聖霊の降臨
使徒の働き2章1~13節
今日(2021年5月23日)はイースターから数えてちょうど50日目の日曜日ですけれども、今日はペンテコステの日になっております。私たちはクリスマスは盛大にお祝いする習慣がありますけれども、ペンテコステをお祝いする習慣はあまりないかなと思います。でもペンテコステはクリスマスと同じくらい私たちにとって重要な日ではないかなと思います。
イエス様がこの地上に来られたことを記念するのがクリスマスだとすると、ペンテコステは聖霊なる神様が私たちに与えられた事を感謝するひとときであります。そして聖霊なる神様ってもっと私たちの身近な存在ですね。イエス様ももちろん身近な存在ですけども、聖霊様って私たちにとって本当にすぐそばにいてくださる方だなと思いますね。
そういう意味ではペンテコステは、本当に特別な機会ではないかなという風に思います。
聖霊なる神様がどのように降ったんでしょうか?今日は与えられている記事に私たちは注目をしていきたいと思います。
1.聖霊の降臨
イエス様が復活されてから50日目の日曜日、エルサレムに集まっていた弟子たちの上に聖霊が降りました。その時に二つの超自然現象を伴ったということがわかります。1節から4節まで読んでみたいと思います。
ふたつの超自然現象がここに表されています。第一に天から突然激しい風が吹いてきたような響きが起こったということ、2番目に炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまったこと、この二つがここに記されてあります。
まず天から突然激しい風が吹いてきたような響きが起こったという風に記されてあります。注意深くこの記事を読むと、実際に風が吹いてきたわけではないんだなということに気付くかなと思いますね。「風が吹いてきたような響きが起こった」と書いてあります。
ただ「風」という言葉が使われておりますね。「風」という言葉は、聖霊を表す言葉として以前からよく知られている言葉でありました。例えばイエス様は、ヨハネの福音書3章の中でニコデモという人と対話をしますけれども、その会話の中でこんなことを話しています。
ヨハネの福音書3章8節に出てくる言葉ですが、風という言葉が御霊つまり聖霊を表す言葉としてそこで用いられているということが分かる。ペンテコステの日の出来事においても、まさに神の息である聖霊が確かに天からやってきたということ、しかも激しい響きを伴うくらいの衝撃を持って、弟子たちの上に降ったということがここに表されております。
次に「炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上に留まった」と続いています。この箇所も注意深く読んでいると、実際に炎が降ってきたわけではないということが分かるかなと思いますね。「炎のような舌」という風に書いてあります。ただ炎という言葉が使われている。ただ「火」ですね。この「火」、これもまた旧約聖書読んでいると、これは神様の確かな現れ、権限を表す言葉であるし、同時にそれは聖霊、御霊を表す言葉としても用いられているということに私たちは気づかされる。有名なのはバプテスマのヨハネが語った言葉ですね。こういう言葉があります。
ルカの福音書3章16節の言葉です。バプテスマのヨハネは、水でバプテスマを授けましたが、イエス様は聖霊と火であなた方にバプテスマを授けますと、ヨハネは予言をしていたんですね。このように火という言葉、あるいは炎という言葉は、精霊を象徴的に表している言葉であるということがわかります。
また「舌」という言葉も出てきますけれども、「炎のような舌が現れた」ってどういう意味なのか色々と考えさせる入るところだと思いますけれども、「舌」ということ言葉は、「言葉」を表しているというふうに考えられます。ですから聖霊に満たされた結果、一人一人が雄弁に語り始めたということを象徴的に表しているのではないかというふうに考えられる。このようにこの箇所ではいろいろ象徴的な言葉が用いられていますけれども、それらの言葉を通して、聖霊が、確かにもう否定できないくらいはっきりと、弟子たちの上に降ったということを表していると考えられます。
そして私たち注目したいのは、この「炎のような舌」である聖霊が分かれて現れたということ、そして一人一人の上にとどまったということであります。そこにいた全員が聖霊に満たされたんですけれども、この瞬間に人類がそれまでに経験したことのなかった新しい時代が始まったというふうに考えられる。それはどういう時代かというと、聖霊が支配する時代です。聖霊が神様の御業を推し進め、聖霊が神様の御業を成し遂げるという新しい時代が始まった。そしてそれは同時にイエス様を信じる全ての人に聖霊が与えられる時代であるということが言えるわけであります。
3節に「一人一人の上にとどまった」という言葉が記されてあって、聖霊が「全体の上にとどまった」とは書いてないんですね。「一人一人の上にとどまった」、「全員の上に留まった」とまとめて書いてあるのではなくて、そこにいた一人一人に聖霊がとどまったということ、イエス様を信じる全ての人一人一人に聖霊が与えられる時代がここから始まったんだということが強調されて教えられているということが分かるわけであります。
旧約聖書読んでいても時々「聖霊」が出てくるんですね。例えばギデオン とかサムソンとかダビデとかエリアに、主の霊が降ったっていう、そういう表現が出てまいります。ですから聖霊が人に降ったのはこの時が最初ではないですね。旧約聖書でもやっぱり聖霊は出てくるんです。でも旧約聖書では神様に選ばれた特別な人にだけ、聖霊が与えられていた。ところが、ペンテコステのこの日から、イエス様を信じる全ての人に、そしてその一人一人に聖霊が降りました。そして私たち一人一人にも聖霊が降ったということであります。私たちがイエス様を信じたっていうことは、つまり私たちに聖霊が降ったってことですね。聖霊の導きがなければ、私たちはとてもイエス様を主と告白することはできないんです。ですから、私たち一人一人にも、この恵み、聖霊降臨の恵みが与えられているんだっていうことを、今日ともに覚えあいたいなという風に思います。そしてこの聖霊を私たちがしっかりと受け止めるものでありたいと思います。イエス様を信じている人には例外なく間違いなくこの聖霊が与えられておりますね。皆さん一人一人に聖霊が与えられています。その恵みを私達本当に覚え感謝するものでありたいと思います。
2.聖霊を受ける時に起こること①満たし
さて聖霊が弟子たちに降ったんですが、その結果何が起こったんでしょう。聖霊を受けた弟子たちに、三つの変化が起こったということを今日の聖書の箇所を通して確認したいと思います。
第一に弟子達は聖霊に満たされたということが分かる。4節に「するとみなが聖霊に満たされた」と書いてあります。聖霊に伴う動詞としては、「受ける」とか「望む」とか「降る」とか「注ぐ」とか、いろんな動詞が使われるんですけれども、でも一番多いのは「聖霊に満たされる」っていう動詞ではないかなと思いますね。聖霊なる神様が、私達になす第一の働きが、「満たし」であるということを私たちは聖書全体から教えられます。
その前提になっている事実があります。それは私たちが十分には満たされていないということであります。私たちは心のどこかに満たされていない部分を抱えています。私たちの心のどこかに満たされない空虚な部分があります。その欠けを私たちはどこかで意識します。そのためその欠けを満たすために、私たちいろんな努力をするんではないかなと思うんですね。ある人は仕事である、ある人はお金である、ある人はお酒で、そして最近の人はもしかするとインターネットのゲームで、そしてもしかすると異性との関係で、いろんないろんなことを通して、私たちはその欠けを満たそうと無意識のうちに努力していることがあるんじゃないかなと思うんですね。そして一時的には確かに満たされたと思うかもしれない。ところがその「満たし」は長続きしないんですね。そしてまたさらに新たな満たしを求めてしまうという傾向、私たちみんな持って いるかと思います。
皆さんよくご存知だと思いますけれども、ヨハネの福音書の4章でイエス様がサマリアの女と対話する場面がありますが、あの場面でイエス様、この女にこういう風に言いました。
と、ヨハネの福音書4章14節でイエス様はこの女性に語りかけたんですね。そしたらこの女性はどう反応したか?こう反応しました。
と、反応しました。その水が欲しい、その水を私にくださいと、その女性はイエス様に求めてきた。この女性はもう心の中、魂がカラカラに渇いていました。そして満たされたいという願いをずっと持ちながら歩んできたんですね。この女性は今まで5回結婚したということがその記事を通して分かるんですが、それでも満たされることは全くなくて、そして今一緒に男性と生活をしているんですけれども、それでもまだ満たされていないということが分かる。結婚に満たしを求めてきたのに、それが叶えられることがなく、逆にむしろますます渇いてしまうという、そういう課題を抱えている女性だったということがその記事を通して分かるんですね。でもイエス様はこの女性の魂の渇きを根源から満たしてくださった。イエス様が語られた命の水によって、この女性はもうすっかりと満たされた。
この命の水が、実は聖霊をあらわしているという風に言われております。私たちを根本から満たすことのできる方は、聖霊なる神様だけであります。
私たちはどうでしょうか?満たされているでしょうか?乾いていないでしょうか?
クリスチャンになったんだけれど、どっかまだ乾きを感じているということはないでしょうかが満たされていないなということはないでしょうか?
ぜひ私たち、与えられている聖霊をしっかりと受け入れて、本当に満たしていただきたいなと思うんですね。聖霊は私たちを満たす、そのような存在であるということを心にとめたいという風に思います。
3.聖霊を受ける時に起こること②:支配
弟子たちに聖霊が降った結果、2番目に何が起こったんでしょう。
2番目に、弟子たちは聖霊に支配されました。
聖霊に満たされた弟子たちは、その結果何が起こったんでしょうか。4節の続きのところで
と、ここに出てまいります。弟子たちが話し始めたんですね。話してるのは弟子たちなんです。ところがその言葉、話しているその言葉を弟子たちに語らせているのが、聖霊であるということを、この言葉は教えている。つまり聖霊の支配のもとで弟子たちが話し始めたということであります。
「支配される」っていう風に言われると、私たちは普通それを頑なに拒みたくなってしまうんじゃないかなと思うんですね。私たちは本音では誰にも支配されたくないんですね。私たちは自分は自分でいたいんです。でもそのことのゆえに、結果的に私達なかなか満たされないんですね。満たされたいという願いをみんな持っているのに、聖霊に支配されることを拒んでいるために、なかなか私達は満たされることがない。そういう課題を抱えてるんじゃないかなと思うんですね。
私たちに必要なのはパウロに与えられた経験ではないかなと思います。パウロはガラテヤ書の2章の19節20節でこういう風に告白をしております。
それに告白をしておりますね。パウロは御言葉によって自らの罪を示されて、 悔い改めに導かれた。そしてイエス様を自分の救い主として信じ受け入れました。その時に古い自分に死んだんですね。そして新しい人にされました。イエス様の命によって生かされるものになりました。生きているのはもはやパウロではなくて、キリストがパウロの中で生きているという、そういう告白に導かれた。
同じように私たちも、御言葉を通して—実はそこに聖霊がもう働いているわけですけれども—-罪を示されることがあるんです。その罪が示されたならば、私達は悔い改めに導かれているんだってことを覚えなければいけない。そしてイエス様を信じ受け入れた時に、私たちもまた新しい人に変えられていく。古い自分に死んで新しい人に変えられてゆく。そのような恵みに私たちは導かれ招かれているんじゃないかなと思うんですね。その時に聖霊が私たちの中に住んでくださいます。そして聖霊がそこに住まれる時に、そこに自由があるんですね。パウロは第2コリント3章17節でいっています。
御霊に支配されるって事はつまり、私たちが解放されるって事なんですね。私たち、支配されるのが嫌ですね。もう自分は自分でいたいんですね。絶対そこは譲りたくないんです。でもそれは実は奴隷なんですね。
でもそこで私たちが本当に心を開いて悔い改めて、イエス様をお招きすると、私たちは解放される。御霊に支配される時に私たちは自由にされる。そのような経験が、私達にも約束されているということを覚えたいというふうに思うんですね。私たち、時々みことばに励まされて、本当にみことばのとおりに歩みたいなと願いを持つことがあります。そしてイエス様の姿を知らされて、イエス様みたいになりたいなと思うことがあるんですね。ところがなかなかそれができないという、そういうことを意識することがありますね。
理想はあるんですが、現実は違うんですね。その理想と現実の狭間で私たちは悩んだり葛藤したり苦しんだりすることがあるんですね。障害があるんです。何か障害がある。その障害を砕いてくださるのは御霊なる神様ですね。聖霊なる神様が働くと、私たちに罪を示します。そして私たちを悔い改めに導きます。そして私たちを自由にしてくださる。そのような恵みが、私たちの中に働いているんではないでしょうか。そのような御霊の導きに私たちは決して抵抗することなく、本当に導かれるままに心を開いて、主に信頼する者でありたいなという風に思います。
弟子達は御霊が語らせるままに語り始めた。私達も御霊が語らせるままに語ることができるんですね。御霊の導きの中で生きることができるんです。そのような御霊の導きの中で歩むことができるとすれば、それは本当に幸いなことではないかという風に思います。
4.聖霊を受ける時に起こること③:宣教
聖霊が弟子たちに降った結果3番目に何が起こったでしょう。
3番目に、弟子たちは神の御業を語り始めた。つまり彼らが宣教を始めたということであります。
聖霊に満たされた弟子たちは、他国の色々な言葉で話し始めたという風に書いてある。ちょうどこの時にエルサレムにはたくさんの地域、国々から人々が集まってきていた。その人々が、どこから集まってきていたかということが、9節~11節ぐらいに書いていますけれども、これを見ると実にいろんなところから人々が集まってたんだなということがわかりますね。そのたくさんの人々が集まった人々に、わかるように弟子たちは他国の言葉で語り始めた。だからそこにいた人たちがみんなびっくりした、ということがここに出てくることであります。
弟子達は御霊に満たされた結果、神の大きな御業を語り始めました。それぞれの言葉で話し始めました。つまり弟子たちは聖霊の力を頂いて、福音を語り始めたということであります。
これは私たちが聖霊に満たされたらですね、突然外国語が話せるようになるという意味ではないんです 。聖霊に満たされた結果、英語がペラペラ喋れるようになったらどんなにいいかなと思いますし、それだけではなくてフランス語とかスペイン語とか中国語とかいろんな言葉が話せたらいいなと思いますが、そういうことではないですよね。
これは弟子たちが、人々に伝わる言葉で、言葉を話し始めたということ、そしてその結果、神の大いなる御業が人々に伝えられていたということが表されております。ちょっと前までの弟子たちには考えられない姿ではないでしょうか。
ちょっと前までの弟子たちは、もう恐れて、怖くて小さな部屋の中に閉じこもって隠れていたんじゃないでしょうか。この弟子たちがなんと人々の前で堂々とイエス様のことを語り始めたんです。しかもここはエルサレムです。イエス様が処刑された場所ですね。もうそれまでには考えられないような、ありえないような大きな変化が弟子たちに起こったっていうことが分かる。一体何が起こったんでしょうか?彼らが聖霊に満たされた、まさにイエス様が約束してくださった通りになったと思います。イエス様は言われましたね。天に帰えらるれる前、
って約束してくださった。その言葉の通りになりました。聖霊が降った結果、弟子達はイエス様を証しする力が与えられた。そしてその結果、福音が全世界に届けられるようになったということであります。
5.結び
私達はどうでしょうか。この聖霊の力を得ているだろうか。聖霊に満たされた結果として私たちは神の御業を語っているでしょうか。そう問われると、必ずしもそうではないかなという気持ちがするかもしれませんね。少し恐ろしくなってしまうということがあるかもしれません。
で、私たちは、イエス様が弟子たちに教えて下さった言葉を思い出したいなと思うんですね。イエス様はルカの福音書の12章の11節12節でこんなことを弟子たちに教えてくれていました。
そういうふうにイエス様は弟子達に教えて下さっていたんですね。何を話したらいいんでしょうか、どのように私たちは自分の信仰を語ったら良いんでしょうか、私たちにはとてもできないですね。すぐ心配になってしまいます。でもイエス様は約束して下さったんですね。語るべきことは、その時に聖霊が教えてくだると教えてくださった。私たちにはとてもできないことではないでしょうか。自分の力では絶対にできないことではないでしょうか。でももしそこに聖霊が共にいてくださることを知ったならば、聖霊がその力を与えてくださる、聖霊がその知恵を与えてくださる、そんな経験が与えられていくんじゃないかなと思うんですね。
私たちは「自分の弱さ」をしっかりと認めた上で、本当にこの聖霊の導きに委ねるものでありたいなと思いますね。そうすると無理だと思っていたのに、「あ、言えた」「イエス様のことをお伝えすることができた」、そんな喜びを味わうことができるんじゃないでしょうか。ぜひ私たちは御霊が与えられてる恵を、無駄にすることがなく、感謝しながらこの方に委ねてきたいという風に思います。
弟子たち一人一人に聖霊が降ったように、私たち一人一人にも聖霊が降りました。私たちも聖霊が与えられました。この聖霊は私たちを満たしてくださり、そして私たちを支配して自由にしてくださり、そして私たちに語らせてくださる、福音を語らせてくださる。
その聖霊が私たちに与えられてくださる恵みを忘れないようにしようではありませんか。私たちの心をしっかりと差し出して、この方に来ていただこうではありませんか。私たちの心の内側に住んでもらおうではありませんか。聖霊なる神様は、私たちにとって一番身近な神様ですね。私たちのすぐそば、私の心の中におられる神様のご臨在の中で、私たちは励まされ、導かれながら歩んでいくものでありたいと思います。
お祈りをいたします 。恵深き私たちの父なる神様、あなたがわたしたちに聖霊なる神様をくださっていること覚えてありがとうございます。その恵みに気付かずに歩んでしまうことがありませんように、私たちの内側から満たしてください。支配してください。そして私たちを、福音を語らせるものにしてください。あなたの御霊に導かれてこの一週間も主と共に歩むことができるように、置かれたところで励まし、支えてくださるようにお願い致します。み言葉を心から感謝し、イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。