イエス・キリストをより良く知るために

バックス トンとその弟子たち~M・A、バーネットと福音伝道協会

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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飯能キリスト聖園教会 日本キリスト教史の学び 2019/06/21  若井和生師

く関連年表)
1885 (明治18) ドイツ普及福背教会のシュピナ一来日
1887 (明治20) アメリカ・ユニテリアン協会のナップ来日
1889(明治22) 大日本帝国憲法発布
1890(明治23) 教育勅語換発   /  バックストン来日
1891(明治24) 内村鑑三不敬事件
1893 (明治26) 井上哲次郎「教育ト宗教ノ衝突」発表

・バックストンが来日したのは、日本の教会が神学的にも社会的にも試練に会い、混乱し停滞 してい る時だった。
・バックストンはそのような日本キリスト教界に、みことばと聖霊による覚醒をもたらし、日本に福音主義の力強い流れをつくり出した。

1.バークレー・F・バックストンとその弟子たち

(1)生い立ち
・1860年イギリスのレイトン生まれ。バックストン家は福音主義信仰に立つ英国教会員家族。
祖父トーマス・バックストンはイギリスの黒人奴隷解放運動に尽力した人物。
・19歳でケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学。当時のケンブリッジ大学は中
国宣教のために殉教した「ケンブリッジ・セプン」に代表されるように、海外宣教に熱心だった 。
・ムーディを迎えてケンブリッジで開催された伝道集会に出席し、献身の決意をする。(欧米 のリバイバル精神の最良のエッセンスを、日本での働きにおいて用いることができた。)

(2) 来日
・1890年(明治23)に英国国教会宣教支援会(C・M・S)所属の宣教師として、家族や協力者を合わせて9名で来日。実質はバックストン家の支援による。
・神戸に滞在し、日本語の学習に取り組む。彼の活動は聖公会の枠にとらわれず、超教派的だった。
(3)松江での伝道
・I891年(明治24)、バックストン一行は松江に移動。(松江にて聖公会による伝道がなされていたが、定住宣教師が不在だった。)
・その年のクリスマスに5名が受洗。その内の一人は後に松江教会の司祭となった永野武次郎。
・松江市内の赤山に純日本風で新築の住居を建て、そこで多くの日本人青年たちの指導にあたった。ここでなされた聖書講義をまとめて出版されたのが「赤出講話」。

・竹田俊造(後にウィルクスとともに日本伝道隊を組織)、三谷種吉(後に「基督教福音唱歌 」を発行)、堀内文一 (後に日本伝道隊の指導者となる)などの弟子を育てた。彼らは昔、当時、 新神学の影響を強く受けていた同志社の出身。バックストンの下に果て、生きた信仰を取り戻 した。

(4) 「小さき群れ」との出会い
・I880~9O年にアメリカのサンフランシスコを中心とする西海岸でリバイバルが起き、多く の日本人も救われた。その中から1894年 (明治27)に帰国した秋山由五郎、河辺貞吉、木田 文治、笹尾鉄三郎、森永太一らが東京の芝で共同生活を始め、「小さなれ」と呼ばれる群れを結成した。
・彼らが帰国したバックストンと出会い、松江へと招かれ、バックストンの下で指導と訓練を受けた。後にホーリネス運動の中心となる中田重治も一時、合流。松江に「松江バンド」と呼ばれる純福昔運動の源流が形成された。
・ハドソン・テイラーやエミー・カーマイケルなども来訪し、バックストンの働きを助けた。

(5)パゼット・ウィルクスの来援
・1897年 (明治30)、松江での大きくなった群れを助けるために、バツクストンの要請を受 けてウイルクスが来日。バツクストンのよき協力者としてともに働いた。ロパゼット,ウイルクスの「日本伝道日記」を執筆した。

(6)日本伝道隊の結成
・1902年(明治35)、バックストンとウィルクスはともにイギリスに帰国して休暇を過ごす。 その際に、日本伝道隊結成のビジョンを与えられる。特定の教派にこだわらず、広く諸教会と協力しながら、日本全土に伝道することを目標とした。バックストンを総理、クィルクスを日本駐在主幹として発足した。

(7)日本伝道隊の活動
・I9O4年 (明治37)、日本伝道隊は本拠地を神戸におき、ウィルクスを中心とし竹田俊道、御牧碩太郎、三谷種吉らが協力して活動を展開した。
・関西、中国地方で多くの人々が救われ、群れが生まれ、日本イェス・キリスト教会が設立。 献身者を養成する必要のために神戸に御影聖書学舎 (後の関西聖善神学校)が設立された。初代校長に澤村五郎が就任。

(8)その後のバックストンの活動
・バックストンは1908年から活動の拠点をイギリスに移していたが、I913年に日本に戻り、それ以後4年間、日本で活動した。
・その間、尽力したのは超教派の修養会の開催だった。日本のような非キリスト教国において 伝道を進展させ、信仰を強化するために、修養会の開催が必要であると思い至った。「有馬修 養会」や 「箱根修養会」が毎年開催されるようになった。
・神戸に滞在中は、神学校教育に力を入れ、柘植不知人 (後に活水の群れの指導者)、佐藤邦 之助 (後に日本イェス・キリスト教会の指導者)、舟喜隣一 (福音伝道協会の指導)、野畑新兵衛 (日本同盟基督教団の指導者)などを育てた。
・息子たちが第一次世界大戦の犠牲となり、家族のためにイギリスに帰国。
・1937年 (昭和12)に再来日して、6ケ月日本に滞在し、日本各地で125回の公演を行った 。

(9)バックストンの働きの意義
・国家主義による排斥や新神学の影響、神学論争などによって疲弊していた日本の教会に、聖霊による覚醒をもたらした。
・松江を伝道の拠点として多くの青年たちを育て、純福音宣教の中心とした。
・バツクストンの下で育てられた弟子たちにより日本イエス・キリスト教会、日本伝道隊、活水の群れなどのグループが結成され、やがて日本中の教派・教会と日本宣教に多大な影響を与えた。ホーリネス運動を開始した中田重治もバツクストンから大きな影響を与えられた。
・有馬聖会、箱根聖会などの超教派の聖会を通して、日本の教会に聖潔と聖霊の内住の大切さを語り続けている。

2. マーガリット A・バーネットと福音伝道協会

(1)生い立ち~日本に来るまで

・1878年11月24日、イギリスのノーリッジで英国教会の牧師ウイリアム・バーネットの一人娘として誕生。
・父の転任により15歳でロンドンの近くの村チルダ―デッチに住む。近代主義の影響を受けた学校で学ぶ。
・ 1904年、26歳の時、インド宣教師のロクム・テメンス夫妻と 出会い、海外宣教の幻を与えられる。
・父の牧会を助けながら、海外宣教を支接するために活動。英国国教会宣教支援会 (C.M.S)を支援し、その働きを通して日本伝道隊の働きとも出会う。
・1908 年から日本への関心を深め、日本に関する宣教師の学習会も指導した。
・イングランド中部のレスターにて、スラム街伝道に従事。
・父の死去後の1917 年、日本伝道隊派遣の宣教師として日本に向けて船出し、横浜に到着。 当時39歳だった。

(2)足尾へ
・ 東京で日本 語を学ぶ。
・1919年春、 有馬聖会に出席し、「足尾のために奉仕する宣教師が必要です」との鉱山宣  教団の宣教師の アピールに応えて足尾行きを決心する。
・1919年秋、 足尾に到着。当時の足尾の人口は第一次世界大戦後の不景気のために激減。バーネットの思 いは解雇されたクリスチヤンたちが去った「平地の町々」に向く。栃木、群馬、埼玉三県の 「霊的荒廃」が示される。
・1921年に舟善隣一が足尾の伝道所に着任し、バーネットの働きを支援。
・1922年、舟喜らとともに群馬県の大間々で天幕伝道実施。

(3)The Central Japan Pioneer Mission (中央日本開拓伝道団)の設立
・舟喜らと太田、尾島、境、舘林などで天幕伝道を実施。各地に伝道所が築かれる。
・独立の宣教団体が必要であると感じたバーネットはThe Central Japan Pioneer Mission(中央日本開拓伝道団)を設立。宣教圏を栃木、群馬、埼玉三県に定め伝道を展開した。
・同年、イングランド、スコットランド、アメリカの各地を回り、祈りのサークル組織づくりに努めた。
・1926年、館林に移り住んで伝道。(館林は東武鉄道により東京へのアクセスが良好で、栃木、群馬、埼玉に連絡できる絶好の地だった。)

(4)宣教の拡大と試練
・1927 年3 月、イギリスから終生の同労者となるドロシー・A・パーが到着。
・教会と日本人教役者が増えてくるにつれ、組織化の必要が生まれ、1927 年に福音伝道協会が誕生。
・同年、前橋百軒町に教会を兼ねた日本人伝道者の養成機関、聖書学寮を開校。舟善隣一が中 心となり伝道者養成の訓練を行う。
・1927年6月に、羽生での伝道が開始。1981年には高崎、沼田でも伝道開始。新潟、富山、石川、山形に対する伝道の重荷も与えられる。
・1933年、満州事変勃発。1929年の世界恐慌の影響を受けて、ミッションの支援が削減されることに。1936年、日本は国際連盟を離脱し、国際的に孤立を深める。
・1937 午、長野県依田川流域の丸子町での伝道に着手。
・この年、日中戦争勃発。日本各地に反英運動が起こり、バーネットが住む前橋でも起こる。
・1941年、日本基督教団設立に伴い、第十部として加入。
・1941年12月8 日、太平洋戦争勃発。バーネットとパーは前橋の宣教師館、次に草津の聖マーガレット館にて軟禁生活を過ごす。

(5) 戦後の働き~帰天まで
・ 戦後、イギリスに一時帰国する。その後、1947年に日本に戻り、戦争で荒廃した各地で伝道。
・1949年頃から身体の不調を覚えるようになる。
・1950年、福音伝道教団の理事長に就任。
・ I951年7月2日、安藤喜市に前橋聖書学寮の働きを委ね、帰天。葬儀は舟善隣一の司式の下、前橋教会で執行され、遺骨は前橋市郊外駒寄付大久保の墓地に埋葬された。

(6)バーネットの働きの意義
・日本と日本人のために漱げられた生涯だった。72年の生涯の半分を、群馬を中心とする「中央日本」の宣教に献げられた。
・英国福音主義の影響の中で育てられ、福昔主義の良質なエッセンスを日本にもたらした。
・イギリスでスラム街伝道に従事したバーネットは、虐げられている人々に対する宣教の重荷を強く待っていた。当時の教会の伝道が都市部に集中する傾向がある中にあって、群馬、栃 木、埼玉の小都市、農村の未開拓地で伝道した。
・バーネットの働きは日本人伝道者とのよき協力関係の中ですすめられ、世界中のキリスト者たちの祈りによって支えられていた。
・若い頃に聖霊の満たしを経験し、義認と聖化の両方を強調する伝道を行った。
・中央日本開拓宣教団を設立し、福音伝道協会 (現在の福音伝道教団)の基礎を築いた。
・前橋学寮(現在の中央日本聖書学院)を創立し、多くの日本人伝道者を育てた。(その内の一人が羽鳥明師)

3・ 小林鏡子先生と飯能キリスト聖園教会設立

1934年3月2日銀藏・はなの五女として東京都本所区厩橋に誕生。
1941 真珠湾攻撃・太平洋戦争勃発 鏡子先生、からだが弱く、小学校入学を1年遅らせる。
1944 9月に母はなに連れられて小山に学童疎開。父は東京に残る。
1945 3月に東京大空襲。病身の父と姉・玉子は戦火を逃れて小山にたどり着く。 8月、無条件降伏。9月、父逝去。兄・金太郎が戦争から復員。12 月に親戚を頼って尾島に家族で移動。
1950 1月、小林家が尾島キリスト教会に導かれる。母はなが、まもなく受洗
1851  11月4 日、鏡子先生受洗(当時17歳)。11月6 日、姉たまが帰天。
1952 2月、CJPMのコーウィン宣教師に出会う。以後4年間、家族の一員として迎えられる。
1956 コーウイン宣教師の勧めで、福島県須賀川市の中央日本聖書学塾に入学。 生涯の同党者、軍地光子先生と出会う。
1961 北海道・室蘭の港南福音教会で1年間奉仕
1962 北海道を去り関東に戻る。コーウィン宣教師と飯能市での宣教合意。北海道から軍地先生も 駆け付ける。キヤンプ場建築の準備が始まる。
1963 未完成だが名栗川クリスチャンキャンプと名づけ、軍地先生と共にキャンプと開拓伝道をスタートさせる。

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