イエス・キリストをより良く知るために

古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る・・・エペソ書4章20~24節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

エペソ人への手紙 4章20~24節

“20:しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。
21:ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。
22:その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、
23:また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、
24:真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。”

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

今日はエペソ人への手紙の4章の20節からです。20節にこう書いてあります。
「しかしあなた方は キリストをそのように学んだのではありません。」
文書の途中から始まっていますので何のことかなと思うかもしれませんけれども、この前の箇所でパウロは、「異邦人が虚しい心で歩んでいるように歩んではいけません。」とありました。救われる前の、あの虚しいあゆみに戻ることがあってはいけないんだよ、それが前回のメッセージでした。それがどんなに危険な歩みであるのか、神の祝福を失って、ひたすら堕落の道を落ちていくという危険な道なんだよということが、前回教えられた個所でした。その内容を受けた上で20節で、「しかしあなた方は」と続いていますね。ですから、「しかし、あなたがたは以前、むなしいあゆみをしていたあの時のあなたがたとは違うでしょう」ということをここで、パウロは主張しているわけであります。

 1.キリストを学んだ私達

何が違うんでしょうか。彼らはキリストを学んだ。しかしあなたがたはキリストをそのように学んだのではありませんか。キリストをまなんだ、ではないですか。これが以前の彼らと、今の彼らを分ける、違いであるということがわかりますね。このキリストを学んだという経験のゆえに、以前の彼らと今の彼らは全く違います。全く違うタイプの人間になりました。キリストを学ぶというこのひとつの経験が、どれだけ大きな変化を人にもたらすのかということが、ここで主張されていることであります。私たちもそのことを今日、心に留めたいというふうに思います。私たちも、もう、かつての自分とは全然違いますね。あの救われる前の、虚しい歩みをしていた時の私たちと、全然違います。全く違います。見かけはあんまり変わってないかもしれませんけれども、中身はもう違う。本質的な、部分が違います。何が違うんでしょうか。どうして違うんでしょうか。何がそんなに大きな変化を私たちにもたらしたんでしょうか。
それは私たちがキリストを学んだから。それ故に私たちはキリストを知っています。この経験の故に、私たちは以前の私たちではない。それくらいの大変化を私たちはこのキリストを学ぶという経験を通して、与えられているということを、是非、心に留めたい、そして感謝と共にそのことを覚えたいというふうに思います。

2.いかに学ぶべきか

ただし、学び方が肝心ですよというのが、次に出てくる内容になります。パウロはここで「学ぶ」という表現を使っていますが、とても興味深い言い回しだなというふうに思います。ただ単にキリストと出会うとか、キリストを知るという言い方ではなくて、「キリストを学ぶ」という言い方をしています。まるで私たちが学生であるかのようなそんな言い方だなというふうに思いました。学生たちはこの一週間のうちにそれぞれ学校が始まったと思います。小学生、中学生、高校生、専門学校生、神学生までいますけれども、いろいろなレベルの学校で、学びがそれぞれ始まったと思いますが、学生たちの勤めって何でしょうか。それは学ぶことだと思います。ですから学生たちには、今年もたくさん学んで欲しいなと思います。
でも今日の聖書の箇所を通して、私たちも改めて教えられますけれども、学校を卒業して、もはや学生ではない私たちも、実は学生であるということが言えるんじゃないでしょうか。
キリストを学ぶ学校の学生たちであるということが言えるんではないだろうかというふうに思います。今も私たちはキリストのことを学んでいます。学んでいる途中です。学んでいる学生です。テストも宿題も偏差値教育もありませんけれども、今も変わらずキリストを学び続けている一人ひとりであるということを、心に留めたいというふうに思います。ただし漠然と学ぶのではなくて、「いかに学ぶか」その学び方が大事ですよ、どのようにキリストを学んでいますか、その学び方が大事だよというのが、21節の言葉の内容ということになります。21節を読んでみたいと思います。
「ただし本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすればです。真理はイエスにあるのですから。」
キリストをそのように学んだと言った上で、「ただし」と言い換えていますよね。これは学んではいるものの、本当にその学び方の内容がどうですかという問いかけです。学び方が大事だということが、ここで主張されていることです。
パウロはここで二つのことを話しています。「本当にあなたがたはキリストについて聞いているかどうかということ」、これが一番目で、二番目に「本当にあなたがたがキリストにあって教えられているかどうかということ」、この二つのことをパウロはここで話をしている。
この両方ともが大事だということがわかります。

①キリストについて聞く

「キリストについて聞く」とパウロは言っていますが、それはどういう意味でしょうか。どのようなことでしょうか。
それは私たちの学ぶ内容が、キリストであるということですね。私たちはキリストについて聴き、キリストについて学びます。ですから私達はキリストについて詳しくならなければいけない。もしあなたにここで、キリストについてのクイズを出したとしたら、あなたは何点取れるでしょうか。教会ではそのようなクイズはありませんけれども、どれだけイエス・キリストについて知っているかということはとても大事なことではないかと思います。ですから皆さん良く聖書を読んで、キリストはどういう方だったのかということについて学んでいただきたいなと思います。

②キリストにあって教えられる

また2番目にパウロは続けて「本当にあなた方がキリストにあって教えているとすれば」
と続けています。「キリストにあって教えられる」とはどういう意味でしょう。これは私たちを教えてくれる教師がキリストであるという意味です。つまり私たちはキリストにあって教えられる、キリストとの人格的なかかわりによって教えられるということです。学生たちにとって、学ぶ内容も大事ですけれども、でもそれと同じぐらい大事なのは、教えてくれる先生が大事だと思います。良い教師に巡り会うと勉強が大好きになるということがあるんじゃないかなと思います。あなたの今までの人生を振り返ってみても、良い教師との出会いによって、本当に人生が豊かにされたという経験をしておられるんじゃないだろうかと思いますね。私たちが今、学んでいるキリストの学校も、学ぶ内容も大事です。キリストについて学んでいますね。学ぶ内容も大事ですけども、先生も大事ですね。誰が教えてくれているかという先生も大事です。まさに私たちはキリストにあって、キリストについて、学んでいる、そういう学校の学生たちであるということを自覚していただきたいと思います。それは本当に素晴らしい学校ですね。キリストについてたくさん学ぶことができる、そしてキリストによって私達は教えられる、キリストが教えてくださる、なんとすばらしい学校ではないでしょうか。

③知識と人格的な交わりのバランス

しかし私たちは注意したいですね。本当に私たちはそういうふさわし学び方をしているでしょうか。ここでパウロが吟味していることは、まさにそういうことなんです。
私たちは、この大事な二つのうちのどちらかに偏ってしまうという、そういう傾向が時々見られると思うんですね。キリストにあって教えられているはずなのに、キリストについてはよく学んでいないということがあるのではないでしょうか。私たちはいつもイエスさまを意識しながら歩んでいます。信仰をもって、目には見えませんけれども、イエスさまが生きておられるということを信じて、信仰をもってイエスさまとともに歩んでいます。でもよく考えてみると、キリストについてはよく学んでいない、ということがあり得るのではないか 。イエス様が共にいてくださるという実感は大事ですけれども、でもイエス様が教えてくださる具体的な教えについてはあまり関心が向かない、詳しくないということが起こり得ることじゃないかと思うんですね。それではキリストをふさわしく学んだことにはならないということであります。

またその逆の極端もあるように思います。キリストについてはよく知っています。キリストについてはよく理解しているけれども、キリストにあって教えられていないという、そういう極端もあるんではないでしょうか。つまりキリストとの人格的な触れ合いを通して学んでいない 、キリストに実際に 教えられていない。知識だけは豊富です。もうキリストについて詳しく説明することもできます。聖書研究もできます。でも実際にキリストによって生かされていない。そういう極端もあるんじゃないかなと思いますね。
そうなると私たちのイエス様に対する理解は、知的理解で終わってしまう。それもふさわしい学び方ではない。そのどちらかに傾きやすい傾向性を私たちは持っているのではないかと思います。
この両方が大事です。キリストが私たちの学ぶべき内容であり、同じキリストが私たちの教師であるということです。私たちはまさにキリストについて聴き、キリストにあって教えられる、そのように総合的にキリストを学んでいるそういう学生達であるということをぜひ覚えたいと思います。
知的な面においても理解し、また経験を通しても豊かに教えてもらう、そのようなキリストを学ぶ歩みを大事にしていきたい、そして豊かにキリストを知る者に替えていただき成長してゆきたいと思います。

3.なぜそんなにキリストを学ぶことが大事なのか

そして私たちはもう一つ思うんですけれども、何でこんなにキリストを学ぶことが大事なんでしょうか。 教えてくださるのはキリストだし、内容もキリストだし、なぜそこまでしてキリストについて学ぶことが大事なのか。
そのことについて最後に、21節に書いていますね。「真理はイエスにあるのですから」と、パウロはここで語っています。ここでパウロは「キリスト」という言葉を使わずに「イエス」という言葉を使っています。
今まで「キリスト」、「キリスト」と語り続けてきたパウロですが、ここにきて「イエス」という言葉に言い換えをしています。この言い換えもとても重要だと思いますね。
「真理はイエスにある」、つまりこの地上に人となって歩んで下さったイエス様ですね。私たちの人間の歴史の中に人としてへ来て下さった人間イエス様、そしてこの地上での歩みを歩んで下さって、十字架にかかって下さって、復活してくださったイエス様、このイエス様の中に真理がたくさん含まれていると言うことです。イエス様はこの地上でどのように歩まれたでしょうか。どのように人々と出会われて、どのように人々と関わられたでしょうか。どのように弟子たちを養い育てたでしょうか、そしてどのような生き方をし、どのような、死に方をされたでしょうか。私達にとってそれが全部大事です。真理はすべてこのイエス様にあるからです。私達はこれからどう生きて行ったらいいでしょうか。何のために生きて行ったらいいでしょうか。誰のために生きて行ったらいいでしょうか。私たちが日々経験するいろいろな苦しみや悩みをどう受け止めていけばいいでしょうか。全部答えはイエス様の中にある。真理はこの方の中にある。だから私たちはキリストを学ばなければならない。そしてキリストに教えてもらわなければならない。私達は、キリストのうち真理があるということを、しっかりと覚えながら、このキリストを学ぶものでありたいと思います。
普段のいろんなゆみの中で、色々な経験をする中で、喜ぶ時もあるし、つまずいたりがっかりすることもありますけれども、でも全部イエス様が味わわれたことですよね。イエス様が地上で歩んでくださったという事の中に、イエス様が人としてこられたということの意味ということが本当に深く解ってくるんじゃないかなというふうに思いますね。
そして今日は特に受難週です。イエス様が十字架にかかって下さった、 何と大きな愛が、そこに示されているでしょうか。そこから私たちは学んでいかなければいけないということを心に留めたいと思います。

4.イエス様から学んだ中身

さて後半に行きたいと思いますけれども、そのように私たちはキリストを学んでいきます。そしてキリストに教えられていきます。ではその教えの中身というのはどんな中身なんでしょうか。後半はキリストによって教えられたことの中身について学んでいきたいと思います。
22節から24節まで読んでみたいと思います。
「その教えとはあなた方の以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなた方が脱ぎ捨てること、またあなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」
私たちは、キリストにあって、キリストについて、どのようなことを教えられたのか、その教えの中身がここに書いてあることなんです。いろんなことを学びますよね。いろんなことを教えられますけれども、それを一言で言うならば、それはどういうことなんでしょうか。どんなことを私たちは教えられているんでしょうか。その中身がここに記されていることです。そして一言で簡単に言うならば、それは、着替えをしなさいということですね。衣替えをしなさいということです。ここでパウロが教えていることは、一つの比喩として教えていますけれども、これもやっぱり衣替えをしているかどうかということの大切さを教えているということが分かります。

三つのことをパウロは教えています。

①古い人を脱ぎ捨てることの大切さ

まず、22節です。その教えとは「あなた方の以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人をあなた方が脱ぎ捨てること。」と言っています。ここでパウロは 古い衣を脱ぎ捨てることの大切さを教えております。ただ単に脱ぐだけではなくて脱ぎ捨てることの大切さをここで教えております。どうしてでしょうか。古い人は罪によって汚れており、それを着たままでいると人を欺く情欲によって、性格、そして人格までもが腐敗していくからですね。ですから脱ぐだけでは十分ではないです。脱ぎ捨てなければならない。その服をまた取り出して着てしまうことがないように、それを完全に捨てるということの大切さが、ここで教えられております。これが1番目ですね。

②新しい人を着ることの大切さ

そして2番目にパウロは新しい人を着ることの大切さを教えております。24節ですが、 「真理に基づく義と聖もって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」ということで、今度は脱ぎ捨てるだけではなくて、新しい人を着ることの大切さをこで教えています。その新しい衣とは「神にかたどり造られた衣」、つまり神様が作ってくださった衣、神様が用意してくださる衣、その衣をしっかり身にまといなさい、そしてそれは真理に基づく義と聖という神の子のご性質を表している衣だよと、その新しい人を着ることの大切さというのが、ここで教えられています。

③神様の御手の中で新しくされ続けること

そしてもう一つ大切なこととして、その間に、この二つの間に、私達が霊と心において新しくされ続けることが大事だということが書いてあります。それが23節です。
「またあなたがたが霊と心において新しくされ続け」と、教えられております。 この言葉は以前の聖書では「心の霊において新しくされ」という訳でした。でも新しく訳し直された聖書におきましては、「新しくされ続け」という訳に変わりました。 つまり新しくされるということが、一回きりの経験ではなくて、継続的な働きであるということが強調されている訳に変わりました。私たちはイエスキリストを信じた時に、新しく生まれ変わりました。新しくなりました。でもそれで終わりなのではなくて、引き続き新しくされ続ける必要があるんだよということが、ここで教えられていることであります。しかもこれは受身形の言葉です。「新しくされ続け」と、受身形で書かれているということはつまり、自分で頑張って努力しても新しくなれないということです。誰かによって新しくされ続けるということです。私達は神様の御手の中で、新しく形作られていくということをここで教えられいるのです。自分で頑張って努力して、それで新しくなるのではない。それは不可能なんです。私達は神の御手の中で、新しく作り変えられていく、そういう存在なのだということがここで教えられていることであります。

5.まとめ

このように三つのことが書いてありますけれども、今日私たちはこの御言葉を通して二つのことを確認したいと思うんですね。

①着替えは済みましたか?

まず一つ目のことは「あなたは着替えは済んだでしょうか」ということであります。衣替えは済んだでしょうか。春の衣替えはまだ終わってないかもしれませんけれども、霊的な意味で、信仰者としての着替えはもう終わったか、ということなんです。私たちはイエス様を自分の救い主として信じ受け入れる決心をした時に、この古い人を脱ぎ捨てたはずです。それまでの古い自分中心の生き方を捨てて、新しい生き方をしようと決心したはずです。 イエス・キリストのために生きる新しい生き方へと、180度方向転換したはずです。これを回心、といいますけれども、それまで自分のために生きてたその私が、イエス様のために生きていくんだと決心して、180度方向転換したその時に、古い衣は脱いだはずです。それまでの生き方を悔い改めて、新しい出発を果たしたはずなんです。でも本当に脱ぎ捨てたかどうか、そのことを是非皆さん覚えていただきたいと思うんですね。
脱いだと思ったんだけれども、よく考えてみたらまだ捨てきれない、そしてその古い衣を、また取り出して、それを着てしまっているってことになっていないだろうか。その結果、結局救われる前の状態に、あの虚しい気持ちで歩んでいたあの頃の生活に、戻ってしまっているということはないだろうか。本当に私たちの着替えが終わったのかということですよね。
その点で、もし、曖昧さが残っているようであるならば、私たちは本当に神様との関係の中でしっかりとその古い人を脱ぎ捨てる決心をするということが、とても大事なことではないかと思います。

②新しい人を見につけましたか?

また私たちは新しい人を身につけたでしょうか。「神にかたどり造られた新しい人」、神様が備えてくださった義と聖の衣を、本当に身に纏って生きているんでしょうか。古い人は脱ぎ捨てたはずなんだけども、新しい人を、まだ十分着てないという、そういう状態になっていないだろうかということまで考えていただきたいですね。
是非私たちは、主によって造られた衣をしっかりと身に纏って、造り替えていただくものにないたいと思います。「誰でもキリストのうちにあるならその人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よすべてが新しくなりました」第2コリントの5章17節に書いてありますね。誰でもキリストのうちにあるならその人は新しく作られたもの、イエス様を信じた時、私たちは新しくされたんです。もし新しくされたのであれば、私たちは本当にその新しい神さまの御性質をしっかりと身に纏って、日々新しくされ続けていくということが求められているということを是非覚えたいと思います。そのような意味で
私達は着替えを済ませたでしょうか。そのことがまず第一に問われてくることであります

③御霊によって、日々新しくされ続けていますか?

もう一つの事も考えたいと思いますが、私たちははたして新しくされ続けているかどうかということです。一度新しくなりました。でも一度新しくなっただけではなく、日々、新しくされ続けているでしょうか。
これは御霊の働きです。私たちの努力でなされることではないです。私たちの内に働く御霊の働きによって、私たちは本当に日々、新しくされ続けているでしょうか。私たちの多くは、一度はもう衣替えが済んだと思うんですよね。イエス様を信じた時に古い衣を脱ぎ捨て、新しい衣を着て、一度は衣替えが済んだはずなんですけれども、それでは私達は身にまとった、新しい衣にふさわしい人へと作り変えられているだろうか。私たちの内で力強く働かれる聖霊の働きに、私たちの身を委ねているだろうか。そのような主の御業が、私たちの内でなされているだろうか。どこかでそれを拒んでいることはないだろうか。そうなっていないかどうか私たちは吟味したいなと思います。
パウロはコロサイ書のほうではこれと同じような事を教えていますが、3章10節でこのように言っています。
「新しい人はそれを造られた方の、かたちに従って新しくされ続け、真の知識に至ります。」

ここでも同じような真理を説明しております。新しい衣を着た新しい人はそれを作られた方の形、つまり神の形に従って、新しく作り変えられていくということを教えられている。つまり私たちが罪のために歪んでしまっている、私たちの貧しい貧しいかたちを、この衣に包んでくださることによって、神のかたち、神の栄光を表す形かたちへと日々作り変えてくださる。そういう御業が私たちの中でなされていくということが教えられている。そのような主の働きが、日々私たちの中で継続されているということをぜひ信じるものでありたいなと思います。この主の働きを、私たちの罪深さとか頑さのゆえに、拒んでしまうことがないように、あるいは自分勝手な性質によって、せっかく始まった働きを止めてしまうことがないように、私たちの中に豊かに聖霊が流されていくように祈るものでありたいと思います。

お祈りをいたします。
愛する神様。キリストが私の全てであることを今日も教えてくださったことをありがとうございます。真理はイエスの内にあります。このキリストを、私たちが日々学んでいくことができますように、 与えられた新しい衣にしっかりと身を包みながら、主の栄光を表すものへと成長させてくださいますようにお願いいたします。御言葉を心から感謝してイエス様の御名によってお祈りをいたします。

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