イエス・キリストをより良く知るために

ヨベルの年を祝う

 
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

レヴィ記25章1~5節

今年は、私たちは主に旧約聖書のレビ記のみことばに耳を傾けてきましたけれども、レビ記からのメッセージは今日で最後にしたいと思っております。

今まで私達はレビ記を通して、聖なる神様の前に全くふさわしくない私たちを、でも主は受け入れてくださっているということ、招いてくださっているということ、そしてこんな私たちを聖なるものに導いてくださる。そんな恵みを教えられてきたという風に思います。

今日も私たちは聖なる神様の前に招かれていますけれども、この主の恵みと導きを覚えながら与えられているレビ記からの最後のメッセージに耳を傾けていきたいと思います。

1.すべては主のもの

一週間の中に安息日があり、1年の中に過越しの祭りや、仮庵の祭りなどの、主の例祭があり、イスラエルの民は毎週、毎年、この世のリズムではなくて、神様が定められたリズムの中を歩むよう導かれてきたということを、私たちいままで教えられてきました。今日の箇所を通して、さらに長い人生においても同じような主の導きがあったということがわかります。

もう一度1節から4節までを読んでみたいと思います。25章の1節、

主はシナイ山でモーセにこう告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。私が与えようとしている地にあなた方が入った時、その地は主の安息を守らなければならない。6年間はあなたの畑に種をまき、6年間葡萄畑の刈り込みをして収穫をする。七年目は地の全く休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種をまいたり、葡萄畑の刈り込みをしたりしてはならない。

このように書いてありますけれども、イスラエルの暦においては7日目が「安息日」であったように、7年目は「安息年」であったということがわかります。この一年は種まきも、借り入れも、あらゆる労働が禁止です。「これは地のための全く休みの年である」と5節に記されてあります。6年の地として使ってきた地を、7年目には休ませる必要がありました。農作業を休んでも、その地から自然となる作物もあったわけですけれども、それらの作物は自分たちのものではなく、男奴隷、女奴隷、雇人と雇い主の元に在留している居留者たちのためであり、さらに家畜と家にいる獣たちのためであったということが、6節・7節に記されています。貧しい人々や動物たちのことまで配慮されていたということがわかりましす。

6年働くと、その次の1年はまるまるお休みという生活は皆さんいかがでしょうか。羨ましいなあって思う方もいるかもしれないし、そんな悠長なこと言ってられないという感じな方もおられるかもしれません。

この7年目の「安息年」という年は一体何のために定められたんでしょうか。

それはイスラエルの民が、その1年の間に自分が住んでいる家も、耕している農地も、すべて神様のものであることを知るためです。7年に1度、地を本来の所有者である神様に返すことが求められたということであります。それによって土地も畑も自分のものようでありながら実は神様から委ねられたものであることを知ることができます。あるいはそこで得られる収穫や財産もすべて主から与えられたものであることを確認することができます。

さらに人がこの地の上にあっては、自分の土地というのは一切なく、皆この世にあっては旅人であり寄留者であるということを覚えることができました。そのような事実をイスラエルの民は「安息年」に確認することができたというわけであります。

この一年を経験することによって、イスラエルの民は、人は自分の力で生きているのではなくて神様の恵みによって生かされているということを覚えることができました。ちょうど私たちが「安息日」に仕事を休んで礼拝に参加することによって、一週間守られてきた神様の恵みを覚えあって感謝することができるように、イスラエルの民も7年に1度、主によって生かされている恵を確認することができた。しかもそれが1年も続くということであります。そのようにして、そんな体験を与えられながら、イスラエルの民は、人生の中心は自分たちではないんだ、神ご自身なんだということを覚えることができたわけであります。

私たちには「安息日」はあるんですが「安息年」はないですね。私たちには「安息年」を祝う習慣はありません。6年働いた後に、1年のお休みをいただくというのは、私たちにとってはちょっと現実的ではないかもしれないなと思いますね。でも仮に「安息年」はなかったとしても、7年目を工夫して過ごすことはできるかもしれないと思いました。少し長めの休みを頂いて、それまでの7年を振り返る時があってもいいのかなと思いましたし、あるいは7年を振り返って特別何か、お祝いの行事を家族で開いてみるというのもいいのかなという風に思いました。そのようにして定期的に、一旦足を止めて振り返って神様に感謝する時を持てたら素晴らしいじゃないかなあということを思いました。

いずれにせよ大事なことは忘れないことなんです。私たちに与えられている物、土地、家、家族、人生、すべて主のものです。詩篇24篇1節にもこういう歌が出てまいります。

地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの。

 

この地、この地に満ちているもの、世界、その中に住んでいるものは、全部神様のものです。そのように聖書で教えられている。この世には自分のものは何一つありません。全ては主から委ねられたものです。その恵みを私達は覚え感謝するものでありたいという風に思います。

2.求められる信仰

そのようにしてイスラエルの民は7年ごとにそういう特別な年を過ごす習慣が神様から定められたということなんですけれども、この7年を7回繰り返すと49年になります。そしてそれを経た50年目はさらに特別な年であったということが次を読むと分かります。今度は8節の方を読んでみたいと思います。8~10節まで読んでみたいと思います。

あなたは安息の年を七回、すなわち、七年の七倍を数える。安息の年が7回で49年である。あなたはその第七の月の10日に角笛を鳴り響かせる。宥めの日に、あなた方の全土に角笛を鳴り響かせる。あなた方は50年目を聖別し、国中の全ての住民に開放を宣言する。これはあなた方のヨベルの年である。あなた方はそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族の元に帰る。

このように教えられております。安息年を七回祝った後の、さらにその翌年の 50年目は、ヨベルの年と呼ばれる年であったということです。これは国中の全ての住民に、開放が宣言される年であったという風にここで教えられている。そしてこの年も一年間お休みなんです。この年に人は解放されて自分の本来の所有地、家族の元に帰ることが出来ました。そういう特別な年であったということであります。

ところで7×7年=49年目は「安息年」ですが、さらに50年目も「ヨベルの年」となります。
つまり「お休みが2年間」続くことになります。この間種を蒔かず、収穫もしませんから、イスラエルの人々は何を食べていたのでしょうか?どのようにこの2年間を過ごしたのでしようか?

そんな心配をした人がイスラエルの中にもいたことが20節を読むとわかります。しかし、それに対する神様の答えは、21節

「わたしは6年目に、あなたがたのためにわたしの祝福を命じ、3年分の収穫を生じさせる」

というものでした。なんと6年目に三年分の収穫を主が用意して下さると言うのです。

 

このことを人々は信じることができたでしょうか?次の年のことが気がかりで働いてしまった人がいたのではないかと想像します。安息年とさらにヨベルの年を過ごすためには、信仰が必要であったことがわかります。

でもそのことを通してイスラエルの民は

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる(マタイ4の4)」
ことを学んでいきました。

パンは大事なのです。私たちにとってパンも財産も生活の糧もみな欠かせないものです。しかし、人はパンだけで生きるのではありません。みことばによって生きます。みことばに対する信頼が求められています。

3.将来の解放と自由の日を待ち望む

この25章全体にヨベルの年のことがずっと出てくるんですけれども、それを読んでいくと気づかされることですが、例えば経済的な事情で土地を他人に売ってしまった人もいました。でもその場合もヨベルの年には、その土地が本来の所有者に帰ってきました。また貧しさのゆえに自らを奴隷として売りに出してしまった人もいたわけですけれども、でもその人もこの歳には解放されて自由になることができました。逆にこの50年間売買で、奴隷を獲得した人もいましたが、その人はヨベルの歳には本来の所有者に返さなければいけなくなりました。50年に1度、最初の状態に戻るという、そのような時が神様から定められていたということであります。

50年と50年の間に人生うまくいかなくて失敗してしまった人もいたと思います。そのために自分に与えられた土地を売りに出さざるを得なくなってしまった人もいたと思います。色々借金をしてしまったり、貧しさの故に、自分自身を奴隷として売りに出してしまったり、そういう人もいたと思います。

でもそのような人々にとってヨベルの年は、希望の年でした。どうしてかと言うとその年にすべての重荷から解放されて自由になるからです。最初の状態に戻るんです。ですからそこからもう一度再出発することができた。ですからその年は希望の年だった。

またこの50年の間に人生がうまくいって儲かった人もいました。売買によってたくさんの土地や奴隷を獲得して豊かになった人もいました。でもその人達は、ヨベルの歳には、それらを本来の所有者に返す必要がありました。50年に1度最初の状態に戻るからなんです。

つまり人生に失敗した方も、過去の失敗にいつまでも引きずられることはありませんでした。人生に成功した方も、その成功体験の故に、必要以上に獲得した富や財産に心奪われるということがありませんでした。すべての人がヨベルの年に神様を共に覚えて感謝することができました。そしてその年に、土地も財産も人生も全ては「神様のものだね」と、皆で共有する事ができたという特別な年だったということであります。

 

私たちのこの国にはさすがにヨベルの年はありません。ヨベルの年を祝う習慣もありません。教会も、もしかしたら50周年のお祝いした時には50年目ということでヨベルの年を意識してお祝いしたかもしれませんけれども、なかなかする機会は私たちにはないかなという風に思うんです。でも仮になかったとしてもこのヨベルの年に表されている精神とその生き方は私たち大事にしていかなければいけないんではないかという風に思います。

50年という時間は本当に長い時間ですよね。その長い時間を生きていく中で、本当にたくさんの体験をします。色んな経験をします。そしていろんなことを獲得していきます。いろんな蓄積ができてゆきます。

その中に私たちの人生を豊かにしてくれるたくさんの良い経験があります。でもその一方で、今の私たちにマイナスに作用するいろんな残念な体験であったり、過去の失敗であったり、挫折であったり、いろんな傷であったり、そういうものが 今の私を、自分を縛ってしまっている。その過去の経験があることのゆえに、自由になれないっていう、そういうことも沢山あるんじゃないかなという風に思うんですよね。

またかつての成功体験、うまくいったというその体験によって、私たちは必要以上に自分の力であったり、この世の富であったり、繁栄であったり、そういうものにしがみついているということも結構あるんではないかというふうに思うんです。

 

でもそれらを全部いったん神様の元に返して、最初の状態に戻るというヨベルの年のような経験が、私たちにも必要ではないでしょうか。私たちが自分の手の中で握りしめているこの世に対する思いとか、執着とか、自分自身に対するこだわりとか、そういうものを一旦手放して神様との関係の中で整理してみるという、そういう時が私たちにも必要ではないでしょうか。

今年はコロナの年で、思えばかつては緊急事態宣言が発令されて私たちは外出できないってそういう時間を過ごしましたけども、あのときずいぶん家の中に溜まっていたものを整理してゴミを処分した人が結構たくさんいたということを聞いております。あの時に過去に溜まったものを綺麗に整理して処分した方がたくさんいたんだと思うんですね。そして本当にさっぱりしてスッキリしてそして生活をまた始めて言ったっていう方がたくさんいたんじゃないかなという風に思うんですね。

霊的な意味においてもそのような経験が私たちには必要ではないでしょうか。神様から委ねられたもの与えられたものを、自分のものとして絶えず獲得してどんどんどんどん膨らんでいくような、そういう傾向私達みんな持ってるんではないかなという風に思うんです。

聖書は私たちに教えてるんです。本当に大事なものはわずかしかないって。

本当に大事な物って一つしかないんだよ、それはみことばと神様との関係、その中で生きること、それが一番大事なことなんだよってイエス様が教えてくださった。

でも私たちはその一番大事なものよりも、なんかその他のものがどんどん膨らんでいくというか、それがどんどん溜まっていってしまうというか、そしてそれに縛られてゆくと言うか、そういう傾向をみんな抱えているんじゃないかという風に思うんですね。そういう中にあって、本当に私たちが一旦立ち止まって、その溜まったものを全部神様にお返しして整理して再出発することが時々必要ではないでしょうか。

そのような意味でのヨベルの年を、私たちも大切にしてゆけたら幸いではないかなと思います。そのようにして私達は本当に大事なものを吟味して、そうでないものを整理して、本当に神様の前に整えられていくということを大切にしてゆきたいという風に思います。

 

最後にこのヨベルの年はイスラエルの民にとって、未来の希望を覚える一年であったということを覚えて終わりにしたいと思います。

土地が元の所有者に戻り奴隷が解放されるという年が、イスラエルには50年に1度やってきたということです。50年ごとにそういう時が来るっていうこと。ですから人々はこのヨベルの年を念頭に置きながら、土地や奴隷を売買することができました。

ですからヨベルの年は、いつも彼らには意識されていたと思うんですね 。ヨベルの年がやがてやってくる、あと何年かするとヨベルの年になる。そのことを絶えず意識しながらイスラエルの民は歩んでいたんではないでしょうか。あと49年もあるという段階から始まって、あと30年、あと20年、あと10年、あと5年でヨベルの年だって、それは多くの人々にとっての目標だったと思うんですよね。そしてやがてヨベルの年が来るということを意識しながら、色々整理もできたと思うんですよね。

そういうことで彼らの意識はいつも未来に向けられていたということを私達、気づかされるわけであります。このヨベルの年は一人一人にとっての大きな希望であり、大きな目標でありましたけれども、同時に社会全体としても大きな希望でありました。

このヨベルの年が50年に1度定められていたおかげで、富んでいる人が必要以上に富すぎるって事がないんです。貧しい人が必要以上に貧困の中に喘ぐということもないんです。この世では親が抱えた借金を子供が返さなければならないっていう、そういう時が現実があると思うんですよね。親がうまくやらなかったその失敗を、子供が引き受けなくてはいけないって言うなことが実際にこの世でもあると思うんですが、でもイスラエルにはそういうことないんですね。50年に1度、元に戻るからなんです。あるいは親の稼いだ富によって子供が楽をして生きていくってこともこの世にあると思うんですよね。親が本当に儲けてですね大富豪になったおかげで、子供達はもう遊んで暮らしていけるっていうようなことがこの世にはあるかなと思うんですけれども、それもないんです。どうしてかっていうと50年に一度、全部返すから。

そうすると、そういうことが定められていると、富に対する執着とか、貧富の差とか、搾取、格差、そういった問題の多くが解消されたと考えられる。、このような制度があるおかげで戦争も争いもだいぶなくなったんじゃないでしょか。イスラエルの民はこのような恵みの年を50年ごとに経験しながら、自分達は神様によって生かされているということを確認することができた。そしてさらにやがて約束されている完全な解放と自由の日の訪れを待ち望むことができたわけであります。ここに提示されている社会というのは、本当に理想的な社会ではないかなと思いますね。

人類は聖書が提示するこのような理想社会を未だに実現していないんではないでしょうか?人類は今まで誰もが幸せになれる理想社会を追求してきたはずですね。今でもそれはずっと追求され続けていると思います。そのために努力したり戦ってきた長い長い歴史があるんではないでしょうか。でもまだこのような理想を社会が実現されたことはない。

そして今、今の時代はどうでしょうか。もうますますこの理想社会から離れていく。どんどんどんどんこの理想から離れていってしまう。そういう世の中になっているんじゃないかなって思うんですね。

先日妻と二人で NHK のドラマを見ました。「こもり人」というドラマでしたね。皆さんの中でも見た方いらっしゃるかもしれないんですが、10年近く引きこもりを続ける息子とその父親との間の葛藤を描いたドラマでありました。そのドラマの中で松山ケンイチさんが演じる息子がこんな台詞を語っていた。「効率ばかり求めて優しさを失った今の世の中に、僕たちの居場所は果たしてあるのだろうか?」セクハラやパワハラが横行する、とてもまともとは言えない、ゆがんだ社会の中を、それでも生きていかなければならない若者たちの叫びがそこでは表されていたように思いました。

本当にこの世は効率が大事なんだと思いますね。いかにうまくやれるか、いかに稼げるか、いかに成功できるのか、そんな価値観にこの世の中は支配されているんではないでしょうか。

その結果、優しさとか、温もりとか、そのようなものがどんどん 失われてゆく社会になっているんだという風に思います。そしてコロナの影響でますますそういう世の中になっていくのかもしれない。その中で歩んで行かなければいけないということは、本当に苦しいことであります。

おそらく私たちが今まで生きてきた、体験してきた苦しみよりも、これからの時代を生きていかなければならない若い人たちが味わう苦しみの方が、もしかしたらもっと深いかもしれない。その中で、本当に歪んだ社会の中で、私たちは生きていかなければならない。

 

でも聖書でも教えられております。今、私達は楽園から追放されてこの世という荒野での厳しい生活が強いられているということ。この世は楽園ではないんです。この世は荒野なんです。そしてこの世の悪にまみれ、サタンの誘惑にさらされ、罪と死の奴隷状態がずっと続いていく、そのような戦いの中に私達は置かれている。

でもこの状態がいつまでも続くわけではありません。いつの日かラッパの音とともにヨベルの年がやってくる。その時にはもうすでに用意されている天の資産が、私たちに与えられる。私達は天の家族の元に帰ることができる。奴隷状態から完全に解放されて、自由にされる時がやってくる。それは私たちの主イエス様が再臨される時、その時に新天新地が完成する時、その時が用意されているということを聖書で約束されております。

さきほど黙示録の21章の御言葉を読みましたけれども、そこに新しい天と新しい地、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、天から降ってくる、そういうふうに記され、その光景が描かれていた。

そしてその時には、神様が私たちと共にいてくださる。そして神様が、私たちの目から涙をことごとく拭いとってくださる。もはや死はない。悲しみも、叫び声も、苦しみもないと約束されています。

以前のものが全て過ぎ去ったからだ。そんなヨベルの年の訪れが私たちに約束されているということを、私たちは忘れないようにしたいと思います。それまではしばしの忍耐の日々が続きます。でもイスラエルの民が50年後のヨベルの年を待ち望みつつ生きたように、あと50年すれば、その日がやってくる。自由の日がやってくる。解放の日がやってくる。その日を希望として生き続けたように、私たちもこの世にあって、やがて約束されている希望に目をとめて歩んでいくものでありたいと思います。未来に約束されている希望から決して目を離すことがありませんように、御言葉により頼みつつ、日々信仰をもって歩んでいこうではありませんか。み言葉がちゃんと私達を最後まで導いて下さいます。なその導きの中で歩んでいくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたしましょう。

恵み深き私たちの父なる神様。私達の本当にとても聖とは言えない状況の中にあって、しかしそんな私達に目をとめて、手私たちを招いてくださって、聖なるものとしてくださるめぐみ覚えてありがとうございます。そして私達をみ言葉によって導き、完成へと導いてくださいますから、その恵みを覚えてありがとうございます。この世ではしばしの戦いが続きます。試練が続きます。しかし主が御言葉によって支えて下さいます。どうか約束されている希望から目を離すことがなく、その日を待ち望みながら、信仰を持って一歩一歩、歩みを続けていくことができるように助けてください。御言葉を心から感謝し、イエス様の御名によってお祈りをいたします 。

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