自分の姿が本当にありのままに見えてしまったら、がっかりしてしまうんじゃないでしょうか。アダムとエバは、エデンの園で罪を犯した時に、自分たちが裸であることに気づいたって聖書に書いてますよね。それまでも裸だったんですけど、それまでは全然気にならなかったんですよね。ところが、神様のみ言葉に背いて罪を犯した時に、「自分たちが裸であることに気づいた」って書いてある。そして何をしたでしょうか。イチジクの葉っぱを綴りあわせて自分の服を作ったんですよね。それで、その事のゆえに、自分の中に、堂々と見せることのできないものを抱え込んでしまった、何か隠さざるを得ないものを自らの内に隠し持ってしまったってことが、そこから言えることではないかなと思うんですよね。とても自分らしく生きることができないんですよね。
1.気落ちした時の助け
この詩篇の著者は25節で、
という風に語っている。非常に興味深い言葉だなと思うんですね。彼のこの時の心境です。「私のたましいは、チリにうち伏しています」って、どんな心境だったんだろうって考えさせられる。それで「うち臥している」というふうに訳されている言葉を調べてみると、これは「くっつく」とか「密着する」とかそういう意味の言葉であることがわかりましたけれども、彼は本当に気落ちをして、そして自分の抱えているその問題の中で本当にそこから離れられなくて、苦しんでいる、もがいてている、そんな様子が感じられる言葉ではないかなと思います。また28節でも、
と、「溶け去る」という言葉を使ってますね。私の魂は悲しみのために溶け去るってどれくらい深い悲しみだったんだろうかということを考えさせられますね。その悲しみのために自分の魂が溶け去ってしまうくらいの、自分がもう持たないってんでしょうかね、もう自分が自分であることが、もうもたない、自分の存在の危機をここで感じてるような、そんな言葉ではないかなと思います。どうして彼はこうなってしまったのか詳しくはわかりません。
前の段落を見ると、「そしりと蔑み」という言葉が出てきますので、彼はもしかすると人々からそしられ蔑まれて、そんな人間関係のトラブルの中で本当に自分の惨めさを味わって、そのような状態になってしまったということも考えられるけれども、でもそれだけではないような気がするんですよね。
2.「偽りの道」から「真実の道」へ
もっと彼の内側にもっと内面的な理由があるんじゃないかということが考えられる。
どうしてそう言えるかと言うと、その後で彼は、「み言葉の通りに私を生かしてください」と祈ってるからなんですよね。25節で「み言葉の通りに私を生かしてください」と彼は祈りました。28節でも「み言葉の通りに私を強めてください」と祈りました。この両方の記事で、両方の個所で、彼は「み言葉のとおりに」と祈ってる。「み言葉のとおりに私を生かしてください」、「み言葉の通り私を強めてください」と。つまり彼の悩みはどこにあるかと言うと、み言葉の通りに生きることができないというところに彼の悩みがあるんですよね。人から色々言われて、落ち込んだりとか惨めさを味わったりとか、いろんなことがあると思いますけれども、それ以上に自分の中に神様のみ言葉のとおり生きることができない、そういう悩みがある。彼は知ってるんですね。み言葉の通りに生きたい。そしてみ言葉の通りに歩めば必ずそこに祝福があると知っているのに、しかしそう歩むことができない現実が自分の中にある。そうさせまいとする問題が自分の中にある。その罪の虜になっている彼の悩み苦しみというものがそこに示されているということに、私たち気づかされるんではないかなと思うんですよね。これはやっぱり「自分らしく」歩もうとする時の私たちの姿ではないでしょうか。私たちは皆そういう悩みを抱えているんだと思います。
私たちの祈りは、この詩篇のみ言葉から教えられる。私たちの祈りはやっぱり私たちの自分の道が、どうか主の祝福の道に変えられますように、自分の偽りの道が、真実の道に変えられますようにという祈りであるべきではないでしょうか。そして自分のこの道が、自分らしく歩むこの生き方が、そうではなくてキリストらしく歩む生き方に、キリストのような生き方に変えられますようにというのが、私たちの祈りではないでしょうか。主が願っていることって、私たちが皆それぞれ自分らしく生きることではないと思いますね。私たちがキリストのように、キリストらしく生きることを主は願っておられるんではないでしょうか。そのことを私達は心に留めながら、この詩篇の著者のように、本当に祈っていく、心を注ぎ出して祈っていくものでありたいと思います。私たちも是非、「み言葉の通りに私たちを生かして下さい」と祈るものとなろうではありませんか。
3.私の心を広くしてくださる方
さてこの詩篇の著者は30節を経ると、ちょっと変わってきてるなという感じがするんですよね。30節から読んでみます。
このように語っていますけども、ここ読むとですね、この詩篇の著者がだんだん前向きに積極的になってきているということを感じさせられるんではないかなと思います。30節で「私は真実の道を選び取った」と告白していますが、これが大きかったんじゃないでしょうか。彼は真実の道を選び取った。彼の目の前に二つの道があったんです。自分の道、偽りの道と神様の祝福の道、真実の道、その二つの道を彼は意識していましたけれども、自分の道の中に歩みながらも、でも彼は真実の道を選び取ったと告白した。そこに選択があるって事が分かりますよね。二つの道がある中で、彼は信仰をもってこの道を選んだということなんですよね。そのような信仰による選択というものが、私たちにも求められているんではないかなと思います。そしてその後、「あなたの定めを自らの前に置きました」って、これも自分で置いたんですね。自分でに意識して、あえて自分で置いた。あなたの定め、神様の定めを自分の前に置いて、もうそこから絶対離れないように、彼はそういう気持ちでそのような努力をしているということが分かると思います。さらに31節で、
あなたのさとし、神様のみ言葉にすがります。そこからくっついて離れませんという、そういう意思表示をしていますね。本当に彼はみ言葉を心から求めている人でした。もうあの自分の道、偽りの道に戻りたくない。もうあの縛られた不自由な自分に縛られて、逃げられない、あの道に戻りたくないという、そういう気持ちの表れだなと思いますけれども、彼は「み言葉に固くすがりついている」と、そういう信仰告白がここになされていると思います。そしてその結果彼はどうなったんでしょうか?32歳です。
ここで「走る」って彼は言っている。びっくりです本当に驚きの言葉だなって思うんですよね。さっきまで彼は「ちりにうち臥している」って告白してたんです。「私の魂はチリにうち臥している」って。もうそこから離れられない。もがいてている。とても走れるような状態ではなかったんですよね。28節でも、「私の魂は悲しみのために溶け去ります」って、もう全然力が入らない,本当に無力な状態で、とても走れるような状態ではなかったんですけれども、ところがここにきて彼は軽やかに走り始めているということに気づかされる時に、本当に大きな変化を彼は経験しているということが分かる。そしてこれはやっぱり彼が真実の道を選び取り、そして神様のさとしに固くすがった結果であったということが言えるのではないでしょうか。つまり彼がみ言葉の道をあえて選び、み言葉にしっかりすがりつき、そのみ言葉によって生かされている恵みを体験したからこそ、このような告白が生まれてきたということであります。どうして彼はそのように告白できたんでしょうか?そして彼はその御言葉を経験することで何を経験したんでしょうか?それが最後の言葉、告白の言葉だと思います。彼は最後にこういう風に言っています。
神様がみ言葉を通して、この人の心を広くしてくださった。そのような恵みを彼はみ言葉を通して体験した。だからこそ彼はここで「あなたの仰せの道を走ります」と告白に導かれているということ、み言葉というのはそのようにして私たちの心を広くしてくださる恵の言葉であるということを、私たちはここから覚えるものでありたいと思います。
私たちが悩む一番の原因と言っていいかなと思いますが、私たちが悩んでしまう、そして私たちが味わう不幸の原因は、自分で自分の心を狭くしてしまうからではないだろうかと思うんですよね。私達はよく、自分で自分の心狭くしているんではないでしょうか。人との関係の中で、色々な交わり出会いの中で、優秀な人・立派な人と出会うと。それと比べて自分がいかにみじめで、小さくて、足りなくて、貧しくて、そういうことを知らされて、だんだん自信がなくなってしまったり、情けなくなってしまったり、惨めさが募ってきたりしてですね、自分で自分の心を閉ざしてしまうことがあるんですよね。あるいは人から何か言われたとか、傷ついたとか、そういうことがあるとどうしてもその人に対して心を閉ざしてしまうということがあります。あるいは自分のいろんな醜い姿が見えてきたり、自己中心であったり、人を裁いてばっかりいたり、なかなか成長できないとか、色々自分の弱さが見えてくると、それでやっぱり自分に自信がなくなってしまって、クリスチャンとしても心を閉ざしてしまうことがあるんじゃないかなと思うんですよね。その人たちたちは、ドンドンドンの心が狭くなってしまうそういうことあるんじゃないでしょうか。
でも神様の言葉は、そういう私たちの心を広くしてくださる恵の言葉なんだということをぜひ覚えたいと思います。そこで今日は旧約聖書の雅歌の言葉を紹介しようかなと思います。最近はずっと我が家では雅歌を読んでいるんですけれども、雅歌の中にこんな言葉が出てきました。雅歌の2章の9節ですけど、
これは女の人の言葉なんですけど、この女の人が自分の家の中に閉じこもってですね、そして格子越しに、つまり格子の窓ですね、窓の向こうから私の愛する方がこちらを向いている。この人は自分の家の中に閉じこもってるんですね。そうすると10節、
そういう風に格子窓の向こう側から、私の愛する人が私に向かって語りかけている。その言葉が出てくるんですよね。その愛する男性の言葉ですけど、その愛する方がですね、「さあ立って出ておいで」って呼びかけてるんですよね。冬も去った、雨も去った、後に花は咲き乱れ、本当に素晴らしい季節になったんだから、さあ出ておいで、立って出ておいでって呼びかけていることはそして私の愛する者私の美しい人よ、さあ出て出ておいで。岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。この鳩、つまりこの女の人は岩の裂け目崖の隠れ場の中に隠れちゃっている、怖いんですね。出ていくのが怖いんです。
そういう心境になること私たちもあるんじゃないでしょうか。自分の全てを見せてしまったら、もしかしたら嫌われてしまうんじゃないか。私たちみんなそういうものも抱えてるんじゃないかなと思うんですよね。愛して欲しいんですね。愛してほしいんですけれども、なにか自分の中に不安なものがあるんですね。自信がないんですね。それを全部見せてしまったら、もしかしたら嫌われちゃうんじゃないか。もしかしたらあの人は去っていってしまうんじゃないかという不安があって、部屋の中に閉じこもっていることが多いんですよね。崖の中に隠れてしまっていることが多いです。
でもこの愛する人が呼びかけてくれるんですね。「さあ出ておいで。立って出ておいで。あなたの顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい」って、そういうふうに語りかけてくださる愛の言葉が、彼女に向かってかけられている。そうするとこの女の人は告白するんですね。16節、
彼女の心が不安から解き放たれて、本当に安心してこの人に身を委ねていける。そういう愛の交わりが回復していく。その姿が雅歌の中で歌われている。この雅歌というのは男と女の人の間の歌でありますけれども、そのことを通して神様の愛の豊かさというものを、私たちは教えられる。そういう内容の歌だと思います。
私たちも皆不安なんですね。ありのまま出してもらえないじゃないかと、自分のことを知れば知るほど不安になってしまって、心を閉ざしてしまうんですね。本当に心配になるんです。ところがそういう私たちに向かって神様は語りかけてくださるんですね。
「出ておいで。あなたの声を聞かせて欲しい。あなたの顔を見せて欲しい。あなたはなんて愛らしい方なんでしょう」って、そのように語りかけてくださる神様の言葉があるって言うことを私たち覚えたい。そして本当にそのような愛と恵みの言葉を聞いた時に、私たちの心も開かれていくんですよね。固く閉ざされた言葉が開かれていって、そして本当に安心して神様めぐみの中で許されて、親しい関係の中に生かされていくことができる。神のみ言葉というのは、そのようなみ言葉であるということを、私達は覚えるものでありたいと思います。私達も、是非この自分を偽りの道ではなくて、神様の祝福の真実の道を選び取っていこうではありませんか。そして私たちもしっかりとこのみ言葉にすがろうではありませんか。そこで語られる神様の声に耳を傾けようではありませんか。それは本当に愛と恵みに満ちた言葉です。そのみ言葉を体験しながら、狭い心を本当に広くしていただきたい。そしてこの詩篇の著者のように、「あなたの仰せの道を走ります」と、軽やかに走っていくものでありたい、そのようにして本当に恵みの中を生かされて、主と共に歩む生涯へと私たちを導いていただきたいと思います。
お祈りをしたいと思います。愛する神様。御名を賛美します。今日詩篇119篇のみ言葉を味わうことができたこと感謝いたします。私たちの不安のゆえに、また罪深さのゆえに、私たちは心狭くし、そして本当に自分勝手な道の中に歩んで行きやすい 、そのような愚かな頑なな私たちをどうか許しください。でも主のみ言葉がいつも語られてるめぐみ覚えて感謝します。そのような私達をあなたが無条件に愛してくださり、また私たちの全ての罪を許すために十字架にかかって死んでくださいました。そのような大きな愛をもって、私たちを愛し受け入れ、そして今も導いてくださる恵みを覚えて感謝します。どうか恵のゆえに、私たちも心広くされて、喜びをもってこの一週間、主と共に歩んでいくことできるように助け導いてください。与えられたみ言葉を心から感謝し、主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。