イエス・キリストをより良く知るために

レビ記1章1-2節 礼拝に生きる

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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新約聖書のエペソ人への手紙からの説教を、無事に先週終わることができたことを感謝しております。エペソの次はどこがいいだろうかと祈りながら考えていましたけれども、旧約聖書の3番目の書物、レビ記のみことばに耳を傾けてみたいという思いが起こされました。レビ記はとても難解な書物であるという風に言われております。私も若い頃は、なぜ聖書の中にレビ記があるんだろうと思っておりました。おそらく神学生になるまでそう思ってたかなという風に思います。

ところが神学校で遠藤嘉信先生という先生から、レビ記を教えていただきましたけれども、その時に目から鱗が落ちるというそういう体験をいたしました。レビ記の中に語られてる Message の豊かさに非常に感動を覚えるというそういう経験をしたことを思い出しております。

その感動はどれくらい皆さんに伝わるかどうかは分かりませんけれども、今日の私たちにとって非常に大切なメッセージが語られているという風に思います。

1.「礼拝」とは、教会に住んでおられる神様とお会いすること

まずレビ記から礼拝について豊かに教えられます。エペソ人への手紙を通して、私たちは教会は神の御住まいであると教えられました。教会はどんなところか?いろんな言い方、いろんな説明が可能なんですけれども、一つの答えは神様が住んでいる所、神の御住まいということが言えると思います。今日まさにぴったりの聖書の言葉が掲げられて、主はまさに聖なる宮におられると、まさに神様が住んでおられるということが示されていますけれども、つまり私たちが教会に来て経験する事って何でしょうか?

それは教会に住んでおられる神様とお会いすること、そのことを私たちは礼拝を通して経験します。ですからまさに私たちはその経験の中にいる。まさに今、神様とお会いしているということが言えるわけですけれども、その礼拝について、私たちはレビ記をとおして、いろんなことを教えられていきます。また私たちはレビ記をとおして、イエス様の十字架についてもたくさんのことを教えられます。私たちは新約聖書を通して、イエス様を信じる者は救われると教えられます。特に十字架にかかってくださったイエス様を仰いで、そのイエス様を信じる時に、全ての罪が許されて救われるんだっていうことを聖書をとおして教えられます。

でも皆さん疑問に思われたことはないでしょうか?なぜ十字架にかけられたイエス様を信じたら救われるんでしょうか。そう聖書に書いてあるからそうなるんですけれども、でもどうして救われるんだろうかと、どういう理由で救われるんだろうかと考えたことがないでしょうか?その答えはレビ記の中にあるということが言えると思います。レビ記の中にイエス様は出てきません。レビ記は、イエス様がお生まれになった何百年も前に書かれた書物ですので、当然イエス様は出てこないんですけれども、しかしイエスキリストの十字架の原型となったものがレビ記の中には出てまいります。これから2月、3月と、進んでいくうちに今年も受難週がやってきます。そして4月12日が、今年はイースターになっておりますので、これから私たちは受難週に向かっていきますけれども、私達はレビ記の御言葉に耳を傾けながら、イエスの十字架の意味について考え、またその恵みを味わいながら歩んでいきたいと思っております。

2.そして神はモーセを呼び・・

レビ記の冒頭の言葉にまず注目をしたいと思います。レビ記の最初の言葉は、一章1節ですが、

主はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた。

そういう言葉から始まっております。日本語の聖書を読んでいても気づかないんですけれども、ヘブル語の聖書でこのところを読みますと、日本語に訳されていない言葉がそこにあるということに気づかされます。

それは、「そして」という言葉が最初についているということです。レビ記1章1節の冒頭に省略されていますけれども、「そして」という接続詞がついています。ですから正確に訳すならば、「そして主はモーセを呼び」と、そういう言葉になると思います。

つまりこの言葉を通して教えられること、気付かされることは、レビ記というのは、その前にある書物と続いているっていう事なんですね。繋がってるって事なんですね。レビ記の前にある書物は何でしょうか。それは「出エジプト記」です。「出エジプト記」の内容とレビ記の内容は繋がっています。特に出エジプト記の後半部分とレビ記は繋がっております。

出エジプト記の前半部分は皆さん大好きな方が多いかなと思いますが、モーセがエジプトを脱出する、モーセとイスラエルの民がエジプトから脱出するという、そういう話ですね。エジプトの王であるパロとの熾烈な戦いを経て、その末にやっと解放されて、モーセとモーセに率いられるイスラエルの民が、エジプトを脱出するという話、その時に海が分かれて、海の中に道が出来て、その道を通っていったというその話は映画にもなりました。そしてその後、シナイ山に行って十戒を頂いたという、そういうそのところまで皆さんよくご存知だと思いますね。出エジプト記の話の前半部分になります。

ところが出エジプト記の後半部分の内容というのは、前半とかなり違います。そこに出てくるのは何かと言いますと、会見の天幕と呼ばれる幕屋の作り方について色々と出てくるわけです。幕屋というのはイスラエルの民が神を礼拝する場所でして、いつでも取り外したり、いつでも組み立てたりできるようになっておりました。そしてイスラエルの民は、その後荒野の40年の旅が続いていくわけですけれども、その旅の行程に、いつも幕屋も一緒に移動していきました。イスラエルの民が旅の途中で宿営をすると、そのたびに人々が、特にレビ部族の人たちが、その役割を担っていましたけれども、幕屋を組み立てて、すぐに幕屋を建てて、そこで礼拝ができるようになっていたわけであります。その幕屋の作り方が、出エジプト記の後半に詳細に記されている内容になります。使う幕は何枚で、膜と膜をつなぎ合わせる撚糸は何色で、そしてその寸法は、高さはどれくらいで、幅がこれくらい、長さこれくらいって、全部出てきますね。全部定められておりました。そのような幕屋の作り方の詳細がつづられています。

そして祭司が、その礼拝を司るところの最初の任務についても出てきますし、祭司が身につける装束についても出てきますね。こういう装束をつけなさい、そしてそのように定められた内容に従って、実際に幕屋を作っていくその作業の工程も出てくる。

その会見の天幕が、出エジプト記の最後の章である40章33節で終わります。

このレビ記のページの1枚前を開くと、出エジプト記の最後の場面が出てきますけれども、そこの40章の33節にこういう風に書いてあります。

また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。

モーセが仕事を終えたと書いていますが、モーセ一人でやってるわけではなくて、モーセの指示に従って、多くの人々が働いていたわけですが、その仕事がついに終わったということ、つまり会見の天幕が完成したっていう事がここに告げられていることです。

そしてその時に何が起こったんでしょうか。34節にこう出てきます。

そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

天幕が完成した時、ちょうどそのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちたとここに出てくる。これは完成した天幕の中に神様が来られたということを意味しています。雲というのは神がそこにおられるという神の臨在を表わしております。そのように完成したばかりの天幕の中に神が来て下さった。その事実がそこに記されている。そしてその栄光が幕屋に満ちたと出てくる。そして注目したいのはその次の言葉なんですね。35節にこう書いてあります。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

モーセは会見の天幕の中に入ることができませんでした。主がそこにおられる、主の栄光が幕屋に満ちていたから。主の栄光がそこに満ちていたから、その中にモーセはとても入ることができなかったという風に書いてある。

これが出エジプト記の最後の場面ですね。最後に記される光景です。そしてこの後にレビ記に続いていきます。レビ記の冒頭の言葉は何だったでしょうか。レビ記の最初の言葉は、

3.礼拝の大前提=罪人である人間は聖なる神の前に立つことができない

そして主はモーセを呼び、・・・

モーセは主の栄光に満ちた会見の天幕に入ることができなかった。しかしそのモーセを主なる神様は呼んでくださった。呼び寄せてくださいました。それによってモーセは初めて会見の天幕に近づくことができた。そういう展開になっているということが分かる。

この場面からレビ記という書物が始まっていくということを覚えたいと思います。

この冒頭の言葉、この冒頭のこの言葉は、私たちにとって、また私たちの礼拝にとって、とても大切なことを教えてくれます。

それは、私たちは神の招きがあって初めて、神の御前に近づくことができるという、そういうことであります。私達人間は、神のおられるところに近づくことはできません。神のおられる所に入っていくことはできません。聖なる神の前に、罪人である私たちは、とても近づくことはできないんです。これが礼拝の大前提であるということを、私たちは覚えなければいけないと思います。その私達が、神とお会いすることができるとするならば、それは神がわたしたちを招いてくださったから、神の方から私たちを呼び寄せてくださるという事実があったからこそ、私たちははじめて主の前に近づくことが許される、本来はそんなこと絶対にできない、許されない、そんな一人一人であるということですね。

私達は罪人であるにもかかわらず、主が呼び寄せてくださったからこそ、礼拝が成立しています。礼拝に出席することが許されています。これが礼拝の最初に私たちが経験していることなんだということを、私たちは今日のみことばから覚えたいなと思います。

礼拝の最初のプログラムに、招詞というプログラムがあります。多くは詩篇の言葉が読まれるんですけれども、今日は詩篇149編の言葉が朗読されましたけれども、これは神様が私達を礼拝に招いてくださる言葉です。招きの言葉です。この招きの言葉から、礼拝が始まりますが、私たちを招いてくださったからこそ、今私たちはこうやって主の御前に集うことができます。主の招きがなければ、この恵みにあずかることはできないんです。ですから皆さん最初の部分に注目していただきたいなと思いますね。の招詞の言葉に耳を傾けていただきたいと思います。そして主が私達のことを招いてくださっているという、その恵みを味わっていただきたいなと思うんですね。礼拝に参加することがクリスチャンとして当然の権利であるかのような、そんな顔をして礼拝に集わないで欲しいなと思うんですね。むしろ私たちは主の前に全く相応しくないものです。主の前に集うことなんか絶対できないような私たちが、このようにして今、主を礼拝できるのは、まさに神の招きがあったからだということ、そこに神の惠があるということ、その恵みを私たちは感謝しながら聞きたいと思います。礼拝の最初から神様に向かっていくものでありたいという風に思います。

4.礼拝の内容を決められるのは神ご自身である

今日の聖書の箇所から教えられる二番目のことそれは何でしょうかそれは礼拝の内容を決められるのは神ご自身であるということを私たちは今日の箇所から教えられます。神は会見の天幕からモーセを呼び寄せ、そしてモーセにメッセージを告げられた。それはどんな内容かと言うと、「イスラエルの子らに告げよ」というそういうメッセージでしたね。つまり今からモーセに託すメッセージがあります。このメッセージを、イスラエルの民に告げなさい、そういうことを命じられております。神様が、モーセを通して、大切なメッセージをイスラエル全体に伝えようとしていることがわかります。そしてその内容はどんな内容だったかと言うと、主に捧げる捧げ物の種類とか、その捧げ方についてであったということが分かるんですね。2節の後半部分ですが、

あなたがたの中で誰かが主に捧げ物を捧げる時は、家畜の中から牛か羊をその捧げ物として捧げなければならない。

と命じられております。このように神様ご自身が、神に向かって捧げる捧げ物、人が捧げる捧げ物の中身を、神ご自身が決めておられる、定めてもいる、ということが分かるわけであります。これは何を意味してるんでしょうか?

それは、神ご自身が礼拝の内容を決めておられるということであります。なぜ神様は人間の行う礼拝行為の中身を、ご自分で決められるんでしょうか?何故私たち人間に委ねてくださらないんでしょうか?

礼拝をするのは私たち人間です。私たちが神様に向かって礼拝しますので、その内容をなぜ神様が決められるんでしょうか?

それは神によって定められた方法を通してでなければ、私たちが神と出会うことができないからです。礼拝の中で一番大切なことは何でしょうか。それは私たちが神ご自身を礼拝することです。礼拝されるべきかたが、私たちの中ではっきりと覚えられることです。この方の素晴らしさ、この方の偉大さが、はっきり明らかにされることです。そしてそこで私たちと神との出会いが経験されることです。

礼拝の中心というのは、言うまでもなく神ご自身です。このことが私たちの中ではっきりと覚えられなければ、私たちは神様と出会うことはできないんです。神がモーセを呼び寄せ、モーセが神と出会った場所は、会見の天幕と呼ばれる場所だったということは、ここで分かりますね。会見の天幕です。この言葉が表している通りに、それは私たちが神様と会見する場所です。神と人が会見する場所、この会見が間違いなく実現するために、その方法は神様によって示されなければいけなかった。神様の方法によってでなければ、私たちは神とお会いすることができない。人間は自分の力と努力とによってでは、決して神と出会うことはできません。神様が定められた方法でしか、私たちは神と会うことができない、そういう存在であということを、私たちは覚えていなければいけないと思います。

私たち人間の行う礼拝は、多くの場合神様が中心ではなくて、人間が中心になってしまうんじゃないかと思いますね。礼拝行為をしているのはクリスチャンだけではありません。ありとあらゆる宗教の中に、礼拝という儀式があります。その全ての礼拝で中心になってるのは、どうでしょうか、神様のようでありながら、実はその礼拝の中心になっているのは人間であるということが多いんじゃないかなと思いますね。

旧約聖書の中にはバールの神に対するバール信仰というのが出てきますけれども、これは 古代オリエントの豊穣の神様、人間に豊かさと繁栄をもたらしてくれると信じられている神様ですけれども、このバールの神様に対する礼拝行為というのが聖書を読んでると出てきますね。バールの預言者たちが、一生懸命神様に向かって祈っているってそういう光景が出てまいりますが、預言者たちは雨が降りますように、豊作がもたらされますようにと、一生懸命祈って、聞かれないので自分の体を傷つけて祈ったとか、そういうような記事も出てまいりますけれども、その必死になって祈る姿、必死になって神様に向かっていく姿、それはこの世のありとあらゆる宗教の姿、そして礼拝の姿を現してるんじゃないかと思いますね。それは神中心ではなくて、人間中心の礼拝の姿であります。神様がどのようなお方であるのかということは、あまり重要ではないですね。それよりは人間が幸せになること、人間の必要を神様が満たしてくださることの方が中心ですね。そしてその先のことはあまり重要ではないんですね。神様がどういうかたで、どんなかたであるかということは、あんまり意識されないんですね。とにかく自分の必要を満たしてほしいという、そういう気持ちの方が中心になっているということが多いんじゃないかなと思います。ですから実際、神様と出会っているようでありながら、実は出会っていないっていうなことが、そこで起こっているんではないでしょうか。私たちの礼拝も、気をつけていないと、そんな礼拝になりやすいということを注意していなければいけないと思います。

神様を礼拝するつもりで、ここにやってきているのに、実際には全然、神と出会っていないということが起こり得るということなんです。神様に向かって賛美をしているようなつもりで、祈っているようなつもりで、そこに神様がおられないとしたら、それはなんと残念なことではないだろうかと思いますね。

時々礼拝改革なんていう言葉が教会の中で叫ばれることがあります。礼拝がもっともっと生き生きとしたものにならなければいけないということで、そういう必要から礼拝のプログラムの中身を考えて、もっとみんなが喜ぶようなプログラムを加えたい、もっと人々の心を引きつけるような、そういうプログラムを加え、そういう風にして礼拝の中身を変えていくっていう教会が時々あるようです。そしてそこに来ている人たちの心をひきつけて、そこに参加することによって心が満たされるっていう事が、もしかしてあるのかもしれない。

でも私たち注意しなければいけないことがあるんじゃないかなと思いますね。本当にそこで私たちは神様を崇めているんでしょうか?神様がはっきりとそこで覚えられているんでしょうか?もしかしたら自分の心の満たしということだけが求められているんじゃないでしょうか。もし私たちの礼拝が貧しいとするならば、それはおそらくプログラムが貧しいからではない、礼拝の形式が貧しいからではないんじゃないでしょうか。私たちが神様を知っているその知識が乏しいというところにその原因があるんじゃないかというふうに考えられますね。

もちろん全ての教会の礼拝のプログラムが同じでなければいけないという意味ではないです。私たちに自由に委ねられているところもある。でも絶対に抜かしてはいけない、絶対に欠かしてはいけないプログラムっていうのがあると思いますね。御言葉がそこで朗読され、私たちが讃美をし、祈り、御言葉の説き明かしがされるということ、それがふさわしい順番で神様に捧げられていくことを通して、私たちがよりはっきりと神様を覚え、神様に近づいていくにふさわしい順番っていうものがあるんじゃないでしょうか。その内容というものがあるんじゃないでしょうか。

まず神様を中心として、神を中心として礼拝を考えていくということが、私たちにどんなに求められていることでしょうか。そのようにして私達と確実に主との出会いに導いてくださる神がおられるということを、私たちは覚えたいと思います。そのようにして私達が導かれていること、御言葉によって導かれていることを感謝しながら、本当に真実な礼拝がここで経験され、私たちが間違いなく毎回毎回ここで神様とお会いできるように、神様の素晴らしさに圧倒されるように、そのような礼拝を目指していくものでありたいと思います。

5.礼拝における私たちの務めは、「捧げる」ということ

今日の聖書の箇所から教えられる3番目の事なんでしょうか 。それは礼拝における私たちの務めは、「捧げる」ということにあるということです。2節の後半部分ですが、もう一度お読み致しますが、こう命じられています。

あなたがたの中で誰かが主にささげ物を捧げる時は、家畜の中から、牛か羊をその捧げものとして捧げなければならない。

イスラエルの民に対して、家畜の中から牛と羊をその捧げものとして捧げなければならないと命じられております。この箇所より、礼拝とは捧げることなんだと、礼拝における私たちの務めは、捧げることにあるということが教えられております。ここで「捧げ物」と訳されているヘブル語の言葉は「コルバン」という言葉でして、これは新約聖書の中にも出てくる言葉なんですけれども、これは元々の言葉は「カーラーブ」という「近づく」という意味の言葉です。その言葉に基づいていますけれども、つまりそ捧げ物を用意するということが人が神に近づくための方法であったということが考えられます。神様は私たちのことを招いてくださいました。その招きがあったからこそ今、私たちはこのようにして神様のもとに集められて、神を礼拝できています。

じゃあ私たちはその神様の前に何も持たないで、手ぶらで出て行って良いでしょうか。そうではないということです。それは大変失礼なことではないでしょうか。それは礼拝ではありません。神様の前に私たちを通してふさわしい礼拝が捧げられていく必要があるということを、私たちは覚えたいと思います。

しかもその捧げ物の中身が、「家畜の中から」と教えられております。家畜の中から牛か羊を、その捧げ物として捧げなさいと命じられております。家畜ってどんな動物でしょうか?家畜っていうのは、自分の家で育てられた動物だと思いますね。自分の家の中で飼育された動物の中から捧げなさいということです。そして次の3節を読んでゆくと分かるんですけれど、それは一番良いものをさ下げなさいって命じられております。それは結構心理的な負担になるんじゃないかなと思います。神様に対する捧げ物が、もしその辺で捕まえたイノシシやタヌキだったらどんなに楽かなと思いますね。あんまり心が痛まないというか、どんなに楽かなと思いますね。そしてその「捧げた」という礼拝の行為によって、一応果たすべき分は果たしたという満足感も、もしかしたらあるかもしれません。でも主の命じられた捧げものとは家畜の中の最も良いものを捧げなさいと命じられている。これは結構心理的に負担になるんじゃないでしょうか ?つまり自分の持っているものの中で一番良いもの、自分の気持ちがこもってる物ですね、自分が飼育している動物ですから、とっても気持ちがこもってると思いますけれども、その最も大切なものを神に捧げなさいと、ここで命じられている。

でも考えてみてください。神様が私たちを招いておられるっていうのは、どういうことなんでしょうか。それは神様が私たちと会いたがっているって言うことです。

私たちが神様と会いたいと思っている以上に、神様の方が私達の事を愛してくださって、私たちと、お交わりをしたいと願っているんです。だから招いてくださっているわけですね。神様の前に全然相応しくない私達です。神様の前に出ていく資格もない、そんな私達だと思いますけれども、そんな私たちに神様の側から声をかけてくださって、私たちを招いてくださっているということは、考えれば考えるほど信じられないことで、そんなことあるんだろうかと本当ににびっくりするようなことじゃないでしょうか。

でもそれくらい神様が私たちのことを親しく招いておられるということです。その神様の前に、私達は手ぶらで行くことなんか考えられないんじゃないでしょうか。やっぱりその神様の前に、最高のものを用意して、神様の前に行きたいと願うんではないでしょうか。そんな招きに応えたい、こんなにも私に目をとめて、私のことを招いてくださっている、愛してくださってる主に精一杯応えたい、それか本来の礼拝者の姿であるということを、私達は是非覚えたいと思います。

礼拝は受けることではない、捧げることなんだということを、是非注意したいと思います。私たちの礼拝の中での目的は、なんとなく、捧げることではなくて、受けることの方が中心になってしまう、そういう方向に偏りやすい傾向があるんじゃないかなと思いますね。礼拝に参加することで、満足を得たい、祝福をいただきたい。もちろん礼拝に参加することによって祝福があるわけですけれども、でもそこで一番肝心なことが見失われて、何か与えられることだけが期待されてしまう、そういう傾向になりやすいんじゃないかなと思いますね。そしてだんだん私達は、お客様みたいになっていくかなと思いますね。礼拝に出て、色々サービスを頂いて、心地よさと快適さを味わって、満足して、そして出ていくと言う、そういうことにもなりがちかなと思います。

礼拝のことを英語でサービスって言うんですけれども、サービスするのは私たちの方がサービスするんですね。私たちの方がまず神様に仕えて、そして神様に喜んでいただいて、そして礼拝を捧げるというのが本来の礼拝の姿なんですね。何か神様に自分にサービスしてもらうような、そういうことを期待するような傾向がもし出てくるとするならば、それは神様の喜ばれる礼拝からどんどん外れていくということを私たちは聖書から覚えておきたいと思います。礼拝における私たちの務めは、自らを捧げるということ、その行為であることをぜひ覚えたいと思います。ただ私たちの心を主に捧げたいと思います。本当に心からの礼拝を毎回毎回主に捧げたいと思います。時間を捧げたいと思います。今このように、日曜日の朝のとっても大事な時間を捧げていますけれども、そのようにして時間を捧げるものでありたいと思います。あるいは財を、お金を捧げるものでありたいと思います。そして何よりも私たちの体、私達自身を主に捧げるものとなろうではありませんか。私たちを招いてくださった神様に、どうぞ私を使ってくださいと、本当に主に応えていく、そのような礼拝者として私たちは成長していくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様、ふさわしくない私たちを、本当にあなたの恵みの故に、招いてくださって、私たちを礼拝者としてくださることを感謝します。その主の招きに応えて、私たちが最善のものを主に心からお捧げができますように、そのような生きた神様との出会いが、毎回毎回この場所で経験され、私たちがあなたとの親しい交わりの中に生かされていることができるようにと導いてくださるようにお願いいたします。み言葉を心から感謝して尊き主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

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