イエス・キリストをより良く知るために

キリスト教信仰の根っこ!・・・エペソ書2章4~6節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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1.神が私たちのためにしてくださったこと

4節の言葉は「しかし、神は」という言葉から始まります。確かに私たちの今までの状態は絶望だったかもしれません。希望が何もない本当に惨めの悲惨な状態だったかもしれません。しかし神は、私たちのために何かをしてくださったということがエペソ人への手紙2章4節・5節・6節に書かれてあることであります。何をしてくださったんでしょうか?そのことを意識しながらもう一度4節・5節・6節と読んでみたいと思います。

「しかし憐れみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」

ここに「しかし神が」に続けて、私たちのためにしてくださったことが記されてありました。何て書いてあったでしょうか?しかし神は「そむきの中に死んでいた私たちを、キリストと共に生かしてくださった」と5節に書いてあります。そして6節、「神はまたキリスト・イエスにあって、私たを共に蘇らせ、ともに天上に座らせてくださいました」と書いてあります。神様は、私たちのために三つのことをしてくださったということがわかります。

①まず「死んでいた私たちを生かしてくださった」ということ。②次に「奴隷状態であった私達を蘇らせてくださった」ということ。③最後に御怒りを受けるべき子だった私たちを、天上、つまり神様のすぐそばにまで引き上げて、そこに座らせてくださったこと。その様なことがここに記されていて、三つの事をしてくださったということがわかります。なんという大きな違いではないでしょうか。なんという大きな変化ではないでしょうか。死んでいたんです、私たちは。死んでいた私達が、生きるものになった。この世とサタンと肉の欲に支配されていた私たちが、蘇って自由にされた。そして最後は神に滅ぼされるだけの、御怒りを受けるべき子等であった私たちが、なんと天に上げられて、神様 のすぐそばに座らせていただけるという、本当に天と地ほどの違い、文字通り、天と地ほどの違いを与えられた、ということなんですよね。

このような変化が与えられた人は、本当に幸いな人だと思います。本当に幸せな人だと思います。私たちが救われたっていうのは、そういうことです。このような大変化が私たちのうちに起こったということです。クリスチャンであるということと、そうでないということが、いかに違うかということを、私たちはここから教えられるんではないでしょうか。見た感じは同じように見えるかもしれませんけど、そんなに差はないように見えるかもしれないですが、実は神様の目から見たら全く違いますね。全然違います。クリスチャンになるということ、神様の子供とされるって事は、これくらい大きな恵みなんだっていうことを私たちはこの箇所から覚えたいというふうに思います。

2.神様が私達を救ってくださった動機

そして私たちここでひとつ考えたいんですね。神様は私たちに本当にすばらしいことして下さったんです。でものために、どんなことしてくださったんでしょうか?神様が私たちを救ってくださったわけですけども、その救ってくださった動機って何だったんでしょうか?なぜ私たちを救ってくださったんでしょうか?その動機が、4節に記されてある内容ということになります。

この4節の御言葉に特に注目をしていきたいというふうに思います。もう一度4節を読みます。「しかし憐れみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、」。

ここに「ゆえに」って書いてありますね。哀れみ豊かな神、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5節・6節に書いてあることをしてくださった、これが神様が私たちを救ってくださった動機であるということが分かるという風に思います。つまり神様が豊かな哀れみを持っておられるから、そして大きな愛を持っていてくださるから、それが動機で私たちに、こんな大きな変化を与えてくださった、救ってくださった、そのことがここからわかることであります。

このエペソ書の手紙を書いた著者であるパウロは、ここで「神の憐れみは豊かである」と書いてありますね。

それはどれくらい豊かな「あわれみ」なんでしょうか?あるいは「神の愛」は大きいとここに書いてありますけれども、それはいったいどれくらい大きな愛なんでしょうか?

子供が歌う歌に、「キリストの愛はどれくらい大きいかな?これくらいかな?これくらいかな?これくらいかな?」っていう歌があるんですけれども、もう手ではもう表せないくらい大きな、大きな愛が注がれているということだと思うんです。それはもう本当に言葉では言い尽くせない、体験した人にしかわからないような、そういう大きさなんだと思いますけれども、私たちは今日、まず御言葉を通してその豊かさ、大きさを考えてみたいと思うんですね。そしてそれが、そのまま私たちに与えられている、与えられた、その恵みを感謝したいと思います。

3.神様のあわれみはどのくらい豊なのか?

まずパウロは、神の憐れみは豊かであると、ここで語っていますね。「あわれみ豊かな神は」、そういう言葉が出てまいりますね。神様の憐れみは豊かであるということです。どのくらい豊かなんでしょうか?それは、本当に私たちが悲惨な状況の中にあったわけですね。その悲惨な状況の中にある私たちを、とても見捨てることができない、そのくらい豊かだったということになると思います。

1節・2節・3節に記されている私たちの状態、かつての状態、私達死んでいた、死んだものだった、奴隷になっていた、御怒りを受けるべき子等だったっていう、そういう悲劇的な状況になってしまったその責任って、いったい誰にあるんでしょうか?これ、みな私たち自身にあるんですよね。みんな私たちの責任です。私たちが自らの意志で、勝手に神に背いて、そしてこのような悲劇的な状況を招いたと 言うことは言えるわけですよね。このようなことは、日本語では「自業自得」って言うんだと思いますね。あるいは「身から出た錆」っていうのかもしれません。自分で勝手に神に背いて、自分勝手な道を歩んで行って、その結果、勝手に苦しんでるって言う、そういう状態ですよね。ですからある意味、私たちが苦しむのは当然な結果であるということが言えるわけであります。

ところが神はそんな私たちを見て、とても放っておくことができないんですね。とても見捨てることができないんです。そしてそこで苦しんでいる私たちを見て、共に苦しんでくださるんです。共に心を痛めてくださるんです。これが神の憐れみであるということでありますa.イエス様は「ツァラートという病に冒され、不治の病におかされていた人を見て、深く憐れまれた」と聖書に書いてあります(マルコ1-41)。b.デカポリスという地方に行った時に、たくさんの悪霊に取り憑かれ、人々から見捨てられて、自分の体を傷つけているようなそういう男の人を見て、深く哀れまれたとそこに書いてあります(マルコ5-19)。c.盲人バルテマイ、目が見えなくて本当に人々から見捨てられているような、そのバルテマイを見て哀れまれたと聖書に書いてあります(マルコ10-46)。d.そして群衆を見て彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので彼らは深く哀れまれた。マルコの福音書6章34節にそういう風に言葉も出てきますよね。群衆を見て、羊飼いのいない羊の群れのようであったので、彼らを深く哀れまれたと書いてあります。

「あわれまれた」というこの言葉は、単なる不憫に思ったとか、あるいは気の毒に思ったというそういうレベルの言葉ではなくて、そのことを自分自身の痛みとして覚えてくださったというそういう特別な言葉が使われているんですね。他人事じゃないんです。自分の痛みなんです。羊飼いがいない羊たちのように、疲れ果てて、弱り果てているその彼らの姿を、自分の痛みとして捉えてくださった。それまさに神の憐れみなんですね。羊飼いがいないって言ってもですね、彼等は勝手に自分たちで羊飼いに背を向けて、自己中心な道を歩んできたからそうなったんだと思うんですよね。ですから当然受けるべき結果としての苦しみであったということ言えると思うんです。ですから見方によっては、本当に愚かですね。「何やってるんだ」と、自分でも責めちゃうし、人からも責められるような、そういう惨めな状態だと思います。

でも神様は、そんな一人一人に目に留めて、心を痛めてくださった、憐れんでくださった、落ちぶれてしまっている私たちに対して、そそがれる神の愛が、まさに神の憐れみであるということであります。そのようにして、私たちも救われたということをぜひ覚えたいと思います。もし、そういう惨めな状態の中にあって、少しは私たちも反省して、心を入れ替えて、そして真面目に生きていきたいなと思うんであれば、まだ憐れむ価値があるかなと思うんです。

けれどもどうでしょう?私達はそういう状況の中にあっても、まだ自分勝手を貫いてですね、そして人に当たったり、神に不満をぶつけたり、そうしてることが多いんじゃないかなという風に思うんです。実に厄介で、扱いにくい私達ではないでしょうか。そんな人が実際に私たちの周りにいたら、もう勝手にやってくれといいたくなるような、もうすぐに手を引きたくなるような、私たちの中にあるわずかばかりの哀れみの情も尽き果ててしまうかのような、そういう本当に厄介だと思うんですね。

でも、私たち、まさにそういう一人ひとりだったんじゃないかなと思うんですね。普通だったらもう見捨てられてしまってもおかしくないような、そんな私達だったと思います。でもそんな私たちを、神様はなおも諦めないで、心を痛めていてくださるとしたら、それはなんと大きな恵みではないでしょうか。

この手紙を書いているパウロ自身も、その神の憐れみを豊かに経験した人だったということが言えると思います。パウロもかつては、このキリストが大嫌いだったんで す。サウロという名前でしたけども、もうキリストが大嫌いで、キリストと名のつく人たちを迫害していた、そういう人物だったわけですけれども、でもある日、このサウロは、ダマスコに向かう途中でキリストと出会います。ダマスコに向かう途中で、突然天からの光を受けて、自分の名を呼ぶイエス様の声を聞く聴くんですね。その時にパウロが答えます。「主よあなたはどなたですか?」。そうしたらイエス様が、「私はあなたが迫害しているイエスである」っていうふうに答えましたね。自分は、お前に迫害されてるんだっていうことをあえて言った上で、迫害されてるんだったら迫害し返すのかなと思ったら、そうではないですね。迫害されているということをちゃんと受け止めた上で、その上でパウロに愛を注ぎ、そして罪を赦し、お前を、私は用いる、「異邦人への使徒」とするんだよと、召し出してくださった。そのような大きな憐みを、パウロも受けていたということが分かるわけですね。

ですからエペソ書の手紙を書いていて、ここで「哀れみ豊かな神は」と書いている時に、パウロにとってこれは、自分の経験なんですよね。自分がまさに体験して知っている、その憐みは、まさにパウロの確信なんですね。そのことをここに伝えているということが分かるんではないかなと思います。

神様は、私たち一人一人に対しても、実に憐れみ深い方であるということを是非覚えようではありませんか。私達もかつては、自分のそむきの罪の中に死んでいた者たちであり、この世の流れ、サタン、肉の欲に従う奴隷状態だった一人一人であり、そして御怒りを受けるべきであった。その事実にも気づかずに、反省することもなく、ずっとわがままを続けていた、そんな私たちに、神様は心を痛めておられた。そのような憐れみを受けて、今の私たちがいるんではないでしょうか。それでも私たちをあきらめないで愛してくださった方がいるから、今の私たちがいるんではないでしょうか。この神の憐れみを、私たちは決して忘れることがあってはいけないと思います。

もし、貴方が今もなお、神に背を向けて歩んでいるというのなら、すぐにでも向きを変えて、この方の元に帰っていただきたいというふうに思います。なおも惨めな状態の中に自分が置かれているということに気づいて、そのことを意識して、そのことを見て、心を痛めてくださっている方がいるんだということを、ぜひ覚えていただきたい。神が豊かな哀れみを以て、私たちのことを待っていてくださる、導いてくださる、その方の所にすぐに戻ってきていただきたい。その時に本当に素晴らしい神様を知り、恵みを知るものに変えられていくということを是非に信じて、この神様の元に帰っていただきたいなということを心から願います。

4.神の愛はどれくらい大きいか?

ここまでは神の憐れみの豊かさということについて見てまいりました。次にパウロは、神の愛は大きいということを語っています。私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、神様の私たちに対する愛が大きい。どれくらい大きな愛なんでしょうか?そんな事を、皆さんで考えてみたいと思います。

それは、ご自分の最も大切なものを私たちにくださるくらい、大きな愛であったということであります。神様にとって、最大の、一番大切なものとは何だったでしょうか。それはイエス様です。イエス様は神様のひとり子です。ご自分の大事な息子、そのひとり子であるイエス様を、私たちにくださったほど、私たちのことを愛してくださった。そこに神様の愛の 大きさが表わされております。

愛の大きさってどうやって測ったらいいんでしょうか?それはその人のために、どれだけ喜んで犠牲を払えるかというところに、私たちの愛の大きさというのが表わされるんではないでしょうか。夫が妻を愛していると言っても、その妻に対して何の犠牲も払っていない夫がいるとすれば、その愛は本物の愛ではないと言えるんじゃないでしょうか。妻が夫を愛すると言っても、その夫に対して喜んで犠牲を払っていないとするならば、その愛は本物ではないと言えるんではないでしょうか。強いられてとか、義務感からイヤイヤ犠牲を払うということは、たくさんあるかもしれませんけれども、喜んで犠牲を払うからこそ、愛ということが言えるんではないかと思います。

聖書はこう語ってますね。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠の命を持つためである」。有名なヨハネ3章16節の言葉ですけど、「神は、実に世を用を愛された、いやいやではないんですよ、義務感でもないんですよ、矯正でもないんですよ、実に世を愛されたんです。心から愛してくださった。そしてご自分の一人子、イエス様を私たちにくださった。

それしか、わたしたちを救い出す方法なかったんです。神である方が人となってこの世に来られ、私達の罪の身代わりとならなければ、決して私たちは救われなかったんです。その唯一の方法、それしかない方法を、あえてとってくださる、そのために一人子イエス様を私たちにくださった。なんと大きな犠牲を神様は私たちのために払ってくださったでしょうか。そこに神の愛の大きさが表れているということであります。

そしてこの言葉からもう一つ気付かされることは、神様は私たちの悲しみを、ご自分の悲しみとしてくださり、私達の幸せを、ご自分の幸せとしてくださるということであります。神様は私たちが滅んでしまうことが耐えられないですね。とても耐えられないんです。私たちが罪の刑罰を受けて滅んでしまうということが、もう耐えられないんです。ですから、何とかして、そこから救い出そうとされて、それでイエス様をくださったわけです。「ひとりとして滅びることがなく」という、その言葉に、神様の私たちに対する愛が示されております。そして滅びることを望んでおられない神様は、私たちが皆、救われて幸せになることを願ってるんです。

つまり神様は私たちが滅びることの望んでないんです。私たちが不幸になることを望んでないんです。だからこそ、尊い犠牲を支払ってくださった。

あなたは、こんなに愛されているということに気づいているでしょうか。神様が、あなたのことを、こんなに大きな愛をもって愛しておられるということを知っているでしょうか。こんなに愛されてるんですね。私たちが苦しむ時に、神様も共に苦しんでるんですね。私たちが喜ぶ時に、神様も共に喜んでくださるんですね。そこまで大切に思ってくださる方がいるって言うことを、私たちはどれだけ気づいているだろうか?これが分からなくなるところから、私たちの不平不満が始まっていきますね。自分は孤独だ、愛されていない、誰もわかってくれない、そんな気持ちにすぐ囚われてしまいやすい私達だと思いますけれども、でも神様は、私達が苦しんでる時に苦しまれる、喜ぶときに喜んでくださる。私たちが本当に幸せになることを願ってくださって、そのために一番大事なものをくださった、それくらい愛されているその恵みを味わおうではありませんか。忘れないようにしようではありませんか。そんな尊い一人一人であるということを、ぜひ心に留めて、感謝して歩んでいくものでありたいと思います。

5.イエス様はいつも、私たちとともにいてくださる。

神様の私たちに対する愛は、別の意味でも大きい愛だということが、今日の聖書の箇所から教えられることであります。それはどんな愛かと言うと、私たちといつも共にいてくださるそういう愛であるということが分かると思います。

4節・5節・6節もう一度読んでみたいと思います 。「しかし憐れみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともにに蘇らせ、ともに天上に座らせてくださいました」。

ここで3回同じ言葉が出てくるの皆さん気づかれたと思いますね。それは「ともに」という言葉であります。

背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました1回目ですね。次に、神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともに蘇らせ2回目。ともに天上に座らせてくださった、3回目。

3回出てまいります。つまり神は私たちを、キリストとともに生かしてくださり、キリストと共に蘇らせてくださり、キリストとともに天上に座らせてくださったことが、ここで書かれて記されていることです。その一連の全ての行程に、キリストが伴っていてくださるんだよ、ということが、ここで教えられているということが分かると思います。

ここに生きる、蘇る、天上に座る、というそういう言葉が出てきますけれども、この行程は、イエス様が、まずたどってくださった行程であるということが言えると思います。そしてこれは使徒信条の中にも表されている、私たちの信仰告白の言葉であります。

私たちは、「イエスは死にて葬られ、陰府に降り、3日目に死人の内より蘇り、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と毎週、毎週、告白しておりますけれども、この使徒信条の中に、イエス様がたどられた歩みが、奇跡が、記されております。イエス様は間違いなく十字架にかかって死なれました。陰府と呼ばれる死の世界に降られた。でもそこから蘇って天に昇っていって、最後には神の右の座に着座された。そういう奇跡を辿られたということを、私たちは使徒信条を通して確認していますし、その事を信じているわけであります。

そのような全行程を、イエス様がお通りになったということは、実は私たちにとっても、とっても大事なことであります。どうしてかと言うと、私たちもいずれ同じ道を歩んでいくからであります。いつか私たちは死にます。確実に死にます。間違いなく死にます。でもイエス様も死んでくださいました。そしてその後、私たちはよみがえるんです。イエス様もよみがえってくださったからです。そしてその後、私たちは天上に引き上げられます。イエス様も天上に引き上げられたからです。そして最後に私たちは、天上の神のすぐそばに座するものになる。イエス様もそのように天上に座してくださったからなんですね。つまりイエス様は、私たちがこれからたたどろうとしている道を、先駆けとなって歩いてくださったということが、分かるわけであります。私たちがこれから、いずれ通らなければならない死という暗黒の経験も、イエス様は通り抜けてくださったし、その後に引き上げられて、天にまで引き上げられて、天上に座するものとされる。その一連の過程を、まずイエス様が先駆けとなって歩んでくださったということが、私たちにとってどれだけ大きな希望でしょうか。その全ての行程を、イエス様が私たちと共に歩んでくださるということなんですね。全ての行程を、ちゃんとわかってくださるということなんです。それが5節と6節に記されていることになります。

6.まとめ

神は、死んでいた私たちを、キリストと、ともに生かしてくださる。キリストが私たちの死の時も、ともににいてくださる。神は私たちをキリストとともにに甦らせてくださるんです。蘇るとき、キリストが伴ってくださるんです。そしてキリストとともに、天上に座らせてくださる。天上に引き上げられる時も、キリストが一緒にいてくださるんです。そしてそこの神様のすぐそばに、キリストもともに座ってくださる。何と言う幸いなことではないでしょうか。なんという安心を私たちはいただいているではないでしょうか。

死ぬ時も私たちは一人ではない。誰もついていくことはできないですね。どんなに親しい友達でも、伴侶でも、家族でも、ついていくことできない。その死という暗闇の経験を、誰も伴うことができない。でもこのキリストは、私たちに伴ってくださり、そしてその後も天にまで伴ってくださいます。なんて素晴らしいことではないでしょうか。私たちが本当に困ってる時、心細い時、そして恐ろしい時、弱い時に誰かがそばにいてくれたら、それは愛ではないでしょうか?それがまさに神様の愛であります。こんな大きな愛を以て、私たちを愛してくださっている神様がいるとしたらどうでしょうか。みなさん、本当に、その愛をしっかり受けたいと思うんではないでしょうか。このキリストがおられるということで、私たちは安心なんです。生きている時もそうです、死の瞬間もそうです。その後もずっとそうなんです。ずっとキリストが伴ってくださる。そんな大きな備えを、神様が私たちのためにしてくださっているということを、ぜひ心に留めようではありませんか。そして是非、この神の愛を知って、キリストを信じて、神とともに歩む者になっていただきたいと思います。憐れみ豊かな神は、私たちを愛してくださった。その大きな愛のゆえに私たちを救い出してくださった。その愛は、昔も今もこれからも、変わることがありません。ずっと続いていきます。この豊かな憐れみと、大きな愛を、皆さん経験したでしょうか?経験したと思いますけども、またさらに豊かに経験させていただこうではありませんか。そしてこの愛に応えるものとして歩んでいこうではありませんか。真実の愛は私たちの中に真実の愛を引き起こします。本当に愛された人は、その愛する人のために生きたいと願うのではないでしょうか。このような大きな愛をいただいている私たちが、なおも神を愛する者として成長していくことができるように、この一週間の歩みも、この神にたくさん愛されて、神をたくさん愛する歩みを続けていきたいと思います。

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