イエス・キリストをより良く知るために

私が弱い時にこそ、私は強い。・・・第一サムエル記30章1~25節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

2019.06.30礼拝説教 若井和生師 於:飯能キリスト聖園教会

第一サムエル記30章1~25節

私たちには時々信仰を奮い立たせなければいけないときがあると思います。それはどんな時か?それは恐らく試練の時、何か大きな問題に直面している時、目に見える状況に圧倒されそうになっている時、そして意気消沈しているような時、そんな時に私達は信仰を奮い立たせる必要があるんじゃないかなと思います。そしてそういう時が、一日の中にも結構あったりするんじゃないかなと思います。
今日の場面でもダビデは大変な問題に局面させられていたということがわかります。しかしその中にあってダビデは信仰を奮い立たせ乗り越えた、そういう場面です。 どんな問題に直面したんでしょうか。ダビデがそこで直面した問題に注目したいと思います。

1.信仰を奮い立たせて、しっかりと神と向き合う

この時はイスラエル軍とペリシテ軍が戦闘体制に入ろうとしている時でありました。ダビデはこの時、ぺェリシテ人の陣営の中におりました。自分の命を狙っているパウロから逃れるために、ペェリシテ人の領地の中に紛れ込んで、ペェリシテ人の領主であるアキッシュに匿ってもらっているそういう状況でした。ですから当然のようにフェリシテ人の側に立ってイスラエルと戦わなければならないというそういう立場にありました。ところがペリシテ人の他の領主達が、ダビデとその部下がペリシテ軍の中に加えられていることを知って、非常に不安に感じたんですね。戦いの最中にダビデが裏切るかもしれない。ダビデはかつて、イスラエル軍の勇敢な将軍として知られていましたから、不安を感じるのは当然だったと思います。そこでダビデたちはペリシテ軍から外されて家に帰ることになったそのような展開だったということを前回学びました。

(a).ダビデの苦境

今日はその続きということなんですけれども、そういうわけでダビデとダビデの部下たちが自分たちが住んでいたツィクラグに帰ってきたところ、大変なことが起きていたことがわかりました。 なんとアマレク人と言う民族がダビデ達がいない間にこの街を攻めてきて、街を火で焼き払いそこにいた大人たち子供も大人もみんな捉えて連れ去っていった。つまりダビデとダビデの部下たちの家族を全員連れ去ってしまったのですね。その中にはダビデの二人の妻アヒノアムとアビガエルも含まれていたと書いてあります。そのことを知ったダビデとダビデの兵士たちは声を上げ泣きついにはなく力もなくなったと記されてあります。この時点ではダビデとダビデの兵士たちは同じ悲しみを共有していたと思われます。
ところがダビデにとってはさらに厳しい状況に直面させられることになります。6節に記されてありますけれども、兵が皆、自分たちの息子娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したと、ここに書いてあります。自分たちの妻や子供達を奪われてしまって、一体どうしてくれるんだという思いが、怒りの矛先が、ダビデに向けられたということですね。しかもダビデを殺そうとするくらい、その怒りが激しかったということが伝わってきます。
そのためにダビデは大変な苦境に立たされました。 彼らはそれまでダビデにずっとついてきた兵士たちです。ダビデはずっと苦しい逃亡生活を続けてきましたが、その際にも彼らは一緒に逃亡生活に付き合ってくれた仲間たちです。本当にありがたい、ダビデにとっては本当にありがたい仲間達だったと思います。何も文句も言わないでついてきてくれた。そしてそんな彼らによってダビデも本当に今まで支えられ、励まされてきたんだと思います。

ところがそんな彼らが今、ダビデに向かって石を投げつけようとしている。しかもその彼らによってダビデが殺されそうになっているというこの状況を受けて、ダビデはどんな気持ちだっただろうかと想像してますね。本当にそれはショックだったんじゃないかなと思うんですね。人の心がいかに変わり安いか、人間関係が脆いかと言うことを本当に感じるような、そんなひとときだったんじゃないでしょうか。普通の人であれば、こういう経験をしたら絶望してしまうんじゃないかなと思いますね。深く傷ついて立ち上がれないくらい落ち込んでしまうんじゃないでしょうか。人間関係に依存している人は必ずそうなると思います。

(b).ダビデの溌剌とした信仰

ところがこの時ダビデはどうしたんでしょうか?6節の最後の部分にこう書いてあります。「しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。」大変な苦境に立たされたんです、ダビデは。普通の人であったら、その時点で本当に落ち込んで、絶望してしまうような大変な苦境です。ところがその苦境の中にあってダビデは、奮い立った。主によって奮い立ったと聖書に書いてある。そしてダビデは、そこにいた祭司エブヤタルにエボデを持ってきなさいと命じました。エボでというのは、だ大祭司が身につける衣服のことですけれども、特に主の御心を求める時に用いられるものでありました。そしてすぐにダビデは主に伺った。
あの略奪隊を負うべきでしょうか?追いつけるでしょうか?」そのように訪ねて、主の御心を求めたということが次に出てくることです。
すると神様からすぐに答えが返ってきました。「必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」。
このようにダビデが神との対話を始めて、そして神からの言葉を頂いて、そして動き出すという、かつてのダビデが持っていた溌剌とした信仰がここに蘇ってきたということを、私たちはこの聖書の記事を通して感じさせられるんじゃないかなと思います。

ダビデは、しばらくの間スランプ状態に陥っていたと思います。特にペリシテ人の内に紛れたからは、ダビデの信仰はあまりパッとしないと言うか非常に霊的なスランプ状態がついていたっていうこと言えるんじゃないでしょうか。もう他の道はないと、自分なりに判断をして、サウルから逃れるためには、もうこれしかないと、自分なりに判断して、ペリシテ人の地に紛れ込みましたけれども、でもそれによって確かにサウルに追われなくなりましたけれども、逆に今度は嘘をついて生きてかなくちゃいけなくなったんですね。ペリシテの領主のアキシュから信頼を勝ち取るために、嘘をついて、違うことを報告して、でも影では随分酷いことをたくさんやっていたということを私たちは学んできました。そのように自分をごまかし、人を欺きながら生きていかなければならないそういう状態がずっと続いていた。ダビデにとっては、とっても辛い時期だったと思います。そしてそれは霊的スランプと言っていい、そういう時期を過ごしてきたわけです。

でもここに来てダビデは、本来の溌剌とした信仰を取り戻したということが分かると思います。危機的な状況でした。大変な苦境でした。でも彼はそこで信仰を奮い立たせることができたんですね。そして本来の信仰を取り戻すことができて、本当に良かったなと、私たちもこの記事を読んで感じる場面ではないでしょうか。

このダビデの姿を通して、ダビデという人は大変なピンチに陥ったのにも関わらず、そのピンチをチャンスに変える素質を持っていた人だったということが分かるんじゃないかなと思います。普通の人であれば、もうピンチで、そのまま倒れてしまうような、絶望してしまうような、人を呪って、本当に恨みにとらわれる、そんな感情になってしまうような場面だったと思いますけれども、でも彼はそういうところから、しっかりと信仰を奮い立たせて、しっかりと神と向き合うことができた、ダビデという人の信仰を感じる場面だなという風に思います。

2.どうしてダビデは信仰を奮い立たせることができたのか?

どうしてダビデは信仰を奮い立たせることができたでしょうか?
6節の言葉をもう一度読んでみますが、「しかしダビデは自分の神、主によって奮い立った」と書いてあります。個人的によく知っている、信頼している神様、その神様を思い出したんですね。その神様、主によって奮い立つことができた。 自分の頑張りとか、踏ん張りとか、努力ではなくて、その本当に厳しい状況の中で、自分の弱さも十分わかっています。今までに色んな失敗もありましたけれども、そういう本当に考えれば考えるほど本当に落ち込んでしまうような、そういう大変な苦境の中で、彼は主を見上げることができた。そして自分の神によって奮い立つことができた。そのダビデの姿を私たちはここで学びたいというふうに思います。私たちにも信仰を奮い立たせなければならない時というのがきっとあるんだというふうに思います。困難な状況の中で、人間関係のトラブルに巻き込まれて、私たちではどうすることもできないような様々な問題と直面させられる中で、私たちは自分の力不足を感じたり、弱さを意識したりしますけれども、でもその中で私たちは主を見上げ、主に信頼することが求められているということを、今日のダビデの姿からよく心に覚えたいというふうに思います。

パウロも第2コリント12章10節の中で、こんなことを言っております。
ですから私はキリストの故に、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱い時にこそ、私は強いからです。

侮辱されて喜ぶ人あまりないですよね。苦悩、迫害、困難を喜んでいる。キリストの故に喜んでいる。というのは私が弱い時にこそ私は強いのですと、告白することができた。普通の人はとてもそんな状況の中で喜ぶことできない。私たちは、とても喜ぶことはできないけれども、でもそのその苦しみの中で、そして自分の弱さの中にあるからこそ、ダビデは目をあげることできたんだと思いますね。パウロも主を見上げることができたんだと思います。その自分の弱さを知るからこそ、神様がどんなに偉大な方であるかがよくわかったんだと思うんですよね。ですからパウロは、私が弱い時にこそ強いと、告白することができました。これはパウロの強がりではありません。心からの正直な告白の言葉であります。
私たちもこの方にあって、奮い立つことができる、私たちの信仰を奮い立たせることができる、ということを、ぜひ心に覚えたいというふうに思います 。神様の偉大さ、素晴らしさと、そして私たちの弱さ、その狭間で私達は揺れ動きますね。悩みますね。不安定なあゆみですけれども、でもその中にあって私たちはしっかりと目を神様の方に向けていきたいと思いますね。私たちの耳を、しっかりと御言葉に傾けていきたいと思います。
そしてその主が、私たちの主であること、私たちと共におられることを、忘れないでしっかりとこの方に信頼していこうではありませんか。私たちも信仰を奮い立たせるものでありたいというふうに思います。

3.奮い立ったダビデの信仰がどのような形で表されたか

さてそれでは奮い立ったダビデの信仰がどのような形で表されていたかという、具体的なその信仰の現れを見ていきたいと思います。奮い立った信仰が、どのように発揮されたか?

(a).諦めなかった

それは勿論、「諦めなかった」ということが一番目だと思いますね。家族を奪われました。子供達奥さん達を奪われて、もう泣いて泣いて、これ以上泣くこともできないくらい泣いて、普通だったらもうそのまま諦めてしまうようなところかもしれませんけど、ダビデはそあきらめないでですね。主の御心を伺いましたね。そして御言葉による確信が与えられました。
「追いかけなさい、追え、必ず取り戻すことができる、必ず救い出すことができる」という約束が与えられて、みことばによって押し出されて、動き始めている。そこにダビデの信仰が発揮されているということがわかります。

そのようにして励まされて、み言葉によって励まされて、一歩前に踏み出すことができたわけですけれども、追いかけて行く途中で一つの出会いがあったということが次に出てくることです。
ダビデとその兵士たち400名で、このアマレク人の略奪隊の追跡を始めたわけですけれども、その途中で、一人のエジプト人との出会いがあったということが聖書に出て参ります。11節ですね。
「兵達は野で一人のエジプト人を見つけ、ダビデの所に連れてきた」と書いてあります。
このエジプト人はアマレク人の奴隷であったということが分かるんですね。そして戦いに参加してたわけですけども、戦いの途中で病気になってしまったために、主人に置き去りにされてしまったったという、そういうエジプト人の奴隷の兵士であったということが分かるんですね。戦いのために貢献してる間は用いられているんですが、病気になって貢献できなくなると、すぐ見捨てられてしまうというこのエジプト人の姿に、この世の冷たさと言ったらいいでしょうかね、そういうもを私達は感じるんじゃないかなと思います。この世で有用である時には、いろいろと活躍する場所があるかもしれませんが、ちょっと病気になったりとか、何か社会に貢献できなくなると、急に社会が冷たくなるっていうようなことが、私たちの生活の中にもあるような気がします。
非常に辛い立場に置かれていたエジプト人だということが言えると思います。ところがこのエジプト人に対して、ダビデとその部下たちは実に丁寧に対応したということが記されてあります。彼にパンと水を与えた。さらにひとかたまりの干しいちじくと、二房の干しぶどうまで与えられたと、そこで提供された食事のメニューまで丁寧に記されてあります。そしてそれを食べることによって、彼は病気だったわけですけれども、だんだん元気を回復していったっていうことが出ててくるんですね。
この箇所を読んでいると、私達は、ちょっとイライラしてくるんじゃないかなと思いますね。何をのんきなことをしているんだと、奥さんや子供たちが連れていかれているというのに、早く追いかけなければならないのに、なにをノンビリしているのかと心配になります。でも確かにダビデとその 部下たちには落ち着きと余裕が感じられるんじゃないかなと思います。

きっとそれは、神様から必ず追いつくことができる、必ず取り戻すことができるという約束が与えられていたからかもしれませんね。もうそれは確実ですから、主に信頼してその御言葉に支えられながら、与えられてきた状況、そこで与えられる出会いにも、丁寧に対応しているダビデとその部下たちの姿がここに記されていると思います。焦りから解放されたようなそんな彼らの姿があるんじゃないでしょうか。起こってきた展開をしっかりと受け止めながら、与えられた出会いも大切にしながら、しかしそこから主の導きを期待しているそんな彼らの信仰が表されているように思います。
実は神様はこのエジプト人を用いようとされていました。このエジプト人を通してダビデたちをアマレク人のところに連れて行こうとしていた。それがこの後の展開を見るとわかることであります。エジプト人がだんだん元気を回復していきますね。その後の言葉のやり取りが出てまいりますけれども、結局このエジプト人がダビデ達の道案内をするんですね。そしてこのエジプト人のおかげで、ダビデたちはアマレク人のいるところまで連れて行ってもらったとそういう展開に、繋がっていくわけです。アマレク人達を追いかけていくと言っても、どこに向かったらいいのかもわからないような、そういう状況の中で、ちゃんと神様がこのエジプト人を備えてくださって、このエジプト人を通してアマレク人のいる場所、そしてそれはつまり、ダビデの家族たちがみんないる場所ですけれども、そこまで連れて行ってもらっているというその展開を私たちが見ることができるように、神様はこの状況の中にちゃんと働いて、導いてくださっているということが、この箇所からわかることであります。

エジプト人は何も気づいてないと思いますね。自分が神様に用いられているなんて、そんな意識は全然ないんですね。必死だったと思いますね。殺されるんじゃないかと思って、ドキドキしてたと思いますけれども、でもちゃんとその背後に主が働いて、そのような目に見える人間の状況を動かして、最善の道へと導いてくださるということを覚えたいと思います。神様の導きっていうのは、多くの場合そういう形で私たちに与えられるのではないかと思います。私達も色々困ったり、苦しんだりいろんな問題を抱えたりすることがありますけれども、神様の導きというのは、どこか遠いところから劇的な形で与えられるって言うことではないんじゃないかなと思いますね。ほとんどの場合私たちの、ありきたりの日常の中に、私たちが過ごしている生活の中に、私達が気付かないような形で、いろんな人を通して、私たちを導いてくださる、そういう方ではないだろうかと思います。

(b).信仰を持って、ひとつひとつ丁寧に向き合っていく

でもそこで私たちに求められてくることは、与えられた状況の中で本当に信仰を持って、ひとつひとつ丁寧に向き合っていくということ、対処していくということではないでしょうか。そこで与えられる何気ない人間関係かもしれません、人との出会いかもしれません、いろんな状況かもしれません、それは些細なことに見えるかもしれない。でもそれに丁寧に丁寧に向き合っていくときに、忠実にそのことを通して神様に仕えていく時に、ちゃんと主は私たちを最善に導き、一番良い結果に導いてくださるということを、私たちは時々経験していくんじゃないかなと思いますね。
ですから神様の導きというのは、私たちの生活の中にあるということをぜひこの聖書の言葉から信仰をもって受け止めたいなと思います。

あの創世記の中に、エジプトの牢屋の中に閉じ込められたヨセフがですね、ある日突然牢屋から出されて、エジプトの宰相にまでなるという話が出てきますけど、どうして彼にそんなすごい導きを与えられたんでしょうか?それは彼が牢屋の中で、牢獄の中で、本当に丁寧にその牢屋の中の看守だったり、あるいはそこに一緒に閉じこめられていた献酌官だったり、そういう人たちに丁寧に向き合っていた。そしてそこで夢の解き明かしをしてくれていた、そういうことが全部、後になって導かれて、彼はある日突然 宰相に導かれるっていう展開になっていくってことが分かりますよね。そういう話が創世記の中に出てきます。あるいはルツ記の中に 、モアブ人の女のルツが、異邦人であるにも関わらずユダヤのベツレヘムまでやってきて、大変な厳しい状況だったと思いますけれども、ボアズという人との結婚に導かれたのはどうしてだったでしょうか?それはやはり、そこでたまたま与えられた、ボアズの畑で落ち穂拾いをするという、そういう作業を丁寧に丁寧に忠実に忠実に行っていたから、その姿がボアズの目に留まって、そういう展開になっていたということをルツ記を通して教えられることですよね。
みんな神様の導きの中で、神様の偉大な導きを経験していくわけですけれども、でもそこに彼らの信仰があり、彼らの忠実さがあったということを、私たちは聖書を通して教えられるわけであります。箴言の中にも、「忠実な人は多くの祝福を得る」と、箴言28章20節に出てきます。主の導きというのはどこからやってくるか分かりません。私たちが抱えている悩み、問題の中で、必ず主は働いて、私たちを助けてくださるし、導いてくださる。
そのような導きが私たちの日常の中にあります。私たちが信仰をもってそれを受け止めて、丁寧に対処していくときに、主がそこで素晴らしい御業を行ってくださるということを是非信仰を持って受け止めていくものでありたいというふうに思います。
さてそのような展開をいただいて、ダビデはエジプト人の道案内をいただいて、そしてちゃんとその所に到着することができました。アマレク人の居る所、略奪隊のいるところ、そしてダビデやその兵士たちの家族がみんないる所に、連れて行ってもらった。そしたら何があったでしょうか。なんとアマレク人たちが、そこで食べたり飲んだりしてお祭り騒ぎをしていたということが次に出てくることです。彼らがペリシテやユダの地から奪ってきた分捕り物が、とても多くて浮かれ気分になっていた、どんちゃん騒ぎをしていたということが分かることであります。ですから彼らはもう全然戦う体勢になってないですよね。酔っ払ってるわけですから、戦える状態ではありません。そこでダビデとその部下たちは、彼らは難なく敵を打ち、家族全員救出することができた。さらに戦勝品まで獲得することができたと書いてありますよね。素晴らしい展開になったということが分かるわけであります。神様の約束通りでした。必ず救い出すことができると約束してくださった通りの展開になったということが分かる。ですからダビデの部下たちも、本当に嬉しかったと思いますし、ダビデも本当に安堵したと思いますね。ほっとしたと思います。

(c).兵士たちの呟きという新たな危機に対するダビデの信仰

それで感謝感謝という形でみんな喜んで帰ってくるわけですけれども、今度は帰ってくる途中に、また一つの問題が起こってしまったということが今日の話の展開の中でわかることであります。

実はダビデとともに、アマレク人に対する追撃を続けていたのは400人の兵士達でした。200人は疲れ切って川を渡り取りきれずにベソル川のほとりで待機していた。600人いたんですけれどもその人200人はもう疲れちゃったね川のほとりに休んでいる。残りの400人で追いかけて行ったという展開がありました。それで400人で攻めていって、無事に家族を救出し、戦勝品も頂いて戻ってきた、その途中の出来事ですけれども、その200人が川の辺で待っておりました。その帰りの途中で、ダビデたちはあの川のほとりまでやってきますけれども、ダビデはその彼らを見て彼らの安否を尋ねたと21節に出てますね。ですからダビデは非常に気にかけてたわけですね。疲れて休んでいる200人が大丈夫だったかと心配する心を持っていたということがわかります。
ところがダビデと一緒に行った者たちのうちに、意地悪な人がいた。邪な者たちがいた、と書いてあるんです。そして彼らはこう言ったんだそうです。22節。
「彼らは一緒に行かなかったのだから、我々が取り戻した分捕りもの、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子供を連れて行くがよい。」
分捕りものは彼らに渡すわけには行かない、そういう気持ちになったということがここに書いてあるんですね。それは彼が「口々に言った」と書いてありますので、そういう不満を抱いた人は結構たくさんいたっていうことも分かることであります。
「意地の悪い邪な者たち」と、ここに出てきますけれども、おそらく彼らは最初から意地悪だったわけではないんじゃないかなと想像するんですね。この特別な状況の中にあるからこそ、意地悪な思い、邪な考えが心の中にムクムクと出てきたんじゃないかと考えられるんですね。これらは今、戦勝品を手にしてます。しかも彼らは苦労してるんですね。アマレク人の追いかけて行ったんです。人一倍努力してるんですね。体を動かしてますね。疲れてると思いますね。相当苦労したと思います。そんな経験をした後だからこそ、休んでいた200人を見て、その間、何もしていない彼らを見て、そんな奴らに戦勝品を分けるわけにはいかないという、そういう心境なっちゃったんじゃないでしょうか。この辺の心理は、私たちでもよくわかるんじゃないかなと思うんですよね。何もなければ私たちは争いが少ないのかもしれませんが、変に財産なんか持ってしまうとですね、私たちは急に欲深い思いが出てきたりして、しかもそこに自分たちが苦労したというような経験が絡んでくると、ますます私たちは当然のように自分の権利を主張したくなったり、意地悪な心に囚われてしまって、それを自分のものにしてしまいたい、そんな気持ちになってしまうんじゃないかなと思うんですよね。
ですからここに出てくる、このダビデの兵士たちの姿というのは、本当に人間の生身の姿そのものではないでしょうか。時代が変わっても、全然変わらない人間の姿というものがここに描かれているというふうに思います。そして私たちも時と場合によっては、こんな姿になってしまうことがあるんじゃないかなと思うんですよね。

でもこれはダビデにとっては大変な危機でした。また新たなる危機と直面させられました。どういう危機だったかと言うと、せっかくひとつになって歩んできた、このダビデの兵士たちが、分裂しそうになっているという、そういう危機ですよね。今までひとつになって苦労を分かち合ってきた仲間達ですよね。ダビデが逃亡している時に、一緒に逃げ回って協力してくれた兵士たち、ダビデを中心に、一つになっていたこの彼らがですね、今この分捕り物をどうするかということをめぐって、分裂しそうになっている大変な危機に直面したということが、ここからわかることであります。

でもその時にダビデは、どう語ったでしょうか?23節の言葉に注目したいと思います。

「ダビデは言った。『兄弟たちよ。主が私たちにくださったものを、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。誰が、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下っていったものへの分け前も、荷物のそばに止まっていた者への分け前も、同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」

ここダビデが繰り返し語っている言葉があります。それは「主が」という言葉ですよね。主が私たちにくださった。主が私たちを見守って下さった。主が私達を襲った略奪隊を私たちの手に渡された。全部、主語は「主」なんですよね。「主」が守ってくださった。「主」が与えてくださった。勝利だ。全部「主」なんです。つまり私たちの勝利ではない。よって平等に分けなければいけない。そういうことで教えている。つまりダビデはこの時、彼らの目を、兵士たちの目を、ひたすら主の恵みへと向けさせているという形でダビデのリーダーシップが発揮されているということが分かる。そこにダビデの信仰を私たちは知ることができます。
本当にその通りだと思いますね。アマレク人のいるところまで連れて行ってくださったのはどなただったでしょうか?エジプト人だったかもしれないけども、でもその背後に主がちゃんと働いて、連れていってくれたんですよね。すぐ働いてくださった。しかも到着した時に彼らは、お祭り騒ぎで酔っ払っていたっていう、最高のタイミングですよね。
なんなく彼らを打って、おくさん達、子供たちを取り戻すことができたって最高のタイミングでした。
どうしてこういう状況になってたんでしょうか。それもやっぱり主が働いて、導いてくださったからではないでしょうか。ですから彼らは何の努力もしないで、ちゃんとそれを取り戻すことができたし、しかも戦勝品まで獲得して、これはもう神様がくださったボーナスですよね。全部それは恵みなんです。でもそれは与えられたものなんです。

しかし悲しいかな、ダビデの兵士たちには主の恵みが見えないんです。主のめぐみよりも、自分たちが苦労した、その苦労しか見えない。そして恵みによって与えられたということをねじ曲げてですね、あたかも自分の努力で勝ち取ったかのような、自分の頑張りによってそれを手にしたかのような、そういう思いにすぐとらわれる。そういう人間の肉の思いに支配される、とらわれてしまう、このダビデの兵士たちの姿って、どうでしょう。私たちの姿ではないかなという風に思うんですよね。
私たちもいつでもこうなってしまうんではないでしょうか。神様の恵みがしっかりと示されて、神様の偉大さがちゃんと表されているにもかかわらず、それは見えなくなってしまう。そしてすぐに私たちは自分の苦労しか目に見えない。自分がこんなに苦労した、こんなに努力した、そうそういうことによって、私たちの目が塞がれてしまう。私達の耳が塞がれてしまう。神様の恵みが分からなくなってしまう。そういうことが私たちの歩みの中にもたくさんあるんじゃないかなという風に思うんですよね。そのことのために私たちは、肉の思いに囚われてしまったりですね、自分の権利を主張したくなってくる、自分が正しいということを言ってしまったり、そういう風にして教会の中にも不一致が起こってきたり、分裂が起こってきたり、そういう危険にいつも晒されているんじゃないかということを思いますね。
私たちはいつでも霊的な戦いにさらされております。私たちの敵であるサタンは、いつでも恵を見えないようにしてしまう。そして私たちの抱えてる問題が、如何に大きいか、そして私たちがいかに弱いか、そういうことばかりはっきりと目に見えるように表す、そうなると私は、とても神様に信頼できなくなって、自分の力に必死にしがみついて、そうやってどんどんどんどん神様から離れてしまう。そんな愚かなことをしてしまう私達ではないかなと思います。でも私たちはそういう霊的な戦いに対して、勝利しなければいけないですね。しっかりと御言葉によってその力を排除して、しっかりとその中にあって目を神様に向け、耳をしっかりと神様の方に傾けて、神様の恵みの素晴らしさを味わわなければいけないという風に思います。

4.まとめ

皆さん今置かれている状況でどんな戦いがあるでしょうか?どんな悩みがあるでしょうか?その目に見えるところにとらわれやすい私たちですけれども、しかしダビデはその中で信仰を奮い立たせたということを、ぜひ今日、心に留めたいと思いますね。
そして私たちがおかれた、その弱さの中に、弱いからこそ力強い、主に期待できる、信頼できるその恵みが、私たちに開かれている、与えられているということを忘れないで、この一週間も、この一か月も、この半年も、イエス様に信頼していくものでありたいと思います。

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。力に富んでいる全能の父なる神様、御言葉を感謝します。あなたの偉大さと、私たち自身の弱さの狭間にあって、私たちは悩んだり、揺れ動くことの多い私たちですが、どうか私たちの目を開き 、耳を開き、そこに示されてるあなたの素晴らしさ、御言葉の素晴らしさを味わい、主の恵みによって導いて下さいますようにお願い致します。御言葉を心から感謝し、イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。できたできた

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