悲しみを担う・第一サムエル記31章
その時の様子がここに詳しく出てまいりますけれども、サムエル記第一の最後のメッセージ、そこで何が語られているでしょうか?今日はそのメッセージに耳を傾けていきたいというふうに思います。
1これまでの概要
31章の中身に入る前に、ダビデとサウルのこの時の状態についてちょっと復習をし、確認をしておきたいと思います。
この時ダビデは、イスラエルではなくてペリシテ陣の領地の中におりました。アキシュというペリシテの一人の王に仕える立場でありまして、よってアキシュと共に危うくイスラエルと戦う羽目になってしまうところでありました。ところがペリシテ軍の中に、ダビデとその一団がいることに不安を感じたペエリシテの他の領主たちがいまして、最終的にはダビデとその一団は、ここから外されるということになりました。もしそのままの状態で戦いが始まっていたら、ダビデはサウルとヨナタンと戦う羽目になっていたということですし、それ以上に神の軍であるイスラエルと、戦いを交えるということになっていたわけで、そこから外されたというのはまさに神様の守りがあったということであります。その内容を既に私たち29章を学んだ時に家の学びました。ですからこの31章の戦いの場面には、既にダビデはそこにいないということですね。それが分かると思います。
一方のサウロですけども、どんな状態だったかと言いますと、この戦いが始まるということになりまして、ペェリシテ人の陣営を見てサウルは怖くなってしまった。「その心は激しく震えた」と聖書に書いてあるんですね。本当に大きな不安にサウルの心が取り憑かれてしまって、彼は神様に祈るんですけども、答えが返ってこない。それで何をしたかと言うと、彼は霊媒の女のところを訪ねて行って、そしてその女に頼んで死んだはずの預言者サムエルを呼び出して、そこで言葉をもらうという、そういうやり取りがありました。サウルはもう不安で不安でも心が震えている状態でしたから、サムエルから何か力強い励ましの言葉をいただきたかったんだと思うんですけれども、でもそこで告げられた言葉は、サウルにとっては非常に辛い言葉でありました。実に厳しい言葉がそこで告げられてしまった。それは主がサウルから、もう去られている、そしてイスラエルは敗北する、そしてサウル自身の死の宣告までそこでもらってしまうという結果になってしまって、彼は、棒のようになってしまった、倒れて棒のようになってしまったと書いてあります。それらの一連の出来事が、28章に書いてあることでありました。
2ペリシテに圧倒されたイスラエル
今日の31章のこの内容は、サウルが霊媒の女のところを訪ねて行った夜の、その夜が明けた翌日の話であります。ですからこの時のサウルは戦う意欲を完全に失っていたとそういう状態だったということが言えます。そしてその状態がそのまま戦争の結果に反映されているということが今日のこの箇所からわかることだと思います。
31章一節の最初の言葉にこう書いてあります。
「さてペリシテ人はイスラエルと戦った」と書い てあります。
ペェリシテ人がイスラエルと戦ったと書いてありまして、イスラエルがペリシテと戦ったとは書いていない。これはある種の表現なのかもしれません。ペリシテがイスラエルと戦ったということはつまり、イスラエルがペリシテと戦ったということであり、形としてはそういう戦争状態が成り立っていたんだと思うんですけれど、でもおそらくイスラエル人たちは気持ちの面ではもう、ペリシテ人に圧倒されていたということが考えられます。ですから戦いのその後の展開は、イスラエルにとっては散々な結果であったということがわかります。
1節の続きを読んでみます。
「イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルヴォア山で刺されて倒れた。ペリシテ人は、サウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。」
この日のイスラエル軍は、ペリシテ軍の前に全く歯が立たない状態だったということがわかります。そして追っ手達はサウルとサウルの息子達に迫り、その結果ヨナタンを含むサウルの3人の息子たちが殺されてしまうという結果になっていきます。
3サウルの最後
さらに攻撃はサウルに集中することになりました。3節から読んでみます。
「攻撃はサウルに集中し、射手達が彼を狙い撃ちにしたので、彼は射手たちのゆえにひどい傷を負った。サウルは道具持ちに言った。「お前の剣を抜いて、私を刺し殺してくれ。さもないとあの無割礼の者達がやってきて、私を刺し殺し、私をなぶりものにするだろう。」しかし道具持ちは非常に恐れて、到底その気になれなかった。それでサウルが剣を取り、その上に倒れこんだ。道具持ちは、サウロが死んだのを見ると、自分も剣の上に身を伏せて、サウルと共死んだ。」
サウルの最後の姿が記されてあります。サウルは敵の集中攻撃にさらされて、ひどい傷を負った。狙い撃ちされたということですよね。ひどい傷を負ってしまいました。そして道具持ちに自らを殺してくれとお願いするも、それが叶わず、最後は自分でとった剣の上に倒れこんだと書いてある。壮絶な死を遂げたということが言えると思います。それを見たヨルダン川の向こう側にいたイスラエルの人たちは、それを見ていましたけれども、人々はそれを見て、町を捨てて逃げ出してしまったと、その結果その地はペェリシテ人に占領されてしまったということが7節に書いてあることです。つまりこの戦いは、ペリシテ軍の大勝利、イスラエル軍の大敗北で終わったということであります。
その後の展開を追ってみますと、ペェリシテ人がやってきてサウルとサウルの3人の息子たちの死体を見つけて、そしてそれをベテシャンの城壁に晒したということ、そしてその戦いの勝利の報告を、異教の神々の前で伝えたと、報告したということも出てきます。
そのことが8節から10節のところに出てくることであります。
イスラエルにとっては大変残念な結果になってしまったということであり、それは非常に大きな悲しみであったということが分かると思います。
第一サムエル記の最後がこういう場面で終わっております。サムエル記を今まで私たち少しずつ順番に、聖書を読んできましたね。学んできました。いろんなお話がありましたけども、最後はこんなに悲しい話で終わっているということですね。
そういうことに私たち気づかされる。ここには本当に悲しみが表されていると思います。
4神に捨てられた者の悲しみ
一つはやっぱり戦いに敗れた者の悲しみということがここに表されていると思います。私たちも先日は8月15日の終戦の日を迎えまし。74回目の終戦の日を迎えましたけども、74年前日本は戦争に負けて、その時に本当に大変な苦労をした、本当に辛い思いをした。いろんな悲しいことがたくさんあった、そういうことをわたしたちもまた振り返る機会だったという風に思います。戦いに負けるということは本当にそれだけでも悲しいことだなという風に思います。
イスラエルもペリシテ人との戦いに敗れて、最後は壮絶な死を遂げて死んでしまった。今までのサウルの人生を振り返りな がら、本当に悲しいことだなという風に思います。ただそこで表されている悲しみは、それだけではないように思うんですね。もっと人間として深い悲しみがそこには表されているんじゃないだろうか?
それは神に捨てられたものとしての悲しみ、戦いに敗れたということだけではなくて、神に見放されて、神に捨てられた者の悲しみというものが、このサウルの姿に表されているんじゃないだろうかという風に思います。
この戦いの日の前日夜に、サウルはもう怖くて怖くて冷媒の女のところに行って、サムエルを呼び出したというやり取りがありましたけれど、あの時サムエルによって告げられていたんですね。一生懸命尋ねているそのサウルに向かってサムエルは言いました。
「なぜ私に尋ねるのか?主は、あなたから去り、あなたの敵になられたのに。主は私はとうして告げられた通りのことをなさったのだ。主はあなたの手から王位を剥ぎ取ってあなたの友ダビデに与えられた。」
28章の16節と17節にその言葉が出てきますけれども、サウルにとってはこれらの言葉の一つ一つが、実に厳しい言葉でありました。主が、サウルから去られた。そしてサウルの敵となった。そして主はサウルから王位を剥ぎ取ってダビデに与えた。その一つ一つの言葉がサウルにとっては本当に辛い辛い、聞くに耐えない非常に辛い言葉だっただろうというふうに思います。つまりそれはサウルが神に捨てられたっていうことですよね。
それがイスラエルの敗北の原因でもあるし、サウルの死の原因でもあるということ、よって、ここでイスラエルが戦いに敗れたのは、力が及ばなかったということではなくて、。あるいはその日のコンディションがあんまり良くなかったということでもなくって、それは神がサウルの敵となっているということ、そして神はサウロから去って、サウルを捨てられたということに原因があるということが分かるわけであります。そこに本当の悲しみ、サウルにとっての一番の悲しみは、そこにあったんじゃないだろうかというふうに思いますね。
皆さんどうでしょうか。このようにいろんな悲しみがありますけれども、神に捨てられる悲しみという悲しみくらい、恐ろしい悲しみはないんじゃないかなと思うんですよね。事業に失敗するとか、人から嫌われるとか、成績が上がらないとか、うまくいかないといろんな悲しみがありますよね。私たちは人生の中でいろんな悲しみを味わうけれども、神に捨てられるって言う事くらい大きな大きな悲しみないじゃないかなという風に思います。それ私たちが一番恐れることではないかなという風に思います。私たちは聖書を通して、神様は私たちの味方であると信じていますね。私たちの造り主なる神様であることを信じています。神様は私たちを愛してくださっているということを信じていますね。
その神様が、私たちに敵になるなんていうことは、とても考えたくないし、考えられないし、そんなことは想像もしたくないということかなと思うんですね。
でも、このサウルの姿は、私たちに、とても考えたくもないような、神に捨てられたものの姿、悲しみを、表しているということをまず覚えておきたいというふうに思います。
5サウルはなぜ神様に捨てられたのか
では何故、ソウルこんな最後を遂げることになってしまったんでしょうか?どうしてこういう悲しい結果になってしまったんでしょうか?
それはサムエルの言葉を借りて言うならば、
「あなたが主の御声に聞き従わず、主の燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったしなかったからだ。それゆえ今日このことをあなたにされたのだ。」
28章の18節に出てきますけれども、それはサウルが主の御声に聞き従わなかったことの結果である。つまりその原因は、サウル自身にあったということが告げられています。 同じことが15章の26節、この時にはサムエルはまだだまだ生きていました、存命中でしたけれども、その時にもサムエルから宣告されております。
「あなたは主の言葉を退け、主があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」
サウルは確かに神様から王位を剥ぎ取られて、退けられてしまった、とても残念な結果になってしまった。でもその原因は、あなたが主を退けたからなんだよということも、サムエルからすでに宣告されておりました。主の言葉ですね、神の言葉を退けた、それがそれが王位から退けられる原因であったということが、告げられております。つまりサウロの御言葉に対する不従順が、このような結果をもたらしたということであります。
6ダビデとサウルの違い
私たちはサムエル記第一の御言葉をずっと読み進めながら、ダビデの姿と、その一方でサウルの姿と、その両方の姿を追いかけてきました。そしてその両者、それぞれ立場は違いました。それぞれ境遇も違います。それぞれにやっぱり試練が与えられていた。訓練の時が与えられていたということに気付かされるんじゃないかなという風に思います。
ダビデも試練の連続でしたね。本当に苦しい苦しい試練の連続、自分の命が危ない、そういう状態がずっと続いていたけれども、でも、そういう厳しい状況の中でダビデは、主の御言葉に聞きしたがい、主に対する信頼を深めていった。その訓練を見事に合格して、その中で主に対する信頼を養って行った。そういうダビデの信仰者としての成長というものを、私たちは追いかけてきた、見ることができたと思うんですね。
サウルも同じように試練が与えられました。でもサウルはどうだったんでしょうか?御言葉に聞き従うことができず、自分の力にどんどんより頼んでいったbように見える。
失敗しました。失敗しても、その失敗をなかなか認めることができずに、ますます自分の 地位とか立場とかプライドとか、そういうものにしがみついている、そういう人間としての姿っていうものをずっと見てきたんじゃないでしょうか。
悔い改めのチャンスは何度もあったんじゃないかと思いますね。サウルはダビデに殺されそうになることがありましたね。もう、殺そうと思えばいつでも殺せるという、そういう状況に置かれたということが2回あった。でもその度に、ダビデは、ちゃんと主に従ったわけですけどね、サウルとしては守られたという経験もあったけれども、その時に、本当に主の前に悔い改めるということはなかった。そのような機会を十分に活かすことができないで、そしてやっぱりサウルにとっては王位が大事だし、面目というものが大事だし、人々からどう見られているか、どう評価されているか、そういう評価が大事だし、そういう目に見えるものがサウルとっては大事、そしてそこから離れられない、そういう自分の思い、そこにしがみつく、そういう自分の思いから離れられない、そういうサウルの姿というものを私たちはずっと見てきた、学んできたんじゃないかなという風に思います。
7神様のみ言葉に、なかなか聞き従えない人間の悲しみ
つまりサウルの悲しみというのは、神様との関係に生きることのできない人間の悲しみということになるんじゃないでしょうか。サウルは間違いなく神様を意識しながら歩んでおりますね。一応知識としては神様のことを知っているし、意識しながら祈ったりもしているわけですけれども、そしておそらく神様の御心に沿ったあゆみと、イスラエルの王としての立場を与えられていますので、本当に知恵が必要ですし、神様の助けも必要ですし、そういうこともわきまえていたはずです。ところがそれにもかかわらず、サウルは自分自身の持っている性質から離れられないですね。どんどんどんどんそれにしがみついていってしまう。神を意識しながらも、神の御心に沿って歩むことができない。そして神の御言葉になかなか聞け従うことができない、その主の恵みがそこにはいつもあるのに、神様の愛がそこにいつも注がれているのに、それに気づかずに自分の部屋の中にどんどん閉じこもっていってしまう、そういう人間の姿ってんでしょうか、そういうものを私たちはサウルの姿を通して、知らされるんじゃないかなと思います。
私たちもおそらくそういう課題を抱えているんじゃないでしょうか。信仰者として私たちは繰り返し繰り返し、御言葉が与えられ、教えられ、養われながら、少しでも神様の御心に沿って歩んでいきたいと願いを持っていると思います。神様との関係の中で、生かされて、生きたいという願いを持っていながらも、自分の罪人としての肉の性質に捕らわれて、そこからなかなか離れられない、そういうこの世的なものに対するこだわりからなかなか離れられない、そういう自分の強い気持ちを断ち切ることができない、その結果なかなか御言葉に聞き従うことができない、そんな悲しみというものを私たちみんな持ってるんじゃないとないかなと思うんですよね。そう考えると、ここに出てくるサウルの姿というのは、私たち一人一人の姿ではないだろうかというふうに思わされます。
ですから私たちはこの31章の御言葉を、何か他人事のように読むべきではないですね。まさに私達の姿が、そこに示されているということを自覚しながら読むべきではないだろうかというふうに思います。
8サウルの死を悼んだ人々
さて、もしこの第一サムエル記の31章が、10節で終わっていたら、悲しい結末だなということで終わってしまうと思いますが、11節12節13節が最後に続いているというところに、私たちに慰めを感じるんじゃないかなという風に思います。
どうしてかと言うと、このサウルのために、あるいはサウルの3人の息子たちのために、埋葬してくれた人たちがいたということが、そこに記されているからであります。それはヤベシュ・ギルアデの住民たちであったということがわかります。11節12節13節もう一度読んでみます。
「ヤベシュ・ギルアデの住民は、ペェリシテ人が、サウルにおこなった仕打ちを聞いた。そこで勇士達は皆立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子達の死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰ってきて、そこでそれらを焼いた。彼らはその骨を取って、ヤベシュにあるタマリスクの木の下に葬り、七日間、断食した。」
こういう記事で、サムエル記第一の全体の内容が閉じられているというところに、私たちは非常に慰めを感じるんじゃないかなという風に思います。実はこのヤベシュ・ギルアデの住民たちは、かつてサウルから助けてもらったという経験をしておりました。これは第一サムエルの11章に出てくる記事になります。この時にヤベシュ・ギルアデの人たちは、アンモン人という民族の脅迫、攻撃にさらされていて、本当に恐ろしい経験をしておりました。
そのことを知ったサウルが非常に怒ってですね、戦ってくれて勝利を収めてくれて、守ってくれたっていう、そういう経験をしていたんですね。これはサウルが、イスラエルの王になったばっかりの頃ですね。まだ初々しい頃の頃なんですけれども、その時のことをヤベシュ・ギルアデの人たちは覚えていたということなんですね。その時の恩に報いようということだったんだと思います。サウルの死の知らせを聞いた時に、勇士たちが皆立ち上がり、夜通し歩いて、サウルの死体と息子たちの死体を、ベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰ってきて、そこで焼いて、そしてその骨を埋葬した。タマリスクの樹の下に葬ってくださったという、そういう一連の工程が、11、12、13節に書いてあります。
ヤベシュから夜通し歩いてきたって書いてありますね。ちょっと地図で見てみましたけど相当の距離だと思います。ですから真っ暗な夜道ですから、夜道をですね、ヤベシュまで行って、ヤベシュから夜通しベテ・シャンまで歩いて行って、そこで死体を取って、そこからまた戻ってきたわけですよね。夜道の行程ですけど相当歩いたんじゃないかなということが考えられるんですけれども、そのそれくらいの犠牲を払って彼らはやってきて、サウルとサウルの息子たちのために葬儀をしてくれた、埋葬してくれた。しかもそれだけじゃないですね。 断食をしたと最後に書いてあります。これはサウルとサウルの息子たちのために痛み悲しんだということを表しております。サウルは幸いだったんじゃないかなと思いますね。そのようにして自分の死に際して、自分の死を悲しんでくれる人たちがいた。自分のためにちゃんと埋葬してくれる人達がいた。自分のことを覚えてくれる人達がいた。悲しんでくれた。そういう人たちがいたということは、もう死んでしまったわけですけれども、それは本当に幸いなことだったんじゃないかなという風に思います。
9サウルの死を悲しむダビデ
サウルは信仰者としては失格だったかもしれない。あるいは王しても不甲斐ない王だったかもしれない。いろいろ問題を抱えて本当に問題だらけの人だったかもしれない。でもそんなサウルのために、ちゃんと埋葬してくれる人たちがいるし、心痛めてくれる人達がいたということ、それがサムエル記の最後に記されているというところに、私たちは非常に希望を感じるんじゃないでしょうか。そしてこの最後の3節が、実は第二サムエル記に繋がっていく、橋渡しのような役割を果たしているということにも、私たちは気づかされていきます。第二サムエル記1章冒頭に何が書かれてあるでしょうか。
それはそこで、サウルのために嘆き悲しんでいるダビデの姿がそこに記されていることであります。ヨナタンが亡くなったということを聞いて、ダビデがそこで、いかに嘆いているかということが第二サムエル記の最初に出てくることですね。そのためにダビデはふたりのために哀歌を歌った。歌まで歌ったということが、第二サムエル記1章の中に出てきます。ヨナタンのために哀歌を歌うのは分かるんですね。ダビデにとってヨナタンは友人ですからね。友人の死に対して痛み悲しむのはよくわかるんですけども、でもダビデはサウルに対しても本当に痛み悲しんでいるということが分かる。それは第2サムエル記の1章の23節、24節をちょっと読んでみます。
「サウルもヨナタンも、愛される立派な人だった。生きている時も死ぬ時も、二人は離れることはなく、鷲よりも早く、雄獅子よりも強かった。イスラエルの娘たちよ、サウルのために泣け。サウルは紅の衣を華やかにお前たちに着せ、お前たちの装いに金の飾りを付けてくれた」と、こういう風にしてですねダビデはサウルのために歌を歌った。
サウルもヨナタンも愛される立派な人だったと、私たちから見るとどこが立派なのかなという感じかもしれませんけど、ダビデはイスラエルの女たちにサウルのために嘆き悲しみなさいと、歌を歌っている。そういうダビデの心というものが、ここに表されています。
どうしてこんな歌が歌えるのかも、不思議で不思議で仕方ありませんね。
もうダビデはサウルに、いかに苦しめられてきたかってことを学んできましたね。もうサウルのおかげでダビデは、人生めちゃくちゃにされたって言ってもいいくらいですね。どんなにサウルに苦しめられてきたでしょうか。もういくら恨んでも、恨みきれないくらいの、それくらいの苦しみを、ダビデは味わってきたということが言えると思うんですけれども、でもそのサウルのためにダビデは、最後に歌を歌って悼み悲しんだということ、そのようなダビデの姿に私たちは驚かされますけれども、でもそのダビデの姿に私たちは神の愛が表されているということに気づかされる じゃないでしょうか。そして何よりもこの場面を見て、このサウルの姿を見て、一番悼み悲しんでいたのは、神ご自身であったということ、その神の悲しみというものが、この31章の言葉の端々に込められているんではないだろうかということを、私は読んでいて感じました。神様はサウルのこと本当に愛していた。何度も何度も悔い改めるためのチャンスを与え、何とか立ち返って欲しいと願っていた。ずっと導いてくださっていた。でもそれに答えることのできないサウルの悲しみというものがそこに表されています。でもそれは同時に、神ご自身のサウルに対する悲しみでもあったということを私たちは覚えたいと思います。
この神様が、その愛の大きさのゆえに、私達の事をも愛してくださって、その愛が形になりました。それがイエスキリストであります。イエス様は人となってこの地上に来られました。そしてそこで何をしてくださったでしょうか。もちろん十字架にかかってくださったということなんですけれども、別の言い方をすれば、イエス様は私たちの悲しみをになってくださったということが言えるんではないだろうかという風に思います。
10まとめ
自分自身の弱さや課題、罪人としての性質、そこから私たちはなかなか離れることができない。そういう苦しみ、葛藤、そしてそのことのゆえに起こる人生の色々な不幸、悩みというものから離れられない。そういう悲しみをいつもいつも担いながら、そういうものを背負いながら、歩んでいることが多い私たちだと思います。
いろんな重荷を負いながら、いろんな悩みを抱えながら、本当に苦しんで、もがいて、そういう風にして人生送って行く私たち一人一人だと思います。その中にあって私たちは誰も自分のことを理解してくれない、誰も自分のことをわかってくれないと、自分の部屋の中に閉じこもって、一人で悩んでいるということも多いのかもしれない。それはまさにサウルのような状態ということ言えるかもしれません。
でも私たちはやっぱり寄せるべきではないですよね。そういう私たちを見て、本当に涙を流し、その悲しみを担おうとしてくださる人がいたということ、そしてその方が十字架にかかって私たちの罪の重荷をすべて背負って、死んでくださったということ、そしてそこでどんな経験をされたんでしょうか? イエス様は何と、父なる神様に見捨てられる経験をしました。捨てられたんですよ。イエス様は、父なる神様に捨てられたんですよ。その十字架の上で叫ばれました。
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」
肉体的にも苦しかったと思います。精神的にも苦しかったと思います。でも一番の悲しみは、父なる神様に見捨てられる、そういう経験をされた。そういうことを私たちは福音として教えられる。誰のために、こんな経験されたんでしょうか。それもちろん私たち一人一人のためです。本来私たちが神様から見捨てられなければならない、そういう私たちだったと思いますね。私たちは罪から離れられない。罪人としての性質から離れられない。苦しくて苦しくて結局私たちは神様から見捨てられるしかないような、一人一人だったと思うんですよね。でも、そんな私たちのために、身代わりとなって捨てられた方がいる、それがイエス様。それくらい私たち一人一人は神様にとって大事な存在であり愛されているということを私たちは知らなければならない、気づかなければいけない。いつまでも自分の部屋の中に閉じこもっているのではなくて、そんな愛がわたしたちに注がれているっていう事を、本当に気づかなければいけない、知らなければいけないのではないでしょうか。
第一サムエル記を、ずっと学んできました。そうしてサウルの姿を追いかけてきました。皆さんサウルの姿見てどんな感想を持たれたでしょうか。怒りをおぼえたて時があるかもしれません。あるいは残念だなあという気持ちになったこともあるかもしれません。もうちょっとしっかりしてほしいなという気持ちになったこともあるかもしれません。
でも多くの人は、このサウルの姿に共感を覚えたではないでしょうか。何か自分に非常に近い、身近な親近感のようなものを感じたんではないでしょうか。人の評価がいつも気になってしまう。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」自分の評価が低い。そういう人の評価に、たえず振り回されて、気にして、人の目を気にして、なかなか自分の思いから離れられない。そしてつい人を疑ってしまう、つい人を疑いの目で見てしまう、そういう自分の性質から離れられない、そういう面を私たちもみんな持ってるんじゃないかなと、まさに自分の姿がそこにあるんじゃないかなと感じた人もいたんじゃないかなと思いますけれども、まさにサウルの姿は私たちの姿そのものだと思います。でもそんなサウルを愛して、そしてその死を本当に悲しんでくださった神様がいるということ、その神様が愛の形になって、イエス様となって現れています。私たちの身代わりとなって死んでくださった、捨てられたということ、そのくらい私たち一人一人は神様に愛されているということを、是非忘れないようにしたいものだというふうに思います。そして是非私たちも心を開いて、この方との関係に生かされようではありませんか。私たちをいつも導いてくださっている方がおられることを、意識しながら、この方に向かって心を開いて、この方との生きた交わりの中で歩んでいこうではありませんか。
そして同時にまた、私たちも誰かの痛みを担う、そういう生き方に導かれているということも合わせて覚えたいという風に思いますね。本当に滅びゆく魂のことを、私たちはどれだけ嘆いているでしょうか。どれだけ悲しんでいるでしょうか。そのことをしっかりとした自分の悲しみとして、担って本当に神様の恵みを互いに分かち合うことができるように、共に祈あっていくものでありたいという風に思います。
お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。あなたの大きな愛に感謝いたします。私たちの重荷を共に担い、私たちの痛みや悲しみを共に担ってくださる方であることを覚えて感謝いたします。その主との豊かな交わりの中で、日々生かされていくことができるように、どうぞ私達を導いてください。御言葉を心から感謝し、尊き主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。