イエス・キリストをより良く知るために

仕事で上司に従うコツ。エペソ書6章5~9節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

福音を伝えるって言うことは、どういうことなのか、もう一度、御言葉を通して覚え会いたいというふうに思います.

1.福音を伝えるっていうのは、どういうことでしょうか?

それは私たちの生き方が、変わるということです.。私たちがキリストの命によって生かされるということ、私たちが神の栄光のために生きるものとされていくということ、伝道集会は色々のプログラムもとても大切な機会ですけれども、しかし福音を伝えるのにこれに勝る方法はないと思います。
今日の聖書の箇所でパウロは、「主人と奴隷の関係」について教えています。
皆さんの中には、パウロが奴隷の存在を認めた上で、今日のメッセージを語っているということに、違和感を感じる方がおられるかもしれません。あるいはパウロが奴隷制度という制度があることを前提にして、今日のメッセージを語っていることに、疑問を感じる方がおられるかもしれません。
確かに当時のローマ帝国に、奴隷制度という、悪しき制度が存在しておりました。主人が奴隷を雇ったり、あるいはお金で購入したりして、いろんな仕事に奴隷を従事させるという制度です。
良い主人もたくさんいたかもしれません。でも多くの奴隷たちは冷遇されたり、搾取されたりしていたという風に言われております。
この悪しき奴隷制に対しては、パウロは何も語っておりません。キリスト教の歴史の中ではこの奴隷制の廃止のために戦った人たちがたくさんいます。でも少なくてもエペソ6章の時点においてパウロは、そういう考え方は持っていないように見受けられます。
パウロは奴隷制という制度の存在を認めた上で、このメッセージを語っている。もっとパロに戦って欲しかった、奴隷制を廃止するために戦ってほしかった、そんな気持ちになる方も、もしかしたらおられるかもしれません。
でもパウロはここで、もっと大切なことを私たちに教えております。
それは人間が変わらなければならないということです。制度を変えることよりも、もっと大事なことがあります。どんなに立派な制度を整えても、もし人間が変わらなければそれは機能してゆかない、パウロはここで、人間が変わること、私たちが変わること、私達の関係が変わること、そのことの大切さを教えているということを心に留めたいと思います。
時々私たちが幸せになるためには、やっぱり共産主義が必要なんじゃないかって思う人が今までいたと思いますし、今もいると思います。あるいはやっぱり民主主義が必要だと、やっぱり人間が幸せになるためにはデモクラシーが必要である、民主主義が必要であると考える人もいると思います。そのように、私たちが幸せになるためには社会の制度や仕組みや社会の状況を変えていかなければいけないという考え方があると思います。それも大切なことです。
でも聖書が本当に教えていることは、その制度や社会の中にあって、私たち一人一人が変えられていくということ、それがもっと大事なんだよということが教えられている。今日はそのところに目を向けていきたいというふうに思います。

2.パウロはここで、「奴隷達よ」とまず奴隷たちに呼びかけております。

そして奴隷達に、「キリストに従うように」恐れおののいて、真心から地上の主人に従いなさいと命じております 。妻や子供たちがそうであったように、奴隷達も従いなさい、地上の主人に従いなさいと、命じられております。そしてそのあと6節、7節、8節と、奴隷に対する勤めについて教えられてゆきますので、ちょっと長い内容が長くなっていくんですけれども、その全ての一つ一つの節において、キリストが繰り返し、繰り返し、語られているということに私たちは気づかされます。
5節においては「キリストに従うように地上の主人に従いなさい」と命じられています。
6節では「キリストのしもべとして、御心を行いなさい」ということが命じられています。
7節では「人ではなく、主に仕えるように、喜んで仕えなさい」と教えられています。
8節においては「もし地上の主人に従うならば、主から報いを受ける」ということが教えられています。

このように全ての節においてキリストが語られている。これはつまり、この地上の主人に従う時には、キリストをたえず意識しなさい、キリストのことを覚えながら、地上の主人に従いなさいということです。
今まで学んできた夫婦関係、親子関係についても同じでしたよね。私たちの原則は同じですね。お互いキリストを覚えあいながら、夫婦関係を築いていきなさい、親子関係を築いてきなさい、そういうことが繰り返し教えられてきていて、同じ原則が、主人と奴隷の関係においても継続されているということがわかります。
ただこの主人と奴隷の関係においては、ことさらにそのことが徹底的に教えられているということに気づかされます。全ての節においてパウロは、繰り返し繰り返しイエス・キリスト、主キリスト、主、と繰り返し教えている。キリストをいつも中心としながら、この世の主人に従っていくっていうことが大事なんだっていうことがここで教えられていることが分かると思います。
おそらくキリストを覚えることがなければ、なかなか主人に従えないという現実が意識されていたんじゃないでしょうか。地上の主人がとても優しくて、尊敬できる人物であったら、幸いだと思います。でもそうでない場合も多いんじゃないでしょうか。冷酷な主人、横暴な主人、俗悪な主人の下で、苦しんだり、悩んだりするっていうことが、やっぱり当時からあったんではないでしょうか。そんな中にあって、そういう主人に対して心から従うということは果たしてできることなんでしょうか?それはほとんど不可能だと思いますよね。
日本には奴隷制度はないかもしれませんけれども、でも私たちも、社会に出て行く時に、いろんなことを経験いたします。就職したり、企業に勤めたり、組織に属したりすると、そこには必ず上司と呼ばれる人がいます。その上司の元で仕事をすることが求められてくるわけですけれども、優しい上司もたくさんいると思います。尊敬できる上司もいると思います。が、ただそうでない場合も多々あるんじゃないかなと思います。
特に最近の労働関係は、非常に厳しくなってきているという風に言われております。長時間労働を課せられたり、派遣社員として適当に利用されたり、ハラスメントの問題があったり、そのことで本当に病気になってしまったり、仕事を辞めざるを得なくなってしまったり、自殺にまで追い込まれる人がいるって言うことも聞いておりますよね。
そういう厳しい労働環境の中にあって、その主人に向かって、心から仕える、従うっていうことは、本当にできるんだろうか。
でも聖書は教えてるんですよね。地上の主人に従いなさい。そんなことできない、無理です。私たちも、あきらめたくなるような、そういう気持ちになることが実際あるんじゃないかなと思います。
でも聖書はその中にあって、地上の主人に従うことのできる方法が一つあるということを教えている。それはキリストを絶えず覚えなさい、キリストをいつも中心に置きなさい、私達と上司の関係の間に、キリストに入ってもらいなさい 、キリストを中心として主人との関係を築いていきなさい、そういうことをここで、繰り返し、繰り返しパウロが教えているということを心に留めたいというふうに思います。
その時に、奴隷たちは変えられていく。み言葉に支えられながら、み言葉の力を頂きながら、自分の力ではなくてキリストの力によって、主人に従うものに変えられていくっていうところが素晴らしいところですよね。支えられていくというところに御言葉が生きている、神様の力が働いている、その姿の中に福音が証され、神の栄光が現されていくんじゃないでしょうか。そのような恵みが、ここで表されているということはぜひ私たち覚えたいというふうに思います。

3.奴隷が主人に従う理由

もう少し丁寧に見ていきたいと思いますが、パウロは奴隷が主人に従う理由をここで三つ述べております。なぜ奴隷達は主人に従わなければいけないんでしょうか?

一番目の理由は、地上の主人に従うことが、キリストに従うことになるからです。
5節から7節までもう一度読んでみます。
奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。ご機嫌取りのような上辺だけの、仕えかたではなく、キリストのしもべとして、心から神の御心を行い、人にではなく、主に使えるように喜んで仕えなさい。」
ここを読んで分かると思うんですけれども、キリストに従うように、地上の主人に従いなさい。人にではなく、主に仕えるように、喜んで仕えなさいと命じられています。
つまり地上の主人に従うことと、イエスキリストに従うことは、別々のことではないですね。一つに繋がっています。私たちの地上の主人は、キリストではないですね。キリストだったらどんなに楽かなと思いますね。私たちの上司がイエス様みたいな方だったら、本当に楽ですね。仕えがいがありますね。喜んで仕えることができます。
でも多くの場合はそうではないと思いますね。イエス様とは、真逆のタイプの人であるということもあるかもしれませんね。でも聖書は教えてるんですね。その人のことも、イエス様だと思って従いましょう。イエス様ではないけれども、イエス様に仕えるようにして、その方に仕えましょう。そしてそれは実際にイエス様に仕えることです。
ですから私たちは恐れおののいて、つまり主人に対するふさわしい尊敬を払いながら、真心を以て、この世の主人に従いましょう、そういう風にここで教えられている。イエス様だとなかなか思えないかもしれませんけれど、でも私達はイエス様なんだと思いながら、この方に仕えることが、イエス様に仕える事なんだということを信じながら、地上の主人に従ってきたいと思いますね。ですから決してご機嫌取りのような、上辺だけの仕え方にならないように、むしろキリストのしもべとして、心から喜んで仕えることができるように、この御言葉によって支えられながら、私たちの主人に仕える者でありたいと思います。

どうして私たちは地上の主人に従う必要があるんでしょうか?
2番目に、それは神の御心を行うことだからです。6節に「ご機嫌取りのような上辺だけの仕え方ではなくキリストのしもべとして心から神の、み心を行いなさい。」それは神の御心を行うことなんだよ、そういう風に教えられております。つまりそれは神様が喜んでくださることです。私たちがこの地上の主人に従う時に、それは神様が喜んでくださることです。私たちの信じている神様は、秩序の神様です。秩序を重んじる神様です。混乱や混沌の神様ではないんです。この世界に秩序を与え、その秩序をもってこの世界が収められることを願っています。 ですから妻のカシラは、夫であり、子供達のカシラは、父親であり、そのようにしてそれぞれに権威を与えて下さって、その権威がふさわしく行使されることによって家庭の秩序が保たれるということを、神様は願っておられます。同じように奴隷達も、神様が主人達に与えた権威、それを守ることによって、神様の御心を行うことができるということがここで教えられていることを、ぜひ覚えたいという風に思います。
人は皆、上に立つ権威に従うべきであります。「存在してる権威はすべて神によって立てられています」ということが、ローマ人への手紙の13章1節に出てきています。地上の主人に従うということは、神様によって立てられた権威を文字通り尊重することです。それによって私たちは神様を喜ばせることができる。それは御心を行うことです。そのことを私たちは信じ、受け止め、地上の主人達に是非従う者でありたいと思います。

なぜ奴隷は主人に従わなければならないのか?3番目の理由は主人に従うとき、そこに報いが約束されているからです。だから私たちは主人に従うことができます。8節に、
奴隷であっても自由人であっても、良い事を行えば、それぞれ主からその報いを受けることをあなた方は知っています。」それぞれ主から報いを受ける、報いが与えられるそういうことが約束されているということがわかります。
ここに記される「良いこと」とは、文脈の流れから、地上の主人に心から従うということであることがわかります。その際に奴隷であるとか、自由人であるとか、その立場の違いは全く関係ない。大切なのは置かれたところで、置かれた場所で、忠実に良いことに励むということ、つまりこの場合には自分の主人に従うということです。その際には天におられる主が、それぞれにちゃんと報いを与えてくださる。その報いを私たちは期待することができる、期待してもいい、そういうことが教えられております。
この地上では、一生懸命努力して、地上の主人に従っても、もしかすると報われることはあんまりないかもしれない。報いが少ないなと思うこともあるかもしれませんね。報いよりも損することの方が多いなー、疲れるだけだな、そんな気持ちになることも、もしかしたらあるかもしれませんね。自分なりにイエス様を信じて、本当に従っているつもりであっても、なかなか報われることがない、だんだんそういうことが続いていくと、私達は気持ちがだんだん落ち込んできますね。もうこの仕事、嫌だって感じになるかもしれません。
でも私たちは忘れてはいけないと思いますね。私たちの良い行いはちゃんと見られておりますね。ちゃんと見ていてくださる方がいます。そしてちゃんと数えられています。天におられるキリストが、主が、ちゃんと私達の事を見てくださっている。そして必ず報いてくださいます。
その報いはもしかしたらこの地上で与えられるかもしれませんね。そういうご褒美を頂く事があるかもしれません。でももし仮に与えられなかったとしても、必ず天において報いが与えられます。ものすごい報いを以て、私たちを報いてくださいます。そのことが聖書で約束されてるんですね。
ですから、ちゃんと私たちは見られているということを覚えながら、置かれたところで与えられた人間関係の中で、仕えるものでありたいという風に思います。

4.主人に対する教え
さてパウロの命令は、奴隷だけではなくて、主人に対しても語られています。9節を見ていきたいと思いますが、9節でパウロは、このように今度は主人たちに命じております。
主人たちよ。あなた方も奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい 。あなた方は、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は、人を差別、なさらないことを知っているのです。」このように主人たちに命じられております。
奴隷に対しては、ずいぶん長い命令だったのに、主人に対しては一節だけで、随分違うなぁと思ったかもしれませんけれども、でも中身はかなり充実しているなという感じが致します。パウロは彼らに対して9節において、「主人たちよ。あなた方も奴隷に対して同じようにしなさい」とここで命じております。
「同じように」というのは、どういう意味でしょうか。それは奴隷たちに命じたことと同じようにという意味です。つまり奴隷が主人に従うように、主人も奴隷に同じように従いなさいと、ここで教えている。これは主人たちにとっては驚きの命令であると思います。
身分の高い主人たちが、身分の低い奴隷に従うということは、全くあり得ないことだったからです。その逆は分かりますね。奴隷が主人に従うのは当たり前です。社会の常識としてよく知られていることですね。ですからパウロが、奴隷達に自分の主人に従えと命じた時には、みんな納得するわけですね。そうだそうだその通りだと思うわけです。
ところが同じことが、主人達にも要求されているということを知る時に、これは主人たちにとってはもう驚きの命令だったと思います。

でも私たちはエペソ書をずっと学んできていますので、あまり違和感がないかなと思います。
どうしてかと言うと、パウロは5章21節で、「キリストを恐れて互いに従いなさい」と、すでに命じていたからです。
この言葉は次に続いていく教えの前提になっている言葉です。つまり奴隷も主人も、共に主を恐れて、社会的立場を超えて互いに従いあうことが求められているということです。でもこの命令は、主人たちにとっては非常にチャレンジングな、非常に問われる、そういう命令だったと思いますね。パウロは続けてこういうふうに命じております。
脅すことはやめなさい。」おそらく当時の主人たちは、奴隷たちをたくさん脅していたんだと思いますね。そういうことがもう当たり前のように行われる社会だったんだと思います。主人たちによる奴隷に対する脅しっていうのは、当たり前のようにみなされる、そういう時代だったんだと思います。
でもパウロはここで、それは権威の濫用だよということ教えている。神様は主人たちに特別に権威を与えられました。責任とリーダーシップを果たすための特別な権威を与えてくださいました。それは神様の秩序がふさわしく保たれるための、その権威です。その権威を濫用してはいけない。その権威を利用して下僕たちを脅してはいけないということがここで命じられている。そしてそのためにさらにパウロは教えますね。
あなた方は、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別、なさらないことを知っているのです。
ここで教えられていることを一言で言うならば、「あなたたちの身をわきまえなさい」、
「あなたたちの立場をわきまえなさい」ということだと思いますね。
あなた方は、彼らの主、奴隷たちの主、天におられる主は奴隷たちにとっても主です。でも同時にあなた方の主、あなた方にとっても主です。つまり奴隷も、そして主人も、同じ主のもとに置かれている下僕同士です。その立場をわきまえなさいと、そのことが分かったら、とてもそんな権威を濫用することなんかできないでしょう。そういうことがここで教えられているわけですよね。
ですから本当に私たちに大事なことは、自分の立場をわきまえるということです。この世においては、もしかしたら身分の上下があるかもしれませんね 。では身分の高い人が優遇されて、身分の低い人が冷遇されてという差別がある、そういうことはこの世にはたくさんあると思いますね。でもそれは自分の身をわきまえないから、そういうことが起こってくるんですね。本当の神様を知らないから起こってくるんです。
もし私たちが、お互いに本当の神様を共に仰ぐことができたらみんな同じです。社会的な立場の違いがあるかもしれないけれど、それはみんな相対的なものですね。みんな神様の下僕ですね。みんな神様の子供達です。それがわかったら私たちは、互いに従いあうことができる、そういう恵みがここで教えられているということは、是非覚えたいなという風に思います。

5.まとめ
今日の学びを通して私たちは教えられたと思います。天の主を覚えるということがどんなに素晴らしい祝福を私たちの地上の人間関係にもたらすことでしょう。もし私たちが本当にこの天の主を、共に覚えることができたら、私たちの人間関係はどんなに麗しいものになっていくでしょうか。奴隷と主人が共にキリストを覚えあい、ともに主を仰ぐことができたらば、その関係はどんなに素敵な関係になっていくでしょうか。そういうことがここで教えられているんですよね。
私たちにとって大切なことは何でしょうか?それは社会を変えることでもない、制度を変えることでもない、社会の仕組みを変えることでもない、それも大事なことかもしれないけれども、もっと大事なことがありますね。それは私たちが変わることです。私たちが神様との関係の中でしっかり変えられていくことです。そして私たちが神様の前に、人間関係を築いていくときに、その人間関係は、祝福の人間関係になっていくというめぐみが、ここでずっと教えられてきているということをぜひ心に留めたいというふうに思います。
先日一人の牧師にお会いしました。その先生とても面白いことを言っていました。その先生は教会の信徒たちにこう言って励ましてるんだそうです。「皆さん変人に、なりましょう」と、教えてるんだそうですね。
この「変人」という言葉には二つの意味が込められているんだと思いますね。
それはこの世の常識や価値観から、ちょっと外れてる、変な人という意味だと思いますが、でももう一つはですね、変化し続ける人、変わり続ける人、そういう意味で「変人」っていう言葉を使ってるようでした。私もちょっとその先生の真似をしてですね皆さんを励ましたいと思います。
クリスチャンはそういう意味では変人ですよね。自分中心じゃなくて、神様中心に、いつもイエス様、イエス様と言っているって意味では、本当に変な人ですね。常識からちょっと外れて、変な人ですね。是非そういう変人になりたいなと思いますね。でも同時に変わり続ける人でありたいなと思います。
いつも神様との関係の中で、本当に変化を経験している人、成長している人、支えられていく人、私たちの夫と妻の関係の中において、変えられていくということは、私たちの父と、親と子の関係の中で変えられていくということ、そして私たちの社会の中における人間関係の中で変えられていくということ、そのような経験を与えられて行く時に、そこに御言葉が確かに生きている、神が働いている、私たちはキリストの命によって生かされている、そういう福音が、福音の恵みが、大胆に証されていくんではないでしょうか。そのようにして私たちは福音を、宣べ伝えていくものでありたいなという風に思います。是非皆さん変人になりましょう。そのようにして神様の恵みを味わいながら、成長を祈り求めていくものでありたいと思います。

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様、今日のみ言葉ありがとうございます。私たちのさまざまな人間関係の中に、どうかイエス様、来てください。私たちの夫婦の間に、どうぞ親子の間に、そして社会の、職場の、地域の、さまざまな人間関係の中に、どうかイエス様が共にいてください。イエス様を中心として、私たちが与えられた人との関係を築き上げていくことができますように。どうかその関係を麗しい関係へと導いていてくださいますようにお願いします。そのようにして御言葉によって生かされる恵みを、今日も明日も今週も味わい続けていくことができるように、どうか助けて下さい。御言葉を 心から感謝します。尊い主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

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