ダニエル書8章1~14節

「2300の夕と朝が過ぎ去るまで」
私は幻の中で見た。見ていると、私はエラム州にあるスサの城にいた。なお幻を見ていると、私はウライ川のほとりにいた。
私が目を上げて見ると、なんと、一匹の雄羊が川岸に立っていた。それには二本の角があって、この二本の角は長かったが、一本はもう一本の角よりも長かった。その長いほうは、後に出て来たのであった。
私はその雄羊が、西や、北や、南の方を角で突いているのを見た。どんな獣もそれに立ち向かうことができず、また、それから救い出す者もいなかった。雄羊は思いのままにふるまって、高ぶっていた。
私が注意して見ていると、見よ、一匹の雄やぎが、地には触れずに全土を飛び回って、西からやって来た。その雄やぎには、際立った一本の角が額にあった。
この雄やぎは、川岸に立っているのを私が見た、あの二本の角を持つ雄羊に向かって、激しい勢いで突進した。
見ていると、この雄やぎは雄羊に近づき、怒り狂って雄羊を打ち倒して、その二本の角をへし折ったが、雄羊にはこれに立ち向かう力がなかった。雄やぎは雄羊を地に投げ倒して踏みつけた。雄羊をこの雄やぎから救い出す者はいなかった。
この雄やぎは非常に高ぶったが、強くなったときにその大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、際立った四本の角が生え出て来た。
そのうちの一本の角から、もう一本の小さな角が生え出て、南と、東と、麗しい国に向かって、非常に大きくなっていった。
それは大きくなって天の軍勢に達し、天の軍勢と星のいくつかを地に落として、これを踏みつけ、
軍の長に並ぶほどになり、彼から常供のささげ物を取り上げた。こうして、その聖所の基はくつがえされた。
背きの行いにより、軍勢は常供のささげ物とともにその角に引き渡された。その角は真理を地に投げ捨て、事を行って成功した。
私は、一人の聖なる者が語っているのを聞いた。すると、もう一人の聖なる者が、その語っている者に言った。「常供のささげ物や、あの荒らす者の背き、そして聖所と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことか。」
すると彼は答えて言った。「二千三百の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所の正しさが確認される。」
( ダニエル書 8:1-14 JDB )
私たちは、ダニエル書の前半部分でダニエルの信仰から多くの励ましを受けたと思います。そして、後半に入ると、ダニエル書がヨハネの黙示録にまでつながる「救いの計画」の全体像が見えてくる、という意味で非常に重要な書物であることが、次第に明らかになってきます。
続けて、ダニエルが見た幻に注目していきたいと思います。ダニエルは7章で1つの幻を見ました。それは、4つの獣が出てくる幻でした。その幻は、ベルシャツァル王の治世の元年、つまり最初の年に見た夢と幻であったと示されています。そして、今日の箇所では、ベルシャツァル王の治世の第3年とあります。つまり、それから2年が経過したことになりますが、その2年後に、再びダニエルは幻を見たということがわかります。
では、その幻の内容はどのようなものだったのでしょうか。司会者の方に読んでいただいたとおり、それは1匹の雄羊と1匹の雄山羊についての幻でした。
まず、1匹の雄羊が登場します。この雄羊は川岸に立っており、頭に2本の角を持っていました。そのうちの1本の角は、もう1本の角よりも長かったと記されています。この雄羊は、その角で西や北や南の方を突き、どの獣も立ち向かうことができないほどの最強の雄羊であったことが示されています。そして、この雄羊は思いのままに振る舞い、高ぶっていました。
すると、その次に1匹の雄山羊が登場します。この雄山羊は地に触れることなく、全土を飛び回りながら西からやってきました。また、この雄山羊は額に際立った1本の角を持っていました。そして、先ほどの2本の角を持つ雄羊に向かって激しい勢いで突進し、怒り狂って雄羊を打ち倒してしまいました。
しかし、この雄山羊が高ぶったその時、その角が折れ、その代わりに4本の角が生えてきました。そのうちの1つから小さな角が生えてきたのですが、この小さな角は非常に大きくなり、天の軍勢にまで達しました。そして、天の軍勢と星のいくつかを地に落とし、踏みつけるほどになったのです。また、この小さな角は、軍の長に並ぶほどの力を持ち、神への生贄である常供のささげ物を取り上げ、神の聖所を踏みにじりました。さらに、神を冒涜し、真理を地に投げ捨てるほどの横暴ぶりを示したことが記されています。
これが、ダニエルの見た幻の内容です。この1匹の雄羊と1匹の雄山羊の幻は、一体何を意味しているのでしょうか。それが、私たちにとって考えさせられる点だと思います。しかし、読み進めると、その答えが示されています。
本日は15節まで読んでいただきましたが、16節以降を読むと、御使いガブリエルが現れ、ダニエルの見た幻を解き明かしていきます。その内容が後半に記されています。
それによると、2本の角を持つ雄羊はメディアとペルシャの王を表していると20節に記されています。さらに、その次に現れる1匹の毛深い雄山羊は、ギリシャの王を表していると21節に記されています。まず、最初に登場する2本の角を持つ雄羊についてですが、短い方の角はメディアの王、長い方の角はペルシャの王を表していると考えられます。
ダニエルは4節で、「その牡羊が、その角で西や北や南の方を突いているのを見た」と語っています。歴史的に見ると、ペルシャは西のバビロニア、北のアルメニア、南のエジプトを攻撃し、「覇帝国」とも呼ばれる大帝国を築いたことが知られています。
しかし、そのペルシャ帝国も、後に台頭したギリシャによって打ち倒されることになります。牡羊が怒り狂った雄山羊に激しい勢いで突進され、投げ倒され、踏みつけられる様子を、ダニエルは幻の中で見ました。その光景は、ペルシャがギリシャによって滅ぼされてしまう様子を象徴していると考えられます。
そして、牡羊は滅ぼされ、雄山羊の時代へと移行していきます。その雄山羊の額には、1本の際立った角が生えていました。これは、ギリシャの王であったアレキサンダー大王を表していると考えられます。
7章では獣の姿に例えられていましたが、8章の5節では、「全土を飛び回った」と記されています。まるで豹のように素早く移動しながら領土を拡大し、ペルシャ帝国以上の大帝国を築き上げたことが、歴史の中で知られています。しかし、このアレキサンダー大王は、32歳の時、権力の絶頂にありながら急死してしまいました。
雄山羊が非常に高ぶったその時、大きな角が折れたと8節に記されていますが、これはアレキサンダー大王の死を象徴していると考えられます。その後、「天の四方に向かって際立った4本の角が生えてきた」と8節に続きます。アレキサンダー大王が死んだ後、ギリシャは4人の王によって4つに分割されていったことも、歴史的に知られています。
具体的には、
プトレマイオス朝(エジプト)
セレウコス朝(シリア)
アンティゴノス朝(マケドニア)
リュシマコス朝(小アジア)
の4つの国に分裂しました。そして、この4つの国の中から勢力を伸ばしたのが、セレウコス朝シリアでした。
このセレウコス朝シリアから、アンティオコス・エピファネスという権力者が現れ、周辺の国々から恐れられる存在になっていきます。そして、この権力者はユダヤ人にとって非常に大きな脅威となりました。なぜなら、彼はユダヤ人たちが大切にしていた神の聖所を踏みにじり、神を冒涜するようになったからです。
このような一連の出来事が、ダニエルに示された幻を通して予告されていることに、私たちは気づかされるのではないでしょうか。
ダニエルが生きていた時代は、まだバビロン帝国の時代でした。その後、しばらくしてバビロンはペルシャ帝国によって滅ぼされますが、この時点ではまだ実現していません。そして、その後にギリシャが現れるのも、ずっと先の未来の出来事です。しかし、ダニエルが見た幻の通りに歴史が展開し、一つ一つの出来事が実現していくことに、私たちは驚かされます。
歴史の出来事が、まるでダニエルの見た幻をなぞるかのように次々と実現していくことに、私たちは気づかされるのです。そして、それを知るとき、私たちは教えられます。それは、神がこの世の出来事のすべてを支配しておられる、ということです。
神は、教会の中だけにおられるのではありません。今、私たちは教会に集い、神を礼拝していますが、神はこの教会の中にだけ収まるようなお方ではありません。神は、全世界をすべて治め、歴史を支配し、導いておられる方であることを、私たちは覚えたいと思います。
今も、国と国が争う状況は変わっていないと思います。この時代も、国が次々に現れては滅び、また次の国が台頭するという攻防が続いてきました。その国際情勢は、今も変わらないのではないでしょうか。国が強くなったり、弱くなったり、滅びたり、勢力を伸ばしたりと、そうしたことを繰り返しているのだと思います。
そうした状況の中で、私たちには理解できないことも多く起こります。しかし、聖書は私たちに語りかけています。「全世界を治めているのも、人類の歴史を支配しておられるのも、神ご自身である」と。すべてが神のご支配の中に収められているのです。同じように、私たちの人生もまた、すべて神様の御手の中に収められています。そのことを覚え、私たちはこのお方に、心からの敬意と礼拝を捧げる者でありたいと思います。
このように、神が歴史を支配していることはわかります。しかし、神は単に人類の営みを高いところから傍観しているわけではありません。神は、人類の歴史の中に深く関わり、介入されるお方でもあるということを、私たちは覚えたいと思います。
今日の箇所を通して気づかされることの一つは、いくつかの権力者が登場することです。たとえば、牡羊の頭にある二本の角や、雄山羊の頭に生えている際立った一本の角など、さまざまな形で権力者の姿が描かれています。そこには、彼らがどんどん高ぶっていく様子が示されています。
最初に登場するのは、二本の角を持つ牡羊です。4節を見ると、「思いのままに振る舞って高ぶっていた」と記されています。しかし、その高ぶった牡羊は、やがて雄山羊に打ち倒されてしまいます。
次に、雄山羊の時代がやってきます。しかし、8節を見ると、この雄山羊も「非常に高ぶった」と記されています。その高ぶりは、牡羊の高ぶりをはるかにしのぐほどのものでした。
そして最後に、一本の角が現れます。この角は、最初は小さかったのですが、急成長し、その高ぶりが天にまで及ぶほどになりました。そして、ついには神を冒涜するまでに高慢さが膨れ上がってしまいます。
しかし、この記述から示されるのは、彼らの高ぶりが極限に達した時、神が必ず介入し、その者たちを退けられるということです。牡羊が高ぶったちょうどその時に、雄山羊によって滅ぼされました。そして、その雄山羊もまた高ぶった時、その角が折られてしまったのです。
人が高ぶる時には、神は必ず介入され、その者を退けるということ。そのことが、このような幻を通して示されていると分かります。
ここには、三人の王たちが登場します。彼らは皆、等しく高ぶった王たちでした。その高ぶりがどんどん膨らみ、エスカレートしていく様子が、ここに描かれています。
では、なぜ彼らは高ぶってしまうのでしょうか? どうして、これほどまでに高ぶっていくのでしょうか?
その理由は、4節に示されていると思います。この牡羊の姿を見ると、「牡羊は思いのままに振る舞って高ぶっていた」と記されています。「思いのままに振る舞う」ということと、「高ぶる」ということが結びついているのだと、私たちは教えられます。
彼らが高ぶる理由は、思いのままに振る舞えるからです。自分の思いを、どこまでもどこまでも貫くことができるからです。制約を失った状態の中で、人の高ぶりは膨張を続け、ついには天にまで及んでしまいます。
このように、高ぶりやすく、高ぶっていく人間の姿が示されていることを、私たちは覚えたいと思います。
私たちは、通常、さまざまな社会的制約の中で生かされているため、そこまで高ぶりが膨らむことは少ないかもしれません。しかし、私たちの高ぶりは、心の中にある「自由になりたい」「思い通りにしたい」という願望の中で、くすぶっていることが多いのではないでしょうか。
そして、状況次第では、私たちの高ぶりはどんどん膨らんでいきます。やがて、謙虚さを失い、神に対する恐れも薄れ、最終的にはその思いに支配されてしまうことになりやすいのではないでしょうか。
聖書は、高ぶりの危険性について、さまざまな箇所で警告しています。
例えば、『箴言』30章11〜14節では、人間の高ぶりの恐ろしさについて教えられています。
こんなことが書かれています。
「自分の父をののしり、自分の母をたたえない世代。自分は強いと見るが、汚物を洗い落とさない世代。なんと、その目は高ぶり、まぶたは上がっている。歯は剣のようで、牙は刃のような世代。彼らは地の苦しむ者を食い尽くし、人々の貧しい者をむさぼる。」
この箇所に、「自分は強いと見るが、汚物を洗い落とさない世代」とあります。これは、高ぶっていることが自分には見えていないということではないでしょうか。
自分は強いと思っている。しかし、汚れを洗い流さず、その目は高ぶり、まぶたは上がっている。そうして、どんどん高ぶりが膨らんでいく人間の姿が、聖書には示されているのです。
私たちは皆、この高ぶりの思いを、心の中に隠し持っているのではないでしょうか。
神は、高ぶりを嫌われます。そして、高ぶった者は必ず退けられます。
だからこそ、私たちは御言葉によって清めていただきたいと思います。イエス・キリストへの信仰によって、しっかりと神とつながっていたいと思います。
そして、御言葉の導きの中で清められる者となりましょう。私たちの高ぶりを、神の御手によって砕き、取り除いていただく者でありたいと思います。
さて、最後に、この幻の最後に登場する「一本の角」に注目し、終わりたいと思います。
9節には、「そのうちの一本の角から、もう一本の小さな角が生え出た」と記されています。最後に、この一本の角が現れたことが示されています。
この一本の角は、最初は小さな角であったことが分かります。しかし、その小さな角は急成長し、南と東と麗しい国に向かって非常に大きくなっていったと記されています。
短い間に急成長した分、その高ぶりも大きかったのかもしれません。その高ぶりは天にまで及び、ついには天の軍勢に達しました。そして、天の軍勢と星のいくつかを地に落とし、踏みつけたと続きます。
さらに、「軍の長に並ぶほどになり、彼から常供のささげ物を取り上げた」とあります。これは、ユダヤ人たちが神にささげるために定められていた常供のささげ物のことです。この一本の角は、それを取り上げ、聖所の基が覆されるという行為に及びました。
つまり、この一本の角は、神を冒涜する存在へと変わっていったことが分かります。そして、神の聖所を汚し、真理を地に投げ捨てました。
12節の後半部分を見ると、「その角は真理を地に投げ捨て、事を行って成功した」と示されています。「真理を地に投げ捨て、事を行って成功した」と書かれているのです。
私たちは、真理を軽んじる者には成功してほしくないと思うのではないでしょうか。なぜなら、そうでなければ、真理がますます軽んじられ、成功することだけが重要視されるような世の中になってしまうからです。
ところが、この一本の角は、真理を投げ捨てたにもかかわらず成功を収めました。真理を軽んじた上で成功したのです。この支配者の登場によって、世の中は「成功することだけが大事である」という価値観に染まっていったのです。
今、私たちが生かされている時代も、真理が顧みられず、大切にされなくなっているのではないでしょうか。そして、真理を軽んじながら、ただ成功だけを追い求めるという、歪んだ社会になってきているように思います。それは、人間中心の時代であり、神が軽んじられ、忘れ去られる時代であると言えるでしょう。
こうした価値観や考え方が、一人の権力者によって主張されると、その影響は計り知れません。私たちは今の時代において、そのことを経験しているのではないでしょうか。
このような時代状況が、ダニエルの幻を通して示されているのです。
ダニエルに示されたこの幻は、シリアの王アンティオコス・エピファネスの出現によって成就したと考えられています。
このエピファネスという王は、神の律法を廃止し、ユダヤの神殿にギリシャの偶像であるゼウス像を建て、それを拝ませました。さらには、ユダヤ人たちが忌み嫌う豚を神殿で神にささげさせるという、極めて神を冒涜する行為を行ったことが、歴史に記録されています。
彼は「荒らす憎むべきもの」と呼ばれ、ユダヤ人の間で非常に大きな怒りや憎しみを引き起こした権力者であったと言われています。
しかし、私たちが注目したいのは、この幻の最後に二人の聖なるものが現れ、会話をしている場面です。それが、今日の話の最後に出てくる部分になります。
13節と14節で、二人の聖なるものが語り合っています。
13節には、「私は一人の聖なるものが語っているのを聞いた。すると、もう一人の聖なるものが、その語っている者に言った。『常供のささげ物や、あの荒らす者の背き、そして聖所と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことか?』」とあります。
それに対して、もう一人の聖なるものは答えました。
「2300の夕と朝が過ぎるまで。その時、聖所の正しさが確認される。」
このように、二人の聖なるものが語り合う姿を、ダニエルは幻を通して見せていただいたのです。
一人の聖なるものが、もう一人の聖なるものに問いかけます。
「常供のささげ物や、あの荒らす者の背き、そして聖所と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことか?」
それに対し、もう一人の聖なるものは答えました。
「2300の夕と朝が過ぎるまで。その時、聖所の正しさが確認される。」
つまり、これは2300回の夕と朝が続くということを意味します。日にちに換算すると、その半分の1150日と考えられます。
これは、先週少し話題になりましたが、およそ3年半の期間を表していると言えるでしょう。
一本の角で象徴される高ぶった権力者が、約3年半の間、横暴に振る舞い、その間、人々は苦しむことになります。特に、イスラエルの民はこの権力者によって大きな苦しみを味わうことになります。
しかし、それは3年半で終わるのです。限られた時間です。その後、必ず聖所の正しさが確認される時が来ます。
これが、ここで伝えられているメッセージです。
人の高ぶりには、必ず退けられる時が来る。神の御心が実現する時がやってくる。すべてのことが、神のご支配の中で治められている。
このことに、私たちは思いを留めたいと思います。
私たちは、神がある一定の期間、悪がこの地上ではびこることを許しておられることに、驚きを覚えるかもしれません。
時々、私たちはこの地上にあって、神に問いかけたくなることがあるでしょう。
「なぜ神は、悪がはびこるのをそのまま見ておられるのか?」「なぜ神は、この状況を放置しておられるのか?」
特に今、世界で起きている悲しい出来事を目の当たりにすると、そう問いかけたくなるのではないでしょうか。
この世の中には、多くの悲しいことが起こっています。私たちは、それらの現実を見ながら、「なぜ神はこの状況を許しておられるのか」と問いたくなることがあるのではないでしょうか。
私たちは「なぜ?」と問いたくなるものです。
しかし、天においては、違う問いかけが交わされていることを、私たちは教えられます。それは、「いつまでのことですか?」という問いかけです。
「いつまで、それは続くのですか?」
この問いかけは、「それがいつまでも続くわけではない」ということを表しています。
確かに、神はしばらくの間、悪が蔓延する状態を許しておられます。しかし、それは永遠に続くものではありません。
必ず、聖所の正しさが確認される時がやってきます。神の真実が、確かに表される時がやってくるのです。
イスラエルの民も、しばらくの間、苦難を強いられました。しかし、その中で彼らのメシアを待ち望む信仰が鍛えられていったと言えるでしょう。
苦しみの中で、実は彼らの信仰は養われていました。
それまで定まらなかった彼らの焦点が、しっかりと神へと定まっていく過程があったのです。そして、彼らはひたすら神を待ち望む者へと変えられていきました。
そのような神の導きがあったことを、私たちは教えられます。
私たちも、この世で理解できないことがたくさんあります。「なぜ?」と神に問いかけたくなるようなことが、数多くあるでしょう。
しかし、その中にも、主は確かに共におられ、すべてを支配しておられるのです。
私たちは、それを覚えたいと思います。
そして、「なぜ?」「どうして?」と言いたくなるような厳しい状況の中で、実は私たちの信仰が養われているのだということも、覚えておきたいのです。
それまで定まらなかった私たちの思いが、神様へと向かい、焦点がしっかりと定まっていく。
私たちが、しっかりと神様を待ち望む者へと変えられていく。
そのような神の導きがあることを、心に留めておきたいと思います。
詩篇130篇6節で、詩篇の著者はこう歌っています。
「私の魂は、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。」
この人は、暗い夜の中で朝が来るのを待っている人です。
夜回りが夜明けを待つよりもさらに熱心に、朝が来るのを待ち続けているのです。
朝が来る時、それは主が来られる時です。その時が来るのを、ずっと待ち望んでいるのです。
私たちも、この詩篇の著者のように、しっかりと主を待ち続ける者でありたいと思います。
辛い状況の中にあっても、暗い時代の中にあっても、主がすべてを治めておられることを覚えながら、主の時を待つ者となりましょう。
ただ、主にのみ栄光がありますように。
どんな状況の中にあっても、この方に対する信頼を、日々養っていただきたいと思います。
お祈りをいたします。
天の父なる神様、あなたは主権を持ってこの世界を支配し、歴史を導いてくださっていることを覚えて感謝いたします。
どうか、私たちを高ぶりの罪から守ってください。
この世の価値観や考え方に惑わされることなく、あなたに信頼し、あなたを待ち続けることができるように、どうか助けてください。
私たちの弱い信仰を深く育ててくださいますように。
御言葉の導きに感謝し、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。