イエス・キリストをより良く知るために

あなたの掟の道をおしえてください。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

先月教会のオルガンの調子が悪くなってしまって大変心配しましたけれども、昨日修理の方が来てくださいまして4時間ぐらい丁寧に丁寧に良く見ていただきまして、それで今日からまたオルガンで礼拝ができますことを覚えて感謝しております。そうこうするうちに教会の2階の部屋のエアコンも調子が悪くなってしまいまして電気屋さんに来てもらいました。

今なにか教会の色んなものが順番に調子悪くなっている感じがしているんですけれども、私も考えさせられました。私たちの信仰生活にも時々メンテナンスが必要なんじゃないかなと思ったんですね。正しい道を歩んでいるつもりでいても、時々私たちは本来の軌道から外れてしまっていることがあるんではないかなと思います。そして知らないうちに、あちこちに不調をきたしているって事があるんじゃないかなと思うんですね。私たちも聖書の言葉と照らし合わせながら、私達の外れ具合とか歪み具合を、神様に点検してもらうということ、示してもらうということが必要なんではないかなと思わされました。

1.終わりまで守るために

今日は詩篇119篇の5段落目に入ります。前回の箇所でこの詩篇の著者は二つの道を意識しておりました。一つは自分の道、自分の偽りの道、もう一つは神様の真実の道、その二つの道を意識しながら、でも彼は自分が偽りの道ではなくって、神の真実な道を選び取りました。30節ですね、「私は真実の道を選び取った」と告白しております。そして「神の定めを自らの前に置き、神のさとしに固くすがりました」。それと彼はそれまで狭かった彼の心は「広くされる」という恵みを体験し、そして「神の仰せの道を走ります」と32節で告白してますね。ですから彼が「みことばのちから、恵」を体験し始めているということ、そしてこの「仰せの道」を、喜びながら走り始めているということが教えられる箇所だなって思います。

そんな彼が今日の個所の33節に入ってこのように祈っています。

主よ あなたのおきての道を教えてください。そうすれば私はそれを終わりまで守ります。

彼は神様に向かって「主よあなたのおきての道を教えてください」と祈りました。今もその道を彼は歩み始めているわけですよね。それを体験してるわけですけどもでも、さらに「神の掟の道を教えてほしい」とここで祈っていることがわかります。

どうしてでしょうか?その理由は何でしょうか?その次に「そうすれば私はそれを終わりまで守ります」と告白されています。かれが神のおきての道を終わりまで守るためであったということがわかります。

「終わりまで」って出てきますけども、「終わりまで」とは一体どの終わりまでなのでしょうか?これはおそらく彼の人生の終わりまで、地上での旅人としての歩みが終わる時まで、そして天の御国に移されるその時まで、という意味だと思います。その終わりの時まで、彼はこの「神の真実の道・おきての道」を歩んでゆきたいと願っているということ、つまりその道を最後まで歩み続けたい、完結させたい、全うしたいという願いを持っているということが分かる。そしてそのために必要なのが「み言葉」だったということですね。

ですから彼は「主よ、あなたのおきての道を教えてください」と、ここで祈っているわけであります。

つまり彼は、すぐにでも自分の偽りの道に戻されてしまうという危険を意識していていたということであります。今まさにその道を歩んでいて、その祝福を味わっていますよね。35節に、

私はその道を喜んでいますから。

と書いていますから本当にそれは喜びの道なんです。その道を味わい、体験しながらも、いつのまにか、かつて自分が歩んでいた偽りの道に戻されてしまうかもしれないという危うさを、彼は意識しているということ、そんな傾向を彼は自分の中にあることを感じているということを教えられるんですよね。ですからこの道を最後まで、終わりまで全うしたい、そのためには本当に「み言葉が必要です」「教えられる必要があります」だから主よ、あなたのおきての道を教えてくださいと祈っている。そのような詩篇の著者の姿に私たちは注目したいと思います。

私達も同じだと思いますね。私たちにとってみ言葉の学びが十分だということはないです。もう十分教えられましたということはないんですよね。私たちは一回だけではなくて、絶えず絶えず教えられ続けなければいけないんです。継続的にいつも教えられなければいけない。そうでないと私たちも知らず知らずのうちに、いつのまにか、かつて自分が悩んで苦しんでいたあの偽りの道に戻されてしまうんですよね。そしてせっかく始まった、この祝福の道を全うできないで終わってしまう。そんなことにならないように私たちにもやっぱり御言葉が必要です。そして教えられ続けることが必要です。私たちもこの詩篇の著者のように「主よ、あなたのおきての道を教えてください」と祈り続けるものでありたい。そうすれば「私はそれを終わりまで守ります。是非終わりまでこの道を全うさせていただきたい」。そのような願いを持ってこの詩篇の著者のように祈り続けるものでありたいと思います。

2.頭から体へ、体から生き方へ

さてこの詩篇の著者は続けて34節に来ると、

私に悟らせてください。私があなたの御教えから目を離さず、心を尽くしてそれを守るために。

と祈ってまいます。35節に入ると

私にあなたの仰せの道を踏み行かせてください。

と祈っています。そして37節にゆくと、

あなたの道に私を生かしてください。

と祈っています。彼はまず教えてください、道を教えてくださいと祈ってますけれども、でもそこでストップしてないんですよね。教えられたら今度はそれを悟らせてください。そしてその次に仰せの道を踏み行かせてください、そしてさらにあなたの道に私を生かしてくださいと、彼の祈りが続いていくということ、そして彼の祈りが深められていくっていうことは私たち教えられるんではないかと思うんですよね。

私たちは聖書から教えられるって事とっても大事ですね。本当に教えられやすい器でいたいと思います。でも教えられてそこでストップしてはいけないということも覚えたいと思うんですよね。時々礼拝が終わった後、「先生のメッセージ、今日教えられました」って感想を聞かせていただくことがあります。それで私の説教を本当によく聞いてくださったんだなと感謝して受け止めるんですけども、でもやや気になるのはその次のことなんですよね。

本当に教えられたことが、その人の生活の中に生かされていくといいなあと、教えられたことによって生かされていくといいなって、そこまでいくといいなと思うんですけれども、でもどうでしょうか?私達時々ですね、教えられてそれで終わってしまうことが結構あるんじゃないかなと思うんですよね。教会に来て、礼拝に出てメッセージを聞いて、「今日教えられました」ってそういう感想を抱いて帰っていただくのは感謝なんですが、その後何も続いていかない、何も生まれてこない、生活が全然変わってゆかないっていうことも起こりうることじゃないでしょうか。教えられっぱなしで、その先に何も続いてゆかない、たくさん教えられているのに、たくさん聖書を学んでいるのに、私たちの生き方や生活は一向に何も変わって行かない、そういう事があるんではないでしょうか。教えられているのに、その先に悟ということがないために、教えられたことが私たちの歩みの中に全く生かされていかないということがあるとするならば、それはとても残念なことではないだろうかと思います。

イエス様のみ言葉を聞くことは大事ですね。「よく聞きなさい。聞く耳のある者は聞きなさい」って、聞くことは大事ですとイエス様も教えていますけれども、それだけではなくて聞いたことを悟ることの大切さもイエス様は教えてます。マタイの13章23節で、

良い地に撒かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結びます。

って、イエス様が教えておられる箇所であります。これは「四つの種のたとえ話」の場所ですけれども、その箇所の中で、「み言葉を聞いて悟る人は、多い人で100倍、少ない人でも30倍の実を結びます」と教えています。実り豊かな人生の秘訣っていうのは、「み言葉を聞いて悟ることなんだよ」っとイエス様が教えておられる箇所ですが、私たちもみ言葉を聞くことが大事ですね。教えられることも大事です。でもその次に悟るということが求められている。そんなことを意識したいと思います。

「悟る」ってどういうことでしょうか?「み言葉を悟る」ってどういうことなんでしょうか?

それは神様が、私たち一人一人に個人的に語りかけておられる事実を意識することによって、与えられるものだと思います。今み言葉が与えられました。教えられました。その教えられたみ言葉を通して、神様は何をこの自分に期待しているのか、何を望んでおられるのか、何を変えるべきなのか、どう変わったら主は喜んでくださるのか、今私は何をしたらいいでしょう。どの方向に進んでいったらいいでしょう。

そのような神様の私自身に対する個人的な、み心を理解すること、受け止めること、それがみ言葉を悟ることではないでしょうか。そこにみ言葉の事実が示されると、客観的にも理解できるんですね。「ああ」こういうことが教えられてるなって、わかる、納得するんです。でもそれだけではなくて、そのみ言葉から、「いま私は何を求められているのか?主は何を私に期待してるんだろうか?何を語っているんでしょうか?」、そのことをしっかり受け止めるその時に、私達は本当にみ言葉を悟る者に変えられていくそしてその時にそのみ言葉によって私たちは初めて生かされるものに変えられていくんじゃないでしょうか。私たちの信仰が、頭の中だけの信仰ではなくて、本当に体へと、そして体から私たちの生き方へと、表されていく、そのような信仰へと私たちが導かれていく。是非私たちは教えられただけで満足しないようにしたいと思うんですね。「今日はイメージを聞きました。ありがとうございます」。それで終わらないようにしたいと思うんですよね。本当にその御言葉から、自分が何を期待されているか?本当に主のみ心は何か?そのことを良く悟りながら、本当に私たちの生き方の中に そのみ言葉を表していきたい。み言葉に本当に生かされるものになりたい。その所までぜひ私たちは願い求めるものでありたいと思いますね。

わたしたち日々の歩みの中で、聖書を開いて読む時があると思います。皆さん、その時にそのみ言葉をただ聞くだけではなくて、その御言葉を通して何が語られているのか思い巡らす時があるでしょうか?その御言葉を味わったり、自分自身の想いをその御言葉の中に潜めたりするような、そんな時があるでしょうか?そこで主が私達に寄せているみ心を受け止めるような事があるでしょうか?私達デボーションと呼びますけれども、日々の生活の中で主と親しく語り合う時間をデボーションと呼びますけれども、そのような時間が確保されているでしょうか?忙しい毎日ですので、そんなにゆっくり時間を取れない方も多くいるかもしれませんが、でもひと時ちょっとみ言葉を開いて、そして主がそこで、自分に何を語っているのか意識するという時間があったら、私たちの生活はもっと祝福されてみ言葉に導かれて行くあゆみになっていくんじゃないかなと思うんですね。是非私たちも、実を結ぶ信仰へと導いていただきたいなと思います。是非み言葉を聞いて、悟らせていただくものでありたいと思います。

3.主の主権の中で

さてもう少し丁寧に考えたいと思います。本当にそうありたいと思うんですよね。み言葉を聞いて理解するだけではなくて、み言葉に生かされる信仰者になりたいって、みんな願いますよね。本当にそうありたいと思います。でもどうすればそれが可能になるでしょうか?

そこにひとつの葛藤があるような気がするんですよね。どうしたら「理解する信仰」だけではなくて「生かされる信仰」に変えられていくんでしょうか?そこでこのみ言葉を、もう少し丁寧に見ていきたいと思うんですけど、ここで使われている動詞の多くが「使役動詞」であるってところに注目したいなと思うんです。

34節で神様がこの詩篇の著者に「悟らせてくださり」、35節では「神の仰せの道を踏み行かせてください」とあることが分かりますよね。36節では「神様が彼の心を、神のさとしに傾かせてくださる」って書いてあります。37節「神様が彼を神の道に生かしてくださる」という風に書いてますよね。

皆さん分かると思うんですよね。彼は自分で悟りを得てるわけではない。自分で悟ってるわけではないですね。自分で踏み分けていくわけではない。自分で自分の心を傾けようとしてるわけではない。自分の力で生きているのではない。それは全部神様の御業です。神様がみことばを悟ることができるように導き、神様が仰せの道を踏み出して行けるように導いてくださり、そして神様が私たちの心を神のさとし、に傾かせること傾けることができるように、導いてくださり、そして神様の道を生きることができるように、全部神様の導きなんですよね。神様がそうしてくださることなんです。36節に、

私の心はあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。

とありますが、ここに「傾く」という言葉が二つ出てくるんですね。

どっちかに傾いてしまう危うさを彼は意識していますよね。まるで自転車が止まった時のような感じですね。右に倒れるか左に倒れるか分からない っていう、そういうときの危うさを彼は意識しながら、もしかして不正な利得に傾いてしまうかもしれないという不安を抱きながら、でもそうなりませんように、私の心があなたのサトシに傾きますようにと祈っているのがこの言葉ですよね。自分で傾いてるわけじゃないんですね。自分でこっちに行きたいと思って操縦してるわけではなくて、それは全部神様の御業なんです。神様が、そうしてくださらなければ本当に反対の方に転んでしまうかもしれないっていうそういう不安の中で、でも主がそのことを成し遂げてくださるっていうその信仰が ここに表されている。全部それは神様の導きなんですよね。彼はそのようにですね、ほんとに危険を意識しております。34節に、

私があなたのみ教から目を離さず、心を尽くしてそれを守るために。

と書いていますけれども、彼はみ教に目を留めているんです。そのみ教えのすばらしさを味わいながら、そのみ教に目を留めているのに、そのみ教から自分の目を引き離そうとする力が働いているって事を感じていますよね。彼の心は今み教に向いてそれを喜んでいるのに、そのみ教えから自分の心を引き離そうとする、その誘惑が働いているって事を彼は意識しているんですよね。そして今読んだ36節に、「不正な利得」という言葉が出てきます。37節には「虚しいもの」という言葉が出てきます。そして39節では「私が怯えているそしりを取り去ってください」とあります。様々な危険に彼は満ちているんですよね。そういうのに取り囲まれている。この世の不正な利得につい心を傾かせてしまいやすい自分。つい虚しいものに目を留めてしまう自分の傾向。そして人からのそしり恐れて心を騒がせてしまう自分の弱さというものをよく意識しながら、彼は必死に祈ってますね。そうならないように「神様どうか守って下さい、み言葉を悟らせてください。私の心を、あなたのサトシに傾かせてください。そして私を祝福の道に生かしてください。」切実な祈りがここに掲げられているのではないでしょうか。

でも主はその祈りを全部応えて、彼に悟らせてくださいます。神の仰せの道を彼に踏み行かせてくださいます。彼の心を守って、神のさとしへと傾かせてくださいます。そして彼を神の祝福の道に生かして下さる。それは全部神様の御業なんです。私たちは自分で聖書を理解できたなんて思うことがないように注意したいなと思うんですよね。あるいは自分の信仰っていうのは、自分の努力の賜物なんだって思うことがないように気をつけたいと思うんですよね。そんなふうに思ってしまいやすい傾向があるんじゃないかと思うんです。そしてなんとなく私たち、人を裁いてしまったりですね、見下してしまったりしやすいんじゃないでしょうか。だんだん自分を誇る信仰者になってしまうんではないでしょうか。

そうではないんですよね。私たちがもし真理に生かされているとするならば、それは全部そのように神様が示してくださった結果ですよね。今、自分が祝福の道を歩けているとするならば、全部それは神様がそのように導いてくださった結果なんですよね。もし神様の力が働かなければ、私たちはすぐにでも倒れてしまう。すぐにでも逸れてしまう。すぐにでも歪んでしまう。そんな私達ではないでしょうか。ただただ主のみ言葉があって、私たちはそのように導かれているという事を決して忘れることがあってはいけない。38節でこの詩篇の著者はこういう風に語っています。

あなたのしもべへの、仰せの言葉が成り、私があなたを恐れるようにしてください。

あなたの下僕、つまり彼自身への言葉、仰せの言葉が、神様のみ言葉が成りますようにと言っています。

「成る」っていう言葉がここで使われていることにも私たち注目したいと思うんですよね。新約聖書の福音書の中で、イエス様はある日、死んでしまった少女に向かって、「タリタ、クム」と言ってですね、これは少女よ起きなさいって意味なんですけども、そう語ってそして少女を生き返らせた、蘇らせたっていうことがあったんですね。その「タリタ、クム」っていう言葉を聞いて、少女の目がパッと開いて、そして起き上がって歩き始めたっていう、そういう記事が福音書の中に出てきますね。あそこで使われている「クム」という言葉があるんですが、それと同じ言葉がこの38節で使われていて、こちらでは「成る」と訳されています。つまりこれは、あなたのしもべへの仰せの言葉が、「私の中で起き上がるように、立ち上がるように」って、そういう訳もできるような言葉かなと思います。あの死人を蘇らせたあの神様の同じ力が、私にも働いて、私の歩みの中で実現しますようにっていうそういう意味の祈りの言葉ではないかと思います。

もしそのような体験が与えられたならば、私たちにこの詩篇の著者と同じように、私たちの心に生じてくるのは神様に対する恐れではないでしょうか。御言葉に対する恐れではないでしょうか。み言葉が私を内側から作り上げて、建てあげていくという、そのことを経験していく時に、本当に私たちは神様に対する恐れを抱くんではないかと思うんですよね。

自分を誇るなんてとんでもない話だなと思います。もし私たちが本当に祝福の道を歩めているとするならば、それは神の言葉が私たちに「成った」ことの結果でありますね。神様のみ言葉が、私たちの中で実現したことの結果であります。私たちはこの主を恐れ、この方に信頼し、み言葉により頼むものでありたいと思います。

4.結び

私たちは本当に信仰の道を歩んで行く時に、み言葉により頼んで行く時に、奇跡を経験してるんだと思います。日々の歩みの中で、私たちの歩みの中で、本当に見えないところで神の奇跡を経験してるんだと思うんですね。それはどういう奇跡でしょうか?み言葉が私たちの中で実現する、私たちの中で「成る」という、その奇跡を日々体験してるんじゃないでしょうか。私たち、自分ではとてもできないんですよね。そのように歩むことはできないんですが、ただみ言葉が私たちの中で実現した結果として、私たちは今この祝福の道を歩めっている。それはまさに神様の奇跡のみ業だなと思います。そのようにして私たちは神様からみ言葉によって導かれているんだということを、ぜひ今日覚えるものでありたい。ぜひ本当にみ言葉を聞かせて頂きたいですね。聞かせていただきましょう。そして教えていただきましょう。そして教えられたみ言葉をしっかりと受け取るものになりたい。そしてそこでしっかりと主のみ力を頂いて踏み行き、そして決して傾くことがないように、主の御言葉に傾かせて頂き、そして主の祝福の道を歩んでいくものでありたい。そのようにして主の道を最後まで、終わりまで歩み続けていく者となれるように、私たちは祈り続けていきたいと思います。

 

お祈りをいたします。天の父なる神様、み言葉をありがとうございます。本当にさまよいやすい私たちでありますし、すぐに離れてしまう、せっかく与えられた恵の道からそれて、自分の道に戻ってしまうことの、なんと多い私たちでしょうか。どうぞ神様お許しください。しかし主は、なおもあなたの哀れみをもって、私たちをみ言葉によって導き、本来の道を歩むことができるようにいつも支え、導いててくださることを覚えて心から感謝いたします。日々主のみ言葉が語られている恵みを感謝します。そのみ言葉をどうぞ続けて教えてください。そしてその教えられたみ言葉を良く悟ることができるように、そして踏み行かせてください。そしてあなたの道を歩んでいくことができるように、終わりまでどうか主よ導いて下さいますように。み言葉を心から感謝します。主イエス・キリストのみ名によってお祈りをいたします。

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