イエス・キリストをより良く知るために

罪の実相—レビ記10章1~7節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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コロナの感染拡大が少し落ち着いたかなと思っていましたところ、またじわじわと広がりつつあるということを聞きまして、本当にこれはいつまで続くんだろうか、この問題から私たちはいつ解放されるんだろうかという思いに、皆さんなっているんじゃないかなという風に思います。この問題の収束、一日も早い収束を願いながら、同時にこのコロナが終わった時にどんな世の中になっているんだろうか、どんな時代になってるんだろうかということも非常に考えさせられることであります。今、世界中で起きていることアメリカで起きていること、香港で起きていること、世界の色んな所で起きていること、また日本の中で起きていること、私たちの身近でもいろんなことを聞きますけれども、そういうことをいろいろ聞いたり見たりするにつけ、人間のそれまでは抑えられていた、あるいは隠されていたように見える、人間の色んな怒りとか欲望とか罪人としての性質というものが、非常にはっきりと見えるようになってきている、またこれからそういう世の中にだんだんなっていくのかなというような思いがしております。

しばらくの間私たちの、人間それぞれの主義主張を最大最大限認め合いながら、なんとか表面においては平和を保っていく努力っていうものがずっとなされていたんじゃないだろうかという風に思いますけれども、今そういう人間の努力が、だんだん限界に近づいてきているのかなという気がいたします。

人間の理性とか努力ではもう抑えることができないくらい、人間の怒りは深いし、欲望は強いし、そういう罪人としての性質ってものが、ますますあからさまに出てきている、そういうことを思います。

私たちの教会ではしばらく前に、ヨハネの黙示録を祈り会の時に学んだんですけれども、その学びを終えた上で今思うことは、今、この世の中は聖書が預言している通りの姿に少しずつなりつつあるということであります。

終わりの日にはどんな状況になるかっていうことが聖書の中に預言されておりますけれども、そういう状況にだんだん近づいてきている。そして私たちはやっぱり忘れるべきではないと思います。私たちはいずれ審判者なる神様の前に立たされる時が来ます。イエス・キリストが審判者としてもう一度帰って来られます。その時に私たちの与えられた人生の中でどう生きてきたかっていうことが問われるという瞬間がやってくるということ、絶対なる神様がおられるっていう事、その方の前で私たちが生かされているっていう事を、私たちは今まで以上に自覚していないといけないし、今まで以上に主の前で生きるっていう事が、大切にされてゆかなければいけないんじゃないだろうかという風に思います。

(1)アロンの子ども達の死

前回はレビ記の8章の御言葉に注目をしました。その8章の内容は、アロンとアロンの子供達が、祭司として任職されるという場面でした。その後8章9章と、祭司の任職式の様子が、ずっと続いて書きとめられております。その任職式が祝福のうちに無事に終わったようです。9章の24節を見ますと、

火が主の前から出てきて、祭壇の上の全焼の捧げものと、脂肪を焼き尽くした。民はみなこれを見て喜び叫び、ひれ伏した。

と書いてあります。イスラエルの捧げた生贄を、神様が受け入れてくださったということ、そしてそれを見てイスラエルの民が喜び、叫んだということ、 その祭司の任職式、礼拝の時が、大変祝福された、喜びの時であったっていうことが伝わってくる記事になっております。そのようにしてアロンとアロンの子供達の祭司としての務めが始まったということであります。

ところが、最初の職務執行時に悲劇が起こってしまいました。アロンの子供達、今、祭司として任職されたばかりの、この二人の息子、ナダブとアビフが、主の前から出た火によって焼き尽くされ、死んでしまうというそういう事件が起こったっていうことが、今日の箇所に記されていることであります。10章の1節と2節もう一度読んでみたいと思います。

さて、アロンの子ナダブとアビフは、それぞれ自分の火皿をとり、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に捧げた。すると火が主の前から出てきて、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主の前で死んだ。

このようにナダブとアビフは、主の前から出てきた火によって焼き尽くされ、主の前で死んだとあります。主の前で死ぬという厳粛な響きがあるということが感じられます。そして6節を見ますと、主が焼き殺したとはっきりと書いています。この二人は単なる偶然亡くなったということではなく、事故にあって亡くなったということではなくて、明らかに神の怒りに触れて命を絶たれたということが分かるという風に思います。どうしてこんな悲しいことが起きてしまったんでしょうか。具体的なことは何も書いてないんです。ただ1節で、主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に捧げたと記されている、異なる火、主が彼らに命じたものではない異なる火を捧げた、そう書いてあるだけであります。

この言葉からいろんな可能性が考えられるんだそうです。二人が、ナダブとアビフが、礼拝で用いる香の調合を間違えたんじゃないかとか、あるいは、二人は実は酒を飲んで酔っていたんじゃないかとか、火を祭壇からではなく別のところから持ってきたのではないだろうかとか、入ってはならないとされている聖所に二人は入ってしまったんじゃないかとか、いろんな可能性が考えられるんだそうです。ただそういう具体的なことは、ここには一つも出てこない。ここで指摘されていることは、命じられた通りにしなかったという、この一点、その内容がですね、生贄を捧げる方法に問題があったのか、順番が間違っていたのか、場所がふさわしくなかったのか、そういう具体的なことはわからないんですけれども、いずれにせよ神様が命じられたとおりではなかったということ、そこに神に対する不従順が隠されていたということが、解かることであります。

ナダブとアビフは、何か道徳的に間違ったことをしたわけではないと思います。そしておそらく彼らは善意から神様に捧げ物をしたんじゃないかという風に思います。

ただ命じられたとおりではなかったということ、その姿勢が神の前に問われたということ、そのことが、神様は彼らの具体的な行為ではなく、姿勢や態度に注目しておられるということがわかります。行為として犯された罪ではなくて、心の中にある動機、 神に対して従順であるのかどうかっていうこと、そこに神様が注目しておられるっていうことに私たちは気づかされるんではないでしょうか。

この世で罪が裁かれるのは、罪が形になった時だけだと思います。嘘をつくとか、人を騙すとか、盗みをするとか、殺人を犯すとか、罪が実際に形になった時に、私たちは裁かれる。そしてその時に私たちは、「やってしまった」という罪意識を抱きやすいのではないかなという風に思います。

でも罪が形になる前の、罪が生まれてくる、そこにある私たちの性質や傾向に、私たちが罪意識を感じるということはあんまりないんではないだろうかという風に思います。

でも私たちの神様は、私たちの心の深くを、もっともっとよくご存知なかたであります。

私たちの中で罪が形となって現れる前の、罪人としての性質を、よくご存知です。私たちが生き方の基本として、本当に神様に従おうとしているのかどうか、私たちの動機がどこにあるのか、そういうこともよくご存知であるっていう事です。

そして心からの従順を、形だけの信仰ではなくて、形だけの礼拝ではなくて、心からの従順を私たちに求めておられるということを私たちは覚える者でありたいという風に思います。

第一サムエル記の15章22節にこういう言葉があります。

主は、全焼の捧げものや生贄を、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ、聞き従うことは、生贄にまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪に勝る。

そういう風に書かれている言葉ことばがあります。これは御言葉に対する従順よりも、形だけの礼拝を優先させようとしたサウルに対して、神様が語った、サムエルを通して告げられた神様の言葉であります。主は全焼の生贄や、捧げものに、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろか。見よ聞き従うことは生贄に勝り、耳を傾けることは雄羊の脂肪に優る。

私達が今礼拝している神様は。聖なる方であるということを、私達は忘れるべきではありません。私達の心の中に何があるかよくご存じの方であります。私達の形だけの礼拝ではなくて、私達の形だけの信仰ではなくて、本当にそこに心からの従順があるかどうか、御言葉に対する従順があるかどうか、そのことを願っておられる方だということを私達は今日の聖書の箇所からしっかりと受け止めたい、そして私達の思いをもう一度吟味したいなと思います。本当に私たちは心から主に仕えているでしょうか?心から聖なる神様に捧げているでしょうか ?その動機を、私たちの内にある心の思いをしっかりと神様の前に差し出して清めていただき整えていただくということが私たちに求められていることではないでしょうか。

(2)神の聖さの現れ

さてその後モーセは、アロンに神の言葉を伝えました。その言葉に注目したいと思います。三節の言葉、

モーセはアロンに言った。主がお告げになったことはこうだ。「 私に近くにあるもの達によって、私は自分が聖であることを示し、民全体に向けて私は自分の栄光をあらわす。アロンは黙っていた。

 この言葉を通して、ナダブとアビフの事件を通して、結果的には聖なる神様の聖いご性質が表されたんだっていうことがわかります。

私に近くある者たちによって、私は自分が聖であることを示し、民全体に向けて、私は自分の栄光をあらわす。

注目したいのは、その言葉が語られた時の アロンの姿です。モーセが伝える、その神の言葉を聞いた時、アロンは黙っていたと3節に記されています。今自分の目の前で二人の息子が死んでしまいました。アロンにとってそれは信じられないような衝撃的な出来事であったことは間違いありません。その事実を父親としてとても受け入れることが出来なかったんではないかという風に想像いたします。なぜこんなことが起こるのか?こんな悲しい結果になってしまうのか?そしておそらく神様に対する疑念とか、疑問とか、不満とか、そういうものがアロンの心の中に渦巻いていたんではないかというふうに考えられます。しかしそれでもアロンは神様に口答えするとはできなかった。アロン自身が神の聖さに触れたからであります。

その後神様は、アロンとアロンの子供たちに言葉を伝えています。6節の言葉ですが、

モーセはアロンとその子エルアザルとイタマルに言った。

アロンにはもう2人息子がいたということは分かるんですが、取り残された息子に対して、御言葉を伝えました。

「あなたはがたは髪の毛を乱してはならない。また衣を引き裂いてはならない。あなたが死ぬことのないように、また御怒りが、全会衆に下らないようにするためである。しかしあなた方の身内の者、すなわちイスラエルの全家族は、主が焼き殺した者のことを悲しまなければならない。またあなたがたは会見の天幕の入り口から外へ出てはならない。あなた方が死ぬことのないようにするためである。あなた方の上には主の注ぎの油があるからだ。」それで彼らはモーセのその言葉通りにした。

いろんな思いがあったと思います、アロンの内に。でもアロンは最終的にはモーセの言葉通りにした。「神の前に立つ」ということが、どういうことなのか本当に骨身に染みて実感させられ、教えられたそういう経験だっただろうというふうに思います。父親としても泣き叫びたいですよね。髪の毛を振り乱して、衣を引き裂いて、泣き叫びたい。でもそれをする事は許されなかったんです。これはまさに礼拝の場です。神の前に居るんです。

しかしあなた方の身内の者、すなわちイスラエルの全家族は、主が焼き殺した者のことを悲しまなければならない。

ここに神様の慰めをみいだします。身内の者だけは泣いてもいいよと。

しかし、アロンとその子供たちに関しては、それを許されなかった。

それは、あなたがたが死ぬことがないように、また御怒りが全会衆に下らないためである。

神様の前に対する奉仕が、死と隣り合わせの奉仕であるという事を、本当に教えられる、実感させられるそういう瞬間であったという風に思います。神に選ばれるということが、そして神の前に立って奉仕をするということが、どんなに尊いことなのか、どんなに大事な瞬間であるのかということを教えられる機会だったという風に思います。

皆さん、是非、牧師のために祈っていただきたいなと思います。牧師はいつも神の前に立って、民を導くそういう責任が与えられていますけれども、本当に牧師はそれだけの聖さがいつも求められている、それだけの責任が与えられているということをぜひ覚えておいていただきたい、また礼拝の司会者や奏楽者のためにも、是非覚えて祈っていただきたいと思います。主の前で奉仕をするということがどんなに尊い奉仕であるのか、是非自覚していただきたい、そして本当によい状態で、心から私たち会衆を神様の元に導くことができるように祈ってください。祈りがないと、とてもその責任を果たすことができない、そういう勤めですね。是非祈っていただきたいなという風に思います。同時に、会衆一人一人も神の前に出るんです。どんなにか神の前に整えられていなければいけないでしょうか?

もう一度モーセがアロンに語った言葉を味わいたいと思います。

私に近くある者たちによって、私は自分が聖であることを示し、民全体に向けて私は自分の栄光をあらわす。

私たちが清められることと、栄光を表すということが、繋がっていることがわかる言葉であります。私達はいつ神様の御臨在に触れたでしょうか?最近いつこの聖なる神様を意識したでしょうか?そしてその前にあって自分が清められるという経験をしたでしょうか。もし私たちが神の栄光を表したいと願うならば、私達はいつも聖められていなければいけない。そのことを願っていなければいけない。

神様は私たちを通して、神のご栄光を民全体に表したいと願っておられるということは分かります。聖徒である私たちを通して、神のご栄光が現されるんです。でもそのためには私達はどれだけ整えられているでしょうか?私たちはもっともっと神を恐れる必要があるんではないでしょうか。私たちの信じている神様が、どんなかたであるかということをよく自覚して、このかたに対してふさわしい畏れを持って、主に仕えていくことが求められているのではないでしょうか。どうか私たちの心にふさわしい畏れを、主が養ってくださるように、私たちは祈るものでありたいと思います。

(3)神の愛

そして私たちは同時に、とても神の聖さに近づくことができない者ですけれども、そんな私たちのために、近づく方法を示してくださっている神の愛も合わせて覚えたいという風に思います。

この世の多くの人々は、人間がそれほど罪人だとは自覚していないと思います。要は根本的に人間が罪人であるという事実を認めようとしません。例えば結婚という神の恵みの定めが簡単に汚されていると思います。結婚という制度をこえたところでの、男女関係がもう当たり前のようになされている世の中になっていると思います。あるいは平気で陰口を言ったり、噂話に花を咲かせたり、 SNS では誹謗中傷を繰り返し、でもそれでも自分が罪人であることに気付く人は実に少ない。当然のように人を貶め、自分の正しさを主張します。現代人は罪に対する感覚をどんどん鈍らせている。そしてそのような影響が、時に教会の中にも入ってくることがある。

どうしてこういう風になってしまうんでしょうか?それは聖なる神様を知らないからです。神の聖さに触れるという経験がないからです。

神と出会うということは、どういうことでしょうか?それは自分の中に隠されている罪がはっきりと示されるということ、罪に支配されている自分というものを、はっきりと知らされるというそういう経験、でも、それが命の始まりなんだっていうことを聖書は私たちに教えています。命はどこから始まるんでしょうか?それは自分に死ぬというところから始まるんです。私たちが自分の罪を示されて、そしてイエスキリストと共に十字架につけられて、自分に死んだ時に、私たちに命が与えられる。神様の方からまず私たちの方に来て下さったんです。イエス様が私たちの罪のために来て下さったんです。キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。そしてその罪を許すために自分の命を差し出して、身代わりとなって死んでくださって、そしてそれと引き換えに、私たちに命を与えてくださった。ですから神の聖さに触れて、私たちが罪人であることを知らされるという事は、恵みの第一歩であるということ、命の第一歩であるということを、私たちは覚えたい、そしてしっかりとイエス様を信じイエスキリストに自分を委ねていく者でありたいと思います。

18世紀のアメリカの伝道者に、ジョナサン・エドワーズというとっても有名な人がおります。アメリカ人のクリスチャンであれば誰でも知っている有名な大伝道者ですけども、このジョナサン・エドワーズの説教の中で、数百名の聴衆を一度に回心に導いた、結果的には何万人ものアメリカの人達を回心に導いたと言われている有名な説教があります。

それは「神の怒りの手の中にある罪人」という説教です。人の罪に対する神の怒りがいかに激しいかっていう、そういう内容の説教だったそうで、日本語にも訳されていて私達も読むことができるんですけど、それを読むと確かにちょっと恐ろしくなってくるようなそんな内容かなと思います 。しかもジョナサン・エドワードは非常に心に迫るような語りかけ、迫力のある話をしたっていうことが言われておりますので、その説教を聞いた聴衆は、神の怒りの恐ろしさに身震いをしたっていうことまで言われている説教家です。でもそのジョナサンエドワーズの説教によって、たくさんの命が救われました。数えきれない人々が救われて多くの人々に命が与えられました。今の時代にもそのような説教者が必要なのではないだろうかという風に思わされます。

私たちの信じる神様は厳しいかたでしょうか?それとも優しいかたでしょうか?

その両方ではないかなと思いますね。

私たちの罪をはっきりと示すという意味において、そしてその罪に対する裁きを宣告すると意味においては、非常に厳しい方です。

でも神様はその罪をそのまま放置されるようなかたではないんです。その罪の解決の方法をちゃんと示してくださるんです。そしてその罪を解決してくださるのです。私たちに命を与えてくださるんです。そういう意味では実に優しい方、両方を含んでいるからこそ神は愛なのではないでしょうか。私達が死に至る病を抱えているのに、見て見ぬふりをする医者は良い医者ではないと思います。私たちが本当に死に至る深刻な病を負っているならば、その病と真剣に向き合ってくれるのが良い医者ではないでしょうか。そしてそれだけではなくてその病を解決する方法をその医者は知っている、そうであるならば私たちはその医者に全部委ねるのではないでしょうか。私の命は全部このかたの手の中にありますと医者に委ねるのではないでしょうか。そしてその時にちゃんと癒してもらえる。私たちに求められていることはこの神の愛に応えることではないでしょうか。この医者であるイエス様に全てをお委ねすることではないでしょうか。そのようにして私たちは聖められていく、整えられていく、そういう経験をしていく者でありたいなと思います。教会は聖なる宮と呼ばれています。主はその聖なる宮におられる と御言葉に御言葉に記されています。 そして私たちは聖徒と呼ばれています。私たちは個人としても教会としても、やはり聖められることを求めて行かなければいけない。聖められた教会の中に神様がご臨在されるからであります。

教会と言うと普通は愛の交わりを 求める傾向があると思いますけれども、実は教会が第一に求めるべきものは、愛の交わり以上に「聖さ」です。なぜならば神様は、聖さの中にご自身を表わされるからです。そして聖められた結果に与えられる神様のプレゼントが愛なのであります。逆に聖さを犠牲にして愛だけを求めて行く時に、教会の交わりもだんだん世俗的な交わりになっていくんではないかと思いますね。 この世のものがいろいろと入ってきて、そして愛だと思っていた物が、何でも言い合えるという関係に過ぎなかったり、自分のわがままや甘えが無条件に肯定されるようなことだったり、そういう人間的なつながりで終わってしまうということが多い。そしてそこに神の栄光が現されるということはありません。

この世の方々は、一体どこで神様に出会われるんでしょうか?もし教会が聖さを失ってしまったら、この世の人はどこで神とお会いすることができるんでしょうか。聖なる神の臨在に触れるということは、どこで経験できるんでしょうか?

そのためにも私たちは神の前にふさわしく整えられていくということが日々求められているのです。その方法もちゃんと神様は示してくださっているんですね。ぜひ私たちはこの神の愛に応えて、主に心からお仕えしていく者に成長させていただこうではありませんか。日々主の前で清められて悔い改めて整えられて本当に心から主にお仕えするものとして成長していこうではありませんか。

祈り

お祈りをしましょう。愛する神様聖なるあなたが心に守られわたしたちを招いてくださっているめぐみ覚えてありがとうございます。本来はあなたに近づくことができないような私たちですがしかしあなたがその尊いイエスキリストの贖いによって罪を赦し、命を与え、神の子供としてくださっている恵みを覚えて心から感謝いたします。あなたはそれでも私たちの心の中に何があるかよくご存知です。どうぞ私達が、あなたの前に全てをお委ねし、また示されるままに、あなたに悔い改めの祈りをなしながら、心から整えられて主に仕えていくことができますように。尊いイエス様のお名前を通してお祈りいたします 。 

 

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