イエス・キリストをより良く知るために

神様が悦んで下さる礼拝とは!レビ記1章1~17節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

先週より旧約聖書の3番目の書物のレビ記という書物の、み言葉に耳を傾けております.

レビ記は聖書の聖書通読の最初の難関と呼ばれているようです。聖書通読を始めようと決心した人が、創世記、出エジプト記と、何とか読み進めていって最初にぶつかる壁が、レビ記だという風に言われております。確かにレビ記の内容は難しいと思います。難しいというよりはその内容がほとんどが、旧約聖書の時代の礼拝祭儀に関することですので、私たちにはピンと来ないという感じなのかなと思います。しかしこのレビ記の言葉が、すべて惠の言葉であると話したら皆さん驚かれるでしょうか?特に一章1節の言葉には、神様の恵みが豊かに表されていると思います。先週学びましたけれども、こう書いてあります。

主はモーセ及び会見の天幕から彼にこう告げられた。イスラエルの子らに告げよ。

この最初の言葉、冒頭の1節の言葉の中に、レビ記全体に貫かれている神様の恵みというものが表されております。イスラエルの民がエジプトを脱出した後、神様はモーセにシナイ山から語りかけてくださいました。モーセがシナイ山の山頂にまで呼び出されて、モーセが山の上まで登っていって、そこで主と出会いました。しかもモーセはその時、「稲妻と雷鳴のただなかで語られる神の声を聞いた」と、そこに記されてあります。「主が火の中にあって山の上に降りて来られ、煙はかまどの煙のように立ちのぼり、山全体が激しく震えた。」と、出エジプト記の中に記されてあります。その光景のあまりの恐ろしさに、イスラエルの人々は山の上まで登っていくことができなかった。そして確かに、「主に近づくものがあればその者は滅ぼされる」と、そういうふうに警告もされておりました。ですから神に向かってイスラエルの民が、馴れ馴れしく近づいていくということは全く許されない状況でありました。しかもそこでモーセに与えられ、モーセを通してイスラエルの民に与えられたのは、神の聖なる立法である十戒でした。神の民とされたイスラエルの民が、み心に従うようにと神の基準がそこで示されたという厳粛な瞬間であったということが言えると思います。

1.イスラエルの民が主と出会うことができるように

ところがレビ記のこの最初の言葉において、神様は山の上ではなくて、会見の天幕の中にいらっしゃった。イスラエルの民が、今そこに宿営をして生活をしているその場所に、神様がご自分の姿を現してくださった。しかも今回は荒々しい稲妻とか雷鳴の轟の中ではなくて、静寂の中でモーセに、そしてモーセを通してイスラエルの民全体に、親しく語りかけてくださった。しかも今回は一方的に命じるのではない。イスラエルの民を礼拝に招いてくださって、聖なる神様が罪深い私たちとお交わりがしたいと、招いてくださっている。そのこと自体がちょっと考えられない惠ではないかと思います。ですからこの一章1節の冒頭の言葉に神様の恵みが込められているということを、私たちは感じたいなと思うんですね。

そして神様はそれに続き、イスラエルの民が本当に主と出会うことができるように、主を礼拝することができるようにと、その方法をここで定めてくださっているそれがレビ記全体の内容です。

ここを読むと、旧約時代の礼拝に関するたくさんのルール、手順、礼拝の方法が記されて細々としたところまで丁寧に丁寧に定められているということがわかります。これらの規定は全部、イスラエルの民が確実に神とお会いできるように、神様を間違いなく礼拝できるように、神様の方から定めてくださった方法です。つまりレビ記の内容の全体が、イスラエルの民を礼拝に招いてくださっている、招きの言葉です。つまり惠の言葉なんです。神様が、とても神様に近づくことができないような、罪に汚れた私たちを、それにもかかわらず招いて、お交わりがしたいと、礼拝に招いてくださっている、その方法を示してくださっている。そう考えると、レビ記っていうのは本当に惠の言葉なんだなっていうことに気づかされてゆきます。読んでいても本当に退屈に感じるような、一体このどこに惠が込められているのかと感じてしまうような、内容かもしれませんけれど、神様の思いがここに込められているっていうことなんですね。そのことを私たちを意識しながら、その上で語られている、み言葉を期待を持って聞いていきたいなと思います。

2.私達の礼拝は主に受け入れられるものであるか

礼拝において私たちは、まさに今神様を礼拝している最中ですけれども、礼拝において私たちが一番心がけなければいけないことは何でしょうか?それは私たちの捧げる礼拝が、神に受け入れられる礼拝になるということです3節において、捧げ物を捧げる時には、捧げるその人が、主の前に受け入れられるようにと記されてあります。

その人は、自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行きなさい。

と、命じられている。つまりその礼拝が、本当に真実な礼拝であるかどうか、それを決めるのは、その礼拝が主に受け入れられる礼拝になっているかどうかというところにあるということです。分かりやすい、いい方をするならば、主がその礼拝を喜んでくださっているかどうかということ、私たち人間が喜ぶ以上に、主を喜ばせる礼拝になっているか?そのことをいつも私たちは心がけている必要があるということを、このことを通して教えられます。

同じことが新約聖書のローマ人への手紙の12章1節でも教えられております。そこにこう書いてあります。

ですから兄弟たち、私は神の憐れみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたの体を、神に喜ばれる聖なる生きた捧げ物として捧げなさい。それこそ、あなた方にふさわしい礼拝です。

ふさわしい礼拝ってどんな礼拝でしょうか?それは私たちの体を、神に喜ばれる聖なる生きた捧げものとして捧げる礼拝なんだよ、そういうことが新約聖書においても教えられています。つまり神に喜んでもらう礼拝です。主に受け入れられているかどうか、そのことが礼拝で一番大切にされていなければならないことだということを心に留めたいと思います。

私たちが誰かにプレゼントをする時に、私たちが気にかけることが必ずあると思います。それはそのプレゼントを、本当にその人が喜んでくれるかなということを気にかけながらプレゼントを用意するんじゃないかなと思います。そのプレゼントを渡した時に、そのかたが手に取った時に喜んでくれる姿を思い浮かべながら、そのことを期待しながら、私たちはプレゼントを用意し、ラッピングをかけたり、カードを書いたりして、素敵なプレゼントを用意して、お渡しするんじゃないかなと思います。

同じことが礼拝においても言えます。私たちの捧げる礼拝が、主に受け入れられる、主に喜んでもらえる礼拝であるかどうか、そんなことを気にかけながら礼拝することが求められているんではないでしょうか。出エジプト記の記述をみるとわかるんですけれど、会見の天幕となる幕屋の作り方が全部定められておりました。出エジプト記の後半部分に出てくるんですけれども、神様が定められたんですね。会見の天幕作る時は、こういう素材で、こういう寸法で、こういう色で作りなさいと、全部定められている。その定められた通りにイスラエルの民は天幕を作りました。そしてレビ記を読み進めていくと分かるんですが、会見の幕屋の前で捧げられる礼拝の仕方も全部定められておりました。こういう捧げ物を、こういう順番で、この通りに捧げなさいと、全部定められておりました。 

イスラエルの民はその定められた通りに、礼拝を捧げました。定められた通りに礼拝が捧げられる必要があった。それは神様が主権者であるということを、はっきりとイスラエルの民が自覚するということ、このかたに対するイスラエルの信仰がはっきりと告白されるために大事なことだったということです。

同時にそれは、礼拝が自分勝手な、わがままな礼拝になってしまわないために、礼拝の聖さを守るためにも、大切なことだったと考えられます。

3.マラキの時代の堕落した礼拝

旧約聖書の最後の預言者と言われる、マラキの時代の礼拝は、随分いい加減な恋愛になってしまっていたということが記されております。この記で定められていた所の規定が全然守られないような礼拝になっていた。民が用意してくる生贄の動物が、レビ記で定められているような最上の物ではなくて、盲目の動物とか、足の萎えた物とか、病気の物とか、そんないい加減なものを神様の前に持ってきて捧げていたそ。ういうことがマラキ書に出てきますね。そしてそんな礼拝を捧げていながら、その問題性に当時の人々はほとんど気づいていない。その罪を指摘されると、逆に「どのようにして私たちがあなたを汚しましたか?」と、逆に開き直ってしまうほど、霊的に堕落した状態だったということがそこに記されている。そして彼らは礼拝はちゃんと行っているという意識で、自己満足をしていたということも言えるかなと思います。ところが当時のそんなイスラエルに向かって、神様はこういうふうに仰られています。

私はあなたの手からの捧げ物を受け入れない。自分の群れの内にオスがいて、これを捧げると誓いながら、損傷のあるものを主に捧げるようなずるい者は呪われよ

当時のイスラエルの民の礼拝は、神の目から見るならば、ずるい 礼拝と見えたとそこに示されていますね。口では主に従うと告白をし、礼拝するというその行いもありながら、心の深いところでは、神様を第一にせずに背いている、そういう姿が神の目にはずるいと見えたという風にそこに記されている。このように当時のイスラエルの民によってさ捧げられる礼拝は、全く主に受け入れられる礼拝ではなかったし、喜ばせることもない、むしろ主を悲しませてしまう礼拝であったということが教えれれていることであります。

私たちも、今お捧げしている礼拝はどんな礼拝になっているだろうかと考えます。本当にこの礼拝を通して神様は喜んでくださっているでしょうか?神様に受け入れられる礼拝になっているでしょうか?

人との関係においては、いつもその人を喜ばせたいと願っているはずの私たちが、神様との関係において、その点に関して無頓着であるとするならば、私たちの信仰をもっと吟味する必要があるんではないだろうかというふうに思いますね。

本当に私たちが、いつも主を喜ばすことができるように、主に受け入れられる礼拝となるように、そんな礼拝を、私たちは御言葉を通して教えられながら、目指していくものでありたいと思います。

4.あるべき礼拝のあり方

さてそれでは、そんな礼拝の内容ということになりますね。主に受け入れられる礼拝を目指したいです。本当に主に喜んでもらいたい、そういう礼拝を、これから大切にしていきたいです。では、その礼拝ってどんな礼拝なんでしょうか。中身のことを私たちは考えなければいけないですね。そんな事を考えながら、もう一度、レビ記の御言葉を読んでみたいなと思います。

イスラエルの子らに告げよ。あなた方の中で誰かが主にささげものを捧げる時は、家畜の中から、牛か羊をその捧げものとして献げなければならない。

その捧げ物が牛の全焼のささげものである場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、その全焼の捧げものの頭に手を置く。 それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。 その若い牛は主の前で屠り、祭司であるアロンの子らが、その血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある 祭壇の側面にその血をふりかける。 

また全焼の捧げ物はその皮を剥ぎ、各部に切り分ける。祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上に薪を整える。祭司であるアロンの子らは、その切り分けた各部と、頭と脂肪を祭壇の火の上に薪の上に整える。内臓と足は水で洗う。 祭司はこれら全てを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼の捧げ物、主への食物の捧げ物、香ばしい香りである。

ここは牛の場合ですね。牛が捧げられた場合の、その一部始終と言いますか、全行程が描かれているということがわかります。主の前に捧げられる捧げ物は、家畜の中から牛か羊でなければならないとまず教えられていて、しかもそれは傷のない雄でなければならないと教えられています。つまり家畜の中から傷のない一番いいものですね、最上のものを主に捧げなさいと、ここで命じられています。

3節から9節までは、牛が出てきますけれども、10節から13節のところでは、羊かヤギが捧げられる場合のことが出てきます。さらに14節から17節までは、山鳩、家鳩が捧げられる場合のことが記されています。三つのかたちがあったっていうことがわかるんですけれども、これはイスラエルの民の社会的立場、経済的な状況というものが意識されています。基本的には牛か羊なんですけれども、牛か羊を神様の前に捧げるということが原則なんですが、経済的な理由で牛も羊も用意できない場合があったと思いますが、その場合はヤギを捧げなければならないということです。ヤギさえも用意ができないという家庭もありました。その場合は山鳩と家鳩を主に捧げるようにと教えられている。それぞれの社会的立場、経済的な状況に配慮して、三つの形で教えられているということが、ここからわかることですね。

つまりこれは、社会的立場に関係なく、経済的な状況に関係なく、全ての人が礼拝に招かれているんだということを表しています豊かな人も貧しい人も、共に主の前に招かれているということです。そして豊かな人も貧しい人も、ともに最上のものを捧げるようにとここで求められているということです。

貧しい人は捧げなくてもいいと、免除されているわけではないということですね。貧しい中にあっても、しかしその中でも最上のものを主に捧げることが期待されていたということがここからわかることであります。

イエス様がお生まれになった時に、ヨセフとマリアの夫婦は、赤ちゃんのイエス様を連れて8日経った時に宮に連れて行ったという記事が、ルカの福音書の2章にでてくるんですけれども、そこを読むと、山鳩一つがい、あるいは家鳩の雛2羽と、立法の定められているところに従って、生け贄を捧げるために宮に登ったと書いてあるんですね。イエス様が誕生された後、8日後にですね、ヨセフとマリアの夫婦はイエス様を連れて宮 に登っていってシメオンとアンナに会うわけですけれども、その時に彼らは家鳩、山鳩を用意して主に捧げていたっていうことに気づかされるんですね。これはヨセフとマリアがとても貧しい夫婦だったということを表しています。イエス様は非常に貧しい家庭にお生まれになったっていうことを表しています。そしてその貧しさの中にあっても二人は神様の前に最高のものを捧げたんだということも表しているんですね。このように主に捧げられる捧げものの中身にはいくつかのパターンがありましたけれども、でも全ての人が礼拝に招かれていた、そして全ての人が精一杯の捧げ物を用意して、神様にお捧げするということが求められていたということであります。

5.礼拝の捧げ方とその手順から分かる事


そしてその
捧げ方には、色んな種類があって少しずつ違うんですけれども基本的に原則があるんです。その手順がありました。まず自分の手元にあった最高の捧げものを、会見の天幕の入り口というところまで連れてくるということです。会見の天幕というのは神様がおられるところです。

①神様のおられるところまで連れてくると言うことが第一

そしてその後、

捧げものとなる動物の頭に手を置くことが求められていた

4節の冒頭にその全焼の捧げ物の頭に手を置くと書いてあります。連れてきた牛であったり羊で有ったり、ヤギであったり、その動物の頭に手を置くことが求められた。

これは何を意味しているのか。

これは罪のために苦しむ勤めが、人から家畜に移ったんだよということを、象徴的に示す行為だったと考えられるのです。

罪のために苦しむ勤めは本来は自分が苦しまなければならないはずのものですしかしその勤めが自分から動物に移ったと言うことを象徴的に表しています

そのあと、聖書を読むとこう書いてあります。

それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。

と書いてあります。「それ」というのは家畜のことを表していますけれども、その家畜が、人のためのなだめとなった。人の代わりに主の前に捧げられることにより、神の怒りをなだめてくれている。神の怒りが宥められたと言うこと、そしてその結果、彼は受け入れられます。彼と言うのは礼拝者ですけれども、その結果としてその人が、神に受け入れられるようになった。家畜が身代わりになってくれたおかげで、本来、神に受け入れられない人が、神に受け入れられるようになったと言うことがここで示されているわけです。

そしてその次が最も緊張の強いられる瞬間なんですが、それは礼拝者であるその人がその家畜を主の前で屠ると言う事です。5節に、

その若い牛は主の前で屠り

と書いてあります。主の前、神様の前でほふるのは、その礼拝者です。

屠ると言うのはどういうことでしょうか?屠ると言うのは、刃物でその家畜を切り裂くと言う事ですね。そして殺すと言う事です。そしてその後、部分に切り分けるという非常に緊張の強いられる瞬間だということです。それが礼拝者本人に課せられた務めであったと言うことです。礼拝者にしてみればその部分は、祭司にやってもらいたいなと言う気持ちもあったかもしれませんね。自分で連れて行くところまではいいんですが、そこから先は、祭司にやってもらいたいなと言う思いがあったかもしれません。でもそこもちゃんと自分でやりなさいと言うことが命じられています。その務めは礼拝者自身が、なさなければならないことでした。

私は今まで動物を屠るといった事は経験がないですが、皆さんの中にそういう経験がある人はいらっしゃるでしょうか。それは非常にショッキングなことといいますか、辛い経験になるんじゃないかと言うふうに思いますね。

しかもここで教えられている事は、屠られるべきその動物と言うのは、その辺で捕まえてきた猪とかたぬきとかそういうのでは無いわけですね。自分の育てた家畜の中から1番いいもの、愛情を注いできたそういう動物を連れてきて、自分の手でそれを屠ると言うのは、どんなに辛いことかと思います。しかも家畜は生きたまま屠られますから、動物は本当に抵抗したと思います。泣き騒いだと思いますし、そういう中で必死になって手で押さえながら、その動物を切り裂いていくと言う事は、どんなに辛いことだったかなと思います。なぜそんな恐ろしいことをしなければいけないのか、私たちにはちょっと理解しがたいことかもしれない。

でもその一連の行為の中で、礼拝者であるその人は本当によくわかったんじゃないかと思うんですね。自分の中にある罪と言う問題が、いかに恐ろしいものであるのかということを、いかにそれが深刻な結果を引き起こすものであるのかと言うことを、そして自分の身代わりとなって死んでいく家畜に、本来の自分の姿と言うものをまざまざと見せつけられているようなそんな瞬間、ひとときだったんじゃないかなと思うんですね。礼拝者にとってそれは、自分の中にある罪の深刻さと恐ろしさをまざまざと思い知らされる経験だったと言うふうに考えられます。この生贄を全焼のいけにえと言うんですが、この生贄は一度だけじゃないんですね。繰り返し、繰り返し捧げられていて、一度で済まないんです。つまりそのたびに家畜が屠られていくと言うことです。このことを旧約聖書の時代のイスラエルの民は、皆、経験したと言うことに私たちは驚かされます。

アブラハムも全焼のいけにえを捧げた。イサクも全焼のいけにえを捧げた。ヤコブも全焼のいけにえを捧げた。何気なく聖書に書いてありますけれどもその場面を想像しながら読むときにそれはどんなに心痛む時だっただろうかと感じさせられますかその繰り返しでそれを行うと言うことによってイスラエルの民は本当に自分の罪と向き合い続けてきたんだなと思わされます自分の中にどんなに恐ろしいものがあるのかと言う事を絶えず繰り返し繰り返し教えられてきた。そういうものを絶えず自覚させられてきた。でも同時にその罪の全てが許される方法が神様によって提示されていると言う事、その恵みのありがたさと言うものも、彼らはそういうことを通して、経験を通して、繰り返し繰り返し教えられてきたんではなかったかと思いますね。このように当時の礼拝と言うのは単なる形式を超えて自分自身と向き合いその上で神の恵みを経験すると言うそういう時でした。罪深い自分のことを思いながら、しかしその深い部分で主と出会い、主の恵みに浸ると言うそういう瞬間でした。罪深い私たちを聖なる神様が招いてくださる、出会わせてくださったと言う、その恵みを味わう、それが旧約聖書の時代の礼拝だったと言うことを私たちは覚えたいと思います.

何か形式ばったルールがいっぱいあって大変だなそういうことではないんですね。自らの罪に悲しみ、でも同時にその次が全部言うされている神様の恵みに感謝する悲しみと喜びが一緒になっているようなそんな礼拝が旧約時代に味わわれていたということを私たちは覚えるものでありいたいなと思います

今日の私たちの礼拝は、一体どんな礼拝になっているでしょうか。私たちは、もうこの旧約時代の礼拝をする必要はありません。礼拝に来るたびに、私達は家畜を連れてくる必要はないんです。そして家畜を連れてきて、ここでみんなで屠ったりする必要がないんですね。今はもうそういう時代ではありません。ですからそういう礼拝はもう必要はないんですが、でも神様は今も変わらず私たちに同じことを期待してるんじゃないだろうかと思わされます。私たちは毎週毎週繰り返される礼拝を、どんな思いを持って集っているんでしょうか 。どんな思いでこの礼拝に駆けつけているでしょうか。もし主の招きがなければ、私たちは決して神に近づくことができないくらい罪に汚れた一人一人であるという自覚を持ちながら、本当に身を低くしながら、でもそんな私たちが主に招かれていることを喜ぶ、そこで示されている恵みを感謝する、そんな礼拝式になっているのかと私は考えさせられます。是非そんな礼拝式を体験してゆきたい。この旧約聖書に示されている礼拝には程遠いかもしれませんが、でもそんな私たちでも、今も変わらず神様に招かれている。そしてその恵みに招かれていることを感謝して行くものでありたいと思います。 

6.まとめ

最後にイエス様のお話をして終わりたいと思います。

聖書のこの箇所の中に、イエスキリストの十字架の原型が示されているということは、皆さんもう気づかれたかなと思います。 ここにイエス様の姿があるんですね。イエス様の十字架の姿があります。礼拝者の身代わりとなって、屠られていく家畜の姿はまさに、イエス様の姿を表しています。その家畜が屠られていくその場面、その光景は、まさにイエス様が十字架につけられたその場面を表しています。イエス・キリストが私たちの罪を担い、身代わりの捧げものとなって主のみ前に捧げられたことによって、わたしたちの罪は完全に許された。その捧げ物は完全な捧げ物でした。一度捧げられたその捧げ物によって、私たちは完全に許された。

ですから今私たちは、もはやレビ記に記載されているような儀式を行う必要はないんです。細かい規定が書いてありますが、その通りにする必要はないんです。わたしたちの身代わりとなって屠られた羊がいてくださったことのゆえに、私たちは贖われて神の怒りをなだめられて、受け入れられた、そういうめぐみが今私たちに与えられている。与えられているから本当に感謝なんですが、でも私たちはやっぱりこのことをいつも忘れてはいけない。実際にその場面を目にすることはないかもしれない。実際に手にとって羊を屠るということはないかもしれない。でも私たちの心の中ではこの場面、この光景を、いつも鮮やかに覚えておく必要があるんではないでしょうか。イエス様が私たちの身代わりとなって死んでくださった、その光景をいつでも思い起こすことができるように、いつも心に留めておく必要があるんじゃないでしょうか。

そのイエスキリストの十字架によって、私たちは贖われているその恵みに感謝する礼拝が、そんな時であるように 願いたいものです。

大事に育てた家畜を自らの手で屠らなければならなかったり礼拝者の心の痛みということを、私たちは今経験することはないかもしれないけれども、それを想像する時に、それはどんなに大きな痛みだったかということを思います。

それを考えるときに、父なる神がその独り子を私たちのためにお与えになってくださったことは、どんなに大きな痛みだったかということを少しは分かるんじゃないかなと思いますね。あるいは自らの飼い主によって、今、屠られようとしている家畜が、本当に抵抗しながら、喘ぎながら、泣き騒ぎながら、苦しんでいるその姿は、父なる神様に見捨てられたイエス様の苦しみというものを表してるんじゃないかなと思います。

イエス様が十字架の上で叫ばれました 。

わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったんですか。

と、叫ばれたと聖書に書いてありますが、そのイエス様の苦しみというものとこの家畜が屠られていく時の、その姿が重なるような思いがいたします。この父なる神の苦しみも、またイエスキリストが十字架上で味わわれた苦しみも、全部私たちのためでした。全部私たちの罪を許すためでした。なんと大きな犠牲を神様は私たちのために払ってくださったんでしょうか。そしてそのようにしてイエス様は救いの道を開いてくださった。

このレビ記の最後、屠られた後の家畜が、全焼のいけにえとして全部焼かれるということが書いてありますね。そしてその焼かれた時の煙が立ち上って行きました。天に立ちのぼって行きました。そしてその最後の場面で、それが香ばしい香りになったって書いてあります。香ばしい香りになったんです。その香りを嗅ぐのは神ご自身ですね。それはまさに神に受け入れられる供え物になったということがここで表されている。

この姿は自らの犠牲をもって天に続く道を開いてくださった、イエスキリストの姿を象徴的に表しています。そのような大変な犠牲を払って、私たちのために救いの道を開いてくださった、それがイエス様であることを私たちは覚えたいという風に思います

私達はどうすれば主に喜ばれる礼拝を捧げることができるでしょうか?

それはこの礼拝のためにこのイエスキリストと出会うことによってです。このイエスキリストをしっかりと受け入れることを通してです。私たちのために大きな犠牲を払ってくださったその恵みに目をとめて、私たちの罪の現実と弱さと戦いの中で、あのイエス様と出会うことです。その恵みに浸ることです。その時に私達は本当に心から主に感謝と礼拝を捧げるものに変えられて行くのではないでしょうか。そのようにして私たちを引き上げてくださる神様の恵みというものに、私たちは浸るものでありたいと思います。そのような礼拝者として成長していこうではありませんか。

 

お祈りをしたいと思います

愛する神様、み言葉を通して今日私たちを導いてくださったことをありがとうございます。私たちは、決してあなたに近づくことができないような、罪深い私たちでしたけれども、その私たちをあなたは、いつも招いてくださっていること、そしてそのために、私たちに適切な方法も示してくださいました。私たちにイエス様をくださいました。本来は私達が受けなければならないその苦しみの全部を、イエス様が担ってくださった。そのことによって私たちに、救いの道を開いてくださったことを覚えてありがとうございます。私たちが礼拝に駆けつけるたびに、このイエス様の恵みに浸ることができるように助け導いてください。私たちが捧げる礼拝が、あなたを喜ばせる、あなたに受け入れられる礼拝として、これからも成長していくことができるように導いてください 。尊い主イエスキリストのみ名によって、お祈りをいたします。

 

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