他に道はないのか?・・・サムエル記 第一27章1~12節
サムエル記 第一 27章1~12節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
“ダビデは心の中で言った。「私はいつか、
ダビデは、一緒にいた六百人の者を連れて、
ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、
ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、
ダビデはアキシュに言った。「もし、
その日、アキシュはツィクラグをダビデに与えた。それゆえ、
ダビデがペリシテ人の地に住んでいた日数は一年四か月であった。
ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、
ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしてはおかず、羊、
アキシュが「今日は、どこを襲ったのか」と尋ねると、
ダビデは男も女も生かしておかず、
アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。「
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あなたは今までに、「他に道はないのか」という心境になったことはありませんか?私も今までに何度かそのような心境に陥ったことを振り返っています。私が高校三年生だった時に、いくつかの大学を受験しましたが、全部落ちてしまいました。そこで地元岩手の予備校に行くことになりましたけれど、その時に私は思ったと思いますね。「予備校しか道はないのか」。他に道はなかったんですね。それで1年間浪人をしましたけれども、そんなことがあったことを思い出しました。またその後しばらく経って、フィリピンに留学をしまして、卒業して岩手に戻って就職活動をしました。留学をしてきましたので、その学んできたことを生かせるような、何かそんな仕事があるといいなと思って何社か当たってみました。が、結局私を採用してくれる会社はどこにもありませんでした。そんな時、父の知り合いからですね、盛岡の駅前のホテルで、厨房のアルバイトを探していると言われました。その時私は思いましたね。「厨房のアルバイトしか道はないのか」。
でも私は、それを2年間やりました。それでも、それが非常に私にとって必要な経験だったということが、後でわかりました。でも最初はそんな気持ちでアルバイトを始めたということを思い出しております。
1.他に道はない
きっとあなたも、「他に道はないのか」「他に選択肢はないのか」という気持ちに捕らわれたことはありませんか?大体それは行き詰まっている時ではないだろうかと思いますね。
27章の1節でダビデは、「他に道はない」と言っているわけですけども、この時のダビデも、たいへん行き詰っていたということがわかります。1節の言葉を読んでみます。
「ダビデは心の中で言った。私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ぺリシテ人の地に逃れるより他に道はない。そうすればサウルはイスラエルの全領土内で私を探すのは諦め、こうして私は彼の手から逃れられる。」と。
この最初のところでダビデは言っております。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。」ここでダビデが、死の恐怖を感じているということ、そして非常に悲観的ですね。将来に対して暗い展望を持っているということを感じさせられる、そういう言葉であります。
ダビデは今までずっと、サウルから逃げ回ってきました。イスラエルの王であるサウルが、ダビデを捕らえて殺そうとしております。ですからダビデは捕まらないように、必死になって逃げ回っているわけですけれども、どこに隠れても安心できる場所がありませんでした。どうしてかと言うと、必ずそこにはダビデのことを見つけて、サウルに密告する人がいるからですね。せっかく隠れていたのに居場所がバレてしまって、そしてサウロが追いかけてきて、危うく危ない目にあうということが今までも何度もありました。しかもダビデは一人で逃げ回っているわけではなくて、600人の部下と一緒に逃げ回っております。600人を養っていくっていうのは本当に大変なことだったと思いますね。大変なストレスだったと思います。
そしてダビデは2度、サウロと仲直りしかけたこともありました。そんなことが2回あった。そして26章がまさにそういう場面でした。26章の25節の最後のところでは、二人は穏やかにそれぞれのところに帰っていく様子が書き留められております。でもダビデは、この時にはもうサウルのことを信頼できなくなっておりました。結局は変わらない、変わったように見えるけれども結局また元に戻ってしまう、そういう事が二度あったからですよね。ですからダビデはすっかり人間不信に陥ってしまったんじゃないかなと思います。こんなことがずっと続いていきますね。さすがのダビデも疲れ果ててしまったんじゃないだろうかと思います。一体いつまでこの状況が続くんでしょうか。全くわからない。将来に対する明るい展望が全く描けない。そういう状況の中でペリシテ人の地に逃れるより、他に道はないと判断したんだというふうに思います。ペリシテ人は、今イスラエルが戦っている相手ですよね。ですから敵です。あのゴリアテはダビデが倒して勝利したペリシテ人の将軍 です。そしてその後もダビデはペリシテ軍と戦って何度も勝利を収めてきた。ですからペリシテ人にとって、ダビデは非常に憎らしい、そういう存在だったと思うんですけども、そのペリシテ人の地に入るっていうことは、それは大変な危険なことではないだろうかと、私たちは感じますね。でもそれくらいダビデは追い詰められていたということです。もはやイスラエルの領土の中には、もうダビデの居場所はない。安心して隠れる場所もない。もう敵のペリシテ人の方がまだ安全であると思えるくらい、ダビデ追い詰められていたっていうことだと思いますね。ですからこれはもうぎりぎりの判断だったと言っていいんじゃないでしょうか。そのダビデの苦悩が、この一節の言葉に込められているということが分かるわけであります。
でも私たち思いますね。神様はダビデのことを守ってくれていたんではなかったでしょうか。そしてダビデも、そんな神様の守りを何度も何度も経験してきたんではなかったでしょうか。殺されそうになったこともありました。もう間一髪、ギリギリ。でもその時に本当に不思議な導きで守ってくださったというそういう経験もしましたよね。絶えず主の守りがあったんです。そのたびにダビデは感謝したと思いますね。本当に神様に感謝したと思います。そんな経験を積み重ねながら、本当に彼の信仰も養われていったと思います。そして直前の26章においてもダビデは、「主は生きておられる」と告白をしてる。26章の10節でダビデは部下のアヴィシャイに向かって、「主は生きておられる」と告白をしております。さらに24節でもサウルに向かって、「今日、私があなたの命を大切にしたように主は私の命を大切にして、全ての苦難から私を救い出してくださいます。」と告白していますね。
これはもうダビデの心からの告白です。口先だけのそういう言葉ではなく、本当にそう思って言ってるわけですね。「神様は、わたしのことを大切にしてくれている。全ての苦しみから私を救い出してくださる」と、確信を持って言っている。そのダビデであるならば27章においても、その確信に立つことはできなかったんだろうかと、非常に考えさせられるところじゃないかなと思いますね。あのダビデであったはずなのに、偉大な信仰者であったダビデなのに、この時はさすがに疲れ果ててしまったんでしょうか。そうして大きな不安に駆られて、「他に道はない」と、判断してしまったんだと思います。
このダビデの姿から、私たちは教えられるんじゃないだろうかと思います。
私たち人間は、いかにすぐに不安にとらわれるか、いかにすぐに不安や恐れや恐怖、それにとらわれてしまうか。そしてひとたびその気持ちに捕らわれてしまうと、もはや信仰を働かせることが全く出来なくなってしまう。そういう私たちの姿が示されてるじゃないかなと思うんですね。あのダビデでもそうだったんです。神様の守りと勝利を、何度も何度も繰り返して経験してきたあのダビデでさえも、もう先が見えない。そして本当に悲観的になってしまって、「もうこれ以外に道はない」と、そういう判断を下してしまった。ダビデがそうであれば、私たちもきっとそうだと思いますね。
私達は何と不安に支配されやすいものではないでしょうか。そんな人間の姿を、このダビデの姿を通して、私たちに示してくれているんだと思います。
さていづれによ、ダビデは選択をしたんですね。そしてあとは、前に踏み出すしかない。
その後の展開も、たどっていきたいと思います。2節、3節、「ダビデは 一緒にいた600人のものを連れてガテの王マオクの子アキシュの所へ渡って行った。ダビデとその部下たちはそれぞれ自分の家族とともにガテでアキシュのもとに住んだ。」と書かれています。そのことがサウル王に知らされました。すると4節で、「ダビデが勝手に逃げた事がサウルに知らされるとサウルは二度と彼を追おうとはしなかった。」と書いてあります。ダビデが期待した通りになりました。サウルはもはや追いかけできませんでした。ですからダビデは、サウルの恐怖からは解放されたということが言えるんだと思います。
2.新たな問題を抱え込む:信じがたいダビデの行動
でもダビデはペリシテ人の地に住むことによって、今度は新たな問題を抱え込むことになったということが、この話の展開を通してわかることであります。5節と6節を読みます。
「ダビデはアキシュに言った。『もし私があなたのご好意を得ているなら、地方の町の一つの場所を私にください。そこに住みます。どうしてこの下僕が王国の都に、あなたと一緒に住めるでしょう。』その日、アキシュはツィクラグをダビデに与えた。それゆえツィクラグは今日までユダの王たちに属している。」
ダビデはガテの王、アキシュに一つの地方の町に住まわせてほしいとお願いをしました。するとアキシュは、ツィクラグという町をダビデに与えたということで、ダビデとその連れの者たちは、ツィクラグという町に住んだということが書かれてあります。このツィクラグという町は、イスラエルとペリシテのちょうど中間に位置する町でした。この時はペリシテ人の領土でしたけれども、ユダの南端に位置する町で、かつてはイスラエルの領土だったところです。そのツィクラグがダビデに与えられたのは、もしかすると国境の警備をダビデにしてもらいたいという期待がアキシュにあったからかもしれません。
しかしダビデが地方の町の一つを与えて欲しいと願ったのには別の理由があった。それはアキシュから離れたところに住んで、秘密を守るためであったということが分かるんですね。そのツィクラグに住みながらダビデは、どんなことをしたでしょうか。そのことの内容を見ていきたいと思います。八節から読みます。
「ダビデは部下とともに登っていって、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいた。ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしてはおかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのところに帰ってきた。アキシュが『今日はどこを襲ったのか』と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。ダビデは男も女も生かしておかず、ガテに一人も連れて来なかった。彼らが『ダビデはこういうことをした』と言って、私たちのことを告げるといけない」と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間は、いつもこのようなやり方をした。アキシュはダビデを信用してこう思っていた。『彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私の下僕でいるだろう。」
8節に「ダビデが部下とともに上っていって、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った」と記されてあります。しかもその地域の人々、「男も女も皆殺しにし、さらに羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪ってアキシュの所に戻ってきた」と、9節に書かれてある。そして11節、「ダビデがペリシテ人の地に住んでいる間いつもこのようなやり方をした」と記されてあります。つまり住民虐殺ですよね。これは住民虐殺を、繰り返し継続的に行ったということであります。ちょっと信じられないことですね。ここに書いてあることは本当にダビデのことだろうかと疑いたくなる場面だと思いますね。あの詩篇23篇「主は私の羊飼い」という詩篇を作った、またたくさんの美しい詩篇を作った、あのダビデなんでしょうか。信仰を持って日々歩んできた、どんなに苦しいことがあっても神様に対する信頼を失うことのなかったあのダビデが、こんなことしたんでしょうか。ちょと私達には 信じられないような場面がここに出てまいりますけれども、この場面だけ見ると、ダビデはまるで殺人鬼のようなそんな人物ですよね。極悪非道の独裁者のような、そんな姿に見えるんじゃないでしょうか。とても信仰者には見えない。なぜこんなことをダビデは、してしまったんでしょうか。しかもそれを継続的に繰り返し行ったんだろうか。
ダビデはこのペリシテの地にあって、生き残るのに必死だったということが分かります。ダビデはアキシュに報告をしているんですけども、この報告の内容を見ていくと、彼は嘘をついているということがわかります。ダビデが襲った人たちの名前は、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人と記されてあります。これはイスラエル民族ではない異教の民です。それなのにダビデはアキシュに報告する時には、「ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブ」とか言って報告しているんですけども、これはイスラエル民族の名前です。明らかに彼は嘘ついてるんです。何故ここで嘘ついてるんでしょうか。それはダビデが同胞のイスラエル人を攻撃しているということをアキシュに伝えて、アキシュから信用してもらうためです。要するに自分の身を守ろうとしている。そしてその真相が絶対に伝わらないために徹底的に人々を皆殺していることも分かります。一人でも生き残って、この真相がアキシュに伝わってしまったら、大変なことになるということで、徹底的に男も女も皆殺しにしたということが書いてある。何と恐ろしいことをダビデはしていることだろうか、というふうに思うわけです。そして確かにダビデが計画した通りに、ダビデはアキシュの信用を得たということが12節に出てくることですね。「アキシュは、ダビデを信用してこう思っていた。『彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。』と、アキシュはそのダビデの報告を、その通り信じて、そしてダビデはひどいことやっている、これでもう大丈夫だと信じそのことでダビデは信用を得たということが、ここに出てくることであります。ダビデは何とかしてペリシテ人の中にいて、居場所を確保しようと努力していたということが言えると思います。
しかし私たちは、自らの生き残りのために手段を選ばなかったダビデのこの姿に、非常にがっかりさせられるんではないでしょうか。非常に残念に思うんではないでしょうか。信仰の勇者だったダビデの姿がどこにも見られない。そしておそらくダビデ自身も、本当に苦しかったんじゃないかなと想像いたします。確かにサウロの脅威から解放されたかもしれない。でもぺリシテ人の地に入って、また新たなる恐怖と戦っているというダビデの姿を、ここに見ることになる。こんな惨めなダビデの姿を見るのは初めてじゃないでしょうか。
3.信仰の勇者の弱さを書き留める聖書
わたしたちは、今までサムエル記を順番に学んできましたけども、こんな惨めな落ちぶれたダビデの姿を見るの初めてじゃないかなと思いますね。そしてそのようなダビデの姿をきちんと書き留めている聖書にも、私たちは驚かさられる野ではないでしょうか。
ダビデと言ったら、イスラエルの人々にとっては英雄です。イスラエルの歴史の中で、最も誇るべき英雄ですね。イスラエルの国旗の真ん中に三角形を組み合わせたような星がついておりますが、あれはダビデの星っていいますね。イスラエルの人々にとってダビデと言ったらもう、民族の英雄なんですね。普通そういう人の、こんな惨めな姿を書き留めたりしないですね。もしそういうことがあったとしても、大体は隠したりしてるんじゃないでしょうか。そのようにして歴史が書かれていくということが多いと思いますけれども、しかし聖書はそういうことをはっきり書くんですよね。こういうことを通しても、聖書は神の言葉であるということを私達は感じさせられますけれども、そういうダビデの姿を通して、私たちにしっかり学ぶようにと神様は私たちに教えているわけであります。ダビデだけではないと思います。聖書を読んでいるとアブラハムもそうだし、モーセも、ギデオンも、あるいはペテロやヨハネもそうですけれども、信仰の勇者と呼ばれる人たちが、実は非常に弱い人だったということを、ちゃんと聖書は書き留めていますね。そういう姿を通して、私達にとしっかり学ぶようにと神様からのメッセージが語られているわけです。今日のこのダビデの姿からも、私たちはしっかりと学んでいかなければいけないと思います。
4.神様により頼むことを忘れ、自分で勝手に下した判断がいかに危ういか
これが27章の話の全体なんですが、この内容を全部見た上で、私たち改めて考えさせられますね。
本当にこれしか道なかったんでしょうか?他に道はなかったんでしょうか?ダビデは他に道はないと言って進み始めましたけれども、本当にこれしか道なかったんだろうか。確かにダビデにとってはギリギリの選択だったと思います。本当に厳しいところに立たされていて、もう已む負えない選択だったのかもしれないけども、ただその後の展開の悲しさを見る時に本当にこれが最善の選択だったんだろうかと考えさせられる、そういう場面じゃないかなというふうに思います。
27章を読んでいて、ひとつ気付かされることがあります。それはここに神様が出てこないですね。神という名前は出てこない。そしてそれだけではなくてダビデが神に向かって祈ったとか、相談したということも出てこないです。1節でダビデは心の中で言ったと書いてあります。1節に出てくる言葉というのは、実際に彼が口にした言葉ではなくて、心の中で自問自答した言葉であるということが分かります。つまり自分で考えて、自分で判断して、自分で導き出した結論である、ということですね。その間に神様に祈るとか相談するということはおそらくなかったんだろうというふうに思います。かつて私達が第一サムエル23章を学んだ時、あの時ダビデは何をするにも必ず、神様に相談をしていました。「行ってこのペリシテ人たちを打つべきでしょうか」と、神様と祈ってから、「本当に ケイラに下って行くべきでしょうかしょうかと」、必ず相談してからペリシテ人と戦ってる場面ですけれども、何かする時に必ず祈って、そして御言葉が与えられた時に進んでいくんですよね。そういうダビデの信仰者としての姿が23章には記されてあって、そこから私たちは学びましたけれども、でも今日の場面にはそういう姿はないです。
別にダビデが信仰を失ったわけではないと思います。神を忘れてしまったわけでもないと思います。ただ目の前の現実が、あまりにも厳しいために、そして先の見えない不安があまりにも大きいために、そしておそらく肉体的にも精神的にも相当疲れ果ててしまったために、もはや信仰を働かせる余地がなくなってしまったんじゃないだろうかと思うんですよね。
そんなダビデの姿、人間のギリギリの姿っていうものを表してくれているんだというふうに思います。ダビデにとってのこの厳しい日々は、神様の憐れみによって1年4ヶ月で終わりました。それが7節に書いてあります.「1年4ヶ月であった」とあります。そのあいだは大変な時間だったと思いますけれども、1年4ヶ月しか続かなかったということも言えると思います。その時間が過ぎた後は急速に展開が変わっていきます。サウルが戦死してしまう。そしてその後、イスラエルの人たちは、次の王としてダビデを求める。そしてダビデはどん底の生活をしていましたけれども、そこから呼び寄せられて、引き上げられて、イスラエルの王になっていく。1年4か月経てばそういう展開になるわけですが、その前の段階、その前の4ヶ月の日々のことが、ここに書いてあります。これはダビデにとっては、一番惨めな、そしてダビデの人生の中で一番どん底を味合わされた、そういう時間であったと考えることができます。
でもダビデは、この一年4ヶ月の間に、本当に大切な教訓を学んだということが言えるんではないでしょうか。とても苦しい思いをしながら、本当に辛い経験をしながら、でも本当に大切なことを、ダビデはここで神様から教えられたと思います。そしてそれはダビデが、王様になった後も決して忘れてはいけない、とても大切な教訓だったと思うんですね。
それはこういう教訓だったと思います。自分で勝手に下した判断がいかに危ういのかというそういう教訓です。神に 祈ることもしないで、相談することもしないで、自分自身で下した判断がいかに危ういか、いかに愚かであるか、ということを、この時にしっかりと教えられたということが言えるんではないでしょうか。そのような貴重な教訓をダビデはこの時に得て、非常に痛い思いをしながら、しかしこれをしっかりと身につけて、学んで、彼は王になっていったということを、ぜひ覚えるものでありたいと思います。
5.本当に他に道はないのかを……
私たちもいろんな判断をしながら日々の生活を歩んでいると思います。私たちの人生は小さいことから大きいことまで、どちらにしようか、どちらを選んだらいいだろうか、という、そういう選択と判断の繰り返しだと思いますね。そのような判断と選択の積み重ねによって、私たちの人生は築かれていくのだと思います。その一つ一つの場面で、私たちはいろんな判断をしていきますけれども、どんな判断をしているでしょうか。どんな選択をしているでしょうか。そこでよく考えたり祈ったり、神様に相談したりしながら、一つ一つの事を判断したり、選択しているでしょうか。
そのようなことは、あまりないままに、「もうこれしか道はない」と、自分で判断を下して前に進んでしまうということも意外にあるんじゃないでしょうか。ルカの14章を読んでいると、ある家の主人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招くという話が、そこに記されてあります。時間がやってきました。それでこの主人はしもべを遣わして、「さあおいてください。もう用意ができましたから」と伝え、あとは人が来るだけという段階になっていました。ところが招かれた人たちはみんな、いろんなことを言って断ったということがそこに出てきます。ある人は言いました。「畑を買ったので見に行かなければなりません。どうかご容赦ください」と言ってお断りしたということが出てまいります。またある人は、「5くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうぞご容赦して下さい」と言って断ったと書いてあります。またある人は「結婚したので行くことができません」と言ったそうです。それぞれいろんな理由があったわけですけれども、みんな結局その招きを断ったということが出てくるんですね。すると主人は怒ったと聖書に出てくることであります。それぞれの人にとって、それぞれの理由がちゃんとあるわけですけれども、おそらく一人一人にとっては、もうそれ以外のことは考えられない、それ以外の選択肢は、とっても思いつかない、必ずそれをしなくちゃいけないことだったんだと思います。でも主人は一人一人がみんな宴会に来てくれることを期待していた。でもその主人の心を理解して宴会に集まる人は一人もいなかったということが聖書に出てくる。これは神様と私たち人間の関係を表しているたとえ話しです。主人とは神様を表しています。招かれた一人一人は、私たち一人ひとり表しています。私たちもここに出てくる人のような態度、行動とっていることが結構あるんではないだろうかと思わされます。主なる神様は、私たち一人一人に御心を持っております。こういう風に歩んでほしいな、いういう風に判断してほしいなと、願っている御心をもっております。私たちはどうでしょうか。多くの場合そのような神様の思いというものに気づかないで、あるいは無視して、あえて背いて、自分の道を選び取っていくということが多いんじゃないだろうかと思うんですよね。もうこれしか道はありませんと、私はもうこれで行くしかないですと判断をして、神様の御心に背く道に歩んでいくということが結構あるんではないでしょうか。そしてその結果、色々行き詰ったり、いろんな問題抱えて苦しんだり、ということもあるのかなというふうに思います。私たちはそこで立ち止まって 考えてみる必要があるんではないでしょうか。本当に他に道はないでしょうか。それしか選択肢はないと思っている私たちですけれども、本当にそれだけが選択肢でしょうか。他に道はないんでしょうか。本当にそれを私がするべきことなんでしょうか。そして神様がそのことを願っているでしょうか。神様がそのことを期待してるでしょうか。そこに神様の思いというものを意識することはあるでしょうか。もっともっと考えたり祈ったり、神様に相談したりすることが必要なんじゃないだろうかと思います。
6.まとめ
最後、箴言にある一つの言葉を紹介して終わりたいと思います。
皆さんよくご存知の箴言だと思います。こう書かれてあります。
箴言3章5節6節「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道、全てにおいて、主を知れ。主があなたの道をまっすぐにされる。」
聖書は私たちに、自分の悟りに頼ることの愚かさというものを教えております。そして心を尽くして主により頼むことの大切さ、私たちの行く道、全てにおいて主を知ることの大切さを聖書は教えています。私たちにとっては、これが最善だと思える道があると思います。これが最善の判断で、これ以外には考えられないと、そう感じられることもあると思います。しかし私たちは聖書を通して覚えておきたいと思いますね。自分の悟りに頼るということが、いかに愚かなことであるかということを、私たち覚えておきたいですね。そして神様は私達に願っておられます。私たちが主に信頼すること、より頼むことを願っておられる。そして全ての道、あらゆる時に、あらゆるところで、私たちが、主を知る、神様を知るということを、主は願っておられる。そのような主との交わりを絶やすことがありませんように。そして私たちがそれぞれ、主が願っておられる道を歩んでいくことができるように、そのような道を選び取っていこうではありませんか。これから始まる一週間においてもまた、明日から始まる新年度、あるいは明日から始まる新しい時代にも、私たちそのように主に信頼する歩みを続けていきたいと思います。
お祈りをいたします。
愛する神様。年度が変わる、月が変わる、そして時代が変わるというこの節目の日曜日でありますけれども、そのような時に、ふさわしい御言葉を与えてくださったことを感謝いたします。自分の悟りに頼ることが、いかに愚かであるか、そして主は私たちがどんな時にも、またどこにいても、あなたにより頼み、あなたを知ることを願っておられること教えてくださいました。御心に背いて歩んでしまう愚かな私達でありますけれども、どうぞこれから始まる新しい年度、新しい時代においても、あなたを見上げて信頼し、またあなたと相談しながら、あるいは祈りながら、主の御心を選び取っていくことができるように、どうぞ私たち一人ひとりを、また教会を祝福の道へと導いて下さいますようにお願いをいたします。御言葉を感謝し、イエス様の御名によってお祈りをいたします 。