黙示録18章
黙示録18章4節:私の民はこの女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。 [ditty_news_ticker id=”2572″] |
18章は、いわば、大バビロンの葬送歌が具体的に歌われている場面だなと思います。
この大バビロンは、17章では大淫婦という名前で出てきましたけれども、この大淫婦、あるいは大バビロンが滅ぼされる、その実際の姿というものがここに出てきます。1節、
その後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を持って天から下ってくるのを見た。地はその栄光によって照らされた。」
1.大バビロンへの裁きの宣告
今までもそういうことがたくさん繰り返されてきましたけれども、この御使いはちょっと特別な感じがします。「大きな権威を持って」ということで、非常に重要な役割を担っていたということが感じられますし、地はその栄光によって照らされたとあって、あたかも神様の輝きをもって現れてきたという意味で、今までの御使いとはちょっと違う御使いであるということが言えると思います。これはやはり大バビロンの裁きを宣言するという、非常に大きな任務を担わされている、神様ご自身であるかのような存在であるということが言えると思います。そしてその声は力強かったということが2節に出てきます。
「彼は力強い声で叫んだ。『倒れた。大バビロンは倒れた。それは悪霊の住みか、 あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた憎むべき獣の巣窟となった。」
実際、声を聞くと、本当に私たちは身震いするようなそんな声だったのだろうなあと思うんですけれども、そういう声で、「倒れた。大バビロンは倒れた。」と、宣告されるそういう言葉です。そして大バビロンがどんな街だったのか、どんなところであったっかということですが、悪霊の住かあらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた憎むべき獣の巣窟ということで、悪霊が住んでいる場所であり、汚れた、汚れた、汚れた、巣窟、巣窟、巣窟と出てくるんですけれども、本当にその汚れたものがしっかりとそこに巣くっていると言うか、本当に悪霊が住んでいる、汚れている、そういう街であった、そういう都であったということがわかります。
2.堕落によってくずれ落ちる大バビロン
その原因は3節、
「すべての国々の民は、み怒りを招く彼女の淫行のぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と淫らなことを行い、地の商人たちは、彼女の過度の贅沢によって富を得たからだ。」
ということで、つまり堕落しているということですよね。 この街そのものが堕落しているわけですけども、それに人々がどんどん巻き込まれていく、そういう影響力が非常に大きいそういう町であるということです。国々の民が淫行に耽る、あるいは王たちが淫らなことを行っていく、そして商人たちも贅沢によって富を得ていくということで、贅沢と富ですよね、それからこの道徳的モラルの低下と言うか、あるいはそこに、みだらな行いがなされていく、そこにみんなが巻き込まれていくという、そういう街であったということですね。その大きな町が倒れたということがわかります。
3.大バビロンにひざまずかない者たちへ
4節以降また違う声が聞こえてきました。
それから私は天からもう一つの声がこういうのを聞いた。『私の民はこの女の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。』
天からの声が聞こえてきたということ、 この女の罪に関わらないように、災害に巻き込まれないように、関わってはいけない、出て行きなさい、ちゃんと距離を置きなさい、そういうことがここで命じられているのだなと思います。これはそれくらい影響力が強いということですね。ですから大丈夫だと思っていても、自分は大丈夫と思っていても、そこにいるだけでやっぱり影響を受けてしまうし、巻き込まれてしまう。だから離れなさいと命じられているのです。これは相当大きな誘惑だったと思うんですね。なぜなら当時のクリスチャン達は迫害されていた、非常に厳しかった、社会的にも抑圧されてみんなから嫌われるような、そういう苦しさを味わっていた中にあって、もしその街の繁栄を楽しんだり、またそういうことに手を染めていくことによって、その苦しみから解放されたり、皆から認められたり、あるいは、もしかしたら豊かになるかもしれないし、楽しいこともたくさんあるし、非常に大きな誘惑だったと思うんですね。すからどんなに立派なクリスチャンでも、そこにいるだけで、やっぱりそういうことに影響を受けざるをえないっていうことはあったでしょう。ですからここで、きっぱりっと離れなさい、巻き込まれないようにしなさい、そういうふうに命じられているということがわかります。これは聖書のどこを見ても出てきますね。罪の現実から離れなさいということですね。有名なところでは第二コリントの6章の14節に、
不信者と釣り合わないくびきを共にしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。
この世と私たちの清さというものは、決して交わることができない。ですから、しっかりと離れなさい、距離を取りなさい、聖別されなさいということが、こういうところで教えられています。それはイエス様も教えてくださったことですし、預言者たちも教えていることです。繰り返し、繰り返し、語られているメッセージが、ここにも出てきているということが言えると思います。そして5節に、
彼女の罪は積み重なって天に達し、神は彼女の不正を覚えておられるからです。
この彼女というのは、大バビロン、大淫婦のことですけれども、全然神に対する恐れがないっていうことですよね。罪に罪を重ねていくということですね。それが天にまで届いてしまうくらい、とんでもない罪が、溜まりに溜まって、それでも全然悪いと思わない。神に対する恐れがない。罪の恐ろしさっていうのはこういうところにあるんだろうと思います。
でも神は彼女の不正を覚えておられる、つまり神様の側からはしっかりと見えているということです。この感覚が鈍くなって行くことが本当に恐ろしいことだと思います。
4.大バビロンを裁く者へ
今度は6節から8節のところは「裁きを行う者」に対する言葉であると思います。
あなたがたは、彼女が支払ったとおりに彼女に報いなさい。彼女の行いに応じて倍にして返しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中に、彼女のために倍のものを混ぜ合わせなさい。
これは彼女が今までやってきたことですね。募りに募った、たくさんのものがある。それに対する報いを与えなさい。最後に報いがあるっていう事ですよね。しかもその報いというのは、倍にして返しなさいということですが、これは復讐しなさいということではなくて、結果としての報いを与えなさいということです。自分がしてきたことのその結果を、そこに与えなさいということ、しかもその数が倍になって返ってくるということが言えると思います。
7節、
彼女が自分を誇り、贅沢に耽ったぶんだけ、苦しみと悲しみを彼女に与えなさい。
これがその報いの内容ということになると思いますけれども、今まで自分を誇ってきました、贅沢を楽しんできました、そのぶんだけ報いとして、苦しみ、悲しみを、彼女に与えなさい、
彼女(大バビロン)は、心の中で、『私は女王として座し、やもめではない。だから悲しみに会うことはない』と言っているからです。
今までどんな心境で歩んできたかということが、ここでわかるんですけれど、もうこの大バビロンは女王でした。やもめではなかったです。何でも持っていました。そして悲しみにあうことがない、本当に笑いの人生だったということが言えるかもしれないと思いますけども、そういう風にして要するに自惚れていたということでしょう。神様に対する恐れが全くない、そういう生き方を貫いてきたということです。
そういうの彼女に対して、悲しみと苦しみを報いとして与えるようにということが明示されています。
8節、これらのことのため、一日のうちに、様々な災害、死病と悲しみと飢えが彼女を襲います。そして、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は、力ある方なのです。
ここで神様の裁きの光景がはっきりと描かれております。「1日のうちに」と出てきますね。もうあっという間です。ローマ帝国が繁栄していくのに何年かかったか分かりませんけれども、本当に長い、長い時間をかけてそれだけの繁栄を築いて、ずっとそれを楽しんできたという歴史がありますけれども、ローマも滅びる時はあっという間に滅びるんですね。
ここではローマということが特定されているわけではないんですけれども、この世の繁栄というのは、あっという間に滅んでしまうんですね。本当に倒れていくときは、あっけないと言うか、そういうことになるんだろうなと思います。そしてここで神様は裁く方であるということと、力ある方なんだ、今までずっと忍耐して黙って見ていてくださいましたけれども、やっぱり最後には裁きがなされるということを私たちはここで教えられます。
5.大バビロンの瓦解を見て悲しむ者達
9節以降は、色々と悲しむ人たちが出てきます。この都バビロンが滅んでしまうこと、倒れてしまうことを見て、悲しむ人たちがたくさんいたっていうことが9節以降ずっと18、19節ぐらいまで続いていくんです。いろんな人たちがいるんですが、まず地の王たちが楽しんだということが9節・10節、
彼女と淫らなことを行い、贅沢をした、地の王たちは、彼女が焼かれる煙を見ると、彼女の事で泣いて胸を打ち叩く 。彼らは遠く離れて立ち彼女の苦しみに恐れをなして『災いだ、災いだ、大きな都、力強い都バビロンよ。あなたの裁きは一瞬にしてなされた』と言う。
ということで、この大バビロンと淫らなことを行っていた、そういう関係にあった地の王達、随分楽しんだと思いますけれども、この地の王達が、彼女が焼かれる煙を見て悲しんだ、泣いて胸を打ち叩いたというその姿が描かれています。そして災いだ災いだということで、一瞬にして裁きがなされたということで、驚きもそこにありますし、悲しみを味わっているということがあるんですけれども、でも遠く離れて立っていたっていうところが、ちょっと気にかかるところで、すぐそばまで行って助けてあげる感じではなくて、ちょっと傍観してるところがあるんじゃないでしょうか。悲しんではいるけれども、やっぱり距離があると言うか、そういうことを感じる言葉だなと思います。
今度11節を見ると、地の証人達、この地の商人たちも、この大バビロンによってずいぶん繁栄してきた、儲かってきた人たちだと思いますけれども、この人たちも彼女のことで泣き悲しむと11節に出てきます。
彼らの商品を買うものが、もはや誰もいないからである。
これを読むと、「なんだ、大バビロンのために泣いてるんじゃないんだ、この地の商人たちは誰も商品を買ってくれる人がいなくて泣いてるんだ」ということがわかりますね。
ですからその悲しみの中身というのは、確かに大バビロンが滅ぼされて泣いてはいるんですけれども、大バビロンのために泣いているんではなくて、大バビロンを通して与えられていたものが全部なくなってしまったということに対する悲しみなんだ、ということが伝わってくると思います。そして12節以降、本当に詳しく書いていますね。本当に彼らはこの商品によってどんなに儲けてきたかということ、12節、
商品とは、金、銀、宝、真珠、亜麻布、紫布、絹、緋色の布、あらゆる香木、あらゆる象牙細工、高価な木材や青銅や鉄や大理石で造られる器具、シナモン、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、小麦粉、小麦、家畜、羊、馬、馬車、奴隷、それに人のいのちである。
この最後の「人の命」というのはおそらく奴隷のことじゃないかっていう指摘がありますけど、奴隷も売買されていたという当時の世の中の現実があったようです。いろんなもの、宝石類から、大理石とか木材とか、香料とか、あるいは食料品に至るまで、本当にいろんなものが売買されていて、輸出されたり、それによって儲かってる商人たちがいたのですが、あっという間にそれがなくなってしまったんですね。ですから、 どれだけこの地の商人たちが、バビロンによって潤っていたかということなんですけれども、それが全部なくなってしまったということの故の悲しみであるということが分かると思います。14節、
「おまえの心が欲しがる果物は、おまえから遠ざかり、ぜいたくな物や華やかな物は、すべておまえから消え失せて、もはや決して見出すことはできない。」
ここに書いてあるとおりで、欲しがっていたものが全部消えてしまった、なくなってしまったということが、語られています。
次に、15節16節を見ると、地の商人たちとはまた違う、彼女から富を得ていた商人たちということで、同じ商人ですけれどもまた違う商人達が出てきます。
これらの物を商って彼女から富を得ていた商人たちは、彼女の苦しみに恐れをなして、遠く離れて立ち、泣き悲しんで言う。
「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。亜麻布、紫布、緋色の布をまとい、金、宝石、真珠で身を飾っていたが、あれほどの富が、一瞬にして荒廃に帰してしまった。」
ということで本当に「一瞬にして」と 出てきますけれど、あれほど栄えた大バビロン、あんなに華やかで、豊で、繁栄していたあの都が、一瞬にして消えてしまった、荒廃に帰してしまったということが、とても信じられないという驚きと同時に、その悲しみということが、ここに出てきます。
そしてその後、出てくるのが今度は船長さんとか、あるいは水夫たち、つまり海で働く者たちも皆悲しんだということが出てきます。大バビロンが海洋貿易を支配していたということが伝わってくるんですけれども、18節、
彼女が焼かれる煙を見て、「これほどの大きな都がほかにあっただろうか」と叫んだ。
彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫んだ。「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。海に船を持つ者たちはみな、ここでその繁栄から富を得ていたのに、その都が一瞬にして荒れ果ててしまうとは。」
ということで、同じような内容の繰り返しになりますけれども、海洋貿易で富を築いていた人たちも、たくさんいたということですね。ですから地上だけの貿易ではなくて、海外に船で輸出・輸入・貿易がなされていて、それで潤ってた人たちもたくさんいたということです。つまりバビロンというこの国が、この都が、本当に世界中に影響力を行使していた、非常に広い範囲で富をもたらしていた、大きな大きな都だったということで、その広がりということも見えてくると思いますね。
でも、その人たちもみんながっかりして、そしてやっぱり驚いていますね。ここにも一瞬にしてということで、1日のうちとか、一瞬にしてとか、そういうことが繰り返されています。本当にあっけなく滅んでしまうということの驚きと、その悲しみというのが描かれていますし、やはりここでも富を得ていた、繁栄によって富を得ていたのに、それがなくなってしまった、明日からどうしたらいいんだろうというような、その恐れと一体になってるということが言えると思います。
6.絶対滅びることがないように見えた大バビロンの最後
そして21節から、またひとりの御使いが出てきますけども、
また、一人の強い御使いが、大きいひき臼のような石を取り上げ、海に投げ込んで言った。「大きな都バビロンは、このように荒々しく投げ捨てられ、もはや決して見出されることはない。
竪琴を弾く者たち、歌を歌う者たち、笛を吹く者たち、ラッパを鳴らす者たちの奏でる音が、おまえのうちで、もはや決して聞かれることはない。あらゆる技術を持つ職人たちも、おまえのうちで、もはや決して見出されることはない。石臼の音も、おまえのうちで、もはや決して聞かれることはない。
ということで、一人の強い御使いが、大きい引き臼のような石を取り上げて、海に投げ込んだって言う、そういう場面が示されるんですね。そして大きな都バビロンは、このように荒々しく投げ捨てられ、もはや決して見出されることはないとあります。
あの、大きな大きな都ですね、もう絶対滅びることがないように見えた、そして非常に繁栄していた力強い都がですね、まるで引き臼のように軽々と投げ飛ばされて、海の中に放り投げられてしまう。海の中に投げ落とされたら最後ですね。沈んでいって、二度と上がって来ないということですね。引き臼ですので結構重いですから、ふわふわふわふわ浮かんでる感じではなくて、ひたすら落ちていくだけですね。これは大バビロンのあっけなさと、神の権威の力強さが表されていると思います。
そしてその後に出てくるのは、竪琴などの楽器を演奏するその音色とか、場面と、歌を歌っている人たちの光景とか、笛を吹く様子があって、パーティーをやってるような感じもしますし、ラッパが鳴っているとか、歌を歌ってるとか、そういうことは、もう聞かれることはないし、そういう場面が見られることもない。あるいは技術を持っている職人さん達の技術も、もはや無い。そして生活の音ですね、石臼をひく音とか 、日常の音っていうのも、見られることはないと言っています。ここに出てくることは、ごく普通の生活ですよね。大バビロンと言ったら、なんかすごく淫らなことをしていて、道徳的に非常に悪いことをしていたという印象がありますけれども、ここに出てくることはごく普通の人間の生活で、全然悪くも何でもないごく普通の生活ですね。そういうものも全部消えていくんだということは、これはこれで、非常に衝撃的な内容だなと思います。そして23節では、
ともしびの光も、おまえのうちで、もはや決して輝くことはない。花婿と花嫁の声も、おまえのうちで、もはや決して聞かれることはない。というのは、おまえの商人たちが地上で権力を握り、おまえの魔術によってすべての国々の民が惑わされ、
この都の中に、預言者たちや聖徒たちの血、また地上で屠られたすべての人々の血が見出されたからである。
ということで、灯火の光が消えてしまう。そして花嫁と花婿の声、結婚式のあの楽しい姿、様子というものも、見られることはない。それはどうしてかと言うと、「お前の商人たちが、権力を握って、お前の魔術によってすべての国々の民が惑わされた」ということで、この大バビロンの魔術というものがここにあるんだなということが分かります。人々の心を魅了してしまう、虜にしてしまう、ひきつけてしまうような、そのような魔法のような力がそこにあった。それにみんな騙されてしまう、惑わされてしまう、そしてそれだけではなくて最後には、予言者たちや聖徒たちの血が、屠られて流されていたということで、信仰者たちがそこでは殺されたり、殉教したっていうことも最後に出てきますけれども、そういう矛盾に満ちた、繁栄した都が、最後にはそうなってしまうのだということが描かれております。
7.まとめ
読んでいて視覚的にも、イメージできるような、そういう記事ですし、非常に心に残る、非常にインパクトのある文章だなと思いますね。まさにこういう形で大バビロンは滅んでいくんだと、この世の繁栄というのは、最後にはそうなっていくんだよっていうことが、はっきりとヨハネに示されて、ヨハネを通して私たちの目の前に示されたというのが、今日の内容ということになります。
私達は、この世の繁栄とか、この世の力とか、お金とか、やはりそういうものからたえず影響を受けながら生きてると思うし、やはり私たちの心の底では、そういうものを求めているようなところがあるし、どんなに信仰者として歩んでいても、やはり贅沢も楽しいし、この世の楽しみも味わいたいし、そしてやっぱりそういうこの世の影響を受けながら歩んでいることも多いんじゃないかなと思いますけれども、最後は必ず神様は裁きをなさるんだということをちゃんと覚えていないといけないし、また、私たちはそこに巻き込まれないように、関わらないように、出ていきなさいと命じられていることを心に留めて、しっかりと聖別されたものとして、神様の前に歩むものでありたいなと思います。
今日の朝に、ちょっとテレビを見ていたら、 SNS で繋がった大阪府の小学生の子供を、栃木まで連れて行って監禁していた男性が捕まったっていうニュースがありました。SNS で子供たちがいつでもどこでも知らない人と繋がることができるという、今そういう世の中なんだっていうことが報道されていました。子供が悩んでいて、人に言えない事を SMS で相談すると、相談に乗ってくれる人がたくさんいるんだということです。みんな親切そうに見えるんだけれども、それに騙されてしまうらしいですね。詳しくはわかりませんけれども、どうして女の子が栃木まで行ってしまったのか分からないんですが、今そういう世の中なんだっていうことで紹介されていて、非常に恐ろしい世の中だということを感じさせられました。本当に子供たちをめぐる状況に危険が迫っているし、私達はその状況の中にあって本当に守っていかなくちゃいけないし、祈っていかなくちゃいけないと言うことを思わされました。 この世の力っていうのは、どこに及んでくるか分からない、知らないところで、そういう力が働いている、それは例えていうならば、大バビロンの影響力が、私たちの生活の隅々にまで及んでるって事だと思うんですね。そういう中にあって私たちは本当に神に選ばれた者として、自らを聖別して、民を守っていく必要があるんじゃないかなと思うんですね。そのために今日も私たち心合わせて祈っていきたいなということを思っています。