イエス・キリストをより良く知るために

主は私たちの病を負った

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書8章14~17節

 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
  「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」  聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

この箇所より「主は私たちの病を負った」という題で、今日の説教お語りします。コロナウイルスの感染拡大が少し落ち着きを見せ始めているようで、私たちの間ではちょっと安堵感があるかもしれませんけれども、ただたとえ数が少なくなったとしても、今でもコロナウィルスとの厳しい戦いを強いられてる方々がおられるっていう事を私達は覚えていたいと思います。またこのパンデミックで愛する人を失い、深い悲しみを抱い抱きながら歩んでいる方々が世界中に沢山おられるということを、私たちは忘れないようにしたいと思います。

 

病いの苦しみというのは、その病を負った人にしかわからないものではないかなと思います。今ヨブ記を読んでる方がいらっしゃるかもしれませんけれども、ヨブは重い病を抱えながら、「ああ、私の苦悶の重さが計られ、私の破滅がともに、はかりにかけられたら良いのに」と、ヨブ記の6章2節に告白している言葉があります。「私の苦悶の重さが計られたらいいのに」って、なかなか人には測ることのできない苦しみっていうのがそこにあるんだろうと思います。肉体的な苦しみだけでも相当な苦しみだと思いますけれども、その苦しみが誰にも理解されないという苦しみは、さらに大きな苦しみではないだろうかと思います。

病を負っている方々が、そのような孤独を強いられているということに、私たちはなかなか気づきにくい面があるんではないかなと思います。もしそこに本当の慰めがあるとするならば、それは一体どんな慰めなんだろうかと思います。それはきっと主なる神様が、その病を負ってくださるというところ、私たちの救い主である方が、その病を共に担ってくださるというところに、私たちの慰めと希望があるんではないだろうかという風に思います。

 

マタイの福音書の8章を今読んでるんですけれども、マタイはこの8章の前半部分に、癒しの主としてのイエス様を紹介しています。ツァラートに犯された人の病を癒してくださいました。また中風という病気に苦しんでいた、百人隊長のしもべのその病を、百人隊長の信仰のゆえに癒してくださったということを前回学びました。そして今日の箇所において、イエス様はペテロのしゅうとめの熱病を癒してくださったということ、さらにたくさんの人々がイエス様のもとにやってきて、その病を癒してくださったということが今日の聖書の箇所に記されていることです。そしてそれらの一連の出来事の結論として、あるいはまとめとして、マタイは預言者イザヤの言葉を引用して、イエス様は「私たちの患いを担い、私たちの病を負った」って、そういうふうに最後に語ってるんですね。私たちの主は、私達の病を負ってくださる方であると、マタイはこの聖書の記事を通して、私たちに教えています。

1.ペテロの姑の癒し

イエス様はどのようにして私たちの病を負ってくださるんでしょうか?今日の箇所に私たち注目をしていきたいと思います。

イエス様はその日、「ペテロの家に立ち寄られ、ペテロの家に入られた」っていうところから、今日の箇所が始まって行きます。これはカペナウムっていう街ですね。ガリラヤ湖のほとりのカペナウムという街は、イエス様の宣教活動の拠点になった街でしたけれども、それはペテロのふるさとでした。ペテロの家がそこにあったわけです。イエス様がそこに入られました。するとそこに「ペテロの姑が、熱を出して寝込んでいるのをご覧になった」とここに書いてあります。ルカの福音書の4章にも同じ記事が出てきますけれども、ルカの福音書の4章38節を読むと、シモンの、シモンっていうのはペテロのことですが、シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたって書いてあります。ルカはお医者さんでしたので、より詳しく記したんだろうなと思いますけれども、ただ高熱を出して寝てたっていうだけではなくて、そのひどい熱で本当に苦しんでたんだってことなんですね。東南アジアの方に行くと、蚊を媒介にして菌が持ち込まれ、高熱が出るマラリアっていう病気がありますけども、それはうまく治療がなされないと、今でも死に至ってしまうという恐ろしい病気だそうです。もしかしするとこの時のシモンペテロのしゅうとめの熱病も、マラリアのような熱病だったかもしれないなと思いました。熱病で苦しんでいるこのペテロのしゅうとめを、イエス様はまずご覧になったっていうことなんですけれども、イエス様はその後、何をされたんでしょうか?イエス様は「彼女の手に触れられた」という風に15節に書いてあります。イエスは彼女の手に触れられたとあります。当時、熱病の人に触る人はいなかったんだそうです。ツァラアトと同じでして、この熱病の人に触れると、宗教的に汚れてしまうという考え方があったんだそうです。さらに当時ユダヤ教のラビと呼ばれる宗教指導者たちは、女性に触れるという事しませんでした。それはタブーとされていたことだったということが解説書に書いてありました。それは非常にも恥ずかしいこととして見られていたんだそうですね。ですからイエス様がペテロのしゅうとめの手に触れられたその光景は、やはり衝撃的な光景だったと言っていいと思います。そこで見てた人たちはみんな驚いたんじゃないかなと思いますね。でもそれでもイエス様は彼女の手を取られたということです。そしてその時に彼女の熱が引きました。イエス様によって神様の御業がなされたということがここでわかります。イエス様は、別に彼女の手を取らなくても熱を癒すことはできたんではないかなと思いますね。あえて手をおかなくても、言葉だけでも十分に彼女の病気を癒すことができたと思います。百人隊長のしもべは、言葉で癒しましたね。あえてその所に行かなくても、言葉だけで癒しましたね。ですからイエス様は、触らなくても言葉だけで癒すことができたと思います。

 

でもここでイエスさまはペテロのしゅうとめの手に触れられたんですよね。手を取られたんです。彼女の病気を癒すことだけが目的だったのではなかったということですね。彼女自身がそこで経験していた苦しみ、痛み、辱め、いろんなものがあったと思いますけれども、イエス様が、それをしっかりと手に握ってくださったっていうことだと思います。苦しんでいる彼女と同じ、そのところに立ってくださったっていうことでしょう。そして彼女のすべてを受け入れてくださった上で、病を癒してくださったということ、そのことを私達は覚えたいと思います。

ペテロのしゅうとめは、自分の手に触れられたイエス様のその手の温もりを感じながら、本当に嬉しかったんじゃないかなと思いますね。本当に慰められたんじゃなかったかなと思います。その結果病気も良くなりました。体も元気になりました。肉体の病いが癒されたけれども、でも彼女は心の面においても癒しを頂いたんじゃないかなと思いますね。

そのようにして彼女は、本当に心身ともに癒されて元気になって、そしてそこに神様の御業がなされたということを、私たちはここで教えられることであります。

この場面をペテロが見てたわけですけれども、ペテロも慰められたんではないかなということを思いました。ペテロは、イエス様と出会って、全てを捨てて、イエス様に従う決心をしましたね。仕事も捨てちゃったんですね。それまでの漁師だったその仕事も捨てて、網を置いてイエス様に従ったんで、それはもう本当にペテロにとっての大きな大きな出会いで、人生を変えるくらい大きな出会いだった。ペテロは、それ本当に嬉しかったわけですよね。

 

でもその事実をペテロの家族はどんな思いで見つめていただろうかということを、ちょっと考えたんですね。それは聖書の中に書いてないことですね。書いていないことなので、よく分かりません。でも私達、「ペテロの姑」っていうことばと出会って初めて、ペテロには妻がいたんだなっていうことに気づかされるんですね。聖書の中にペテロの妻は出てきません。ですから私たち、ペテロはもしかしたら独身だったんじゃないかって、そんな印象を抱いている人もいるかなと思いますね。パウロは確かに独身者でしたけども、ペテロには実は妻がいたんですね。その妻は、ペテロが網を捨てて、イエス様に従って行った時にどんな気持ちだったんだろうか?そしてペテロのしゅうとめっていうのは、ペテロの妻の母親ですけれども、その母親は一体どんな思いで、ペテロが自分の娘の夫が、仕事を捨ててイエス様に従って行った。しかもそのアンデレってもう一人、兄弟がいますけれどもね、二人ともどう思ってただろうか?それも書いてないんですね。書いてないので私たちは想像するしかないんですけれども、でも生身の人間ですから、ここに出てくる登場人物はみんな生身の私たちと同じ人間ですから、いろんな感情を抱きながら、いろんな思いでいたんではないかなと思いますね。そしてもしかするとペテロは嬉しかったけど、イエス様と出会えて嬉しかったけれども、家族の事を考えると後ろめたい気持ちも、どっかにあったんじゃないだろうかということも想像するんですね。それはもう書いてないことなので、本当に私たちには分からないことなんですけれども、でもひとつだけわかることがあります。

それは、イエス様はご自分に従う者の家庭を顧みてくださるってことです。イエス様はペテロの家の客となられましたね。ペテロの家を訪ねてきてくれたんです。そしてそのペテロの家の中には深刻な問題が存在しておりました。でもその問題をイエス様は解決してくださった。ペテロの家に祝福をもたらしてくださった。その事実にペテロも慰められたんではなかったでしょうか。主は主に従う者の家庭を顧みてくださるということを私たちは信じたいと思いますね。神の国と神の義を第一に求めるものの必要に、主は必ず答えてくださる方であることを、私たちは信じたいと思います。その恵みを覚えた私達は感謝したい。そしてそれぞれの家庭に、主の祝福がますます豊かにそそがれるように、私たちは互いに祈りあっていくものでありたいと思います。

2.ペテロの姑、イエスをもてなす。

さてイエス様に熱病が癒してもらったペテロのしゅうとめは、その後どうなったんでしょうか?15節を見ると、熱が引いた後ですね、「すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした」って書いてあります。なんと彼女は起き上がって、イエス様おもてなしを始めました。おそらくお料理の支度を始めたんだろうなと思いますね。彼女は、今まで熱病でもすごく苦しんでたわけですよね。体力を消耗しきっていたはずです。イエス様を、もてなすだけの体力はもう無かったんじゃないかなと考えるんですけれども、でもそれよりも何よりも、病が癒されたことの喜びの方が遥かに大きくて、彼女はイエス様をもてなしたんですよね。自分の病を癒してくださったこの方に感謝したくて、そして自分の苦しみや痛みも全部わかって受け止めて、自分を愛してくださったこの愛に応えたいという、その思いで彼女はもう本当に喜んでもらいたくて、おもてなしを始めた。ここで「もてなす」って訳されている言葉は「仕える」って意味の言葉です。彼女がこの体験を経て、神に仕える人になったということ、そしてそれが彼女の人生における最大の喜びになったってことを表しています。

このペテロのしゅうとめの姿に、私たちは信仰者の姿を見るんではないでしょうか。私たち信仰者の姿がここに表されているんではないだろうかと思います。

クリスチャンの喜びってどんなところにあるんでしょうか?私たちの喜びってどんなところにあるんでしょうか?

それは神様におもてなしができるって言う喜びじゃないかなと思うんですよね。自分を愛してくださった方に喜んでもらうってことですよ。自分のために命を捨てて死んでくださったイエス様のその愛に応えたいってことですよね。イエス様に喜んでもらえる。そのことが私たちの喜びではないでしょうか。それが私たちの人生の最大の目的なんじゃないでしょうか。そういう喜びを、私たち与えられたんじゃなかっただろうかと思うんですね。

かつての私たちは、多分自分を喜ばせるために生きてきたと思うんですね。自分の人生の一番の目的は、自分が喜ぶことですね。自分を喜ばせることが自分の目的だった。そういう生き方をしてたんじゃないでしょうか。

でも今や私たちは、神様を喜ばせるために生きてます。私達の願いは神様におもてなしができることですね。神様に喜んでもらえることですね。そういう生き方に私達変えられたんじゃなかったかなと思いますね。

最近のわたしたちの信仰者としての歩みはどうなっているでしょうか?私たちのこの信仰の歩みによって、神様は喜んでくださっているだろうか。私たちの信仰者としての奉仕を通して、歩みを通して、本当に主が喜んでくださっている。そのような歩になっていたら幸いだなと思いますね。それが私たちの喜びではないかなと思いますね。ペテロの姑のように、私たちもイエス様に喜んで頂けるように、心からお仕えしていくものでありたいと思います。そのような豊かな交わりを与えられて、イエス様もまた本当に喜ばれたと思いますね。ペテロのしゅうとめが、自分のために本当におもてなしをしてくれた。

 

そのお食事もしっかりと頂いて、イエス様も力づけられたんじゃなかったかなと思いますが、その後の展開です。

3.病を負った主

夕方になると、さらに多くの人々がイエス様のもとにやってきたということが16節に書いてあります。人々が悪霊に取り憑かれた人々や、病気の人々が、たくさんイエス様のもとに連れてこられました。もう休む暇もないと感じかなと思いますけれども、でもイエス様はどのようにそれらの人々に対応されたんでしょうか。16節を読みます。

 

夕方になると人々は、悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れてきた。イエスは言葉をもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒された。

 

イエス様は悪霊に憑かれた人々からは悪霊を追い出してくださいました。病気の人々は、皆癒してくださいました。

ここに集まってきた人々は、当時のユダヤ社会の中にあって、本当に絶望していた人たちですね。もうどこにも生きる希望がない人達です。病気だけでも大変、あるいは悪霊につかれているって事でも、もう本当に大変で、そのことのゆえに社会から見捨てられ隔離され、もうそういう肉体的にも精神的にも霊的にも、辛い絶望しきってるような人たちですね。そのような人たちがイエス様のところに次々に来るんですね。でもイエス様はそれらの一人一人に関わってくださったということ、ご自身を現わしてくださって、一人一人に癒しの御業をなしてくださったということ、そんなことを私達はここで覚えることができます。そしてこれらの一連の出来事の結論として、マタイは最後にこのように記しました。17節をお読みいたします。

 

これは預言者イザヤを通して語られた事が成就するためであった。「彼は私たちの患いを担い、私たちの病を負った。」

 

こういう風に最後にマタイはまとめたんですね。まとめたと言うか、一連の今までの間出来事を紹介した上で、これは実はあの預言者イザヤが予言したことの成就なんだってことを、ここで伝えたんです。イザヤがイザヤ書において予言していたことがありますね。それは何でしょうか?

それはやがて救い主であるメシヤがやってくるってことですね。つまりマタイはここで、このイエス様が、あのイザヤの予言していたところのマシヤなんだと、救い主なんだと、救い主が今ここに到来したんだってことを、感動を込めて記しているのがこの言葉ですよね。

そしてイエス様によってなされた癒しの御業、数々の癒しの御業がなされました。ツァラアトの人も、中風の人も、悪霊に取り憑かれた人も、熱病も、いろんな病気があったわけですけれども、様々な癒しをなされた、そのイエス様の姿というのは、まさに今地上に神の国がやってきたっていうこと、神の国が到来したっていうこと、そのことをここで伝えているわけであります。そしてその上で結論として、イザヤ書53章4節の御言葉をマタイはここで引用していることがわかる。彼は私たちの患いをにない、私たちの病を負ったということです。イザヤ書の53章4節を見ますと、

 

誠に彼は、私たちの病を負い、私たちの痛みをになった

 

という、そういう訳になっています。細部で少し違うところがありますけれども、でもこの言葉がイザヤ書53章4節の言葉の引用であることがわかります。この言葉を引用することによって、イエス様は何のためにこの地上に来られたのか、何のためにこの世に来てくださったのかっていうことを、ここでマタイは教えてるわけですよね。イエス様は私たちの患いを担い、病やそこに伴う痛みを負うためにこの地上に来てくださった。

しもべとして、私たちに仕えるために、このメシヤは来てくださったってことをイザヤは53章で告げているわけですけれども、そのことをマタイはここでも告げているわけですよね。

イエスさまは、どのような意味で私たちの患いを担い、どのような方法で病を負って下さったんでしょうか。聖書を読んでいてイエス様が病気をしたっていう記事はないんですね。イエス様が何か病気をされたっていう記事はないので、肉体的な意味で病を負ったということではなかったと思います。これはおそらく霊的な意味で、イエス様は私たちの病を負ってくださったっていう、そういう意味だと思います。

私たちの中で人の病をあえて自分で追いたいと願う人はあまりないんではないかなと思いますね。これだけコロナウイルスの感染拡大が広がって、周りにコロナで苦しんでる人がたくさんいてもですね、私たちは自分だけが健康でいたいと思っていることが多いんではないかなと思いますね。あえてそのような苦しみを担いたいと思う人は少ないんではないかなと思うんですが、でもそんな私達でも、自分が最も大切な人、自分が本当に心から愛している人が病気で苦しんでいるのを見たら、その病を代わってあげたいと思うんではないかなと思うんですよね。母親は自分の子供が病気で苦しんでいるのを見れば、代わってあげたいと思うんじゃないでしょうか。あるいは代われなくても、せめてそこに一緒にいたい、せめて苦しんでいるその子供とともに、そこにいたいって願うんじゃないでしょうか。その思いを私たちは「愛」って呼ぶんじゃないかなと思うんですよね。

私たち人間でもそう思う時あります。そう願いながらも、代わってあげることができない、これもまた、もう一つの苦しみだと思いますよね。代わってあげたいのに代わってあげることができない、そういう苦しみを私達感じることがある。

でもイエス様は、私たちの主イエス様は、私たちには十分にできない、そのことをするために地上に来てくださいました。病んでいる人の、その病を担い、苦しんでいる人のその痛みを負うために、そしてそこに共に居るために、その苦しみを全て自分の身に引き受けるために来てくださった。そのために私たちの元に来られたということを、私たちは心に留めるものでありたいと思います。それは神様は私たちのこと愛してくださっていることの表れです。私たちが神様にとっては大切な存在であるということの証です。

この世ではそうではないかもしれませんね。もうこの世では、もう見捨てられてしまうようなことかもしれませんけれども、神様にとっては、そうではないですよね。そこに私たちの慰めと希望があるんではないでしょうか。私たちの周りにも本当にたくさん病を抱えている方がいらっしゃるなと思いますね。また私たち自身もそうかもしれません。いろいろな肉体の弱さ、心の弱さを覚えながらの歩だと思いますが、お一人お一人のそば近くに主が共にいてくださいますように。キリストの慰めと希望によって、一人一人が支えられ強められますように。私達はそのように互いに祈りあっていくものあろうではありませんか。

 

お祈りをしたいと思います。恵み深き私たちの父なる神様、イエス 様の愛が今も豊かに注がれていること覚えてありがとうございます。誰にも理解できないようなそのような苦しみの中にも、主が共にいてくださるめぐみを覚えてありがとうございます。ペテロのしゅうとめのように、私たち心から主にお仕えできるように助けてください。あなたにたくさんのおもてなしをして、あなたに喜んで頂けるような、それが私たちの喜びとなりますように。そして私たちの周りにも、たくさんの病んでいる方々がおります。病の中で孤独の戦いを強いられている方々がおられます。苦しんでいる方々がおられます。どうぞそのお一人お一人のそば近くに、主が共にいてくださいますように。その痛みをになってくださいますように。そしてその慰めと希望によって、一人一人を力づけてくださいますようにお願い致します。そして、どうぞそれぞれのご家庭に神様の祝福が豊かに及びますように。御言葉を心から感謝します。尊いイエス様の御名によってお祈りをいたします 。

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