イエス・キリストをより良く知るために

自分の母と父を恐れなければならない。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

レビ記19章1節から8節 。主はモーセにこう告げられた。

「イスラエルの全会衆に告げよ。あなた方は聖なるものでなければならない。あなた方の神主である私が聖だからである。それぞれ自分の母と父を恐れなければならない。また私の安息日を守らなければならない。私はあなた方の神、主である。あなた方は偶像の神々に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を作ってはならない。私はあなた方の神、主である。あなた方が交わりの生贄を主に捧げる時は、自分が受け入れられるように捧げなければならない。それを捧げた人、その翌日にそれを食べなければならない。三日目まで残ったものは火で焼かなければならない。もしも三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは不浄なものとなり受け入れられない。それを食べる者は咎を負う。主の聖なるものを犯したからである。その人は自分の民から断ち切られる。」

ここまでの箇所でありますけれども、今日はこの箇所より「自分の母と父を恐れなければならない」という題で説教をお語りいたします。

暑い8月が無事に守られてきたことを神様に感謝したいと思います。ただこの猛暑が、大きな台風を生み出す原因になっているようです。9月はコロナの心配もありますし、猛暑もまだ続きますけれども、合わせて台風からも守られるように。今、台風が接近中のようですけれども、祈ってゆかなければいけないなと思わされております。

いま世界を見渡してみますと、疫病の世界中の流行、各地で頻発する甚大な自然災害、それに伴う経済危機と飢餓。今日の朝日新聞の一面には、バッタの襲来で世界中のに被害が広がってるという記事も載っておりました。そして戦争の噂を聞いたり、人間の愛が冷えていったり、あのイエス様がマタイの福音書24章で予言された通りの状況に、今なってきているんではないだろうかというふうに思われます。再臨の日が迫っていることを感じさせられます。

第二テモテ3章の1節にも書かれてあります。

「終わりの日には困難な時代が来ることを承知していなさい。その時には人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで汚れたものになります」

と、そこで予言されております。世の中はますます聖書の予言通りになっているという風に感じます。私達は本当に目をよく醒ましながら、与えられた使命に生きることが求められているんではないかなと思います。主の栄光をあらわす歩み、そして福音を伝えていく者として、神様にお仕えしていきたいというふうに思います。

1.聖なる者になりなさい。

さて今日の聖書の箇所ですけれども、19章1節と2節を読みたします。

主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの全会衆に告げよ。あなた方は聖なるものでなければならない。あなた方の神、主である私が聖だからである。」

レビ記の中で何度か繰り返されるみ言葉がここにまた出てきております。このみ言葉はレビ記の主題聖句であるという風に言われていますけれども、聖なる神様の前で私たちも聖なる者になることが求められているということがわかります。今の邪悪な世の中にあって、教会の聖さというものが、今どんなに求められているかという風に思います。

しかし「聖なる者になりなさい」と言われた時に、どうすれば聖なるものになることができるのかピンとこないということもあるんではないかなと思いますね。

それはどうも観念的、精神的なことではないようです。むしろ私たちの生活に密着した、極めて 具体的ことなんだということを、聖書を読んでいくと教えられます。

この後に続いていく色々な掟がありますけれども、その掟の数々は、私たちにとって聖なる者となるためには何が必要なのか、私たちに「聖い生活」について教えているということを覚えたいという風に思います。

私たちは、どういう風にして神様の前に聖い者になることができるのか?

2.聖なる者となるためには何が必要なのか

第一番目に出てくるものは何でしょうか。それは3節に自分の母と父を恐れなければならないというそういう命令から始まっているということに気づかされます。

私たちが聖い者となるために私たちが心がけなければならないことは、私たちの両親を恐れること、つまり私たちの親を敬ったり大切にしたりすること、ここから始まるということに私たちは驚きを覚えるんではないだろうかという風に思います。

さらに読み続けていくと2番目には「安息日を守りなさい」ということが3節に出てまいります。

3番目には4節ですが「偶像礼拝をしてはいけないとい」いう、偶像礼拝の禁止が出てまいります。

そして4番目に5節ですけども、「交わりの生贄を主に捧げなさい」というそういう教えが出てまいります。

これらのつながりを見てゆく時に、気付かれた方もいるかもしれませんが、あのモーセに与えられた十戒の順番を逆にした形で命じられているということに気付かされるんじゃないだろうかと思います。

私たちの父と母を敬いなさいゆうことが、十戒の第5番目の戒めでありました。

安息日覚えて聖なる日とせよというのは、十戒の4番目の戒めでした。

3番目は省略されてるんですが、偶像を造ってはならないというのは十戒の2番目の戒めでした。

ですから、十戒のモーセに与えられた十戒の順番を逆にするような形で、ここで命じられているということに気付かされる。そして結果的にこの記事が、十戒の良き解説になっているということに私たちは気付かされるわけであります。

①自分の母と父を恐れなければならない

私たちの目指すべき目標は「神を恐れること」です。「神と親しく交わること」です。それが私たちの目標です。でもそれをするためにまず最初にしなければいけないことは何でしょうか?それは自分の両親を恐れること、親に与えられている権威というものを尊ぶということ、そのことがまず第1に出てくることであります

3節それぞれ自分の母と父を恐れなければならない。

この世にはたくさんの権威というものがありますそしてそれらは全て神様から来ていると聖書に教えられております。ローマ書の13章の1節なんですけれども、

「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて神によって立てられているからです。」

と、そこでパウロが教えている言葉があります。この世に存在している権威はすべて神から来ているし、神によって立てられているということがわかります。

人が誕生してこの世で最初に出会う権威は、その中にあって親の権威です。人は親を敬うことによって、権威を尊ぶことを学びます。そしてそれはその権威を立てられた神様を尊ぶことにつながります。

私たちは、親を敬うことを通して、結果的に神様を敬うものに変えられていく、その事をまず親がよく理解している必要があるんではないかなと思います。親による権利の濫用という問題が、時々起こるんではないかなと思いますね。親が子供に向かって権威を振りかざすってうよな、そういう問題が時々家庭の中に起きるんじゃないだろうかと思います。その問題の原因がどこにあるかということを考えるとき、それはおそらく、この理解が乏しいということか と思います。つまり自分に与えられている権威が、神から来ているという自覚が乏しいということです。そのためにその権威が、まるで自分の権威であるかのように誤解してしまうということに、その問題があるんではないだろうかという風に思います。

ですからまず親が、このことをよく理解しなければいけないですよね。自分に与えられている権威というのは、神様から来ている。そのことを知ることによって、私達はふさわしくこの権威を用い、また神様を恐れることを学んでいくんではないだろうかという風に思います。

同時に子供もこのことを理解しなければいけません。親に与えられている権威は、神様からのものであることを、子供もよく知る必要がある。目に見える親の権威を認めることができないのなら、目に見えない父なる神様の権威を認めることはできないはずです。

今日のレビ記の記事で、非常に注目すべきところは、父よりも先に母を恐れるように命じられているという点です。十戒では、あなたの父と母を敬いなさいと命じられていて、父が先に来ております。これが普通の順番だったと考えられるんですね。でもどういうわけか、レビ記の記事は不思議ですが、父よりも母の方が先に来てるんですね。子供が恐れるべき存在として、母の方が先に意識されている。これ何かの間違いなんだろうか?

そうではないと思いますね。やはりこの順番にも意味があるということが考えられる。

当時は完全な父系社会でした。つまり父親の権威は絶対です。しかし多くの場合、妻は夫に従属する立場に置かれ、母の権威は父親のそれと比べると、弱いものとみなされる傾向があった。子供達から軽んじられやすい面があったということがあると思います。

でも聖書はそれを禁じているということです。

つまりこれは社会的な立場とか、夫婦の力関係とか、そのような人間的な理由で、親の権威が軽んじられてはいけないという、そういうことです。母親の立場が父親の立場と比べて、弱い、低い立場であるように見えたとしても、そのような人間的な理由において母親の権威が軽んじられてはいけないということです。

現代の家庭において、この聖書の原則はどのように生かされているでしょう。現代では、夫婦の力関係や、家族の形というのは、本当に家によってそれぞれだと思います。父親は権威的だけど、母親はそうでないという家庭もあるでしょう。逆に母親には逆らえないけど、父親の前ではわがままが許されるという家庭もあるかもしれません。

いろんな家庭がありますが、どんな家庭環境にあっても、親は親として、恐れられなければならない。人間的な理由で、親の権威が軽んじられてはいけない。その理由は、その権威を与えてくださったのは、神ご自身であるからであります。

そしてこの原則は、子供が成長した後も変わらないです。かつては親の保護下に置かれていた子供たちも、やがては成長して大人になります。そうすると力関係では子供の方が親を凌いで行くということも起こりうると思います。そしてそれによってだんだん親の弱さが見えてくるというそういう面もあると思います。特に年老いた親の介護に取り組んでいるという方もおられると思いますけれども、その場合力、関係は完全に子供の方が上です。

たとえそのような状態になったとしても、子供は親の権威を認め続ける必要がある。それが聖書の命令です。なぜならば、それが神を恐れるための第一歩だからであります。

親も子供も、この神が与えられた権威というものを、共に覚えることによって、そこに家庭の祝福があるということを私たちは聖書から学んでいくものでありたいという風に思います。

 

私たちは私たちの父と母を敬っているでしょうか?神様が親に与えられた権威というものを、 大切にしているでしょうか?またそのようなものとして子供たちに教えているでしょうか?

私たちの神の前にある聖さは、まず私たちの父と母を恐れるところから始まるということを今日の聖書の箇所を通して私たちはしっかりと受け止めるものでありたいと思います。

②安息日を守りなさい

さてこれが一番目のことなんですけれども、その次に命じられていることは何かと言いますと、安息日を守りなさいということです。3節ですね、真ん中のあたりに、

また、私の安息日を守らなければならない

二番目に安息日を守りなさいということが教えられております。

天地万物を作られた神様は、7日目にその完成をお祝いして、休まれたということが聖書の創世記に書いてあります。そのことを信じる私たちは、それを認めて、神様とともにこの日をお祝いします。

またこの日は、神様がイスラエルの民をエジプトの苦しみから救い出して下さったことを覚える日でもありました。ですから私たちも安息日を守ることによって、与えられた救いの恵みと、今まさに神様によって生かされている恵みを感謝し、神様に礼拝をいたします。

つまり私たちは安息日を聖別することをとおして初めて、神様と出会うことができる。

安息日を守るということは、私たちと神様との関係において、欠かせない大切な教えであるということがわかります。

③偶像礼拝の禁止

さらに3番目に行きたいと思いますが、4節では、偶像礼拝を禁じなさいという教えに続いていきます。4節、

あなた方は偶像の神々に心を移してはならない。また自分たちのために、鋳物の神々を作ってはならない。

偶像を作ってはいけないよと教えられております。

偶像とは神様と私たちの関係を破壊するものです。それはとりわけイスラエルの民にとってそれは大きな誘惑でありました。これから入植するカナンの地は、異教世界であり、様々な偶像礼拝が行われていた地だったからであります。

交わりの生贄

このような順番を経て4番目に「交わりの生贄」を、主の示される方法によって捧げるようにと命じられております。5節から読んでみたいと思います。

あなたがたの交わりの生贄を主に捧げる時は、自分が受け入れられるように捧げなければならない。それを捧げた日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは、火で焼かなければならない。もしも3日目にそれを食べるようなことがあれば、それは不浄なものとなり、受け入れられない。それを食べるものは咎を負う。主の聖なるものを冒したからである。その人は自分の民から断ち切られる。

と、この生贄の交わりの捧げ方について、ここで繰り返し教えられております。自分が受け入れられるように捧げなければならない。神様が定められた方法によって捧げなければならないということが、命じられております。

交わりのいけにえについては、一度礼拝の中で学びました。交わりのいけにえというのは、罪赦されて、神様と食卓を共にすることができること、つまり神様との親しい交わりに加えられた惠を共に味わうための生贄でありました。その一番の特徴は、礼拝者も生贄の肉を共に食べるという、そういうところに特徴がありました。

全焼のいけにえの場合は、全部捧げるということが原則でしたけれども、この交わりのいけにえというのは、脂肪だけは神様に焼いて捧げるんですけれども、残った肉は皆で一緒に食べることができた、味わうことができた、と、そういう特徴のある生贄であります。それはつまり、許されて、神様との親しい交わりの中に加えられた恵みを味わうための生贄でありました。

3.確実に主との親しい交わりの中に加えられるように

このように見てゆきますと、 1番目の戒め、2番目の戒め、3番目の戒めが、4番目の戒めに到達するための準備であり、ステップになっているということに私たちは気づかされる。

私たちのゴールは、神様と共に食事をすること、神様と親しく交わること、そこがゴールです。でもそこに至るまでに、いろんな準備が必要なんだってことを教えられ、最初に私たちの父と母を敬うということ、恐れるということが一番目ですよね。そして次に安息日を守るということが2番目、そして偶像礼拝を排除しなさいということが3番目、そのような準備とステップを経た上で、私達は初めて神様との親しい交わりに導かれていくということが、ここで教えられる。

つまり神様が、私たちのことを招いてくださっています。私たちが確実に主とお会いできるように、確実に主との親しい交わりの中に加えられるように、神様の側で準備をしてくださって、このようにすればいいんだよと導いてくださっている神様の導きというものを、私達はここで教えられるんではないでしょうか。しかも形だけの従順ではなくて、本当に私たちが神様を喜ぶことができるように、そのように導いてくださっている神様の導きをここに教えられるんですね。

ですから今日私たちは、この順番をよく頭の中に叩き込んでおきたいなと思います。

まず親を大事にすること、安息日を聖別して守ること、偶像礼拝を排除すること、そういう準備をしながら、私たちは確実に主のもとに導かれているこのステップを、私達は本当に大切にしていくものでありたいという風に思います。主の導きに感謝したいという風に思います。

4.まとめ

①私たちの聖いあゆみは、まず家庭の聖別から始まる

今日の箇所全体を振り返った時に、ひとつ気づかされることは、神様と私たちの親しい交わりは家庭から始まるということを教えられるんではないでしょうか。神様と親しく交わるそれがゴールですね。私たちが目指していることです。それを果たすためにはまず偶像礼拝を排除しなければいけないですよね。本当に邪魔なものは全部排除して、本当に神様に向かってゆけるように準備をしなければいけない。でもその前には安息日を聖別して守るという生活スタイルを確立しなければいけない。

でもその前に、なんと私達の父と母を敬いなさい、母と父を恐れなさいと、まずその歩みは私たちの家庭から、私たちの親子関係から始まるということを、私達は今日の聖書箇所から教えられるんではないでしょうか。

つまり私たちの聖いあゆみは、まず家庭の聖別から始まるということであります。教会から祝福が家庭にもたらされるという流れがあると思います。私たちは教会に来て、神様を礼拝して、神様の御言葉をいただいて、ここでたくさん祝福されて、家庭に帰って行きます。

教会から家庭に祝福がもたらされるという一つの流れがあります。

②主体的で積極的な信仰に導かれるための「家庭の聖別」

でも聖書を通して私たち、もう一つの流れがあるということを教えられるんです。

それは家庭から教会へと祝福がもたらされるという、そういう流れがあるということを教えられる。夫が妻を愛し、妻は夫に仕え、子供達が親を敬う。そのように家庭が整えられ、家庭が聖められてゆく時に、私たちは神様との交わり、祝福された交わりを経験することができます。そしてその祝福によって、教会全体が祝福されて行きます。教会から家庭に祝福がもたらされ、家庭から教会へとその祝福が還元され、つまり神様は私達の教会と家庭の間で祝福の循環を作り出してくださる方であるということを、私達は今日の聖書箇所から教えられるんではないでしょうか。

それは言い換えるならば、私たちの信仰は、受け身の信仰ではないということであります。今教会に来て、神から祝福されることを期待して待っているだけの信仰ではなくて、むしろ私たちの信仰は、もっと主体的で積極的な信仰であります。神様に喜んでお仕えしていく信仰です。その信仰生活というのは、実は私たちの足元である家庭から始まる。

夫として 妻とどう向き合うか、妻として夫とどう向き合うか、親として子供とどう向き合うか、子供として親とどう向き合うか、そのような私たちの信仰者の歩みが、家庭から始まっていく。その時にその祝福が教会にももたらされていく。そのような霊的な流れがあるということを、私たち今日の聖書から学んでいきたいというふうに思います。

③家庭の祝福こそが・・

先日少し時間がありまして、たまたま時間がありまして、私は聖園教会に残されていました。古いカセットテープを聞いてみました。それは郡司美津子先生の語られたメッセージ、以前の聖園教会の礼拝で語られたメッセージだったんですね。そのテープを見たらですね、何年の説教かなどが書いてない。ですから、何年前の説教なのかちょっとわかりません。調べないとわからないんですけれども、10年前、20年前、30年前なのか、全然わからないんですけれども、郡司先生の説教、私は初めて、本当にしっかり聞いたのは初めてだったかなと思いますけれども、昔はの CD がなくて、カセットテープだけでしたよね。ですから後ろの教会の後ろの音響の機器の所にカセットデッキがありますので、そのカセットデッキにカセットを入れて、この礼拝堂で私一人で郡司先生の説教を聞きました。

その説教はペテロの説教でしたね。親も仕事も捨てて、全てを捨てて従ったペテロの姑の熱病を、イエス様が癒してくださったという、マルコの福音書の1章29節から34節までの箇所からの説教でありました。その説教の解き明かしを、軍地先生がしてくださってるんですけれども、その中で、主に従う信仰者の家庭を、神様は必ず祝福してくださるという、そういうメッセージを語っておられました。そしてその上で、まだ救われてない家族が救われますように、諦めないで祈ってゆきましょうと、そういうおすすめを軍地先生しておられたんですね。これが何十年前の説教なのか全然わからないんですけれども、昔の聖園教会で語られたメッセージだったのですが、皆さんも聞かれた方が多分おられると思うんですけれども、そのメッセージがですね、何か天国の軍地先生から、今の私たちに語られている説教であるかのような感じがしたんですね。そしてその御言葉を頂いて、やはり私たちはあきらめないで祈ってゆかなければいけないと、軍地先生から本当に励まされるような、そういう思いにさせられました。

イエス様はかつて悪霊に憑かれた人の悪霊を追い出し、追い出された後、その人に向かって命じられたんです。

あなたの家、あなたの家族の所に帰りなさい。そして主があなたにどんな大きなことをしてくださったか、どんなに哀れんでくださったかを、知らせなさい。

マルコ5章19節。この男は救われて、悪霊を追い出していただいて、イエス様に悪霊を追い出していただいて、実はイエス様とともに行きたかったんですね。イエス様のお供をしたかったんです。できることならばずっとイエス様について行きたかった人なんです。

でもイエス・キリストは、この人を家に帰しました。その男をとおして、その男の家族を、家庭を、祝福したいと願われたからであります。神様は信仰者の家庭を必ず祝福してくださいます。そのために私たちは家庭に遣わされて行きます。この御言葉を持って、私たちも家庭に遣わされていきたいと思います。そこで夫として妻として、親として子供としての責任を、神様の前に果たしていこうではありませんか。そして神様がどんなに素晴らしいことをしてくださったか、どんなに哀れんでくださったかを証しようではありませんか。

私たちの家庭が聖められますように。そして私たちの神様との交わりがますます祝福されますように。そして教会が聖められていきますように。私たちもあきらめないで、信仰をもって祈り続けるものでありたいと思います。ここから神様の御言葉を頂いて、それぞれの家庭に遣わされていきたいと思います。

 

お祈りをいたします。

愛する神様 、ありがとうございます。私たちの教会と共に、私たちの家庭を神様の祝福の場としてください。教会で与えられた祝福が家庭にもたらされますように。そして家庭で味あわれた祝福が、教会にももたらされますように。そのようにして私たちの教会と、家庭との間に祝福の循環が起きますように、どうぞ神様、導いて下さい。み言葉を心から感謝しイエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン 。

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