イエス・キリストをより良く知るために

主のみ言葉は永遠に立つ。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

第一ペテロ1章24~25節

「人はみな草のよう。その栄はみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし主の言葉は永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられた言葉です。

今日は、夕方に夕礼拝がありますかそのことを感謝したいと思います。夕礼拝がある時には、夕礼拝に限らず第一礼拝でも第2礼拝でも、なるべく分かりやすい、初めての方でも理解できるようなみ言葉の説き証をしたいと思っております。ですので今後とも夕礼拝に限らず、もし祈ってる方がいらっしゃったならば礼拝にお誘いいただければと思います。

そのようにして今日の礼拝を捧げていきたいと思いますが、

今日は聖書が人間についてどう語ってているのか、どう教えているかということを私たちは覚えていきたいと思います。

1.人はみな草のよう

聖書は人間について何と教えているでしょうか?今日の箇所(第一ペテロ1章24~25節)に、

「人はみな草のようだ。」

と書かれています。「みな草のようだ」というのは、全ての人が例外なく草のようであるということであります。いや人間はみな個性的であって、多種多様であって、みんな違っていいんだというような、そういう声もあるかもしれません。確かに人間は多種多様なんですけれども、しかし草のようであるという点において、「みな同じである」ということを聖書は語っています。

2行目に進みますと、少し明るさを感じます。

「その栄はみな草の花のようだ」

と書いてあります。人はみな花のように栄える時があるということがわかります。花のように華やかな時があるということがわかります。ですから2行目を見ると少し明るさを感じますけれども、しかし3行目、4行目に行くとがっかりするんではないかなと思います。

「草はしおれ、花は散る」

と、ここにきてなぜ人が、草や花に例えられてかがわかります。人はみな草のようにしおれ、花のように散ってしまします。花のように華やかな時もあるけれども、それも長続きしないでやがては散ってしまう。このように人間はみないつの日か死を迎えるはかない存在であるということです。この事に関して人は皆みな同じであるということがいえます。

この詩ととてもよく似ている詩が、詩篇103編にも出てまいりますが、そちらも味わってみたいと思います。詩篇の103編の15節と16節、

「人、その一生は 草のよう。」
草に例えられていることがわかります。

「人は咲く。野の花のように。」

と、やっぱり2行目にちょっと明るさを感じますけれども、しかし3行目4行目を読むとこういう風に書いてあります。

「風がそこを過ぎると、それはもはやない。その場所さえも、それを知らない。」

人は野の花のように綺麗な花を咲かせる時はあるけれども、風がそこ過ぎ去るともはやそれはない。一瞬でなくなってしまうということです。しかもその場所さえも、その事実を知らないとここに書いてある。たった今までそこに咲いていたんです。そこにちゃんとその花が咲いていたのに、一瞬でなくなった。その後はその場所がそのことを知らない。すぐに忘れてしまうというのはなんと悲しいこと、なんと残念なことではないかなと思います。

が、これが人の一生であるということを聖書は私たちに伝えております。

今、私たちは生きていますので、生かされている間は私たちのことを覚えてくださる方はたくさんいらっしゃいます。しかしいずれこの世からいなくなるときがくる。そしたら私たちはもしかしたらすぐに忘れ去られてしまうのかもしれないと思いますね。確かにそこに存在していました。確かに私たちは生きていました。確かに私たちはそこにいたのに、いなくなってしまった途端に、私たちは忘れさられてしまう。もしかしたら家族が覚えているかもしれませんが、10年20年はともかく、50年100年経つてしまうともう私達を覚えてる人は誰もいないという風になってくるんだろうと思います。まれに歴史に名が残される人もいますけれども、しかし私たちの多くはいつのまにか忘れられてしまうんだなということを考えると、人間の一生って何なのかな、はかないな、虚しいなと、そんな気持ちにさせられるんではないかなと思います。

私たちの中には、この事実をあまり認めたくないという気持ちがあります。またこのことを薄々気づいてはいても、あまり直視したくない、考えたくないという気持ちもあるかなと思うんですね。

そんなことよりもっと、人間の素晴らしさ、美しさ、そして無限の可能性、なんかそういうものを考えていたいという、そういう気持ちがあるんじゃないかなと思います。

ただ今年はコロナこともありまして、このことを考えざるを得ないような状況になっているのかなと思います。今まで今年だけで世界中で130万人以上の方がウイルスによって命が絶たれたと報道されていますけど、その数は日々増えてるということであります。それまで元気だった方々が、ウイルスによって一瞬のうちになくなってしまうということを世界中の人々がいま経験してるんだと思います。

私たちの国の首相は人類がウイルスに勝利した印としてオリンピックを開催したいと言っているようですが、その言葉も私達の心に深くは響いてこないんじゃないかなと感じますね。来年にはもしかしたらワクチンが開発されて、そのことを私たちは願っていますけれども、そして人類は本当にウイルスに勝利したと宣言できる日が来るのかもしれません。そうなった時に私たちは今本当にウイルスで苦しんでいた時間を、日々を、次第に忘れていくのかもしれない。そして人間は無限の可能性秘めている。そういうことに心が傾いていくような状況になるかもしれません。

でも今、私たちが苦しんでいるこの時に、味わっておかなければならないこと、知らなければいけないことがあるんじゃないかなと思うんです。

それは「人はみな草のようである」ということ、その栄は花のようであるということ、草はしおれ、花は散るという聖書が語っているこのことを 受け止めて行かなければならんじゃないかと思います。

2.「人はみな草のよう」、でいい

今日のメッセージの結論は、最初の4行ではなくて5行目に語られているわけですけれども、でも5行目に移る前に、もう少し一行目から4行目までのところを味わってみたいなと思います。

「人はみな草のよう」と聖書が語る時に、そのことを何かマイナスのこととしては教えてはいないような気が致します。何かそれを否定すべきこととして、人間にとって否定すべきこととして教えていないとのではないでしょうか。

確かにそれは悲しいことかもしれません。人はいつの日か必ず死ななければならない。そして私達はこの世から必ず取り去られる時がかならずくる。それはどうしてかと言うと、人間が罪人だからです。

旧約聖書の最初の創世記には、「神は人を神に似せて神の形として創造された」と書いてある。ですから私たちは神に似ている。本当に尊い存在として作られた。しかも永遠に生きる者として作られた。最初はそうだったんですけれども、しかし人が罪を犯した結果として人はチリに帰らなければならなくなった。つまり人が死ななければならなくなった。その人間の儚さというのはやはり、人間が罪を犯した結果であるということが言えると思います。

 

しかしそれにもかかわらず聖書はこの人間の弱さ、脆さ、儚さを否定的な事としてではなく、むしろ私たちにとって、とても大事なこと、必要なこととして教えているんではないでしょうか。

 

4行目でストップするのではなくて、5行目に記される最後の結論に私たちがたどり着くために、この事実を受け入れ、理解し、向き合うことが求められているのではないかと思います。私たちは自分の弱さとか、もろさとか、はかなさが分かるからこそ、もっと確かなものが欲しいですね。もっと真実なものを求めます。そして永遠を求めます。

それは私たちにとって、とても悲しいことかもしれませんが、その事実とむきあって受け入れることによって、次のステップに進んでいくことができます。

逆にそれを否定してしまったならば、私達は前に進むことができません。

4行目でストップしてしまう。5行目の、神様が用意してくださっている希望に、たどり着くことができないんじゃないかなと思うんですね。多くの人にとって4行目の部分と、5行目の間に、溝があるような気がします。深い深い溝があって、それを乗り越えることができないでいるようなことがたくさんあるんではないかというふうに思うんですね。

「草はしおれ花は散る」、ここで終わってしまう。これで終わってしまうと希望はありません。

3.主の言葉は永遠に立つ

でも私たちはここにあるのが、断絶ではなくて連続であるということを覚えたいという風に思います。多くの人にとって4行目と5行目の間にあるのは断絶かもしれない。しかもそれを乗り越えられない何かがあると思うんですけれども、でもこれは断絶ではなくて、連続の中に記されている。そのことを意識したいなと思います。

その連続、つながりを意識するためにもやはりも、私たちは1節から4節までの内容をよく味わうということこ、こに書いていることを本当に受け入れるということ、そのことが求められているのではないでしょうか。私たちは草のようで、その栄はみな草の花のよう、いずれ草はしおれ花は散ってしまう。そんな儚い存在かもしれない。でもその事実を受け入れたの者だけが、5行目に用意されている希望にたどり着くことができる、その繋がりを私たちはよく覚えるものでありたいという風に思います。

そのことを覚えた上で私たちは、5行目に進みたいと思います。 5行目、

「しかし主の言葉は永遠に立つ」

冒頭の言葉は、「しかし」という言葉ですが、この「しかし」という逆説の接続詞は、それまでの私たちの常識を百八十度ひっくり返す「しかし」という言葉だと思います。私たちの人生に大どんでん返しをもたらす「しかし」です。

人生死んだらもうおしまいだと思う人はたくさんいるかもしれません。そしてほんとうに草はしおれ花は散ってしまい、それで終わってしまったら何の希望もないけれども、でもその続きがある、その先に希望があるんだということを表してる「しかし」、この「しかし」という言葉が記されている恵みを、私たちは味わいたいと思います。

そしてその先にどんな言葉が待っているんでしょうか。こういう風に書いてある。

「主の言葉は永遠に立つ。」

私たちはここまで導かれていく。私たちは限りある存在です。しかしその人間の限界を超えたところに神様が希望を用意してくださっている。それが5節の言葉であることをぜひ覚えたいという風に思います。

全てが変わってしまう世の中だと思います。変わらないものは何一つない。もうみんな変わっていくんですね。ペテロがこの手紙を書いた時代というのは、ローマ帝国全盛の時代でありました。特にローマ帝国の皇帝による迫害が非常に厳しくなってきた。そういう時代にあたります。この時代のローマ帝国の皇帝はネロという皇帝でしたけれども、このネロがキリスト教会を激しく弾圧したということが歴史に残っております。その迫害のためにペテロもパウロも殉教したという風に言われています。

ただこのローマ帝国の歴史を全体に見る時に、皇帝ネロの迫害は迫害の始まりに過ぎないということがわかります。この後もっと残酷でもっと激しい弾圧や迫害を加える皇帝たちが次々に現れてくる。そして教会は本当に苦しみました。ほんとに恐ろしかったと思います。そしてたくさんの信者たちが殉教していったということを歴史を通して私たち教えられるわけですけれども、まさにそのような時代の先駆けとして、そしてクリスチャンたちが、信仰者たちが恐れおののいているその中にあって、ペテロはこの手紙を書いた。

そしてそういう中にあってこの言葉を記した。「人はみな草のよう。その栄はみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。」

これは私たちの人間の世の中の姿なんですよということ教えているんですが、当時のローマは永遠の都と呼ばれていました。もう絶対に滅びる事がないと、それくらいの繁栄を極めていた都なんです。みんなが憧れる、ローマみたいになりたいというふうに思うような、そんな繁栄を極めていた時、絶対にローマが滅びるなんて考えられないってみんなが思っているような時に、ペテロは、「人はみな草のようだ。その栄はみな草の花のようだ」と語っていました。これはイザヤ書の引用ですけれども、その言葉を書き記しました。

 

ローマは本当に滅びない、そのように信じられているような世の中ではありましたけれども、でも本当にこの言葉の通りになりました。ローマはその後、草のようにしおれ、花のように散りました。あの繁栄を極めた、もう誰もが滅びることが絶対ないと信じていた都が滅びました。このように変わらないものは何一つない、そのことを歴史が証明していると思います。

私たちもそうだと思います。この世に変わらないものはひとつもないですよね。本当に移り変わって行きます。人も移り変わってきます。確かなものは何一つない。 安全だ、安心だと思っていたものも明日どうなるかわからないという不安定な世の中だと思います。しかしその中にあってペテロは、

「唯一確かのものがあります、変わらないものがあります。それは永遠に変わりません。それは主の言葉です。御言葉です。み言葉は決して変わらない。これから本当に厳しい世の中になるかもしれません。本当に不安定な世の中になるかもしれません。でも主の御言葉に信頼して歩みなさい。」これが当時のキリスト教会に対するペテロの言葉、励ましだった。

 

そのことを私達も今の時代にあってしっかりと受け止めたいなという風に思います。聖書の言葉、み言葉は決して変わりません。永遠に変わりません。今までも変わりませんでしたけれども、これからも変わりません。そして全ての時代の人が必要としている神のメッセージが絶えず語られてきた。

聖書はよく 永遠のベストセラーという風に呼ばれますけれども、本当にいつの時代の人々に必要とされてきた大切な言葉、それはこれからも変わらない。そしてそれはつまりみ言葉を私たちに語っておられる神様が永遠に変わらないということであります。

ダビデは、詩篇8編の中で、

「人とはなにものなのでしょう。あなたが心に留められるとは、人の子とは一体何者なのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」

そういう風に歌いました。人とは何者なのでしょう?人ってどんな存在なのでしょう。

この人っていう言葉は本当にはかない、死すべき存在としてのはかない人を表してるんですけれども、こんな儚い人間は何者なのか?この世に存在していてどんな意味があるのか?そういうおもいが込められていると思いますが、でもダビデはこの言葉を悲しい気持ちで歌っているのではないですよね。そんな自分自身をそんな弱い自分自身を悲しんでるんではなくむしろ喜んでいるんです。むしろ感動してこの歌を歌っているのはどうしてでしょうか?

それは、そんな儚い限りある自分を心に留めてくださる方がいる、顧みてくださっている方がいる、そしてその方との関係の中において生かされている。めぐみの中に生かされている。だから感動して喜んでこの歌を歌っている。

この方のことをダビデは「あなた」と呼んでいます。なんと親しい間柄の中にダビデは生かされているんだろうというふうに思いますけども、私たちもそうだと思います。

本当に今は元気かもしれませんが、明日はどうなるか分かりません。本当にはかない、弱い、もろい一人一人だと思うんですけれども、そしていずれは私たちは死を迎えなければならない、私たちの人生っていったい何んだったんだろう、一生は何だったんだろうと、いろいろ考えさせられる人生ですが、そんな私たちのことを心に留めてくださっている方がいるということ、そして顧みてくださる方がいるということ、そしてその方が絶えず私たちに御言葉を語り続けている、その言葉は変わりません。そしてそれは私たちに、みことば語って下さる神様がおられるということ、その方と等しい交わりの中に生かされるということが、私たちにとっての最大の幸せであるということをぜひ覚えたいという風に思います。

そのような神様がおられるということをぜひ知っていただきたい。そしてその方が私たちにみ言葉を語っててくださっているというをぜひ覚えたい。

しかも、みことばを語るだけではありませんでした。この方はなんと私達のところまで来て下さいました。私たちが本当に直面している苦しみを、ともに味わうためにここまで来てくださった。そしてその苦しみの原因である罪を、全部ご自分で引き受けてくださって、そして私たちの身代わりになって十字架に架かって 死んでくださった。それがイエス様です。ですからただ見ているだけではない。

私たちの元まで来てくださって、私たちと一緒になってくださって、そして私たちに永遠に生きることができるように救いの道を開いてくださった。その方は今も私たちのことを愛してくださっている。み言葉を語り続けて下さっている。そのような恵みがあるということをぜひ私達は覚えたいと思います。その言葉は「わたしはあなたを愛している」。「わたしは決してあなたを捨てない」。そのメッセージが絶えず絶えず語られていることを是非覚えようではありませんか。この形の存在に気付かされ、この方との交わりの中に生かされていこうではありませんか。どうかこの永遠に変わることのない神様の御言葉を聞くことができますように。そして私たちに絶えず言葉を語っておられる神様をよく知ることができますように。そしてその方に向かって心を開いて応答していくことができますように。そのような中に私達の喜び、幸せがあるということを覚えたいと思います。そのような恵みを私たちが与えられていることに感謝しようではありませんか。

 

お祈りをしたいと思います

めぐみふかき私達の主なる神様、草や花のように、いずれはしおれ枯れてしまうようなわたしたちでありますが、しかしそんな私達に目を止めて、顧みてくださっているあなたを覚えて感謝いたします。そしてそんな私たちのために、とこしえに変わらないみ言葉を与えてくださっていること、そしてそのみ言葉を通して私たちをにいつも語りかけてくださっていることを、私たちを愛していることを、私たちを決して捨てないと語り続けてくださっている恵みを覚えてありがとうございます。そしてそれだけではなくてイエス様をわたしたちにくださいました。本当にありがとうございます。そのみ言葉を私たちはよく聞き、また心開いてあなたに応答していくことができるように、そのような親しい交わり中に歩んでいくことができますように。またこの希望と恵みを本当に一人でも多くの人が知ることができますように、この世で終わってしまうのではない、その先に神様が用意してくださっている希望があるということを、多くの人々が知ることができますように。コロナのこの状況の中にあって本当にこの希望を知ることはができるように導いてくださるようにお願いします。み言葉を心から感謝し貴き主イエス・キリストのみ名を通してお祈りいたします。

 

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