イエス・キリストをより良く知るために

イエスの埋葬

 
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マルコの福音書15章42~47節

さて、すでに夕方になっていた。その日は備え日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスがすでに死んだのかどうか尋ねた。百人隊長に確認すると、ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。聖書 新改訳2017

本日より受難週、教会歴が定めるところの受難週が始まります。イエスキリストの御苦しみを特別に覚える一週間ということになります。私たちは、1月から礼拝式の中でイエス様がたどられた十字架の道を共にたどりながら、イエス様が多くの苦しみを体験されたということを学んでまいりました。肉体的な苦しみがあり、精神的な苦しみもあり、また十字架上では父なる神様から見捨てられるという、そういう壮絶な苦しみも味わわれましたけれども、その全ての苦しみが私たちのためであったということを改めて思いながら、一週間歩んでいきたいなと思います。また私たち自身の悩み、苦しみの時に、そのイエス様の苦しみに自らの苦しみを重ね合わせていくような、そういう日々にしていきたいなという風に思っております。

さて先週がちょうどイエス様の十字架上で最後の息を引き取られる場面を学んだんですけれども、今日はそのイエス様が埋葬される場面に、ともに注目をしていきたいと思います。

1.アリマタヤのヨセフの信仰

十字架上で最後の息を引き取られたイエス様を引き取って、お墓に納めた人物は誰だったでしょうか。十二弟子ではなかったんですね。アリマタヤ出身のヨセフという人物が、イエス様の体を引き取って墓に埋葬しました。今日はこのヨセフという人物に私たちは注目をしていきたいと思います。

ユダヤのアリマタヤという街がありましたけれども、その町の出身でヨセフという人物がおりました。このヨセフについて聖書では43節に彼は有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。そのような人物であったと紹介されております。また平行箇所であるマタイの福音書の27章57節を見ると、この人が金持ちでイエス様の弟子であったと記されてあります。さらにルカの福音書の23章50節を見ますと、ヨセフは善良で正しい人であったと記されてあります。

ヨセフとはユダヤ議会の議員で、金持ちで、善良で、正しい人で、そして何よりもイエス様の弟子として神の国を待ち望んでいた。そのような人物であったということがわかります。12弟子の中の一人ではありませんでしたけれども、イエス様の弟子として、イエス様に従ってきた人であったということがわかります。このヨセフが、アリマタヤのヨセフが、イエス様を埋葬しました。

ただ自分の判断で勝手にイエス様を埋葬することはできなかったんですね。ローマ総督のピラトの所に行って許可を得ることが必要でした。そこでヨセフは43節に勇気を出してピラトの所に行き、イエス様の体の下げ渡しを願い出たという風に書いてあります。それはとても勇気のいる行動であったということがわかります。

イエス様の埋葬を買って出るということを、ピラトに申し出たならば、ヨセフがイエス様の弟子であるということがみんなに知られてしまうのではないでしょうか。

ユダヤ議会の議員たちのほとんどがイエス様の死刑に賛同しておりました。というよりはイエス様を殺すことが彼らの心からの願いでした。その中にあってヨセフも議員の一人でしたけれども、ヨセフは自分がイエス様の弟子であったことを恐れて隠していたと、ヨハネの福音書の19章38節に書いてあります。自分がイエス様の弟子であるということを知られるのが恐ろしくて隠していたということ。ペテロは、自分がイエス様の仲間であることが知られそうになった時に、急に怖くなってイエス様を知らないと三回言ってしまいました。

この時この状況の中でイエス様の弟子であるということを公言するということは、とても勇気のいることでした。もしかするとイエス様の仲間ということで、自分も処刑されてしまうかもしれないし、そうでなかったとしても迫害されるかもしれないし、それを考えるととても恐ろしい、とても勇気の出ない、そういう状況だったということが想像できます。

でもヨセフはこの時に勇気を出したと書いてあります。勇気を出してピラトの所に行きました。そしてピラトに向かってイエス様の体の引き渡しをお願いしました。これは勇気を振り絞った上でのヨセフの行動であったということを私たちは心にとめたいという風に思います。ピラトはイエス様が死んだ、という知らせを聞いて驚いたようです。44節に、

ピラトはイエスがもう死んだのかと驚いた。

と書いてあります。 イエス様が十字架につけられたのは朝の9時、そして午後の3時まで6時間磔になっていました。死刑囚が十字架につけられた場合、死ぬまでに数日間かかることがあったそうです。ですから、6時間で息を引き取られたというのは随分早い。イエス様の死が、如何に壮絶な死であったかということが伝わってきます。それで驚いたのですけれども、本当に死んだかどうかをピラトは百人隊長に確認させております。

その確認が終わった後、ピラトはイエス様の遺体をヨセフに引き渡しました。下げ渡しました。許可をもらいました。それでヨセフは十字架のところに戻って行って、イエス様を降ろして買っていた亜麻布、それは綺麗な亜麻布であったということがマタイの福音書に出てきますが、その綺麗な亜麻布でイエス様を包み、岩を掘って作った自分の墓に納めるということになりました。そのようにヨセフは心を尽くしてイエス様の身体をお墓に納めました。このような方法でヨセフはイエス様に対する信仰と愛を明らかにしたのだと思います。このアリマタヤのヨセフという人物は、聖書の中でこのイエス様の埋葬の場面だけに出てくる人物です。あと他にはどこにも出てこないんですね。よってヨセフはイエス様を埋葬した男として、世界中の人々に知られることになりました。ヨセフはこの時に神様の導きの中で、大いに用いられた人物だったということが言えるわけであります。

2.ヨセフの勇気の理由

もしこの時にヨセフがイエス様の体の引き取りを申し出なかったとしたならば、イエス様はその後どうなっていたでしょうか。引き取り手が誰もいなくて、そのまま捨てられていたかもしれない。特にその次の日は安息日でした。安息日はユダヤのルールでは死人の埋葬をすることを許されていませんでした。そのまま放置されていたかもしれない。そのまま放置されたまま、腐敗が進んでしまうって事もあったかもしれない。この時十二弟子どこにいたんでしょうか。彼らはみんな恐ろしくなって、逃げてしまいました。仮に弟子たちがそこにいたとしても、彼らはピラトのもとまで行くことができなかったと思いますね。またその場にたくさんの女性たちがいまして、十字架上のイエス様のことを見守っていたんですけれども、でもこの女性達もとてもイエス様の身体を埋葬することはできなかったと思います。しかしヨセフはイエス様の弟子でしたし、同時にユダヤ議会の有力な議員だったと、ここに書いてあります。有力な議員というのは、政治力や発言力を持っていた議員だったという意味だと思います。そのヨセフの持っていた社会的立場がここで用いられたんではないでしょうか。このヨセフだったからこそ、ピラトのもとに行って、お願いすることができたんではなかったでしょうか。

さらにヨセフは岩を掘って作った立派な墓まで用意していました。それはおそらくイエス様のために作った墓ではなかったと思います。それはおそらく自分が自分の家族のために作った墓だったんじゃないかなと思いますね。ところがいずれにせよ、墓を用意していたんですね。その墓をイエス様の体の埋葬の場所として、この人物は主に捧げたということが言えるわけであります。ヨセフはこの時に、イエス様の体を引き受けて埋葬することが、自分に与えられた務めだというふうに考えたんだと思います。そのような主のくすしい導きの中で、ヨセフは勇気を出すことができた。そのように主に導かれていたということに私たちは気づかされます。

「勇気を出して」って、ここに出てきますけれども、勇気を出すという言葉を聞くときに、私たちは勇気って出し入れが可能なんだなっていうことに気づかされるんじゃないかなと思います。私たちも普段なかなか勇気が出なくて、本当に勇気が出なくて困ってしまうということもあるかと思うんですけれども、何かをきっかけとして、その出なかった勇気が出せたというそういう経験をすることがあるんじゃないかなと思うんですね。とても勇気が出ないんだけども、でもあの人が一緒にいてくれたから勇気が出たとか、あの励ましの言葉を頂いたから励まされて勇気が出せたとか、そういう経験することがあると思うんですね。ヨセフもそのような経験が与えられたんだと思います。

ヨセフにとってピラトのもとに行くってのは、とても勇気のいることでした。普通だったら絶対にできないようなことでした。でも、それでも勇気を出すことができたのは、そしてピラトのもとに行ってイエス様の埋葬を申し出ることができたのは、神様がいま自分を必要としているということに気付いたから、ではなかったでしょうか。主を埋葬するということが、自分に与えられている務めであると自覚したからこそ、彼は勇気を出すことができたんではなかったでしょうか。主の導きの中で、主との生きた関係の中で、力を与えられ勇気を出すことのできたヨセフの姿から私たちは学びたいという風に思います。

旧約聖書の中にエステルという女性が出てまいりますけれども、このエステルという女性も勇気を出して主に用いられた人物だったなということを思い出します。エステルはユダヤ人だったんですけれども、不思議な導きでペルシャ帝国の王の王妃になった人物です。ただしエステルは自分がユダヤ人であることを人には知られていませんでした。ある日、王の家来のハマーンという人物が恐ろしい計画を立てるんですね。それはユダヤ民族を皆殺しにする、根絶やしにするっていう、恐ろしい計画を立てました。ペルシャ帝国の中にあっても、自らの律法と習慣に固執するユダヤ人たちを、ハマーンは激しく憎んで彼らを虐殺する計画を立て、しかもそのために王様から承認までいただいてしまうというそういう展開になるんですね。このままではユダヤ人は一人残らず皆殺しにされてしまうという、ハマーンという男は20世紀のヒットラーみたいな男だったということが言えると思いますけれども、でもその時にエステルの養父としてエステルを育てたモルデカイという人がいますが、この人が進行中だった恐ろしいその計画をエステルに伝えるんですね。そしてこういう風に言ったということがエステル記の4章13節14節に出てきます。

あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので、助かるだろうと考えてはいけない。もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこのようなときのためかもしれない。

そういう風にモルデカイからメッセージが伝わってきたということが、エステル記の中に記されてあります。エステルは王様の王妃でしたので、その恐ろしい計画が遂行されないように王様にお願いできる良い立場に置かれていたと思います。ただエステルは最初、勇気が出なかったんですね。特に王妃であっても自分から王様のもとに行ってお願いする事は、当時のペルシャでは認められていないことでした。そのようなことをした者は死刑に処せられるって事になっていたんですね。ですから、エステルにとって、それはとても勇気のいることだったんです。しかしそんなエステルを励ましたのは、モルデカイの言葉。

「あなたがこの王国に来たのはもしかすると、このような時の為かもしれない。」

その言葉、自分が主のご計画と導きの中で生かされているということを、神様のご計画の中で今自分はここに置かれているということ、そしてそのような導きの中で、神様が私のことを必要としているというそのことを知った時に、エステルは勇気を出すことができたんだと思います。その後の展開は、エステル記をぜひ皆さん読んでください。詳しく出てきますけども、エステルの活躍によってハマーンの陰謀は見事に暴かれて、イスラエル民族の命は守られていきました。まさに主の導きの中でエステルは大きく用いられた、大いに用いられた人物であったということを私たちは教えられます。

3.適材適所で

私たちも神さまの不思議な導きの中で、主に用いられるということがあるんではないでしょうか。私たちの神様は、私達の事を適材適所で用いてくださる方だと思います。主に用いられる人材として、ヨセフという人は果たしてふさわしい人物だったでしょうか。ヨセフはどちらかと言うと、臆病で気弱な人だったと思います。自分が信仰者であり、主の弟子であったにもかかわらず、その事実をなかなか人に公言できない人でした。どうせだったらもっと早い段階で、そのこと言えばいいのになと、私達だったら思うかもしれません。せめて十字架の前、イエス様が死ぬ前にその事をもう少し言っておけばよかったんじゃないかと私たちは思うかもしれない。イエス様が死なれた後にそういうことしても、遅かったんじゃないかと考える人もいるかもしれません。

でも聖書はこのヨセフの信仰をとても高く評価しています。全ての福音書でこのヨセフが出てきます。そしてイエス様の埋葬のために、大変用いられた人物として紹介されています。

むしろ、主の定められた時に、この臆病で気弱のヨセフは大変用いられたということを私たちは教えられるんではないでしょうか。私たちも同じじゃないかなと思うんですね。私たちも時々与えられた信仰を堂々と公言できない時があるんじゃないかなと思います。クリスチャンであること、信仰者であることをはっきり言うというよりは、どっか隠してしまったり、ごまかしてしまったりすることもあるんじゃないでしょうか。私たちも、もしかすると非常に臆病で気弱な、ひとりひとりじゃないだろうかというふうに思うんですね。でも、ヨセフもそうだったんです。でも、そのヨセフも主の御手の中で大きく用いられました。

私たちの神様は弱い私たちを用いられる方です。弱い私たちなのに、不十分な私たちなのに、力不足の私たちなのに、そんな私達を主は必要としておられるんです。

私達、時々自分の弱さを理由にして、主にお仕えするのをためらったり、断ったり、拒否したりするようなことがあるかもしれません。自分の弱さを言い訳にして、不信仰になってしまうということもあるかと思います。でも主は、そんな私達を必要とされています。

大事なことは私たちが主の御心に敏感であるということです。主は今この場所でこの状況で私に何を期待しているだろうか。何をなさろうとしておられるでしょうか。そのことに敏感であるということ。その主の御思いに、私たちが心を開いているということ、そういうことが私たちに求められているんではないでしょうか。

今週から新しい年度が始まります。新しい一年の歩みの中で、神様は皆さん一人一人に新年度何を期待されているでしょうか。皆さんを通して神様何をなされようとしているでしょうか。何をしたいと願っておられるでしょうか。そして私たちは主の導きの中で、どのようにして主にお仕えすることができるでしょうか。弱い私たちは主の御手の中にあって、大いに用いてくださる主に期待しようではありませんか。そして主の導きの中で私たちも勇気を出して、そして主にお仕えするものでありたいという風に思います

 

お祈りをしたいと思います。恵み深き私たちの父なる神様。1年の歩みが守られてきたことを感謝いたします。私たちの今置かれた状況の中で、またこの時代の中にあって、主のご計画があることを思います。私たちは力不足ですし弱い、私たちは臆病で気弱なところがあります。また整えられていない部分もあります。でもそんな私達でも主は必要としてくださり、用いてくださることを覚えて感謝します。どうぞ主の御手の中にあって、私たちが自由に喜んで主にお仕えできますように。時には勇気が必要かもしれません。どうかその時、主が助けてください、力を与えてください、御言葉によって支えられながら本当に喜んで主にお仕えすることのできる新しい一年として導いてくださるようにお願い致します。御言葉を心から感謝し、主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします

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